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聖霊によって生きる

2022-06-05 13:41:55 | メッセージ
聖霊降臨礼拝宣教 使徒28章17節~31節

十字架の救いの御業を成し遂げ、3日後に復活なさった主イエスは40日間弟子たちに現れ、その後天に昇られて、かねてより約束してくださった聖霊がお降りになりました。今日はその記念すべき聖霊降臨(ペンテコステ)の礼拝をお捧げしています。
「あなたがたの上に聖霊が降るとあなたがたは力を受け、地の果てまで福音を宣べ伝えるであろう」と、主イエスが仰せになった言葉どおり、聖霊の降臨によってキリスト教会が誕生し、福音はユダヤとサマリアの全土へ、さらに小アジアからヨーロッパへと拡がっていくという、そのダイナミックな主のご計画とお働きがなされていきます。
しかしそこで終わることなく、初代教会に臨んだ聖霊はその後の2000年という年月と全世界に臨まれ、時間、空間、時代を超えて今も生き、働き続けておられるのです。
今、私たちも又そのお働きの中で、こうして礼拝に与り、賛美を捧げることができているのです。
初代教会の人びとが心を一つにして祈り求めていく中で、主の霊がゆたかに働かれたように、今を生きる私たちも主の教会に集い、共に主の栄光が顕わされることを切に祈り求め続ける中に、聖霊は豊かにお働きくださるのです

これまで読んできました使徒言行録は本日の28章をもって最後となりますが、この28章に至る迄に実に様々な出来事がパウロの身に起こりました。少しおさらいになりますが。
まず、パウロがエルサレムに上ると、アジアから後を追って来たユダヤ人らの陰謀により民衆を巻きこむ大騒動が起こります。彼は事態の鎮圧のため駆けつけたローマの千人隊長とユダヤの民衆の前でひるむことなく弁明し、「自分は正統なユダヤ人であるが、ダマスコ途上の道で復活された主イエスと出会い、クリスチャンとなり、福音を伝えている」と、証しするのです。
さらにパウロは、ユダヤの最高法院の議員たちの前でも、自分はキリストにあって死者が復活するという望みを抱いている、と大胆に証しました。そこにはユダヤの議員たちをその議論に持ち込んでいくという算段があったわけですが、議場は非常に混乱し、パウロは牢に拘束されてしまいました。その夜、パウロはそばに立ってこう言われる主の言葉を聞くのです。「勇気を出せ。このエルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証ししなければならない。」(23:11)
その後、大祭司アナニアらによってパウロはローマのフェリックス総督に訴えられてしまうのですが、主の言葉に勇気づけられたパウロはそこでも、自分が律法と預言者の書に書いてある事をことごとく信じ、その復活の希望を主に対して抱いていることを大胆に証しします。(24章) 
パウロはカイサリアで2年間監禁されながらも、ある程度自由が与えられ、友人たちの世話を受けたとされています。その後、フェストゥス総督の下、ユダヤ人たちがパウロをエルサレムへ引き渡すようにと圧力をかけると、ローマの市民権を持っていたパウロはローマ皇帝に上訴することを宣言します。そしてローマ行きが決まると、パウロのもとにある珍客がやってくるのです。
それはユダヤのアグリッパ王でした。パウロは王の面前でも自分の回心の出来事を大胆に証しし、王に福音を伝えました。パウロの心は王の前であっても自由でした。コリントの第二の手紙3章に、「主の霊のおられるところに自由がある」との彼自身が書いていますが。どのような境遇におかれても主の霊により平安と勇気を得て、何ものにも縛られることなく主の福音を語らずにはおれなかったのです。

そうして本日の箇所において、パウロは遂にローマへ到着いたします。
そこで彼を何よりも喜ばせたのは主にある兄弟姉妹、同信の存在でした。今日の箇所の前の15節にあるように、「ローマからは、兄弟たちがわたしたちのことを聞き伝えて、出迎えに来てくれた。パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられた」と記されています。
この兄弟たちは結構大人数だったようですが、みんな初対面だったようです。おそらくかつてローマの教会にいたアクラやプリスキラ夫妻をはじめ、いろんな信仰の同志たちからパウロのことを伝え聞いていたのでしょう。キリスト者、クリスチャンのつながりって不思議だと思いませんか。
私もそうですが、初対面でも同じ主を信じる方と話しをしていて、とても初めて会ったとは思えないような不思議な感覚を持つことがありますが。そんな時、聖霊が私たちの間に働いて下さっているのだと思います。
又、ローマへの護送という折に、こうした場面を演出してくれたローマの百人隊長らの好意も見落すことができません。主は彼らをもお用いになり、福音の恵みの中へとゆたかにお招きにお招きになられていることが分かります。主は、必ずしもクリスチャンだけをお用いになるわけではないのです。主のお働きは実に広く、ゆたかなのです。

さて、軟禁状態であったパウロは番兵が一人つけられますが、30節以降にありますように、「自費で借りた家に丸2年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」と記されています。
パウロがローマに着くやすぐになしたことは、意外にもローマに住む主だったユダヤ人たちを招き、それも2度に亘って粘り強く福音を伝え、証ししたということです。
しかも、2回目の折は、23節、「パウロの宿営にやって来た大勢のユダヤ人たちに、パウロは、朝から晩まで説明を続け、神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとした」とあります。

パウロが最初におもだったユダヤ人たちを軟禁されていた家に招いた時に、彼はこう言います。
20節「イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖につながれているのです。」
主イエスの福音を頑なに拒否するユダヤ人の人々に対して、「わたしは異邦人の方に行く」と言ったパウロでしたが。しかし彼は創造主なる神、イスラエルを救い導きだして下さったユダヤの同胞たちが、主イエスの福音を知って信じてほしいと、切なる願いを持ち続けていました。それほどまでになぜ彼はこだわっていたのでしょうか。
それは、彼が熱心なユダヤ教徒であった時、ダマスコの途上で、復活の主イエスと出会う経験をしたからです。彼は主なる神のためだと信じ、熱心にイエスの教会と信徒たちを激しく迫害していたのですが、そこでそのことが、実は主なる神ご自身に対する迫害であったことを知ったのです。
そこで、パウロはイエスが自分の罪のために十字架につけられて死なれたことを思い知るのです。しかし、主はそのパウロを断罪せずに受け入れてくださった、イエスは自分の罪のために死なれたが、それは又、その自分の罪を赦し、贖うために十字架にかかって死んでくださったことを悟るのです。その主の愛と救いに与って彼は劇的な回心をし、主イエスを信じて救われるのです。パウロは聖霊によって、主イエスにある真の解放、自由を得るのです。それは何ものにもかえ難い救いの体験でした。だから、彼はまず同胞のユダヤの人たちにこの主イエスとその福音に出会って、悔い改めて真の救いと解放に与って欲しいと強く願い、福音を伝えずにはいられなかったのです。
パウロは先の使徒言行録13章で、アンテオキアのユダヤ人に向けて次のように語っていました。
「神がイエスを復活させて、わたしたちの子孫のために約束を果たしてくださった・・・この神が復活させたこの方(イエス)は、朽ち果てることがなかったのです。だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされ得なかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされたのです。」(33-39節)
彼はここでもおもだったユダヤ人たちに向けて、イスラエルの望みは、主イエスの復活と、イエスがキリスト、救い主であることにかかっており、その救いは実現されている、と福音を伝えたのです。
しかし、このパウロが伝えた福音に対して、ある者は受け入れたが、他の者は信じようとしなかった、とあります。多くのユダヤ人たちは、「互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとした」とあります。
ユダヤの同胞に主の福音を受け入れる人が現れたことは喜ばしいことでしたが。一方、頑なに律法の遵守や行いによる義人になることで、神に認められ、救われると誇り高ぶる者は、逆に神の愛と恵みの賜物、すなわち主イエスの贖いと救いを遠ざけてしまうことになっていくのです。彼らは議論に終始して福音を受け取らず帰っていったのです。

パウロはそれを憂いながら預言者イザヤの書を引用します。
「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、語られました。『この民のところへ行って言え。あなたは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。』

彼らには神の選びの民だとの自負があったのでしょう。異邦人とは違い、自分たちは神の言葉をよく聞き、よく見、よく理解していると、自認する過信、誇り、おごり。
それはかつてイザヤの時代にはバビロンによる都の陥落と神殿の崩壊によって徹底的に打ち砕かれました。彼らユダの人々はそこで人の力が尽き、自我に頼ることを断念した時に、神の一方的な御力と御業が彼らのうちに臨むのです。
預言者イザヤは、頑なな彼らへの警告とともに、悔い改めにおける回復を預言したのでした。主イエスの福音が「よき知らせ」であるのは、まさに義人として生きることの困難と、人の弱さを知らされた時、その無力さの中に神が救いの道を備えてくださる、そのところにあります。
使徒パウロは、自らの弱さと無力さを覚えた時、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』との、主の御声を聞きました。

私たちの日々の生活においても、自分の力に限界を感じ、何もできないというジレンマに陥るようなことがあります。そうした時に、自分の力や業を断念せざるを得なくなり、打ち砕かれる経験をしますが、しかし、その時にこそ、神は大きな力を発揮されるのです。そこに主を信じる者の大きな望みがあります。

さて、本日の箇所でパウロは最後に、「神の救いは異邦人に向けられました」と、神の救いのご計画を語ります。それは、すべての人が神の招きにあずかることを許されたということです。
こうしてパウロは、その家で2年間「訪問する者はだれかれとなく歓迎し」た、とあります。そこにはローマ人を始め、様々な国の人たちが訪れたことでしょう。その中にはユダヤ人も含まれていました。神は分け隔てなく、求める者に祝福を与えてくださるのです。

パウロは又、「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」とあります。
見張りの番兵がついていたとあるように、囚われの身であった。それにも拘わらず、パウロは実に大胆に多くの人を迎え入れ、多くの人と出会い、何の妨げもなく、神の国の福音を語り続けることができたのです。これはほんとうにすごいことだと思います。それは、まさにパウロの信じていた主の福音がそうさせたと言っていいでしょう。

獄中でパウロが書いたフィリピの信徒への手紙の1章12節にこう記されています。
「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。」
イエス・キリストによって捕えられた神の僕パウロは、たとえ牢獄の中であれ、それがどこであっても、復活の主との交わり、永遠のいのちの希望の確信のもと、福音を大胆に伝え、証しし続けたのです。
本物の自由とはこういうものではないでしょうか。パウロは「主の霊のおられるところに自由がある」と、コリント第二の手紙3章で語っているとおりです。又、主イエスは、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由する」(ヨハネ8章32節)と、仰せになりました。
今も、主イエス・キリストによる全世界に向けられた救いのご計画は、ペンテコステに臨んだ聖霊の御力をもってゆたかに働かれています。

エフェソ1章13-14節には、主を信じる者に与えられた朽ち果てることのない約束についてこう書かれています。最後にそこをお読みして本日の宣教を閉じます。
「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」
今日は特に聖霊降臨の恵みを覚え、感謝しつつ礼拝を捧げておりますが。この主のお約束にしっかりと立ち、揺り動かされることなく、聖霊のお働きを信じ、求めつつ、ひと日ひと日を歩んでまいりましょう。
(花博記念公園鶴見緑地 のキツツキ)
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