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主イエスの十字架の言葉

2019-04-14 14:08:21 | メッセージ

礼拝宣教 ルカ23章26~43節 受難週

 

本日はルカ23章よりイエスさまが十字架で処刑されていくご受難の記事から、「主イエスの十字架の言葉」と題し、聖書のメッセージを聞いてまいります。

ここには、無理やりイエスさまの十字架を背負わされたキレネ人のシモン、民衆と女性たち、さらに2人の犯罪人、ユダヤの議員たち、ローマの兵士たちと、様々な登場人物が記されています。
彼らにとって、イエスさまの十字架とはどういうものであったのでしょうか。

キレネ、今の北アフリカのトリポリの辺りには多くのユダヤ人が住んでいました。

それはユダヤの民の信仰に対する迫害から、そこに移り住んだ人達です。

シモンはそこから過ぎ越しの祭りをエルサレムで過ごすために出て来たところ、イエスさまの十字架を背負わされることになったのです。

離散して祝福の地から遠く離れているユダヤの民。

しかし主はこの救いの実現の決定的な瞬間に、彼らの代表としてシモンを招かれるのですね。主の変わることのない慈しみを知らされることでありますが。

ただまあ、その時のシモンはそんなことを知るよしもなく、罪人とされたイエスさまとは何の関係もないのに、なぜ自分がその十字架を背負わねばならないのか、と理不尽な思いもあったのではないかと想像します。

 

次に、嘆き悲しむ女性たちでありますが。

主は彼女達の方を振り向かれ、「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ自分と自分の子供達のために泣け・・云々」と言われます。

この女性たちはイエスさまが十字架で処刑される悲惨さを深く嘆きはいたします。

なぜ、あんなにお話しも素晴らしくて、優しく、人を片寄り見ないで癒しもなされるようなお方が、こんな残酷な目に遇わなければいけないのか。と、彼女らは心から嘆いたのです。

それはしかし、主の十字架との関係性においては自分たちと何の関わりもないことでした。

この後の世代にはエルサレムはローマによって瓦礫ひとつ残らない程破壊され、辛うじて生き延びた人々も、散り散りに散らされて行く事となります。

ユダヤではエルサレムはじめ街まちは女性形であらわされます。彼女達はある意味都エルサレムやユダヤの町の象徴的存在であったとも言えるのかもしれません。

神の救いを受け入れようとしない自分たちの罪のため、主がはりつけにされていることを、このときの彼女らは知るよしもなかったのです。

 

そしてさらに議員たち、兵士たち、さらにイエスさまと同じ十字架にはりつけにされた犯罪人の一人が登場します。が、彼らはそれぞれ「自分を救うがよい」「自分を救ってみろ」「自分自身と我々を救ってみろ」と、口々に同じ言葉をイエスさまに浴びせます。

彼らに共通していたのは、十字架のイエスさまの姿が「無力なものに見えた」ということです。

「この人の、どこが救い主メシヤなのか、どこに神の子としての威厳があると言うのか。」

そのように彼らはみな、イエスさまの十字架と自分との関係を退けていたということです。

ここまで読んで、私は主の十字架を前に一体どこに立っているのだろうかと考えさせられる訳でありますが。

 

さて、今日箇所で、十字架にはりつけにされたイエスさまが最初に口にされたのは、「父よ、彼らをお赦しにください。自分が何をしているのか知らないのです」とのお言葉でした。

近くにいた議員、兵士、そしてイエスさまと一緒に十字架にはりつけにされたこのひとりの犯罪人には、そのイエスさまのお声が聞こえていたのではないでしょうか。

けれども 彼らは十字架上のイエスさまを、あざ笑い、侮辱し、ののしり続けたのです。

 

イエスさまは、そうした彼らの態度に対して、どうか彼らに天罰をとか。懲らしめを、と神に訴えるどころか、唯、父の神さまに「彼らは自分で何をしているのかを知らないのです」。口語約聖書では「自分が何をしているのかわからないのです」と訳しているように、どうぞ彼らを赦してやってくださいと、滅びに向かうような彼らのことを案じて父なる神さまに願われるのです。

ご自分は見捨てられ十字架にはりつけにされているのに、神の愛を知らないで滅びに向かうような彼らに「イエスさまは無関心でいられなかった」のです。

ご自分と 関係の無いものとはなさらなかったのです。

これは私どもが考える常識を遥かに超えています。

人と人との関係は、相手の対応に応じて変化するものです。

好意的に接するものには好意的に対応するでしょうし、自分に対して危害をおよぼすものや悪く当たる人には、こちらも負けじと強気で逆らい対抗するでしょう。

又、 自分にとって何の得にもならなければ 関わらない、無視するというのが 世間一般なのではないでしょうか。

イエスさまは 十字架におかかりになる以前に、「 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも自分を愛してくれる人を愛している。」「また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。」中略「 しかしあなたがたは敵を愛しなさい。そうすれば沢山の報いがあり、 いとたかきかた方の子となる。いとたかき方は恩を知らないものにも悪人にもなさけ深いからである。あなた方の父が憐れみに深いようにあなたがたも哀れみ深いものとなりなさい。」ルカ6章27~36節で その様におっしゃいました。

 

まさにイエスさまは十字架上においてそのお言葉を自ら実践なさったのです。

しかもイエスさまは苦しい死の間際の十字架上において、そのように執り成し祈られるのであります。

これが主の愛です。これ程までの愛、その執り成しによって私達一人一人もまた祈られ、救おうとされているのですね。

 

さて、そうしてイエスさまは二人の犯罪人と共に十字架にかけられました。

一人は右に、一人は左に、罪の無いイエスさまはその二人の犯罪人の真ん中に、まるで罪人の頭でもあるかのように、十字架にはりつけにされました。

先ほど、旧約聖書のイザヤ書53章を交読いたしましたが。

その中でイザヤが、「彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。」さらに「多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成したのは この人であった。」と預言されたこれらのことが、十字架上のイエスさまによって現実のものとなるのです。

 

ところで、マルコやマタイの福音書では、犯罪人の二人ともイエスさまをののしった、と記されておりますが。このルカ福音書では、もう一人の犯罪人の方が、イエスさまは父の神に、赦しを乞い求めたことが記されています。

彼がどうしてそのような心境になったかはわかりませんが。

まあきっと イエスさまの噂ぐらいは耳にしていたことでしょう。そして実際にイエスさまにお会いしてその執り成しのお言葉と祈りとに心打たれるものがあったのではないでしょうか。あるいは「本当に この人は神の子だ」と信じる信仰が与えられたのかもしれません 。

 いずれにしましても、彼はもう一人の犯罪人に、「お前は神をも恐れなのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」と、たしなめたと記されています。

彼はイエスさまの十字架のお姿を通して、神を畏れ敬う心を取り戻したのではないでしょうか。

彼が「この方は何も悪いことはしていない」と、どうしてそう言うことができたのか?と水曜日の聖書の学び会で話題になりました。

さて、どうしてかはわかりません。

いずれにしても、十字架にはりつけにされたこの犯罪人は、主イエスさまの傍らにいて、十字架のイエスさまと自分との関係を確かに見いだしたのです。

彼の「イエスよ、あなたが御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言うその言葉がそれを表しています。彼はイエスさまが自分に救いをもたらす権威あるお方と認め、自分から進んで関係性を築こうとするんですね。

 

イエスさまはそのようなこの人に、

はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる(原語は未来形:あなたは今日わたしと一緒に楽園にいるであろう)」。とおっしゃるのであります。

自ら進んで、神のみ前に立ち帰るこの人に、 主イエスによる「救い」の宣言がなされるのですね。

 

以前にこの最期の場面を読んで、ある方が「この犯罪人はこのイエスさまの、『今日わたしと一緒に楽園にいる』との約束を戴いて、亡くなってしまうのですね」とおっしゃいました。その通りです。彼は十字架から下りて助かるというのではなく、その十字架の上で地上の生涯を終えるのです。

 

これは何もこの犯罪人が特別そうであるというのではなく、私たちも同様です。人間には例外なく、必ず死が訪れます。死なない者はだれ一人おらず、永遠に地上を生きながらえることなどできません。

けれども、十字架上で彼は、「今日、あなたはわたしと一緒に楽園にいるだろう」というイエスさまの約束を頂くのです。神との和解に与った者は罪のゆるし、神の救いに入れられるのですそれこそ決して取り去られることのない、主に救われた者の希望。「永遠のいのち」。主が与えてくださっている、主がいつも共にいてくださる楽園、パラダイスなのです。

それは、主イエスの十字架のあがないによってもたらされた神の救いです。

この犯罪人が主に立ち帰り、救われたように、もう誰もが、今日にでもその主の御救いに、永遠の命に与ることができる。これが福音であります。

最後になりますが。

この2人の犯罪人について、皆さんはどうお思いになるでしょうか。

十字架にはりつけにされたイエスさまと自分との関係を見いだし、神への畏れを持って立ち返った者と、十字架にはりつけにされたイエスさまと自分との関係を退け、神の救いを拒んでののしり続ける者。

聖書は何も前者が合格、天国で、後者は失格✖、地獄、とは言っていません。

ただ、イエスさまはそんな彼ら二人の真ん中に十字架にはりつけにされておられるのです。

イエスさまは片方の人に救いの宣言をしながら、一方の自分をののしり続ける人にも、「父よ、彼をお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、あきらめることなく、救いのとりなしの祈りを捧げておられるのですね。

アーメン。ああ、何と主の愛の素晴らしいものでしょうか!

 

今日、私たちは、イエスさまが最も苦しい十字架上で、あざける人々、十字架の救いを知らず無関心であった人たちのために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と執り成し祈られたこと。

また、罪あるそんな私たち人間をあきらめず、執り成しの祈りを捧げ続けていてくださるその愛。そして「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という救いと祝福の宣言を頂きました。

 

この「いのちの御言葉」によって、主イエスの十字架と自分との関係を見つめ、魂新たにされていきたいと願います。

今日の御言葉をもって、受難週もここから遣わされてまいりましょう。

祈ります。

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