さて、緒方洪庵の「壬戌旅行日記」です。文久2年4月の洪庵の母「きやう」の米寿の賀宴のための帰省の折の日記です
「21日 晴
昨夜より別府琴松来り、河本屋に宿し、今朝対面す」
とあります。
河本屋というのは足守にあった旅籠のような宿屋だと思われます。また、この中にあります「別府琴松」という名前は洪庵の弟子だったのです。
適塾姓名録の中に
「備中窪屋郡中島 別府真敬倅 別府琴松」と、書かれています。
また、明治6年8月に、この別府琴松から、当時の小田県権令矢野光儀あてに提出されている書類の中に
1嘉永4年辛亥十月より大坂緒方洪庵に従ひ安政元年甲寅四月まで都合二年七 ヶ月西洋方内治済生三方医療正始扶氏経験遺訓研究
1窪屋郡中島村に於て開業
右通相違無御座此断奉申立候
なお、「扶氏経験遺訓」は洪庵の著書です
などからも分かるように、現在の総社市上中島(旧清音村)に住んでいました。この別府琴松が洪庵先生足守に帰るという報に、急いで3里あまりの道を足守まで駆けつけてきたのです。
この日の日記より
・「1早朝より午時迄病人診察」
とあります。たまに帰った古里、のんびりとでも、思うのですが、洪庵はどこにいてもいつも医者としても務めを果たしています。
・「午後山下立三、原田磊蔵来る」
・「午後より佐伯賀杯
姉君(洪庵でも頭の上がらない姉おきちです)兄君夫婦・・・」などの関 係者の名前を記しています。
「夜半に終わる」と。
山下立三はよく分からないのですが、原田磊蔵は適塾で学んだ後、福沢諭吉と一緒に江戸に出て、更に医学を勉強しています。
「21日 晴
昨夜より別府琴松来り、河本屋に宿し、今朝対面す」
とあります。
河本屋というのは足守にあった旅籠のような宿屋だと思われます。また、この中にあります「別府琴松」という名前は洪庵の弟子だったのです。
適塾姓名録の中に
「備中窪屋郡中島 別府真敬倅 別府琴松」と、書かれています。
また、明治6年8月に、この別府琴松から、当時の小田県権令矢野光儀あてに提出されている書類の中に
1嘉永4年辛亥十月より大坂緒方洪庵に従ひ安政元年甲寅四月まで都合二年七 ヶ月西洋方内治済生三方医療正始扶氏経験遺訓研究
1窪屋郡中島村に於て開業
右通相違無御座此断奉申立候
なお、「扶氏経験遺訓」は洪庵の著書です
などからも分かるように、現在の総社市上中島(旧清音村)に住んでいました。この別府琴松が洪庵先生足守に帰るという報に、急いで3里あまりの道を足守まで駆けつけてきたのです。
この日の日記より
・「1早朝より午時迄病人診察」
とあります。たまに帰った古里、のんびりとでも、思うのですが、洪庵はどこにいてもいつも医者としても務めを果たしています。
・「午後山下立三、原田磊蔵来る」
・「午後より佐伯賀杯
姉君(洪庵でも頭の上がらない姉おきちです)兄君夫婦・・・」などの関 係者の名前を記しています。
「夜半に終わる」と。
山下立三はよく分からないのですが、原田磊蔵は適塾で学んだ後、福沢諭吉と一緒に江戸に出て、更に医学を勉強しています。