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進んで心からささげる

2015-09-27 12:30:32 | メッセージ
礼拝宣教 出エジプト記35・4-29  

「モーセの誕生から始まりました出エジプト記も3ヶ月が経ち、一応最終回となります。本日はさきほど読まれました35章より、「進んで心からささげる」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。

この箇所は「幕屋の建設」について記されております。
幕屋は、荒野を旅するイスラエルの人々にとって移動できる聖所でありました。それは神さまが現れる場所であり、イスラエルの人々の間に住まわれることを示すものであったのです。今日的にはそれを教会堂や神の神殿と考えることができるでしょう。
一人だけで信仰を保ち生きていくことは到底できることではありません。共に礼拝を捧げ、祈りとりなし合う中に主は臨在を示して下さるのです。
主イエスは言われました。「二人または三人がわたしに名によって集まるところにはわたしもその中にいるのである」。ですから、教会堂は単なる建物ではなく、主が臨在下さる場であり、主にある一人ひとり、私たちの間に生ける主が聖霊としてお働き下さっていることを確認する場なんですね。
2013年11月に私たちはこの教会堂を献堂することができたわけですけれども、その会堂建築に至る過程において実に様々な難題がありました。しかしそのところ、そのところでほんとうに私たちの思いや考えを遥かに超えた神さまのお導きとしか言いようのない出来事を経験いたしました。そしてそこには必ず、「すべて進んで心から捧げられる」祈りと奉仕と献げものがあったのです。そのことを経験させていただいたうえで、本日の幕屋の建設の記事を読みますと、ああそうだ、そうだったと改めて思い起こされます。

本日の箇所の「幕屋の建設」の指示の前に、安息日の厳守という神さまの命令が記されているのですが。これは、幕屋の建設と無関係のことではなく、結びついていることなんですね。1節~3節に記されていますように、これほどまでに厳格に安息日を守りなさい、とモーセは主の言葉をとり継いでいるのです。
現代においても、正統派のユダヤ教徒たちはこの安息日の規定、火を起こしてはならないということも含め細かに戒めを守っているため、電気の使用、自動車も燃料を燃やすものですら乗れません。イスラエルのホテルではエレベーターも止まるんですね。その他にも生産的な活動はできません。中には電話をかけたり受けたりしないという場合もあるそうです。まあ、しかしそうなるといろんな問題が生じてきます。ユダヤ教の会堂では安息日にロウソクをつける必要があります。緊急の病人や怪我人がでたとき電話で救急車を呼ぶ必要があります。でもそれらをすることは安息日違反ではないかということですね。ところが、そういう時のために、ユダヤではシャバテ・コイ(安息日の異邦人)がいてユダヤ教徒に代わって会堂のロウソクに火をつけたり、電話で救急車を呼んでくれるというのですから、まったく驚きです。しかし、それはユダヤ教の人たちが、この日は神の安息の日として聖別して捧げるのだという信仰と決意の表れでしょう。
この「安息の日」として休みなさいという戒めの中に、神の愛と恵みを見出しているからこそ、それを幾世代にも亘り行われているのでしょう。私たちもそこは非常に教えられる点があるのではないかと思うのであります。

まあ、私たちキリスト者は主イエスが「ご自身をして安息日の主である」とおっしゃったのですから、主が共におられる限り何曜日にどこで何をしていても主の安息に与っていると言えるでしょうから、ユダヤ教徒のような安息日規定はありませんけれども。
しかしこの週の初めの日曜日、私たち一人ひとりの罪のために死なれ、その罪のすべてを贖いとってくださった主イエスさまがその死から勝利され、よみがえられた記念の日として感謝をもって、共に喜び祝うために礼拝をささげています。
ネヘミヤやエズラはこのように言いました。「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」  (ネヘミヤ8:10)
私たちにとって、主の日はすべての闇、悪、罪にイエス・キリストが勝利された日です。ヨハネ福音書16章で主イエスが「あなたがたには世に苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と言われたこの勝利に与って生きる希望を「喜び祝う」。そこに私たちの力の源があるのです。

聖書に戻りますが。幕屋の建設、教会もそうですが、その主体は「安息の主」であられます。そのうえで、幕屋の建設に用いられる献納物に関して、モーセはイスラエルの人々に主が命じられたことを正確に告げ、イスラエルの人々はその主の言葉どおりに聞き従ったとあります。それは強いられてそうしたというのではありません。
21節以後、何度も出てきますように、「心動かされ、進んで心からする者は皆、臨在の幕屋の仕事とすべての作業、および祭服などに用いるために、主への献納物を携えて来た」のです。モーセが「すべて進んで心からささげようとする者は」と語ったことに応えて、「心動かされ、進んで心からそうした」のです。

ところで、この捧げものについて考えさせられますのは、それらイスラエルの人々が主にささげた献納物は、彼らが自分たちの力や業で得た物ではなかったということです。神さまは民をエジプトから連れ出されるとき、こう約束されました。
「わたしは、この民にエジプト人の好意を得させるようにしよう。出国に際して、あなたたちは何も持たずに出ることはない。女は皆、隣近所や同居の女たちに金銀の装身具や外套を求め、それを自分の息子、娘の身に着けさせ、エジプトからの分捕り物としなさい」(出エジプト記3章21節以下)。
分捕り物というと、どうかとお思いになられるかも知れませんが。それはいわば強制労働を強いられてきたエジプトから、その分を報酬として受け取ったと言ってもいいでしょう。ともあれ、実にそれらはもとは神さまのお計らいによって与えられた物であったのですね。

ところが前々回読みましたようにモーセ不在のおり、イスラエルの人々は出エジプトという解放を神さまから与えられたにも拘わらず、その時の装身具の金を集めて、金の子牛を造り、これが自分たちの神だと祀りあげて像崇拝の罪を犯すのです。神さまはこのことに対して非情にお怒りになられ、彼らを滅ぼすと宣告なさるのですが。それに対してモーセは全存在をかけて神さまにイスラエルの人々を滅ぼさないでください、と執り成し訴えます。すると神さまはそのモーセの訴えをお聞きになり、思い直してくださるのですが、神さまはイスラエルの人々と共にもう行かないといわれます。
先々週読んだところですが。それは神であるわたしが一緒に行けば彼らの罪深さに目をつぶることができず彼らを滅ぼすことになるからだ、とモーセにおっしゃるのです。それに対してモーセは一歩も譲らず、「あなたが私たちと一緒に行ってくださるのでなければ、私たちは荒れ野に留まります。あなたが私たちと共に行ってくださることによって、私たちはあなたのご好意(慈しみ)を知ることができるのです」と訴えます。
神さまはそのモーセの訴えをお聞きになられ、再びモーセを介して深く悔いるイスラエルの民と契約を結ばれるのですね。

まあそのように、神さまのお計らいでせっかく与えられた金銀を神ならざる偶像に捧げ、あわや滅びを招くことになりかねなかったイスラエルの民でしたが。本日のところでは、その同じ金や銀、様々な装飾品を幕屋の建設ための献納物として携えてくるのですよね。それはまさに、この臨在の幕屋の建設のために神さまがずっと前から備えてくださっていたものだったということです。そして今度は、民全体の祝福となるために、それが本来の用い方をされていくのです。翻って、私たちも、自分に与えられている時間、知恵、技術、賜物、財産を何に用い、使うかということが本当に大切なことですよね。教会で、又家庭でも職場でもあらゆる場においても、私たちの「安息の主」に栄光を帰すことを祈り願いつつ、与えられているものを用いていきたいものです。

本日の箇所には、21節、22節、26節、29節に記されていますように、「心動かされて」、又「進んで心から」彼らはそれらすべてを行った、と記されています。
始めの「心動かされて」は、岩波訳聖書によれば、「彼の霊に駆られたすべての者たち」と直訳されるともございます。これはまさに人の業ではなく、神の霊による促し、聖霊のお働きを指しているのです。31節にも「彼に神の霊を満たし」とあり、又35節には「知恵の心を満たし」と、そのようにイスラエルの人々のうちに神の霊が臨み、神の霊に駆られたすべての人たちに喜びと感謝が溢れ出た。そうして各々が主の臨在の幕屋の建設に、「進んで心から」ささげ、携わっていったということであります。
イスラエルの人々はモーセの呼びかけに応えて、喜びをもってささげます。もう目に見えない神さまへの不安から、金の子牛を造り崇めた時とは全く違っていました。不安からではなく、共におられる神さまへの喜びからそうしたのですね。

私はお話の始めに、主の日は「主を喜び祝う日」、そこに「あなたたちの力の源がある」というネヘミヤ8章10節の御言葉を申しあげました。
今や、イエス・キリスト御自身が臨在の幕屋となって私たち主を信じて生きる者たちの間にお住みくださり、安息の主として共にいてくださいます。
私たちを取り巻く現実はそれぞれに不安や問題があるかも知れません。けれども、イエス・キリストによって見出された魂の喜びは、何ものにも代えがたい恵みですよね。
世のものはすべて移り変り、必ず終わりが来ます。変わらない主とその救いの御業をいつも仰ぎみていく者とされていきましょう。そしてさらに、主の臨在の幕屋として献堂されたこの大阪教会に、一人でも多くの方が足を運ばれ、そのかけがえのない一人の魂が主イエスとその福音によって救われるようにと、祈り求めてまいりましょう。その力となる霊の油をまず礼拝と祈祷会から頂いてまいりましょう。
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