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福音に見出された自由

2019-05-26 16:23:15 | メッセージ

礼拝宣教 ガラテヤ5章1-15節 

 

本日はガラテヤ5章より「福音に見出された自由」と題して御言葉に聞いていきます。

 

私は2つのタイプの神学校で学ぶ機会がありましたが。今ではそれはほんとうによかったと思えます。

はじめの神学校では、生活のあり方について一つ一つ指導がありました。

時には干渉もされ、神学寮(元学長宅のこじんまりとした学内にある一軒家)でも、かなり事細かな寮則が設けられていました。

20歳過ぎても禁酒禁煙。門限はなかったのですが毎日晩祷(夜の祈祷会)と毎朝6時前には早天祈祷会がありましたので、時間的にも制約がある中での2年間でした。

確かに、指摘されないと気づけないこと、分からないことは沢山ありましたので、そういったことを教えて頂けたということは感謝な事でありますが。

一方で、そういった状況の中では多くの場合、監督や指導の下、その指示に従うことそのものが重要であるかのようになってしまいがちなんですよね。

それは、わたしに限って言えば主体性が生まれにくかったように思います。

指示に従ってさえいれば変な話「安全」「安心」「それでよし」となってしまうんですね。また逆に「そうあらねば」とか「そうできない自分」に、もやもやとした思いがいつも残っていました。

まあ、その神学校は良き学びの機会と、奨学金制度も教派を超えて私にまで適応してくださり、経済的には多くのお支えとご支援を受けて2年間の学びと生活が守られたことに感謝は尽きません。

もう一方の神学校は4年間学びの機会が与えられました。

こちらは前者の神学校とは対照的でした。学びについてはそう変わりませんが。

生活の面、こちらも独身寮に4年間入りましたが。門限はありませんし事細かな寮則もありません。

まあ静かなところで、自然に囲まれた場所にありましたので寮にムカデが頻繁に出没し、時々、ギャーとか、痛!という声が寮内に響きました。熱い湯沸かしポットを持って走るスリッパの音がしたかと思うと、熱湯をムカデにかけて退治して「やった!」という声が響いて来ることもあるようなところでしたが。

まあ、生活面についてある意味、個々人の学生にゆだねられていて、放任というと言いすぎかも知れませんが。それで痛い目に遭う体験もしましたけれども。

そんな自由の中で、自分が一体そこで何をなしうるか、いつも問われていくことになり、毎日が学びの連続でした。

自由というと聞こえはいいですけれども。

それは実際何をしてもいいのですが、その中で何を選びとっていくかという厳しさがあります。時間も学びも行動も、自己管理しないと成り立たなくなってしまうからです。

たとえばレポートと筆記の試験どちらが楽かといえば、暗記して憶えてその回答を書く方がある意味楽じゃないでしょうか。けれどそこではレポートの提出が多かったんですね。レポートは決められた答えというものがありませんから、自分で考え、本や人との出会いからそれを選び、構築してかなければなりません。

これは大変でしたね。けれどもそれを仕上げた時の喜びは大きなものがありました。

 

このタイプの違った2つの神学校で学び、生活する機会が与えられたことは、

私の信仰理解とともに、いかに主の前に生きてゆくかという実践的な在り方を体得する良い学びの時となったことを本当にありがたく思っています。

 

今日は「キリスト者の自由」についての話でありますが。

その前におさらいですけれど先週はガラテヤの信徒たちが「福音の真理」すなわちキリストの十字架の贖いによって御救いに与った、にも拘らず、儀式や律法規定に囚われていった問題から聖書に聴きました。

そこでは、ガラテヤの信徒たちが、かつて神でない偶像や日や月の動き、時節に振り廻され囚われていたように、今度はユダヤの割礼をはじめ、諸々の律法規定、祭儀や儀式、慣習も神の民として守るべきであるという教えに惑わされていました。

 

「神の民となったのだから~(このよう)であらねば救われていない。~(このように)しなければ本当に救われているとは言えない、神の民ではない」などと聞いてそれを行い、囚われ、縛られて、肝心の救いの恵みと喜びが損なわれていたのです。

再び奴隷のように、それら肉(人)の教えに仕えていく虚しい生活に逆戻りしてゆこうとしていたのです。

 

彼らの信仰の導き手であり霊の親であった使徒パウロは、そのガラテヤの信徒たちに

対して、「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」と、渾身の愛をこめ、忍耐をもって切々と訴えた、これが先週の箇所でした。

 

今日のところでは、「信仰を持つ私たちが陥りやすい囚われと、信仰によって得られる自由」をテーマに、ここからメッセージを受け取っていきたいと思います。

4章21節以降を見ますとパウロは、「肉によって生まれた子」と「約束によって生まれた子」(23節)の2通りの信仰者の姿を示します。

「肉による子」とは律法主義の下で囚われ縛られている人のことであり、「約束による子」とは主イエスの贖いと救いという「主の福音」を信じて、自由とされ、神さまとの新しい関係を築いて生きている人のことです。

 

5章1節でパウロは次のように述べます。

この自由を得させるため、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」

さらに、13節でも「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです」と使徒パウロは述べています。

クリスチャンではない人は、キリスト教を信仰している人は何だか考え方が狭くて堅苦しくて、あれしちゃいけない、これしちゃいけないと青白い顔で禁欲的で、まるで囚人のような生活を送っている人というイメージがあるのではないでしょうか。

しかしここでパウロは、救いの福音がクリスチャンにどれ程自由をもたらすものであるかを説いています。

 

①  「キリストにある者の自由」

一節の「わたしたち」という中には使徒パウロ本人も含まれているわけですが、彼も以前は熱心なユダヤ教の律法主義であり、それを守り行う生活に大変なエネルギーを使って、実行できれば高慢になっては人を裁き、出来なければ自己を卑下するというような思いに囚われて生活していたのです。

クリスチャンが割礼も受けなければ律法も守ろうともしないのに、神のゆるしにあずかっている、神の民とされたと言っていることに激しい妬みと怒りをもって迫害をしていたのですが。

そういった彼の~ねばならない、~しなければならないということが、実は他者だけでなく、自分自身を捕らえ縛ってきたんですね。

けれどもそんな彼が決定的に変えられたのはキリストとの出会いによってでした。

いかに自分が神の愛と救いに気づけない不自由な者であったか。偏狭な自分の考え方が、実は神を悲しませるものであったことをパウロは思い知るのです。

キリストはそんなパウロの贖いのためにも、その罪の身代わりとなり神の裁きを受けて死んでくださった。それも死では終わらず復活された。そしてまさにその復活の

キリストが、このパウロに出会い給うのです。

パウロはキリストによって断罪され滅んでもおかしくない者であることを痛いほ

ど自覚していたでしょう。

けれどもキリストは唯その愛と憐みによってパウロの罪をゆるし、真の自由と解放とを与え、神の恵みによって新しい人、クリスチャンとしてのパウロが誕生するんですね。

 

だから、彼の「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださった」という言葉には重みがあるのだと思います。

そのパウロが2節以降で、ガラテヤの信徒たちにこう述べます。

「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたは、だれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。」

 

パウロは割礼を受けなければ神の救いの中に入れないと考えていた人たちに対して、もしそうなら、「キリストの贖いと御救い」はもう何の意味も持たない、もし行いによるのなら神の恵みの福音は何の役にも立っていないじゃないか、というのですね。

 

ガラテヤの信徒たちのうちに入ってきたユダヤ人クリスチャンの一部の人たち、ユダヤの律法主義や割礼を推奨していった人たちの考え方は、「救いはユダヤ人から始まったけれど、キリストによって異邦人にも救いが開かれた」と認めながらも、一方で「救いの信仰も大事だけれど割礼や律法や祭儀などを守ってゆくことも必要で、それを行っていくことが神の民のしるしだということを主張したのです。

それが「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませている」というパウロのたとえのように、だんだんと大きくなっていき、キリストにあって結ばれ、折角愛と喜びに満ち成長を与えられていたガラテヤの教会に、分断と分裂を招く事態になっていたということです。

 

②  「愛の実践を伴う信仰こそ大切」

そんなガラテヤの信徒たちに向け、6節でパウロはこう述べます。

「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」

愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

かつてのパウロは、自分の義、自分の正しさ、そして自己達成感とともにそれを誇り、高ぶり、裁き、知らない間に神さまよりも自分が主体となって、神さまの救いのご計画であるキリストを迫害していたという、神の愛を知らない人生、隣人愛もわからないまま、人とも分断をきたらすような、そんな自らの滅びを招く生き方だったんですね。

どんなに自分では信仰していると言ったとしても、愛なく殺伐としたその生き方は神の救いからほど遠いものです。

 

私が初めてこの「愛の実践を伴う信仰こそ大切」という言葉を読んだとき、「実践」つまり「愛があるような行い」が大切と言っているように思っていたのですが。

でもそうじゃなかったんですね。

主体は、「信仰こそ」とある「信仰」(ピスティス)なのです。

この信仰こそが本来、愛として働く原動力であるということなのです。

「キリストの救いにおける感謝と喜びの信仰」こそが愛の伴う行動を呼び起こさせるのですね。

この順序は大事であります。

さらに申しますと、ここの「愛」という言葉は、エロス;性愛でも、フィレオ;友愛でもなく、アガペー;神の愛なんですね。これは大きな意味をもっています。

人間のもつ情愛、ヒューマニズムによるものではないんですね。

 

だったら、私は愛がないなんて落ち込んだり悩んだり、あの人は愛がないなんて裁く必要はまったくないですね。

今日も救いの福音を聞いた、確認できた、そして心が安らいだ、嬉しくなった。

ちょっと誰かと挨拶しよう。愛さん食べて行こう、掃除してゆこう。

また、今日姿が見えなかったあの兄弟、姉妹どうしているかな、電話してみよう。そういう主にある信仰に伴って起こってくる愛の具体的な表れが尊い、大切だといっているんですね。そこに福音に見出された者の自由と愛があるのです。

それは行わねばという義務感や使命感という肉の思いとは異なります。

始めのほうで話しました信仰からくる霊的な「約束による子」、主イエスの贖いと救いという「主の福音」を信じて、自由とされ、神さまとの新しい関係を築いている人の生き方です。

礼拝の中で先に「交読文としてコリント一13章」をともに読みましたが。

この「愛」のところに自分の名前を入れて読むと、どうでしょうか。

大方の人は自分がどれほど愛のない人間であるか思い知らされるのではないでしょうか。けれどもそのところに、アガペーの愛「キリスト」ご自身のお名前を入れて読まれてみるとどうでしょうか。

私自身がこの主の愛によって生かされていることを覚えることが出来ますね。

私たちはこの「キリストの愛」を受け取って、それを喜び、そうして主とともに愛に生きてゆく、それが私たちの「愛」なのです。

主イエス・キリストを救い主として信じるとき、神は私たちを義としてくださり、救いの愛なるキリストが私たちのうちに生きて働いてくださることによって、私たちはそのキリストの愛に生きる者となることができるのですね。

この素晴らしい主の愛を心から感謝します。

 

③  「自由には目的がある」

最後に、パウロは13節以降でこう述べます。

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。」

私たちはもう、こうあらねばならない、こうしなければならないという囚われからキリストの愛によって自由にされています。パウロは「ただ、この自由を、肉による機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。」と記します。

実はこの13節、14節にパウロが記した「愛」もまた、アガペーの愛、神さまの愛、キリストの愛なんですね。

私たちは主イエス・キリストによって、今日学んだように自由を得ているのですが、

この自由をもって奔放にふるまうのではなく、むしろキリストの愛によってお互いに仕え合うところにこそ、律法全体が言わんとしているところの隣人愛が全うされていくんですね。

今日は「福音に見出された自由」と題して、御言葉に聞いてきました。

 主イエスを救い主として、感謝と喜びの信仰に生きる者のうちには、教会に豊かに注がれている御聖霊のお働きによって互いに主の愛を分かち合う兄弟姉妹が与えられていることを感謝します。

キリストは昨日も今日も変わることなく私たちのうちに生きておられ、「愛」としてお働きくださいます。。

今週もここからそれぞれの持ち場へ、この愛によって働く信仰に与って、遣わされてまいりましょう。

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