さて、高起も祖父高尚の薫陶よろし気を得て、国学者として大成していったのであります。
その間、祖父高尚に負うところが大きかったのは、言わずもがななことですが、その他大勢の人たちの影響があったことも否めません。
その一人に「業合大枝」がいます。
この人は高尚の四天王として活躍していました。
ちょっと、横道にそれますが。この人、大枝は備前国邑久郡今城村上寺山の人で、豊原北島神社の詞官でした。後に、高尚の勧めで、あの野之口隆正と同じ平田篤胤に入門しています。
ある時、あの平賀義元が、備前邑久郡今城村にいた、この「業合大枝」を訪ねています。その目的はよくはわからないのですが、義元は、若い時、岡山藩を脱藩しています。当時、一度脱藩した武士は、永久にその地には戻れないという不文律がありました。そのため、義元は、永久に生まれ故郷の岡山の番町にはに戻ることはできません。いくら願ってもかないっこありません。
老境に達した元義は、今までのように自由で闊達な、歌道一筋の奔放な生活にいささか倦ん、やっぱり、晩年は自分の生まれ育った古里が恋しくなり、そこで静かに自分の余生を送りたいと言う思いに駆られたのではないかと思われます。
その実現のために、当時、岡山藩主の依頼で、多く藩士を教えていた大枝に頼ってどうにかしてもらおうという魂胆があったのではないかと思います。
そんな義元の思いを、大枝は知っていたのだと思います。例え藩主にかけ合うことができたとしても、どうなることではありません。そこで、大枝は逃の一手にしかずと思ったのかどうかは分かりませんがに、逢わないことが一番だと思い、仕事にかまけて、義元には逢うことはしませんでした。
あったからと言って、今更どうなるかということはわかりきっていることです。そこで、大枝は逃げの一手をうったのです。
この義元と大枝が知り合っていたかどうかは分かりませんが、大枝を先生と仰ぐ高起との関係は以前から係わりがあったことは分かっています。
まだ、高起が20~30代の頃だと思われます。ある春の桜の満開の季節に吉備津彦神社の詞官をしていた大守大藤内の邸で花見を一緒にしています。
その花見の時、余興として出した高起の下の句「けふのむしろに散る桜かな」に対して、義元が「あけん朝はらうな富子おもしろく」と、即興の上の句を付けています。
こんな関係から、この二人は相見知り合った同士だったと思えます。
おもしろいのは、わざわざ邑久郡まで訪ねていたにも関わらず、冷やかな大枝の処遇に対して、義元のこんな歌も残っています。
弓柄とる ますら男子(おのこ)し おもうこと
どげずほとほと かえるべきかも
どうです。こんな義元に私は喝さいを浴びせたいのですが。
大枝は、やっぱり普通の人であるように思えます。大枝と義元を比べる方がおかしいのかも知れませんが。
でも、この大枝は高尚先生随一のお弟子だんです。偉い人とは分からないものですね。
とんだ方面に話が行ったようでが、今日はこのあたりで。2日ほどまた旅に出ますのでお休みします。
では、17,8日に次回を。おやすみなさい。
その間、祖父高尚に負うところが大きかったのは、言わずもがななことですが、その他大勢の人たちの影響があったことも否めません。
その一人に「業合大枝」がいます。
この人は高尚の四天王として活躍していました。
ちょっと、横道にそれますが。この人、大枝は備前国邑久郡今城村上寺山の人で、豊原北島神社の詞官でした。後に、高尚の勧めで、あの野之口隆正と同じ平田篤胤に入門しています。
ある時、あの平賀義元が、備前邑久郡今城村にいた、この「業合大枝」を訪ねています。その目的はよくはわからないのですが、義元は、若い時、岡山藩を脱藩しています。当時、一度脱藩した武士は、永久にその地には戻れないという不文律がありました。そのため、義元は、永久に生まれ故郷の岡山の番町にはに戻ることはできません。いくら願ってもかないっこありません。
老境に達した元義は、今までのように自由で闊達な、歌道一筋の奔放な生活にいささか倦ん、やっぱり、晩年は自分の生まれ育った古里が恋しくなり、そこで静かに自分の余生を送りたいと言う思いに駆られたのではないかと思われます。
その実現のために、当時、岡山藩主の依頼で、多く藩士を教えていた大枝に頼ってどうにかしてもらおうという魂胆があったのではないかと思います。
そんな義元の思いを、大枝は知っていたのだと思います。例え藩主にかけ合うことができたとしても、どうなることではありません。そこで、大枝は逃の一手にしかずと思ったのかどうかは分かりませんがに、逢わないことが一番だと思い、仕事にかまけて、義元には逢うことはしませんでした。
あったからと言って、今更どうなるかということはわかりきっていることです。そこで、大枝は逃げの一手をうったのです。
この義元と大枝が知り合っていたかどうかは分かりませんが、大枝を先生と仰ぐ高起との関係は以前から係わりがあったことは分かっています。
まだ、高起が20~30代の頃だと思われます。ある春の桜の満開の季節に吉備津彦神社の詞官をしていた大守大藤内の邸で花見を一緒にしています。
その花見の時、余興として出した高起の下の句「けふのむしろに散る桜かな」に対して、義元が「あけん朝はらうな富子おもしろく」と、即興の上の句を付けています。
こんな関係から、この二人は相見知り合った同士だったと思えます。
おもしろいのは、わざわざ邑久郡まで訪ねていたにも関わらず、冷やかな大枝の処遇に対して、義元のこんな歌も残っています。
弓柄とる ますら男子(おのこ)し おもうこと
どげずほとほと かえるべきかも
どうです。こんな義元に私は喝さいを浴びせたいのですが。
大枝は、やっぱり普通の人であるように思えます。大枝と義元を比べる方がおかしいのかも知れませんが。
でも、この大枝は高尚先生随一のお弟子だんです。偉い人とは分からないものですね。
とんだ方面に話が行ったようでが、今日はこのあたりで。2日ほどまた旅に出ますのでお休みします。
では、17,8日に次回を。おやすみなさい。
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