礼拝宣教 創世記50章15節~26節
9月は創世記からヨセフ物語の記事を読んできましたが、本日はその最終回となります。
先ほど朗読された50章の箇所から、聖書のメッセージを聞いていきたいと思います。
その前におさらいですが。イスラエル12部族の父となったヤコブは、その子ヨセフを溺愛します。ヨセフは兄弟とその父母までもが、自分にひれ伏し拝する夢を見て兄弟に話したために、兄弟からひどくねたまれ、穴に投げ込まれエジプトに売り渡されてしまいます。
奴隷となり、濡れ衣を着せられて囚人となるヨセフでしたが、どんなときも主が共におられることをヨセフは知っていました。
同じく囚人となっている王の料理役と給仕役の夢を解き明かしたことから、エジプトの王ファラオの前に出ることとなり、王の夢を解き明かして神の啓示を示し、為すべき備えを助言したことから、
ヨセフは王の任命によりエジプトの大臣となるのです。後に飢饉が起こりカナンの地から兄弟が糧を求めて下ってきます。様々ないきさつはありましたがヨセフは身を明かし兄弟を許し、父や家族を呼び寄せてエジプト近郊に住むところを与えるのです。
17年ほど経った後ヤコブは子らを呼び寄せそれぞれを祝福し天に召されます。
「ゆるしの再確認」
父ヤコブが亡くなると、ヨセフはカナンの地に葬られることを願っていた父の遺言を実行します。エジプトのファラオの許可を得て、エジプトの主だった重臣たちすべてとヨセフ家族全員、そして彼の兄弟たち、さらに戦車も騎兵も共にカナンの地に上っていくのです。そして一行はヨルダン川の東側のゴレン・アタドの地に着くと、エジプト流の非常に荘厳な葬儀、七日間にわたる盛大な追悼式が行われました。
こうしてヤコブの息子たちは、父のなきがらをカナンの土地に運び、父が生前に命じていたとおりマクベラの畑の洞窟の洞穴に葬るのです。ヨセフは父を葬った後、カナンの地にのぼった兄弟たちはじめ、すべての人たちと共にエジプトに戻りました。
父が死ぬとヨセフの兄たちは、ヨセフが自分たちに報復するかも知れないと恐れます。若き日に弟ヨセフを亡き者にしようとしたおぞましい仕業を、はたして本当にゆるしているのだろうか、そう考え恐ろしくなったのでしょう。確かに先週の45章で、ヨセフは兄たちに身を明かし、すべては神の救いのご計画であったと言って彼らを抱いて泣き、兄弟たちに口づけをし、ともに語り合ったとあります。まあ兄たちにとっては、ヨセフに対してそれだけの事をしたのですから、やはり罪責感があったでしょうし、それに加え、父の葬儀の時にはエジプトをバックに絶大な権力を持つヨセフを目の当たりにし、今後何をされるか分からないと不安が生じたのでしょう。
そこで、兄たちはヨセフが報復しないよう策を講じます。彼らは「父がヨセフに兄たちの罪をゆるしてやるように願っていた」と、人を介してヨセフに伝えさせるのです。
しかし父が兄たちの罪を知っていたかははっきりしていませんし、口にすることなどできなかっただろうと思えます。ヨセフもおそらくそれを見抜いていたのではないでしょうか。ただ、これを聞いたヨセフは涙を流します。いまだに兄たちが自分への恐れを抱いていることを知って、悲しく寂しい思いになったのです。
やがて、兄たちがやって来ます。彼らはヨセフの前にひれ伏し、「このとおり、私どもはあなたの僕です」と、ゆるしを乞うのです。
すると、ヨセフは兄たちに言います。
「恐れることはありません。わたしが神に代わることができるでしょうか。」
「わたしが神に代わることができるでしょうか。」兄たちと再会した時、ヨセフは「あなたたちを生き永えさせ、大いなる救いに至らせるため神がわたしをここへ遣わされた。わたしを遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」そう言って、もはや「悔やんだり、責め合ったりする必要はありません」とゆるしの言葉をかけ、兄弟たちと抱擁しました。
ヨセフは神に代わって裁くことはできないとの思いに至っていたのです。
私たちの日常の生活においても、又この社会の出来事においても、時に憤り、それは一体どういうことだと怒り、人を裁くことがあります。けれど、すべてを知っているのは唯神のみ、神だけが全く正しい裁きをなすことがおできになるのです。
ヨセフの「わたしが神に代わることができるでしょうか。」この言葉は、神の前において人は真に謙虚にされ、柔和な者に創り変えられていくことを示しているのです。
兄たちはヨセフがエジプトの絶大な権威と力を保持する大臣であることにも脅威を感じましたが、
ヨセフは兄たちに「どうか恐れないでください」と、等身で語りかけています。上から目線ではなく自分も兄たちと同じ人間に過ぎないことをはっきり伝えるのです。
ヨセフはまた、兄たちにこう言います。20節「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」
隠れた神の救いのご計画が、それらの出来事を通して実現されて来たのだと言うのです。
ヨセフは自分の見た夢を兄たちに話したことで、恨みと憎しみを兄たちから受け、その悪巧みによってエジプトに売られてしまい、本当に様々な労苦と辛い経験をしました。もしそうした事がなく彼が父のもとにいたなら、彼の若き日は平穏であったかも知れません。しかし彼は外に投げ出され幾多の試練とも言える出来事に翻弄されながらも、遂には神の救いの業が父ヤコブと兄弟、その家族らのうえに実現されていく経験をするのです。
ヨセフはこれまでの人生を振返るとき、それが決して偶然ではなく、悪しきことをも良きものに変えてくださる、まさに万事を益と変えてくださる神のご計画があることを知ります。その救の計画が成るためにどんなときもヨセフと共に神がお働きくださったことを、ヨセフは確認することができたのです。まさにすべては神が、多くの滅びゆく民の命を救われるためのものであったのです。
ヨセフの時代からずっと後の時代のこと、エジプトを出て神の民とされ国を築いたヤコブの子孫は繁栄のおごりから、バビロンに滅ぼされ捕囚の民となってしまいます。絶望する彼らに神は預言者エレミヤをお遣わしになります。
「主はこう言われる。バビロンに70年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしはあなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(29:10-11)
彼らはこの約束を握りしめ生きていくのです。主が共におられる。これが私たちの希望です。時に過酷とも思える状況に直面することがあるかも知れません。しかし「わたしはあなたたちのために立てた計画をよく心にとめている。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」この主の壮大な救いのご計画に信頼してまいりましょう。
さて、本日のもう一つの記事は、「ヨセフの死」についてです。
その後、ヨセフは父の家族と共にエジプトに住み、110歳まで生きます。110歳はエジプト人の理想的な寿命であったようで、彼は3代の子孫を見ることができ、長寿を全うしました。その後ミイラにされてエジプトの地で埋葬されたようです。
ヨセフは死を前にして、まず、彼の兄弟たちに「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます」という希望の言葉を伝えます。
さらに、ヨセフは兄弟の息子たちにこう言って誓わせました。「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携えて上ってください。」
そこは先にヤコブが葬られたカナン地方のマクベラの畑にある洞穴の墓地でした。ヨセフとその兄弟たちの子孫らはそのヨセフの遺言通り、後にヨセフの骨を携えてエジプトからカナンの嗣業の地へと上り(出エジプト記13:19)、かの墓地に埋骨するのです。(ヨシュア記24:32)
父ヤコブがそうであったように、ヨセフにとっても真の休息の場、魂の居場所はエジプトにではなく、神の嗣業の地、神の約束の地であったのです。言わば、エジプトの総理大臣にまで上りつめたヨセフでしたが、その人生の集大成として兄弟たちと共に、自分たちは何者であるのかを再確認するのです。「神は必ず、あなたたちを顧みてくださり、導き上られる。」
神のご計画はこれで終わりではなく、続いていくのです。それは確かなる祝福のメッセージであります。
その神のご計画の祝福は彼らの子孫を通して持ち運ばれ、遂にそこから神の救い、イエス・キリストがおいでになったのです。この主イエス・キリストの十字架の苦難とあがないの死によって、今やすべての人に罪のゆるしと神との和解という救いの道が開かれているのです。それだけではありません。主イエス・キリストが3日目に死人の中からよみがえられた、その復活によって、主を信じる人、それは又、先ほどの交読文において「慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。主は主を畏れる人を憐れんでくださる」とありましたように、主を畏れて生きる人に永久(とこしえ)までも共におられる永遠の命の福音、朽ちることのない天の故郷を備えていてくださるのであります。
ヨセフが兄弟たち、又兄弟たちの子孫に伝えた「神は必ずあなたたちを顧みてくださる。」神は必ず導き昇ってくださるというメッセージは、主イエス・キリストを通して時空を超えて今や世界の果てにまで告げ広められ、今日の私たちのもとにも届き実現されているのです。この朽ちることのない希望に感謝しつつ、私たちも受け継いだ福音を伝え、分かち合っていく者とされてまいりましょう。