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エレミヤの召命

2009-08-02 08:13:57 | メッセージ
エレミヤ1章4~19節より

 エレミヤに臨んだ主の言葉に目を向けてみましょう。
9節、10節「見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために」。ここには、崩壊と滅びの中にあっても、主のみ言葉の種は芽を吹き、ユダだけでなく、やがて世界に実りを結んでいくというとてつもないことが、預言されているのであります。一見、エレミヤが南ユダ王国に蒔き続けていったみ言葉の種は、人間の目でみる限りでは芽を吹かなかった、絶え果てたように見えます。しかしその地に蒔かれたみ言葉は、やがて確かに芽を吹き、実をつけるときが訪れる、と主は言われているのです。
 主はまた、エレミヤにアーモンドの枝の幻を示して語りかけます。11節「エレミヤよ、何が見えるか。」そこにはまだ実のないアーモンドの枝だけがエレミヤの目に映ります。アーモンドの実がなっていく気配などまったくといいていいほど感じられない状態です。それはまさに当時の南ユダ王国の状況と重ねられています。人間の目からすれば、そこにまったく希望や期待を見いだすことができない状況であります。しかし厳しい冬を耐え抜いてきたアーモンドの樹木は必ず暖かい春が訪れると、その枝にアーモンドのつぼみが芽吹いてゆく。そのように語られたみ言葉は、厳しい侵略と捕囚の時を経て、必ずや花開き実を結んでゆく。主なる神さまが、それまでずっと目を覚まして見守り続けていると、おっしゃっているのです。(余談ですが、「冬、深い雪の下に眠っていた種は、春、太陽の愛をうけて、バラの花を咲かせる」との「The Rose 」の歌詞の一節が思い起こされました。)
 人の目には神から見捨てられたようにしか見えない状況。もう絶望しかない現状。私たちの人生の旅路にもそのように思えることがあるでしょう。しかし主は、「目を覚まし」ています。厳しい現実のただ中で、なお主は目を見張り、世界を、また私たち一人ひとりを見守り続けておられるのです。ユダは長い捕囚の年月を経て、バビロニアに捕らわれの身から解放され、エルサレムに帰還する日がやがて訪れます。これらの苦難の日々を通して、遂に再び主なる神への信仰の復興が起こり、エルサレムの神殿も再建され、エレミヤの名前のごとく「主は建てたもう」というみ業は成し遂げられていくのであります。
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