高起は弘化3年頃、丁度、「細谷川古跡」の石碑を建立した頃、高枝と名を改めています。そのすぐ後に、三度、名を「高雅(たかつね)」と改めています。その前年に妻松野(高尚の孫娘)が子紀一郎を生んで即日亡くなっています。高雅と名をあらためた原因が、そんなことに関係があったのでしょうか。
この頃盛んに沢山の歌を読み、歌集を作っています。
その沢山ある歌の中にこんな歌を見つけました。
野々口隆正の書ける奴の絵に
衣箱の 身はかろむとも ふたごころ
もたじみくにの 手ぶりたがうな
野々口隆正の石碑が吉備津神社の中にある意味が次第にはっきりします。
高尚の後を継いで宮司になった高雅も、隆正を知っていたのです。当然、吉備津神社としての資金の提供はあったのではと思われます。弘化2年の「お屋根替え」の記念碑としたです。
そうすると、高雅も吉備津神社の南を流れるこの川を細谷川と考えられたのではと想像がつきます。南北2つの川を思い浮かべなくては「帯にせる細谷川」という意味が通じなくなります。
だから、ここにこの石碑を建てても、決して、間違いはないのだと高雅先生もお考えになたのだと意を強くしています。
この頃盛んに沢山の歌を読み、歌集を作っています。
その沢山ある歌の中にこんな歌を見つけました。
野々口隆正の書ける奴の絵に
衣箱の 身はかろむとも ふたごころ
もたじみくにの 手ぶりたがうな
野々口隆正の石碑が吉備津神社の中にある意味が次第にはっきりします。
高尚の後を継いで宮司になった高雅も、隆正を知っていたのです。当然、吉備津神社としての資金の提供はあったのではと思われます。弘化2年の「お屋根替え」の記念碑としたです。
そうすると、高雅も吉備津神社の南を流れるこの川を細谷川と考えられたのではと想像がつきます。南北2つの川を思い浮かべなくては「帯にせる細谷川」という意味が通じなくなります。
だから、ここにこの石碑を建てても、決して、間違いはないのだと高雅先生もお考えになたのだと意を強くしています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます