日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

2017年元旦礼拝

2017-01-01 13:47:30 | メッセージ
宣教 「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」 マタイ3章13-17節

主の年2017年を迎え、主にあってお喜び申しあげます。
「一年の計は元旦にあり」と申しますように、今年は丁度1月1日が主の日となりました。一年最初の日を主に礼拝を捧げて始めることのできる恵みを感謝します。
先日「新聞配達に関するエッセイストコンテスト」で、最優秀賞となった熊本市の方のエッセイに目がとまりました。少し長いですがご紹介しますと。「新聞がくれた勇気」という題ですが。「平穏な夜に突然、熊本に地震が来た。避難先で夜を明かし、自宅に戻ったら、いつものように新聞があった。いつもと変わらず玄関ドアのポケットに新聞があった。ああ家に無事帰れたと、ほっとした。
ほっとしたその夜、また熊本に地震が来た。一瞬死を覚悟するほどの大きな地震だった。揺れやまない大地、漆黒の夜、サイレンとヘリコプターの音。バッテリー残量が心もとないスマホを握りしめて、車中で震えて過ごした。
一睡もできず、もうすぐ夜明けかという頃、一台のバイクが走り抜けた。わが目を疑った。前かご、後ろかごに載っているのは新聞である。こんな非日常の朝、定刻の新聞が配達されている。
熊本の人はみんな被災者だ。配達員の彼も被災者だ。なのにいつものように、当たり前に新聞が配達されている。ここに日常がある。いつもの朝がある。
 停電の日々、毎朝夜明けとともに避難先から帰宅すると、玄関ドアに新聞があった。日常はきっと取り戻されると確信した。」 
昨年を振り返りますと、私たちそれぞれにも大なり小なり非日常ともいえる出来事があったのではないでしょうか。そのような中でも様々なかたちで届けられ続けた神さまの愛のメッセージは、どんなに私たちを根底から支えるものであったでしょう。主の与えてくださる励ましと希望がその時々の日常を生き抜く勇気と力になったことを心から感謝します。この新しい年もまた、どのような状況の中でもどうか、週に一度の礼拝と祈祷会が守られ、主にある姉妹兄弟の祈りととりなしとともに、福音が届けられますように。
さて、今日はマタイ3章から、新年のメッセージを聞いていきます。ここの箇所はイエスさまがヨハネからバプテスマをお受けになる、よく知られた記事ですが。
今日は13節から読んだんですが。前の11節12節のヨハネの言葉も読んでみますと、こうあります。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水でバプテスマを授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
ヨハネはエルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、ぞくぞくと自分のもとに集まって来る人々に、「罪の告白、悔い改め」に導くためのバプテスマを水で授けていました。この後にもバプテスマを受けるための水槽がありますが。人々が罪を悔い改めてバプテスマを受け、神に立ち返って生きる。ヨハネはすでにそのような働きをなしていたのです。
ところが、自分の後から来るお方、つまりイエスさまは「聖霊」と「火」でバプテスマをお授けになる。自分のなしていることとは到底それは及ばないというんですね。
さて、本日のイエスさまがヨハネのもとにバプテスマを受けるために来られたというところですが。ヨハネは「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、わたしのとことへ来られたのですか」と言って、イエスさまを思いとどまらせようといたします。
ヨハネは知っていました。イエスさまが罪の告白、悔い改めのバプテスマを受ける必要のないお方であることを。自分よりも遙かに優れたお方が私からバプテスマを受けることなどありましょうか、そうヨハネは思っていたのです。
それに対してイエスさまはこうお答えになります。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行なうのは、我々にふさわしいことです。」
一般に、正しいことを行なうと聞くと、「間違えのないことをする」こととか。「道義的に行動する」こととか。「善を行なう」ことなどと思うわけですが。しかしこの「正しい」とされているギリシャ語原語は「ディカイオ-シュネィ」、「義」ということなのです。ですからこの新共同訳の「正しいことをすべて行う」という訳はあまりよくない訳で、本来は「すべての義を満たすのは、我々にふさわしい」と、イエスさまはおっしゃったということですね。
ヨハネも又、神の義を満たすために悔い改めを迫り、バプテスマを施す者でありました。しかしヨハネは知っていたのです。人がいくら一時的に悔い改めたとしても、また行いによって罪を取り繕うようにしてがんばったとしても、それでは神の義が満たされることにはならない、ということです。人が自ら神の義を守り行なっていくことの限界をヨハネはひしひしと感じていたのではないでしょうか。だからこそ神の側からその義を満たすためにおいで下さったイエスさまを知って、「わたしはその方の履物をお脱がせする値打ちもない」と言ったのです。
バプテスマのヨハネ以前のイスラエルの民は、神さまの宝の民として、その与えられた律法によって神の義に生きるように導かれてきました。しかし律法はかえって人の罪を露わにし、従えない人は滅びに向かう外なかったのです。バプテスマのヨハネは人が自ら進んで罪を言い表し、悔い改めのしるしとしてバプテスマを受けることで、神の義を満たすよう用いられました。それは完全ではありませんでしたが、ヨハネがそのように道を備えたことによって遂に、イエス・キリストを通して神自らその義を満たされるという、霊によるバプテスマ、罪の贖いと救いの道が開かれたのです。
罪のないイエスさまはまさに私たちがどんなに水で洗いきよめても、ぬぐい去ることのできない罪、悔い改めても悔い改めても失敗を繰り返してしまうような私たち罪人が救われるため、イエスさま御自身が私たちの罪を身に負い、その刑罰を受けてくださった。Ⅱコリント5章21節にこうございます。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」とあるとおりです。神さまは全きお方です。罪を見過ごされるようなことはありえません。ほんとうに神の義が満たされるため、それは私たちが罪から解放され、救いを得るためにイエスさまは来られたのです。
聖書は、イエスさまがバプテスマを受けて、水から上がられたとき、「天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」とあります。霊は、イエスさまの誕生の折からイエスさまと共におられましたが。イエスさまは、バプテスマを受けて「神の義を満たす」ための働きを開始されるにあたり、霊が鳩のように降るのを御覧になるのです。そこでその働きにおける確信と力をお受けになるのですね。私たちも又、聖霊のお働きを求めるわけですが、それは何か超自然的な現象を求めるためではなく、「神さまの御心が成る」。そのことのために求めるのですね。
さて、そのような霊が鳩のように降って来られたそのとき、「『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」とあります。このお言葉を今日の宣教題とさせて頂きました。
この「わたしの心に適う者」というのも又、原語に忠実に訳せば「わたしは彼を喜んだ」というのが本来の意味なんですね。どうでしょう。「わたしは神さまを父なるお方として、又、その子として生きていきたい」「神さまに喜ばれる者として生きていきたい」。みなさまもそう願っておられるのではないでしょうか。
今日私たちは「正しいことをすべて行なうことは我々にふさわしいことです」とのイエスさまのお言葉を聞きました。そしてそれは「神の義を満たす」という本来の意味であることを知りました。
イエスさまは御自分を正しいとなさるのではなく、神さまの義が満たされるために御自分を従わせていく、その決意のバプテスマであった。それが神さまとの父と子の関係性であり、神さまの喜びであったことを覚えたいですね。
今年の新しい年の始まり、私たちも主イエスによって新しく創造された者として、今日から始まる一日一日、このイエスさまに従ってまいりましょう。「神さまに喜ばれる者」として。
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 一年の感謝と年始等の集会ご案内 | トップ | 愛に生かされ、愛に生きる »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿