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神さまとの約束の関係

2018-09-02 22:02:51 | メッセージ

召天者記念礼拝 宣教 創世記23章1-2節、19節、25章7-9節前半、へブライ11章1-2節、8-12節  

本日の召天者記念礼拝にご列席くださいましたご遺族の皆様のうちには、故人は会でクリスチャンであられても、ご自身はクリスチャンでない方、あるいは他の宗教をもっておられる方もおいででしょう。私は特に今日、故人の信仰を寛容に尊重してくださったそのような皆さまが、この場に集って頂けたことに心から感謝と敬意を表したいと思います。
本日の礼拝の中で献花がございます。又、丘の上にある「希望の家」へもご遺族の皆さまご自由にお入りくださり、お祈りの時をおもちいただければ幸いです。

ヘブライ人への手紙11章1-2節には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」と、信仰の定義がなされております。

その後に続く4節以降には、アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラという5人の「信仰のゆえに、神に認められた人々」の紹介がなされています。それは「信仰の先達のリスト」であるといえます。
先ほど私たちも大阪教会の召天会員会友の名簿に従って、そのお一人おひとりのお名前を読みあげさせていただきました。

お一人お一人の地上でのあゆみとご生涯はみなそれぞれ異なるものであったことでしょうが。
ただ、天地万物を創造し、生と死を司り治めたもう主なる神さま、救い主イエス・キリストによってつながるものとされた。そこに天の国の確かさがございます。

今年6月29日にYさんが主の御もとに旅立って行かれ、大阪教会の召天会員会友者の名簿に加えられました。

ご遺族、そして教会にとりましては寂しい別れとなりましたけれども、今は天の神の御手に抱かれその魂は憩いを得ておられることと、信じ、復活の主の御名を心から賛美いたします。

本日はその信仰の先達のリスト、信仰の父祖とよばれたアブラハムとその妻サラの死と埋葬の記事から、「神さまとの約束の関係」と題し、ご一緒に御言葉に聞いていきたいと思います。

これまで礼拝では創世記よりアブラハムの生涯と死に至るまでの記事を読んできました。

アブラハムは12章にありますように、主なる神さまからの「あなたは生まれ故郷を 父の家をはなれてわたしが示す地に行きなさい」とのお言葉に聞き従って旅立ったのです。

このアブラハムの召命と移住の記事を読んでみますと、彼が土地や財産を受けるために出ていったなどとは書かれていません。むしろ彼は「父の家とのこの世の保証を離れて」旅立ったのです。目に見える父の家の財産や土地をおいて神に従っていったのです。
 聖書のイザヤ書40章8節に「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」とあります。

人が財をなし、享受し、束の間花開いたように見えても、やがてはしぼみ朽ち果ててゆきます。

しかし、朽ちることのない神の約束。

アブラハムは、ただ「わたしが示す地に行きなさい。あなたを祝福する」との神の約束の言葉に聞き従ったがゆえに、神さまはアブラハムのその信仰を彼の義と認められたのですね。

クリスチャンも又、イエス・キリストによる救いの約束に聞き従って生きる者であります。そうして神の御前に歩む幸いの人生を得るものとされているのです。

 

さて、先にサラとアブラハムの死と埋葬の記事が読まれました。

サラが127歳(アブラハム137歳の時)で死ぬと、アブラハムは「サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ」と記されています。

アブラハムの生涯にとってサラは大切な存在でありました。彼らは夫婦であり、互いが神さまによって祝福を受けた、よきパートナーであったのです。一つの同じ主を見上げ、仰ぎ見て共に人生を歩んできた彼らでした。

それだけにアブラハムにとってサラを失った悲しみと嘆きは尽きなかったことでしょう。そういう大きな喪失感を抱えながら、「アブラハムはヘト人から買い取ったマクペラの洞窟に妻サラを葬った」と記されています。

 

それから38年程後でありますが、アブラハムも遂にその最期を迎え時がくるのです。

25章7-8節には、「アブラハムの生涯は175年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」と記されていますが。別の訳である口語訳聖書には次のように訳されています。

「アブラハムは高齢に達し、老人となり、年が満ちて息絶え、死んでその民に加えられた」。

なんだかこっちはドライといいますか、人のいのちのはかなさを感じませんか。

私は新共同訳の「長寿を全うし、満ち足りて」という言葉に信仰者の救いを見る思いがいたしますが。

まあどう思うかはさておき、ただ主の御言葉に聞き従っていったその生涯において、神さまの祝福は見える形でアブラハムに与えられていきます。約束のカナンの地に住み、約束の子であり、神の祝福を受け継ぐこととなるイサクが与えられます。一つの大きな国民となるイシュマエルもアブラハムの子であり、さらに後妻ケトラの間に6人の子や子孫を与えられます。彼はまた財をなし、族長として多くの人を率いて、はたから見ても祝福され、当時としてまさに「満ち足りた人生」のように思えますが。その一方で、相続者・後継者について問題は尽きず、アブラハムは心を痛める日々を送ります。

又、二度の大きな飢饉を経験し、さらに神からの耐え難いような試みにあうなど、一人の人間として多くの苦悩や悲しみをもその身に受けます。

そうして、口語訳にあるように「アブラハムは老人となり、息絶え、死ぬ」のです。

創世記3章19節には、「お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取り去られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」と記されています。又、ヨブ記10章9節でヨブは「心に留めてください/土くれとしてわたしを造り/塵に戻されるのだということを」と言い。さらにヨブは14章14-15節で「もし神が御自分にのみ、御心を留め/その霊と息吹を御自分に集められるなら/生きとし生けるものは直ちに息絶え/人間も塵に返る」と人の人生のはかなさを物語ります。

この地上において、いかに人が繁栄を究めようとも。また、どんなに人がうらやむような幸運な人生に思われたとしても。それは永続するものではありません。なぜなら人には必ずこの地上の歩みを終える日が訪れるからです。

その限りある人生、生涯であるからこそ、アブラハムがそうであったように、すべてのいのちの源となるお方が、すべての時を司り、人の人生を真に価値あるものとして導くことのできる大いなる存在を信じて歩み続けるその先に、「満ち足りて死ぬ」ということが与えられるのだと思います。

 

さて、地上の歩みを終えたアブラハムは、妻のサラと同じ墓に埋葬されることとなります。ここで心に留まるのは、それが二人の息子たちがいる中でなされたということであります。

生前アブラハムは母の異なる息子イサクとイシュマエルのことについて相当な心を遣い、悩みながら、それぞれ離れた場所に生きることが彼らにとってよいと苦慮をしたうえで、イサクからイシュマエルを引き離しました。

しかし、アブラハムは、まさにその2人の息子によって葬られることとなるのです。なんとそれは主の祝福を感じさせる出来事ではないでしょうか。それこそまさに主の御もとにある者に与えられた幸いではないでしょうか。

 

今日も毎年9月のこの第一主日において、先に天に召され、神さまの御もとに凱旋された信仰の先達、主にある兄弟姉妹を偲びつつ、記念礼拝を主にお捧げしておりますが。

今年も、その故人のご家族と共々主の御前を会して、その記念の礼拝を捧げられる幸いを得ております。このことは故人にとりましても、神に祝された生涯の証しでありましょう。

 

Yさんが今年6月29日に天に召されました。今もこの教会の厨房やどこかで彼女の声が響き、掃除や食事の奉仕をなさっている姿が目に浮かんでくるようです。彼女が病気であることが分かったのは昨年の初秋でしたから、それからまだ1年もたたないうちに逝ってしまいました。あまりに早すぎとしか思えません。身近におられた幸恵さんがそのことを一番お感じになられたのではないでしょうか。闘病生活のしんどさをご長女にもできるかぎり人に見せずに、牧師にもそうでしたが、ご家族であってもそうであられたようです。けれどそれがYさんの生き方であられたんだと、今はそのように思わされていますが。そういう厳しくしんどいお体の状態であったにも拘わらず、Yさんのうちにはいつも、主を愛し、大阪教会のことを愛してやまない信仰とその思いがあったのです。自分が主イエスの家族の一員としてなすべきことが何かを祈り、考えながら最期まで歩み通された、ということを私どもは教えられました。

自分の生涯を何を信じて生き、何をもって幸いとするか。

最期まで神の御前にあって歩み通した人を、聖書は、「満ち足りた」者であった、と言うのですね。

 

主イエス・キリストはこのように約束されています。
ヨハネ14章1-3節。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しにいくと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」。

ハレルヤ。感謝すべきかな。今やすべての人に、十字架と復活の救い主イエス・キリストによって、主の用意された約束の地に至る道が開かれています。

本日は特に、先に天に召された私たちの信仰の先達を偲びつつ、主イエス・キリストにある「希望」を、確認させて頂いておりますが。 
信仰の模範者として列挙されたアベル、エノク、ノア、アブラハム、サラは、その人生の歩みを通して神の祝福の中を生きる生涯とはどういうものかを指し示します。

私どもも又、小さい者ながら十字架と復活の主イエス・キリストを見上げながら、救いの道を歩み続けることができるのは、何と幸いで確かな希望でしょうか。

 

本日の宣教題を、「神さまとの約束の関係」といたしましたが。

信仰によって神に認められたアブラハムが祝福された者としてこの地上の生涯を歩みぬいたごとく、私たちも又、救い主イエス・キリストを信じ抜き、神に認められ、祝福された者として希望の人生を歩みとおしてまいりたい、と願うものです。

たとえからし種一粒ほどの微々たるちっぽけな信仰であっても、その信仰を保ち続けて生きる者に、神さまは「天の故郷」に通じる人生の道を整え導いて下さいます。そこに虚しき人生に終らない私どもの希望がございます。

最後に、ヘブライ12章1~2節をお読みして宣教を閉じます。
「こういうわけで、わたしたちもまた、このようなおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」。

永久に変わることのないいのちの御言葉、神さまとの約束の関係に生きるべく、今日もここから遣わされてまいりましょう。

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