日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

罪の誘惑~私の蛇

2011-05-22 07:05:46 | メッセージ
宣教 創世記3章1~13節 

2章のエデンの園において、神が「人が独りでいるのは良くない。彼らに合う助ける者を造ろう」と男と女をふさわしい助ける者として造られたところを読みました。神と人との関係に加え、人と人との関係が創造されたのです。本日は創世記3章から「罪の誘惑」と題して、み言葉を聞いていきたいと思いますが。その神と人、人と人との関係に一体何が起こったのでしょうか?
 
この個所を読みますと、女を罪へといざなったのは蛇であったとあります。蛇は自在に体の形を変えて動き回る能力をもち、生命力の強い生き物です。それで古代から蛇はよく信仰崇拝の対象となっていました。蛇は脱皮をしますが。それをよみがえりになぞらえて、強く賢いだけでなく、不死の生き物として崇められてもきました。又世界各地には蛇を食べる習慣があり、絶大な力のもち主にあやかるという意味があるそうです。蛇革のバックや財布やアクセサリーは単なるファッションではなく、蛇のもつ力にあやかるという崇拝行為を表しているという事らしいのです。蛇がすべての生き物のうちで最も賢かったとありますが。まあ蛇がどういった意味で賢かったのかは分かりませんが。ともかくそれが女であるエバに話しかけます。

4節で蛇は女に「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」と誘いました。それは2章16節17節「主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると死んでしまう」」との神のみ言葉に対する挑戦であります。

この時のエデンには死もなく、神の完全な守りと平安が満ちあふれていたことでしょう。そこには食べて余りある食糧もあり、人として何不自由なく生きる世界があったのです。けれども私は多少ひねくれた見方でこのエデンにおかれた彼らのことを考えてみました。
人は何もかも整った環境を与えられ、受けるばかりの中に置かれてしまいますと、その尊い恩恵が恵みであることを忘れ、気づかなくなってしまうということです。そうして恵みに満ちた日々は平凡で飽きたりた毎日となり、感謝なき心はやがて不満をつのらせていきます。そして遂に魔が差すというようなことが起こり得るのです。こうして人は神が「これを食べたら死んでしまう」とまで命じられたものに手を伸ばすことになってしまうのです。そのような事を思いますと、人は本当に弱く、もろいものだと言わざるを得ません。

ところで祈祷会の時に、この蛇とは一体何ものか?ということが話題にのぼりました。
蛇は神の造られた生き物にすぎません。これは一つの象徴です。それをサタンという人もいるでしょう。まあキリスト教会の中には、自分と対立し、敵対する者を平気でサタン呼ばわりして、裁き合い、傷つけたりして教会内に分裂が生じることも起こっていますが。
蛇は人ではありません。蛇でしかないのです。しかしこの「蛇とは何か」ということを私たちが問うことは大事なことです。それは先ほど申しましたように、神と人との特別な関係を妬み、その仲を引き裂こうとする悪意です。又、神の思いではなく自我の思いを優先させようとする高慢です。それは神と人との関係を壊そうとする存在です。祈祷会の聖書の学びで示されたのは、この蛇がアダムとエバの思考のうちに入り込んだ、正確にいえば彼らも蛇を快く受け入れたということでありま。そのような蛇に象徴される力、悪意や高慢は人間のうちに働きかけ、住みつき働くということであります。

さて、アダムは神の「取って食べるなと命じた木から食べたのか」との問いかけに対してこう答えます。12節「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」。自分が悪かったということよりも、女が勧めたのでと弁解し、女に責任を転嫁します。何だか汚職疑惑の政治家が「秘書がやりました、私は知りません」といっているのとおんなじような感じですが。そして女も又、13節「蛇がだましたので」と、弁解し責任逃れをしています。
これはどうでしょうか、私たちのうちにも彼らと同様の思いが潜んでいるのではないでしょうか。素直に犯した過ちや失敗を認めるのは損をする愚かなことだとするような風潮が当然のように現代の社会にあるわけですが。一緒に痛みや重荷を負い合うのではなく、何とか自分だけは傷つかないで、守ろうとする思いや自己を正当化しようとする感情が働いたということであります。聖書はよく人の姿、本質をあぶり出しています。

このアダムは、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が・・云々」と弁明しながら、そもそもの原因は神さまあなたにあると言い訳しているのです。神と人との信頼関係が損なわれ、人と人の関係も損なわれてしまう。そこで人は本来与えられた祝福を見失ってしまうのです。アダムにとって神は祝福を与えて下さるお方でした。エバはその祝福を分かち合い、喜び合う存在として神が与えて下さったパートナーです。逆に裁き合い、責任をなすり合うのなら、本来の祝福は遠ざかってしまいます。

最後に、彼らが木の実を食べると「二人の目が開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」とあります。
2章のところでは二人は裸であったわけで、お互い裸であることは見えていた事になります。では、この二人の目が開いたとは何を言っているのでしょうか。
それは互いの心のうちに「恥ずかしい」という意識が生じたということです。それは罪の自覚が生じたということでもあります。これは確かに賢くなったとも言えるかも知れませんが、問題は罪の自覚が生じたところに不義を犯す思いも生じてしまったということです。
赤ちゃんには羞恥心はありません。二人は神の御心から逸れてしまうまでは、共に無垢な存在であったといえましょう。すべて神のみ心のうちに生きるところに喜びと楽しみが伴ったことでしょう。エデンの園の原型がここにあります。
ところが罪の自覚が生じ、自分の中に義人とはとても言い得ない部分があることが分かって、恥ずかしくなり、うしろめたくなって、いちじくの葉なんかでとりつくろい、神のみ顔を避けて、身を隠してしまうのです。神と人、人と人の関係が損なわれ、歪んでしまったからです。それが初めの人アダムとエバから続く人の姿であります。

それではもう、その損なわれた関係はもはや元に戻らないのか、修復不可能なのでしょうか?私たちはもう二度とエデンの園に帰れないのでしょうか?新約聖書はその神と人の関係のゆがみの修復、関係の回復は、神の独り子・イエス・キリストを通して与えられたと記されております。先ほどT兄より転入会の証しをお聞きしましたが。その中に放蕩息子のお話が出てきましたけど。放蕩の限りを尽くしていわばどん底に落ちてしまった時、弟はこう告白しました。「父の家には、あんなに食べ物がある」。父の家。それは私たちに「エデンの園」を連想させます。人はもはや自力で喜びと楽しみの楽園・エデンに戻ることはできませんが、主イエスによって神のもとへ、父の家へと立ち帰っていく道が備えられたのであります。問題の解決は主なる神のもとから逃れること、身を隠すことではありません。罪のあるまま、足らざるまま、そのままの姿で主なる神さまと「向き合うところ」にあります。
人として生きる上で罪を犯さずにいることはある意味不可能なことです。だからこそ、罪人であることを認め、十字架の贖いの主イエスのもとにあって赦されて生きる喜びと平安が必要なのです。十字架と復活の主イエスが、私たちの真の助け主、真の友として、私たちの孤独や不安を自らのこととして担われ、神さまとの和解の道、天の平安、永遠の命を授けてくださっておられるのです。
その昔、神はアダムとエバに皮の衣を作って着せられエデンの園を追放されました。
しかし今や信仰によって罪を覆う義の衣としてイエス・キリストを着せられ、父の家へと招き入れてくださるのです。エデンの園・喜びと楽しみのパラダイスに通じる道。この救いの道を共にあゆんでまいりましょう。今週もこのみ言葉から頂く祝福を携えて、人と人の間に遣わされてまいりましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする