私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  116 藤井高雅④

2009-03-07 17:42:52 | Weblog
 ほとんどの人が高雅についてはご存じないと思います。あまり興味がないように思えますが、こんな人もいたのだということを知ってもらうためにあえて取り上げています。是非読んでください。とても面白い人です
 本来ならば、叔父の緒方洪庵と同じように、日本全国にその名が知られ、明治維新の政治の中に、燦然とその名が刻み込まれていたのではと思うのですが、残念なことに、文久三年、志半ばで、京の町で勤王の浪士に暗殺されています。年は45歳でした。
 
 この高雅は十二歳で藤井家のもらわれ、高尚と同じ屋根の元に暮らしていた関係で、国学をよくしています。なお、この頃の名前は「高起」と名乗っています。
 
 彼を取り巻く宮内の多くの若者たちもお互いに切磋琢磨しながら、国学や和歌の勉強に励んでいました。兄の輔政をはじめ、藤井重実、堀家政平、真野守道らの若人が高尚の指導の下で、互いに修養を積んでいたのです。学問が、この宮内で未だかってなかったほどに隆盛を極めた時でもあったのです。一人の偉大なる学者が生まれると、自然にその周りには好学の士が、菓子に集まる蟻のように、集い来て、知らない間に大きな学問の集団が現れるのです。
 
 なお、高雅、当時の「高起」は松の屋で元服の式を行った様子が、高尚の「松屋文後々集にでています。

 「家にて、うまごの高起、ひたいがみそりおとして、わらはすがたをあらたむ。をのこは十七、八になれば、かくすること、今ようのふりならん。・・・うからなる堀家ノ政富佐渡守きてとかくのことおこなわれきとぞ」
 この政富は高尚の親族で、烏帽子親を務めています。その子が前にあげた政平です。
 なお、この政富も、若い時、江戸に出て平田篤胤の門に入って国学を学んでいます。篤胤と高尚は本居宣長の兄弟弟子にあたります。