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2023/7/9 主日礼拝式 おしらせ

2023-07-05 14:09:17 | 教会案内

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創造主・クリエィター

2023-07-02 15:03:30 | メッセージ
礼拝宣教   創世記1章1~25節 神学校週間終日 

9月までの3カ月にわたり天地創造に始まる創造主・クリエイティターをおぼえ、創世記の御言葉に聴いていきたいと思います。
よく創世記の記事は科学に反するとか、そういう論議を聞くことがありますが。科学と矛盾するものではありません。
ある科学者によれば、宇宙は今から138億年前に誕生し、46億年前に地球が誕生し、様々な生き物、動植物が生まれ、6500万年前には霊長類、人類の祖先が生まれたとされております。
「138億年前の宇宙の誕生から今日までを1年として見るなら、宇宙カレンダーという概念では、人類の歴史は大晦日の残り10秒に過ぎない」とも言われております。これは如何に人間の歴史や個々の人生の時間が宇宙的にみれば限られたものであるかということがわかります。
その科学的な時間軸と、創造主が天地と被造物を7日間でお造りになった神の時間軸を比べてどちらが正しいか間違いかとジャッジすることは意味の無いことであります。一般的な時間を表すのはギリシャ語で「クロノス」と呼びます。時計のことを「クロック」と呼ぶ語源ですが。実は聖書にはもう一つ「時」を表す時間軸として「カイロス」があります。
それは歴史の中に神が決定的に介入なさる「時」であります。人間がどんなに驕り、時代を作っているようであっても、今も、昔も、歴史をも超えて神が御力をもって世界をすべ治めておられるのです。
138億年前の宇宙という時空の誕生からこの地球が誕生したとされる46億年前、そして人類の祖先が誕生したとされる6500年前から今日に至るまで主なる神は、全宇宙を司り御手のうちに治めておられる創造主、クリエィターなのです。

この創世記において、神が天地創造を完成されるまでに6日かかったというのも不思議で興味深いことであります。その1日のもっている意味は、宇宙カレンダーでは計りがたいものです。それは創造主による御手のみ業が働かれる、驚くべき「神の時」であったことを想像します。
新約聖書のペトロ第二の手紙3章8節にも、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」と記されている通りです。創世記はこの創造主によるみ業が、世の時間軸を超えた神の時間軸によって刻まれていることをあかししているのです。

①「初めに」
ユダヤ教の正典でありますヘブライ語の旧約聖書は、創世記に「ベレーシート」というタイトルがつけられています。それは1章1節の「初めに神は天と地を創造された」とある「初めに」という言葉、それがベレーシートでありますが。そこから取られたものです。
では、なぜイスラエルの民は「初めに」(ベレーシート)ということにこだわったのでしょうか。
創世記は、そもそもバビロニア帝国の捕囚を経験したイスラエルの民たちによってそれまで口伝、言葉で伝えられてきたエピソードが編纂されたものでした。
2節に「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」と記されていますが。それはかつてイスラエルの民が神の教えを取次ぐ預言者たちの警告に逆らい、悪から離れずその結果国は滅び、総てを失うのですが、その混沌とした暗黒の時代を物語っていたのです。
国を奪われ、家族も財産も失い、先行きが見えない闇のよう中、捕囚とされた人々は、「一体神はどこにおられるのか?」「救いはどこにあるのか?」「私たちは一体何者なのか?」「何のために生きているのか?」という問いの中で、捕囚の約半世紀以上にも及ぶ時が続きます。彼らは自らのアイデンティティー、自分は何者として存在するのかを見出す必要があったのです。

②「光あれ」
同じ2節には、「神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ」こうして、光があった」とも記されています。
彼らが捕囚とされていたバビロニアは、その後不思議としか言いようのないあり方でペルシャ王国の支配におかれ、解放され、帰国と国の再建が許されます。まさにそこで歴史の只中に介入なさる神の時を経験するのです。
「主はわたしたちを決してお見捨てにならなかった」「神は有って在られるお方」「救いの神」。人の世の混沌とした歴史の中に「光」が差し込んで来るようにお働きになられるお方。彼らはずっと先祖から受け継がれてきたすべての原点に立ち帰る信仰の刷新がなされたのです。そうして編纂されたのが創世記なのです。それはまさにすべての時を司る神の霊感によって書かれたものなのです。ですから、この創世記を「ベレーシート」「初めに」題したのですね。
「光あれ」と神が言を発したときに、その光が生じ、すべてを照らし出した。人間の闇の最も深いところにまで神さまが臨まれたことをそれは物語ります。
イスラエルの民が国は滅び、民族は離散してバラバラになり、すべてがゼロになってしまったと思える混沌とした闇の中で、神は滅びの勢いをせき止められ、光をお造りになって滅びの力である闇をも照らし出されたのです。
さらに4節に、「神が光と闇を分けられた」と記されています。それは神が「もはや、これ以上闇の勢力が及ぶことを許されないようにされた」ということであります。
混沌とした、闇が深淵の面にうごめくような時代に、「光あれ」と言葉を発し、偉大な御手の御業をもって世界を新しく創造される方がおられる。これが聖書全体を貫く希望のメッセージとして、まずこの一番初めに示されているのであります。
私どもも又、混沌とした闇の中で福音の光を見出し、新しく生まれた者とされているのではないでしょうか。私自身の今に至るその原点は、その始まりはどこにあるか。光ある内に光の中を歩む者でありたいと願う者です。

③「良しとされた」
さて、創造主は、混沌とした世界を、神の秩序にそって創造なさいます。
第一日目。神は言われた。「光あれ」。こうして、光があった。ここを読むと私はビックバンとか、超新星の爆発なんかが頭に浮かんでくるようですが。何より混沌とした闇の世界の只中に、神の力、希望といのちの光が臨むのです。それは神に望みをおく者にとっての解放と救いの時を表しているようです。私の知人が「キリストを知る前と後では人生が写真のネガとポジだ。闇と光だ」と言っていましたが。
二日目の大空の創造。三日目の海と陸地の創造。四日目には月、太陽、星の創造と軌道が定められていきます。五日目には水の中に生きる魚や空を飛ぶ鳥が創造されます。そして6日目には、、地のそれぞれの生き物、家畜、地を這うもの、地の獣の創造が続きます。
注目すべきは、それぞれが創造された後で、「神はそれを見て、良しとされた」と、その都度その都度「良し」と仰せになられていることです。神の御意志によって造られたものみな、神がその一つひとつをご覧になって、良し、とされた。それは「神の作品」であるということです。無駄なものは何一つなく、失敗作はない。すべて神に良しとされている。この「良し」という言葉は「美しい」という意味があるそうです。

詩編9編の作者は4節で次のように謳っています。「あなたの天を、あなたの指の業を わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものでしょう。」神の御手の業は何と美しいものでしょうか。この天地創造の原初に造られた全ての世界は創造主が「良し」「美しい」と絶賛なさるほど祝福で満ちていたのです。
水曜日の聖書の学び会の折にも話題にのぼりましたが、今や文明、科学技術、経済の力が私たちの及びもつかないような方向へ突き進んでいるように思えます。創造主がお造りになり、「良し」「美しい」と祝福された世界が、人間のエゴや高慢によって歪められ、突き崩されているように思えます。すべてが科学や技術でコントロールできるかのような錯覚に陥っていないか。それが人間自身の尊厳を貶め、滅びに至らないか懸念しているということをおっしゃられたのですが。
創造主が造られたすべてのものを、人間がむさぼり続け、世界の均衡が損なわれてゆくなら、結局その代償は私たちの上に返って来るのです。良き管理者として保全に努めることが大切でしょう。

④「最も価値あること」
今日の世界情勢や日本の状況、自然環境の変化や日々の生活に係わる懸念など、先行きが見通せない、又いつ何が起こるか分からないといった不安と恐れを覚える人も多いのではないでしょうか。
創世記からこの世界を見ていくとき、それは実は終末の時ともつながっているということを知ることが大切ではないかと思います。何事も始まりがあり終わりがあるのです。人の世が如何にありましょうとも、創造主、すべてのクリエィターなるお方はすべてを司ってます。
今から2000年前、神の決定的な時、カイロスがもたらされました。イエス・キリストこのお方によってです。闇の世に光がもたらされたのです。そして終わりの時にはキリストは再びこの地上にお出でくださるという希望を頂いているわけですが。
終末は、映画や小説にあるような世界の滅亡といった、あるいは今良く話題にものぼるハルマゲドン、第三次世界大戦のことではありません。聖書が示す終末は脅しや恐怖ではなく、すべてをお造りになり今なお全地の主権者であられる主が、信じる者、御名を呼び求める者と「どこまでも共におられる」「神は決してお見捨てにならない」。神に信頼することによって与えられるこの「希望」と「平和」はキリストによって全世界にもたらされました。真の創造主を知り、救いの約束を胸に、主と共にかけ替えのない命の日々を生きる一時一時、そこにやがて地上の歩みを終える日が訪れましても、それは主と相見える喜びの始まりの日であるのです。
コヘレトの言葉12章1節に次のように記されています。「青春の日々にこそ、お前の創造主を心に留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。」私たちの「初め」なる創造主を知ることほど、価値あることはありません。
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