私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  123 藤井高雅とその仲間たち⑪

2009-03-20 20:16:06 | Weblog
 天保11年8月15日に藤井高尚は歿しています。彼の松屋社中は一時火が消えたようにさびれます。その時、高雅はようやく20歳になったばかりです。その彼が高尚の後を受け継いで松屋の学風を維持し、経営していくのです。
 そんな高雅を訪ねてはるばる越前の国学者である高尚の高弟妙玄寺義門と言う人が宮内を訪ねてきております。この人の日記に少しばかり面白い記事がありましたのでご紹介しておきます。

 時は天保14年5月です。そうです。高尚の死後3年たった時です。かの鶏頭樹園(高尚先生の別荘)に多くの人が集まり、この妙玄寺義門を中心にして沢山の歌を詠んでいます。
 高雅をはじめ、実兄の堀家輔政、堀家政足、堀家正樹、藤井尚澄、虫明善文、橋本本資、橋本真琴、佐々木真弓などのすぐれた歌人達が集まって歌会をしています。

 その日記に
 「皆たにざくにかきて、かの小床におきつ。さて酒のみなど為しあひつつなほ歌ものがたりしあふ。いまだくろうもしらざりけるに、ともし火ともしたるにや、中山にいざよう月みすぐさじと、はしに出てみれど、いざよい出てかすめる、いとおぼつかなきここちす。細谷のかはとだにみんと思う月あやにくにおそくいづらむ・・・・」
 と、あります。
 それからみますと、当時の宮内の文人たちはこぞって、この吉備津神社の南を流れている川を細谷川としていたのではと思います。すると、前にあげた野之口隆正の「細谷川古跡」の石碑は、ここに立つべくし立ったのだということが分かります。
 
 それはそうとして、江戸末期の天保年間に、こんなに沢山の歌人がいたということは、宮内が、山陽道随一の遊興地だったということの他に、高尚という一人の偉大な学者によってもたらされた高い文化を誇る和歌や国学を中心とした学術的な町だったということが分かります。
 これ以前もこれ以後の時代にもなかった、長い吉備津の歴史の中で特記すべき文化的な時代だったということです。
 それは、ただ男性だけに限ったことではありませんでした。高雅の母堀家喜智も、兄の妻堀家登与も、堀家千代も、高雅の妻松野も、後妻の若枝もやはり歌を詠んでいます。相当の数の歌読みが当時の宮内にはいたのです。それだけ文化教養豊かな地域であったことが知られます。この影響は一般の人だけでなく、言い伝えによると。当時の遊閣にいた宮内の遊女の中にも、歌を読む人が大勢いたとか。

  みな草も やくもえ出つ あすかゐに
            いざ水かはん 春の若駒  喜智女(高雅の母)