日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

苦難の中から生まれた教会

2021-05-09 11:18:27 | メッセージ

礼拝宣教  使徒言行録11・19-26

 

本日は、使徒言行録11章19節以降の「アンティオキアの教会」が誕生していった所から、御言葉に聞いていきたいと思います。

主イエスの福音、喜びの知らせは、使徒となった主の弟子たちを通して宣べ伝えられ、日ごとに主を信じる人びとが増し加えられます。しかし一方、迫害も強まっていく中で、重要な役割を担う1人であったステファノが、石打の刑を科せられ殉教します。

この19節に「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フィニキア(現・レバノン)、キプロス(島)、アンティオキア(現・シリア)まで行った」。言い換えれば、辺境の地や島々、又異教の地です。散らされた信徒たちはそこで主イエスの福音を語るのであります。しかし彼らはユダヤ人とユダヤ人社会に限定して主の福音、御言葉を語り伝えました。

ところが、彼らの中のキプロス島やキレネ出身のギリシャ語を話すユダヤ人たちがおり、その信徒たちはアンティオキアに行ってギリシャ語を話すあらゆる人たちに語りかけ、主イエスの喜びの知らせ、「福音を告げ知らせた」のです。これは原語に忠実に訳すなら「福音を告げ知らせていた」ということです。つまり粘り強く継続的に主の福音を告げ知らせ続けていたのですね。

 

ギリシャ人には神話の神々、偶像に囲まれ、また熱心に哲学を論じ合うといった精神風土があります。天地万物の創造主という神概念など持っていません。まあ、そのギリシャ圏の人たちに天地を創造し、解放と救いをもたらす生ける神を知ってもらうというのは大変なことでした。それだけ忍耐強く、継続して主イエスの福音を語り続けていく必要があったのです。

このことは、日本でも同様でありましょう。日本にも八百万の神々、海や山の神々、五穀豊穣、家内安全、商売繁盛、学業・縁結・安産等の御利益のある神が祀られています。前任地の町の沿線に「山の神行き」と表示されたローカルバスが走っていたのを思い出しますけれども。又、先祖を祀るしきたりも根強く、親族と地域とのしがらみから信仰の自由もままならない方も多くおられます。

本日の箇所で、各地に散らされた名もない主の信徒たちが、ユダヤ人として自分たちが持っていたこだわりや、こうあらねばならないといったしきたりをひとまず置いて、アンティオキアの人々と関り、向き合い、粘り強く福音を語り続けていった。そのことがやがては全世界に喜びの知らせ、福音がもたらされる起点となっていくのです。

しかし、ここで何より大切なことは、21節で「主がこの人々を助けられたので」と、記されてあることです。口語訳は原語に沿って「主の御手が彼らと共にあったため」と、訳しています。

主の良き知らせ、福音を胸に心を込めて粘り強く継続的に関り続けることは本当に尊い働きですね。そのすべてを主はご存じなのです。そうして主の助け、御手が共にあって、生ける神の前にかけがえのない一人の人の魂が救いへ導かれるのであります。

ここには、そうして「信じて主に立ち帰った者の数は多かった」とあります。それは異教的な神々との関係ではなく、真の生ける神との人格的な関係がここに回復されていった。この喜びの知らせ、生ける神との交わりの回復。これを聖書は「救い」というのです。時代は変わっても、決して変わることのない生ける神の命の御言葉が、今もあの時代のようにある意味散らされたように思える私たちに臨み、主の御手が共にあることを指し示しているのです。希望をもって、かの人たちのように主の福音を分かち合い続ける者とされてまいりましょう。

 

さて、22節「このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した」。

エルサレムの教会はなぜバルナバをアンティオキアに送ったのでしょうか?

エルサレムの教会は12使徒をはじめとするユダヤ人によって構成されていました。

彼らは神のことばと教えとに厳格でした。旧約の律法を生きてきた彼らは主イエスの福音と出会い、救われてからもその福音理解について多くの議論を重ね、その信仰を確かなものとしてきました。

そこで、彼らは異邦人が果たしてユダヤから始まった神の救いを正しく受け取っていくことができるかどうか。それはエルサレムの教会にとって大きなチャレンジでした。

例えば当初、エルサレムの教会はユダヤ人以外の人との交流や会食を避けていたり、主の福音を信じて受け入れるならば、異邦人もユダヤ人のように割礼を受けることを勧めたりもしました。

けれども10章-11章にかけ読みますと、ペトロは異邦人にもユダヤ人と同様聖霊が降り、主イエスを信じ受け入れる救いの出来事を目の当たりにした事を、エルサレムの教会で証言しました。そのペトロの言葉を聞いた教会の人たちは静まり、「神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した(11:18)とあります。

バルナバがアンティオキアに派遣されたのも、ユダヤ人以外の異邦人が主イエスの福音をどのように信じ受け入れているのかを、エルサレムの教会が検証する必要があったのです。

その背景には福音を伝えていったのが12使徒の宣教によるのでなく、名もない信徒たちによってなされた事に疑念が多少なりとも持たれていたのでありましょう。しかし主はその名もなき信徒たちをお用いになりました。主の御手は彼らと共にあったのです。

 

ところで、バルナバにその任が与えられた理由については、24節「聖霊と信仰とに満ちていた」と記されています。「聖霊と信仰」。この生ける神のお働きと主イエスにある救いの確信こそが、アンティオキアのギリシャ人たちの回心の真価を計る指標となるのです。

神を信じて生きたい。バプテスマを受けたい。もっと聖書をすべて一通り学び終わってからじゃないといけないでしょうか、とおっしゃる方もおられます。もちろん正しく理解することは大事です。神学なき信仰は妄信です。けれども信仰は一生かけて学び続けることであって、最も重要なのは「聖霊と信仰」なのです。

 

そのバルナバがアンティオキアの信徒たちのところに到着すると、彼は「神の恵みが与えられた有様を見て喜んだ」というのです。

きっと神の救いからほど遠いと思っていたそんなギリシャ圏の人々が、聖霊のお働きによって主イエスの福音を信じ、主の御救いに与るのです。生ける神との交わりの回復と解放、救いの喜びに満たされた証しの日々を送っている様子を目の当たりにして、聖霊の人バルナバは主が彼らと共におられる事を強く感じ、歓喜したのではないでしょうか。

 

けれども彼らはまだ生まれたばかりです。信仰の人バルナバはアンティオキアの信徒たちに、「固い決意をもって主から離れることのないように」と、勧めます。口語訳は「主に対する信仰を揺るがない心で持ち続けるように、みんなの者を励ました」とあります。

ここを読みますと、私たち日本の精神風土もこの当時の多神教であり、人の知恵にのみ正確を求めようとするようなギリシャ世界と共通している面が多いといえましょう。

真の神ではないものに囚われ、仕えて拝むような社会。又、真の神から私たちを引き離そうとする世の力が引く手あまたに働いています。

いくら信仰の喜びで満たされていても、様々な困難やつまずが起こると主から離れてしまうということがあってはならない。

信仰の人バルナバは、アンティオキアの信徒たちが聖霊に導かれ、復活の主イエスと出会った救いの原点、その初めの愛に留まり続けるよう、励ますのです。

 

本日の宣教題を「苦難の中で生まれた教会」とつけました。

このアンティオキアのギリシャ圏に生きる人々に、福音を届けるために主がお用いになられたのは、迫害という苦難の中で散らされていたユダヤの名もなき主の信徒たちでした。彼らは主イエスの福音を粘り強く、固い信仰を持って語り続けた。そこに主の御手が共に働いて、大いなる喜びの救いの出来事が起こっていったのです。

 

バルナバはアンティオキアの教会の協力者としてサウロを立て共に1年間、多くの人を教えた、とあります。彼はサウロがユダヤ人以外の人々に主の福音を宣べ伝えるための賜物とその召しに与っていることを知っていたからです。

こうしてこのアンティオキアの教会はバルナバとサウロの主イエスにある福音理解、そして何よりゆたかな主の助けとお働きを得て、異邦人伝道の拠点となり、小アジア(トルコ全域)、さらに西欧(ローマ、イタリア、エスパニア等々)、そして世界の各地に主の福音が拡がっていくことになるのです。

けれども、そのアンティオキア教会の基礎を築いたのは、迫害で散らされて行った名もない主の信徒たちでした。彼らの祈りと信仰の粘り強い継続的な関りと働きかけを主が助け導かれ、困難としか言えない状況の中で主の福音が世界に開かれていくようなアンティオキアの教会が育っていくのですね。

 

本日の最後のころに、「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者(クリスチャン)と呼ばれるようになったのである」と記されています。

そこには初代の教会の信徒たちの生活が、「キリストの人たち」と世間の人々から強い関心を寄せられ、ある意味社会的にも強烈なインパクトをもって認知されるようになっていった事実を、それは示しているのですね。

今、私たち一人ひとり、そして教会が困難の中でどうキリスト者として生きていくかが、問われています。

今こそ、「キリストの人たち」。その私たちの信仰が実生活とどう結びついているのか、その本質が試されているのかも知れません。今週も主の御言葉に立ち、それぞれの馳せ場にあって「聖霊と信仰」に満たされた歩みを続けてまいりましょう。

 

宣教音声→https://drive.google.com/file/d/14WzpwGsgQqEF0A6wgyqBV_makI3Q8UEp/view?usp=drivesdk

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 礼拝・祈祷会休会について | トップ | 主の教会とされていく出来事 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿