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神の国の訪れとその拡がり

2012-02-19 18:53:57 | メッセージ
宣教 ルカ19章1~10節 

① 徴税人ザアカイ
今日の主人公のザアカイは徴税人でした。それもただの徴税人でなく、徴税人の頭としてローマ政府から請け負い、人頭税や土地・財産・輸出入品に課する税金を同胞であるユダヤ人たち等から取り立てていたのです。ザアカイ自身は定かでありませんが、この手の徴税人は、しばしば不正に高額な税を課し、それを巻きあげて懐に入れて金持ちになっていた者も中にはいたようです。そういったこともあり、徴税人たちは一般的なユダヤ人たちから厳しい反感と怒りを買っていました。特に敬虔なユダヤ人たちは彼らを「犯罪人」や「罪人」と見なし、蔑視していたのです。
同じルカ5章のところでも、当時徴税人であったレビにイエスさまが目を留められて、「わたしに従いなさい」とお招きになり、レビが「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」という記事があります。レビはその後、「自分の家でイエスさまのために盛大な宴会を催す」のですが、その祝宴の席に一緒につかれるイエスを見たファリサイ派の人々や律法学者たちは、「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人たちと一緒に飲んだり、食べたりするのか」と、つぶやいたとあります。彼らは忌み嫌われ罪人とみなされる人々と食卓を共にするイエスさまを理解できなかったのです。

さて、ザアカイですが。3節、「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることが出来なかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った」とあります。
背が低かったザアカイのために場所を開けてくれる人はいませんでした。周囲からの冷たい仕打ちを受けながらも、それならば、と走って先回りし、木登りとしては最適ないちじく桑の木によじ登ったのです。大の大人、社会的地位のある男が、子どものように木によじ登る姿は、かなりこっけいであったでしょう。しかし彼はなりふり構わず木に登り身をのり出すのです。
 それにいたしましてもザアカイはなぜ、そこまでしてイエスさまを見たいと思ったのでしょうか。
本日の箇所にはその理由について何も記されていませんが。
ザアカイはイエスさまについての噂をかねがね耳にしていたのではないでしょうか。
言葉と力とをもって神の国の訪れを告げるイエスという人が、同業者でレビを弟子として招かれ、彼と会食をして交わりを持たれたこと。ファリサイ派の人々や律法学者たちが、そのようなイエスさまを「徴税人や罪人の仲間」と言っていたこと。(ルカ7・34)
そういったニュースが何らかのかたちでザアカイの耳にも届き、イエスさまに対する興味や期待がふくらんでいたのでしょう。
このザアカイは徴税人の頭で、金持ちであったといわれています。彼にはきっと多くの部下や手下がいて地位や又、財産もそれなりにあったことでしょう。又、彼には家があったということですから、妻子や家族がいたのかも知れません。まあ人並み以上の生活が保証されていたともいえます。それにも拘わらず。彼自身の魂のうちに満たされるものがなかった。心に飢え渇きを覚えていたのです。おそらく、彼は人の弱みに付け込むような自分の仕事にどこか負い目をもちながら、そんな自分の姿に嫌気と孤独を感じていたのではないでしょうか。彼の心の闇はどれほど深かったことでしょう。いくらお金を蓄えても、地位があったとしても、その魂が満たされることはなかったのです。
そのような暗闇の中をさ迷っていたザアカイは、イエスさまが自分の町エリコに来られるということを耳にしたのであります。彼は「何とかイエスさまを見たい」という強い思いにかき立てられ、阻まれても走って先回りをしていちじく桑によじ登って、果たしてイエスさまとはどんな人なのか、とそこをお通りになるのを待ったのでしょう。

② 下に立つイエス
ところがです。5節「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊りたい』とザアカイに呼びかけられたのです。彼はこのイエスさまの呼びかけにどんなに驚いたことでしょう。
6節「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」とあります。
 どうしてイエスさまが自分の名前を知っておられるのか。それにこんなに大勢の人がいるのに、どうして自分の名前を呼ばれたのか。しかも徴税人である私の家に泊るとおっしゃる。原語に忠実に訳せば「泊ることになっている」と訳せます。それが神の必然であり、神のご計画であるということです。彼にとってそれはただ驚きでしかなかったでしょう。
神から遠く離れ歩んで来たであろう彼の人生に、神の人自らあゆみ寄り声をかけて下さった。ザアカイは木から「急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」のです。 
彼はイエスさまの「ぜひあなたの家に泊まりたい」という語りかけに、どんなに大きな喜びを見出したことでしょう。自分の家に客人が泊りに来る。それはおそらく、もう何年、いや何十年も聞くことのなかった親愛を表す言葉でありました。このイエスさまの呼びかけを耳にした時、彼の何をしても満たされなかった魂、心の飢え渇きが豊かに満たされ、潤されていきます。彼が「急いで木から降りて来て、喜んでイエスを迎えた」とありますが。その喜びと感動がほんとうによく表れていますね。
又、ここで、イエスさまが上を見上げて、「ザアカイ」と呼ばれたこの場面は実に印象的であります。主であられるイエスさまが、ザアカイの下に立って呼んでおられるのです。それは正に、主が人の下に立って、その存在をまるごと引き受けてくださるお方であることを象徴しています。理解することをアンダースタンドと言いますが。相手を理解するとは下に立つという本来の意味があるのです。主イエスは文字通りザアカイの下に立って、彼の存在を肯定なさったのです。よく私たちも相手を「理解した」などと言うことがあります。けれども本当の意味で人を理解するというのはなかなかできないことであります。
唯お一人神の御子であられるイエスさまが、犯罪人と共にさげすまれ、最も忌み嫌われる十字架によって処刑され、罪人の一人に数えられた。最も人の低くみに自ら立たれた。
このお方だけが、真に人の痛みや苦しみ、理解できない不条理をも理解することがおできになられる。ザアカイは主イエスに見出され、神との交わりの回復を頂くのです。

③ 救いの豊かさ
どれほど彼の心と魂が喜びと救いを得たか、想像がつくでしょうか。
彼のその喜びは、イエスさまを自分の家に迎えた時に、彼の口から表明されます。
8節「ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します』。
ザアカイに臨んだ救いは、決して彼個人のものに留まりません。彼は「自分の財産の半分(全部でないところが現実味がありますが)を貧しい人々に施し、また、だれかから何かだまし取っていたら(これは多分自分がというよりも部下や手下が不正な取り立てをしていたのなら)、それを四倍にして返します」と確約します。それは主に見出された喜びによって彼のうちから溢れ出る感謝の応答でありました。まさにイエスさまが「今日、救いがこの家を訪れた」とおっしゃったとおりであります。

イエスさまと出会う前のザアカイが頼りにしていたモノ、保証としていたモノは富や財産、又、地位であり、そして何よりも自分自身でありました。しかしイエスさまと出会い、イエスさまの愛と救いに与った時、彼は新しい世界に目が開かれるのです。正確に言えば、「神の国が訪れた」ことを知ったのであります。それは、彼の生きる基盤と生き方そのものがまさに変えられていく事でもありました。この神の国の訪れを体験した時、ザアカイは自分のために蓄えていた財産を、本来の意味で活かすために献げる者となります。そこにきっと痛みや犠牲が伴うことであったでしょうが。しかし彼のうちに溢れる喜びが圧倒していたのです。彼は神の国の訪れ・救い与った喜びを他者や隣人と共に分かち合う者となるのです。
それ以降のことについて何も記されていませんが。ザアカイがイエスさまの前で確約したことを実行した時、エリコの町の人々はどれほど驚いた事だったでしょう。きっとザアカイをして町の人々は主をほめたたえたことでありましょう。
イエスさまとの出会い、交わりは真に人をあるべき人として生かすのです。
私たち人の求める交わりは、しばしば自己本位であります。自分にとって良いもの、得なもの、利益となるもの、楽しませてくれるものを計算し、はじき出し、優先させようといたします。けれどもイエスさまとの出会いや交わりは、主の尊い愛と救いに与らせるのです。そしてその救いは、単に個人のうちに留まるものではなく、救い与った喜びを他者や隣人と分かち合うことができるところに、その素晴らしい豊かさがあります。
ルカ福音書は13章の「からし種」と「パン種」のイエスさまのたとえに代表されるように、「神の国」に重きをおきながら書かれています。神の国という主の救いの出来事は、決して個々人のうちに留まるものではなく、「からし種」や「パン種」のたとえのように、成長し、ふくらみ、主にある私たちの土の器を通し拡がっていくのです。そのところに主の救いの豊かさがあります。

④ 一つとなって祈り合うところに
今日は「神の国とその拡がり」という宣教題をつけさせて頂きました。
私たちの教会には昨年暮れから病や怪我で入院や自宅療養されておられる兄姉が後を絶たちませんが。今年の1月から礼拝後の報告時にその方がたのために牧師、役員、会衆一同心を合わせて祈るようにいたしました。又、誕生記念日の兄姉を牧師が特に覚えて祈るようにいたしました。そういった中、昨年末より骨折をされて入院中であられたO姉が先週でしたか退院されるという嬉しい知らせを先週I姉よりお聞きしました。ご高齢でこんなに早く退院できるようになるとは、と大変驚いたのでありますが、先日O姉より「退院することができました。ありがとうございました。ところで、息子さんは入院されたのですか」というお気づかいのお電話をも戴きました。ご自身入院中であるところを、私の息子のこと、教会のことをずっと覚え祈り続けてくださっていたことが、ほんとうにうれしかったです。
その、私の息子も先週水曜日に入院して手術の予定だったのですが。先週の主の日の愛さん昼食の時に、鼻の中にできていた大きなできものがとれて、翌日病院で念のため根のあったところを焼いて、もう入院も全身麻酔で手術する必要もなく、癒されました。
今、私たちの教会は、一つになって祈り合うというイエスさまによってもたらされた御恵を通して、「神の国の訪れとその拡がり」を目の当たりにし、その体験をさせて戴いているのですね。そこからまた主の御業に感謝をささげていくとき、主はさらにまた豊かな御業を起こしてくださることでしょう。
主は生きておられます。主は私たちの祈りを聞き、答えてくださるのです。どのような困難な問題があっても、教会が一つになって祈るなら、主は豊かに働いてくださるのです。その主への確信と期待をもって、ますます主にあって喜びを共にしていきたいものですね。主の御名をますますほめたたえる者となり、主の愛によって共に建てあげられていく者とされてまいりましょう。
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