たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

将来のリスク <大阪・城東区役所 撤去求め提訴へ 土地一部所有者「賃料、勝手に倍に」・・・>を読んで

2017-10-09 | リスクと対応の多様性

171009 将来のリスク <大阪・城東区役所撤去求め提訴へ 土地一部所有者「賃料、勝手に倍に」・・・>を読んで

 

森友・加計事件がうやむやのまま国会冒頭解散、選挙ということで、いまだ批判の声は上がっているものの、総選挙の争点全体からすると問題がベールに包まれてきたように思われます。

 

今日は体育の日でしたか、高野三山をもう一度と思いつつ、まだ体力が十分でないので、散歩気分で上れると近くの三石山を登りました。とんでもない、登りにつぐ登りで息絶え絶えでした。やはり運動不足と体力がもどっていないためでしょう。登山者もわずか3組でした。倒木もかなり多く、蜘蛛の巣も張っていて、それ以上に湿気がむんむんで、これは困ったと思いました。散歩気分ですから、飲み物も携帯せず、万が一熱中症にでもなったらどうしようと、とくに抑制気味でとぼとぼと歩きました。

 

ちょうど山頂に2組いて食事していました。私が2時間かかったといったら、ずいぶんゆっくり登ったんですねと言われてしまいました。ま、熱中症で倒れるよりはましと思ったのです。帰りは、下る一方で、さほど膝の疲れもなかったので、快適に降りていき、30分あまりで降りました。このあたりは若い頃に近くなった?なんて油断すると転んで骨折しそうなところもあり、油断大敵でした。

 

そんなこんなで疲れ果てて帰ってきて、弁護士会から依頼された「私の薦める一冊」の原稿を書き上げました。安直に、昨日毎日広告にでていた五木寛之著「孤独死のすすめ」がいいと思い本屋に直行したのですが、田舎の小さな本屋さん(以前しょっちゅう通っていた東京駅前の丸善や神田の各書店と比べてはいけませんが)には案の定、ありませんでした。ただ、「玄冬の門」という昨年出版された本があり、同じような趣旨の内容でしたので、これでいいかといい加減な選択でした。でもその内容は驚くほど私がこれまで考えてきたことと一致し、一気に読み上げました。昨日のことです。

 

そして今日はその原稿の下書きを書いたのです。1200字という字数制限ですが、1500字以上と当然のように超えてしまいました。まだ〆切には余裕があるので、後日校正なりしようと一段落。

 

さて本日のお題はと考えたのですが、昨夜ちらっと見た「盗伐」(討伐ではありません)問題もおもしろいとは思いつつ、最後の数分しか見ていないので、別の機会にしようと思います。ただ、盗伐は森林法違反の森林窃盗です。昔は価値も高かったので、森林窃盗も多かったようで、パトロールもしっかりしていたと思いますが、昨今は低価格の影響もあって放置され、荒廃する一方ですから、盗伐されてもなかなか発見されないのかもしれません。他方で、悪質なメンバーだと、境界を間違ったなどと、過失を主張して逃れようとするから困ったものです。

 

この話は、また別の機会にして、そろそろ見出しの本題に入ります。森友のときも不動産鑑定が問題になりましたが、今回も不動産鑑定結果が問題ですね。ただ、新聞記事からだけの判断ですが、基本的に契約書が将来リスクを勘定に入れていない、お役所頼みのような印象を受けます。

 

私も最近、ある貸し地の貸主が、借主が所有する土地建物のうち、建物を買取り借地契約を取り交わすのですが、地代を双方チャラにすることで契約書を取り交わしたのです。それぞれについて不動産鑑定をすれば、異なる評価になった可能性が高かったと思いますが、そういう交渉や鑑定費用に金や時間をかけるより、早期の土地利用を優先して、確定額で合意したのです。その分、当然、リスクが大きく減少しますね。

 

他方で、見出しの記事では、大阪市城東区役所と城東鶴見工業会が<10年、工業会が事務所としていた土地を貸す代わりに、市が新庁舎に工業会を入居させるとの合意書を交わした。>のですが、肝心の工業会側の貸し地の地代と、区役所側のテナント賃料とについては曖昧になっています。

 

<工業会によると、市が払う借地料と、工業会が払う庁舎の賃料は不動産鑑定で算定するものの、「近似することが望ましい」との文言が盛り込まれ、実際は相殺する前提だったという。>

 

工業会は、<「近似することが望ましい」との文言>が合意事項であったとするようですが、契約上の拘束力があるように記載されているのか疑問です。不動産鑑定は本来、客観的に算定されるわけで、たしかに森友学園での財務省の鑑定はいい加減のような評価をされてもやむをえないと思います。しかしそれは財務省側が行ったもので、本来の不動産鑑定ではありません。

 

たしかに不動産鑑定は、3人の鑑定士が行えば3通りの結果が出るとも言われていますが、それでも客観的な裏付けや、鑑定基準に基づく合理的な評価が行われる必要があります。最初から、「近時にすることが望ましい」と鑑定結果について鑑定士に対して偽装を依頼するようなことが認められるとは思えません。

 

むろん財務省のように、航空法上の規制がある地域だとかの便法で、自分たちで独自の評価をすることも、区役所の場合、まったくないとはいいませんが、よほどのことがない限り、会計監査で認められないと思うのです。

 

たしかに工業会にしてみれば、自分の所有地がないと庁舎が建築できなかったわけですから、敷地の10%に過ぎないとしても、特別の配慮があっても契約上は合理性が認められることもあると思うのです。区役所の行為だから公平でなければならないとしても、とくにその用地部分が必要だとすると、特別の配慮はあっても認められる場合があるように思うのです。

 

ただ将来の建築物の評価との関係で、限度があってしかるべきでしょう。当初の設計段階の見積もりから費用が嵩むことが一般で、それが予定の2倍になっても、元の賃料予測を前提に、地代価格と近似にしないといけないような制限は有効でないと思うのです。

 

その意味で、当初の合意の段階で、あいまいな「近似」条項と異なる規定で将来のリスクを見込んで賃料設定をすべきであったと思うのです。一定の限度額を設け、それ以上の賃料になるような場合は貸し地として提供できないといった条項も必要でしょう。

 

はたして建築費を抑制できるような合意が可能かは、具体的な条項の定め方、その後の建築費の増大の事情との関係で工夫が必要でしょう。

 

そろそろ1時間が過ぎました。この辺で今日はおしまい。


自意識と混迷 <時代の風 自意識の進化=長谷川眞理子>と<東芝半導体売却 「日米韓連合」と契約 迷走の7カ月検証>を読みながら

2017-10-08 | 企業運営のあり方

171008 自意識と混迷 <時代の風自意識の進化=長谷川眞理子>と<東芝半導体売却

「日米韓連合」と契約 迷走の7カ月検証>を読みながら

 

長谷川眞理子氏は前者の記事で<私たちは、「自分」という存在を認識している。周囲の状況に応じて「自分」の行動を変えることは、どんな動物でも行うが、私たちは、そうしている「自分」を自分で認識している。それは、自意識、自己認知などと呼ばれる。>

 

この自分について、動物を対象に鑑のテストの話をされ、この鏡に映る自分を認識できることが自己認知の有無を判断する決め手の一つだが、それだけでは決まらないとニホンザルの例を引いています。

 

ではその鏡ですが、<私たちが現在使っているきれいなガラスの鏡が発明されたのは14世紀ごろだ。ベネチアングラスで有名なイタリア・ムラーノのガラス職人が発明したという話である。>ということはあのの画像と信じられてきた絵について、ご本人が見てもそうかなと思ったかもしれませんね。

 

わが国では古来の鏡、銅鏡は祀りのために使われたものでしょうか。銅鏡で自分の顔形を確認したり、美醜を話題にしたり繕ったりということはなかったのでしょうかね。

 

ところで長谷川氏はある著書を取り上げて自己を認識することから外界、自己の内面、sあらには人権意識にまで高まっていくというのを引用しています。

 

<スティーブン・ジョンソン著の「世界をつくった6つの革命の物語」(朝日新聞出版)では、ガラスの鏡の発明が、ルネサンス以降の絵画に「自画像」というジャンルを生み出し、やがて、自己の内面を語る小説という文学の誕生を促し、やがてはそれが個人の人権意識の確立にもつながっていく歴史が描かれている。個別の技術が、誰も思いもよらなかった社会の転換を生み出すというのは、こういうことだろう。技術は、ある一つの側面で生活を便利にするばかりでなく、人間が外界をどのように認識するかにも影響を与える。>

 

この新しい鏡という技術が自己認識を発展させたことから、次のような新たな技術により新たな問題が起こったかのような展開でしょうか。

 

<高度なレベルの自意識を持つ私たち人間は、現代のあらゆる科学技術を駆使して、「自分」だけに焦点を当てるようになってはいないだろうか? ペットボトルからスマートフォンまで、「個人」の自由と好みを満足させ、自分の興味にふけり、自分の感じたことをつぶやき、自撮りの画像を配信し、人々の注意を自分に向けさせようとする。「自己チュー」の横行である。>

 

この長谷川氏の立論には飛躍があるようで、どうもまだ理解できないでいます。鏡はたしかに自己認識になんらかの役割を果たしたかもしれません。しかしその機能はほんの一面ではないでしょうか。別に視覚障害の方を出すまでもなく、自分の顔形を鏡で見たからといって、自己認識が高まる人はあまりいないのではと思うのです(美意識の繊細な人は高まるかもしれませんし、芸術的なセンスのある方にも特段の影響があったかもしれませんが)。鏡は自己認識や外界との関係、とりわけ自己の内面への意識化にはあまり関係ないように思うのです。

 

さらに突然、<高度なレベルの自意識を持つ私たち人間は、現代のあらゆる科学技術を駆使して、「自分」だけに焦点を当てるようになってはいないだろうか? >と指摘する前提が、ペットボトルやスマホなどだと、ちょっとといいたくなります。むろんいずれも個人の要求に応えた部分と企業による顧客対応力や差別化の展開が生み出したものであることは否定しません。でもその商品や利用の仕方について、<「自己チュー」の横行である。>と切り捨てるのはいかがでしょう。

 

さらには<しかし、子どもが4、5歳になると他者の視点からものが見られるようになるのと同様、この自己チュー技術の社会も、そのうち他者や共同体全体への配慮を持つようになるのかもしれない。>これではまるで社会的な努力、それに向けた個々の鋭意で持続的な試みがまったく欠落しているようにさえ思えます。

 

私も四半世紀前には、ペットボトルの横行やポイ捨てなどについて、批判的な文書を書いたことがあります。しかし、大量生産・大量消費、大量破壊を踏まえて、当時からさまざまな社会的配慮が意識化し、たとえばリオサミットに結集された思い、サステナビリティという共通意識が全世界で芽生えていったように思うのです。そしてこれは個人の選択というより企業戦略、さらに資本主義の構造的欠陥という意味合いも議論されたように思うのです。

 

自己認識は、個人の問題として考えれば、生まれてから死ぬまで、適切な教育環境・規範環境を整備することにより、自己の欲望・欲求を一定程度抑制できるのではないかと思うのです。それは「見えざる手」によるのではなく、社会的なシステムが必要だと言うことです。

 

ところで話はがらと変わり、東芝問題です。東芝の東芝メモリ売却をめぐるこの7ヶ月の迷走は、とても自立した企業体とは思えない状況だったと思います。

 

この点、上記記事は、トップの綱川社長がすでに決断能力を欠いていたことを示しています。経産省の介入、銀行団からの足かせ、WDによる強固な反対活動、それに対し、鴻海や日米韓連合との駆け引き、それに加えて当事者である東芝メモリ社長の独自スタンスと、混沌した状況にあったと思います。

 

まさにそれは東芝本体が統一体としての企業統治、自己認識力を備えていなかったことの証左でしょう。しかもそれは東芝メモリ売却という現在の事柄にとどまらず、米原発企業WHの買収時、その後の経営管理自体ができていなかったことが、今日の問題の根源にあると言わざるを得ないのでしょう。

 

取締役会の合理的な意思決定(客観性やコンプライアンスを確保するため)を担保するため、社外取締役を早い時期から整えてきたわけですが、そういった形式だけでは、鏡の前のスーツ姿を飾るだけに過ぎないおそれがあります。そのことは2年前の不正会計問題が発覚したときの処理にも現れています。第三者委員会という名称の組織を作って調査させても、はじめから原発事業を全面的に対象にしていないなど、第三者性を欠落するようなやり方では、自己の問題を客観視することができないのは当然です。

 

その結果昨年暮れのWHの破産状態の発覚が遅れたともいえます。つまりは活用できる社会的な仕組み、人材がいてもトップにその意識がなければ、企業に根付いた膿をはき出すことは困難でしょう。それは鏡や先端技術ではないと思います。

 

最終的には意思決定を委ねられた、それぞれの段階の人の意識に委ねられているでしょう。いまの東芝は、残念ながら、人間の60兆の細胞を統合するだけの能力を欠いた状態で、多様に事業分化した総合企業を統御できないまま、呉越同舟でどこにいくかわからない状態ではないでしょうか。東芝の製品を使ってきた人、東芝の内外・末端で働く多くの労働者、その人たちのことが果たして考えられているのでしょうか。

 

鏡からすると、驚異的な先端的科学技術を備えた半導体を扱ってきた企業も、その統御能力がないと、危うい状態になる大いなる警鐘でしょうか。

 

今日はこの辺でおしまい。

 

 


日本人の法意識 <設計契約に関する改正民法のポイントとトラブル防止策>を読みながら

2017-10-07 | 建築が抱える問題

171007 日本人の法意識 <設計契約に関する改正民法のポイントとトラブル防止策>を読みながら

 

季節の変わり目でしょうか、どうも体が順応できないでいるようです。あるいは年とともに免疫機能が衰えてきたからでしょうか。ま、いろいろあるかと思いますが、少し体が重いので、今日のブログも簡単に済まそうかと思います。このあたりのいい加減さは千日ブログといってもただ継続であっぷあっぷの現状を示しています。

 

さて今日のテーマも体が重いせいかあまり思いつかず、ざっと見ていたら、懐かしい顔にであったので、関心のあるテーマではないのですが、取り上げることにしました。

 

日経アーキテクチャの本日の記事では<建築版「改正民法」万全準備セミナー>を紹介しつつ、日置雅晴弁護士にインタビューした<設計契約に関する改正民法のポイントとトラブル防止策>を掲載しています。

 

日置さんとは東京・横浜時代、長く一緒に仕事をやった仲です。そうそう彼が長くPCやメール(当時は別の呼称でしたか)をやっていて、たしか四半世紀前勧められてPC30万円以上で買ったのはいいのですが、ms-dos時代で合間に学んでもまったく歯が立たず、ほとんど使わないまま没になったのを思い出しました。

 

ともかく彼とは建築関係の訴訟をどのくらいやったでしょうか、今となってはいい思い出です。日弁連のシンポジウムでもいろいろ手伝ってもらいました。ただ、彼は学究的な側面もあったので、ある時期から大学で教えることが多くなったようです。

 

ともかく彼が設計契約に関して、今般の民法改正を紹介していますので、利用させてもらいます。私自身、あまり民法改正に関心を抱いていないものの、仕事上それでは困るので、こういう機会に少し勉強させてもらいます。

 

まず、<委任契約の場合に設計者が知っておきたい改正民法の1つは、委任契約を途中で解除したときに受任者(設計者)が委任者(建て主)に報酬を請求できる条件を緩くしたことだ。>具体的には<現行民法は、不可抗力により解除した場合に限っていたが、改正民法では、単に契約を途中解除した場合でも受任者は報酬を請求できるようにした。請求できる設計報酬についても、既に行った履行の割合や建て主が利益を受ける割合に応じると定めた。>

 

たしかに委任の規定は次のようになっています。

<(受任者の報酬)

第六百四十八条 受任者は、特約がなければ、委任者に対して報酬を請求することができない。

2 受任者は、報酬を受けるべき場合には、委任事務を履行した後でなければ、これを請求することができない。ただし、期間によって報酬を定めたときは、第六百二十四条第二項の規定を準用する。

3 委任が受任者の責めに帰することができない事由によって履行の中途で終了したときは、受任者は、既にした履行の割合に応じて報酬を請求することができる。>

 

明治時代の民法を引き継いでいますから、委任では無報酬を前提としていますが、実際、弁護士との委任契約と同様、設計士のそれも、報酬規定を設けて、書面で個別条件を定めているのが普通でしょうね。

 

ただ、建築関係でいえば、設計士の委任契約書も、続く工事業者との請負契約書も、<建築設計・監理業務委託契約約款>、<建設工事標準請負契約約款>を添付して補う一方、内容はかなり大ざっぱ印象を受けます。

 

ま、それで問題がなければいいのですが、書面化が当事者間できちんと意識化されていないのが日本の現状ではないかと思うのです。とりわけ設計や監理、工事はいずれも長期間におよび実際の交渉経過、さらに工事実施の中で、相当回数変更が不可欠ですが、きちんと変更条件等について詰められていなかったり、文書化されていないことが少なくないため、信頼関係が崩れると、途端に一つ一つが問題になって、収拾がとれなくなることもあります。裁判で争っても容易に解決することができないのもこういったことが一因ではないかと思うのです。

 

その意味では、民法改正の各条項も大事ですが、具体の契約書やその進行過程での合意内容の文書化をするように心がけることが、紛争回避・その縮小に役立つように思うのです。IT化が進んでいるのですから、スマートフォンやIPADなどで即座にタイプして、またサインをもらうことでも十分有効に働くのですから、施工技術のIoTとかAI化も大事ですが、関係当事者の合意や変更について、よりデジタル化の活用を望みたいものです。

 

日置さんのアドバイスも実際的で興味深いですね。<盛り込みたい1つは、途中で解除する方法と精算方法だ。もめる要因になりがちなので、できる限り具体的に決めておくことを勧める。設計者と建て主が設計内容をどのように確認、合意するかという手続き方法も盛り込みたい。例えば、メールで伝えた用件は何日以内に返答がない場合、合意とみなすなどだ。設計内容でもめた際に、契約に適合しているかどうか判断するのに役立つ。>

 

その他にいろいろ指摘しているので興味のある方上記ウェブにアクセスしてください。

 

少し疲れていますので、今日はこの辺でおしまい。


納税義務のあり方 <論点ふるさと納税の実像>を読んで

2017-10-06 | 行政(国・地方)

171006 納税義務のあり方 <論点ふるさと納税の実像>を読んで

 

今回の解散では、安倍首相が掲げた大義の一つが消費税の使途の変更でした。税金の使途が直接、選挙の重要な争点になったことがこれまであったのでしょうか。なんらかの意味で徒然ながら使途が問題になってきたことは確かですが、増税が決まっている消費税という特定の税金の使途変更を争点にするというのはきわめて希ではないでしょうか。といってもとってつけた大義だったようにもみえ、すでにこの争点はぼんやりしつつあるようです。

 

私たち普通の国民は納税義務を負っていますが、他方で、税金の課税体系やその使途をどう決めるかについては、隔絶された状態にあるように思えます。むろん衆参の選挙での一票はその選択権の行使でしょうけど、具体的な課税内容やその使途に影響を与える仕組みにはなっていません。不平不満があっても関心が薄れてしまうと思うのです。

 

さて見出しの記事は毎日朝刊です。2008年度に、故郷への応援、感謝の趣旨から始まったというふるさと納税、過剰な返礼品競争で、いま見直しの声が高まり、過渡期にあるようです。「取られる」としか思えなかった納税に、自分から納めよう、選択できる納税に近づいてきたかのようにも見えるこの制度、この記事から現状を探ってみたいと思います。

 

3つの異なる立場から議論されています。一つは<返礼品競争から「降りた」 藤本正人・埼玉県所沢市長>です。

 

その考えは明快です。<埼玉県所沢市は今年4月から、ふるさと納税に対する返礼品の提供をやめた。返礼品競争のため、住民は(納税者というより)モノ選びに必死な消費者と化し、各自治体は他の自治体に納められるべき税をモノで釣って、奪おうと躍起だ。だが、「ふるさとを応援しよう」という本来の趣旨はどこへ行ったのか。人の欲に火をつけて納税させる競争から「降りる」ことでしか、制度のあり方に異議を唱える方法はないと考えた。>

 

たしかに過剰な返礼品競争をみていると、一理あると思います。制度の本来の趣旨を応援、感謝といった視点からみれば返礼品競争は行き過ぎでしょうし、想定外でしょう。だからとって提供をストップしか選択がないかはどうでしょう。

 

所沢市はその選択の積極的な根拠について<納税とは何か。国も地方も市民も、もう一度考えなければいけない。子供が市内の学校に通い、親は市内のデイサービスを利用する。牛肉や海産物を求めて全員がふるさと納税をしたら、自分が住むまちの福祉や教育はどうなるのか。誰かがそのために税金を払っていることを忘れないでほしい。>と必要な行政需要に対応できない問題を指摘しています。

 

<総務省が「返礼品は寄付額の3割以内に」と通知を出した>点もそれでは問題の解決につながらないとして、<それでも返礼品競争を続けるなら、ふるさと納税の税額控除対象を国税部分に限るべきだ。>と地方税を少なくとも聖域にすべきというのです。

 

<返礼品をなくせば「損得」によるふるさと納税がなくなり、規模は縮小するだろう。だが、出身地や被災地を応援したい、という国民の純粋な気持ちは残るはずだ。>と制度の本来の趣旨に立ち戻れというのでしょう、その意味では制度本来の趣旨に合致する選択かもしれません。

 

たしかに返礼品目当てにふるさと納税先を選択している人もいるでしょう。少なくいことも確かでしょう。でもその前提には、自分の住む自治体のサービスがきちんと自分たちの需要に応えているのか理解できていないことが基本にあるのではないでしょうか。つまりは自治体側で行政サービスを納税に見合った内容を提供していると住民には理解されていないように思うのです。いや、実際には必死でやっていますというのかもしれませんが、少なくとも納税者にはそう理解できるような情報提供がなされていないですし、実感もないと思うのです。

 

だからといって、返礼品の内容次第でふるさと納税を決めるという選択に合理性があるは思いません。ただ、提供サービスによっては、望ましい自治体の使途になりうるように思いますし、はじめて自分たちで納税の選択権を行使できる道を開くことができるようにも思うのです。

 

その点、<地方創生へ「感謝券」続行も 黒岩信忠・群馬県草津町長>では、<群馬県草津町は草津温泉で「食べている」観光業中心の町だ。2014年度から、ふるさと納税の返礼品に「くさつ温泉感謝券」を導入した。例えば3万円の寄付で1万5000円分。町内のホテル・旅館や一部のみやげ物店、飲食店などで使える「地域限定の通貨券」だ。他の多くの市町村の農海産物などを中心にふるさと納税の返礼品が人気を集めているが、山奥でこれと言った特産品のない我が町にはそんな“武器”はない。>

 

感謝券はある種のローカルマネーですね。<ふるさと納税制度の原点は「地方創生」。お金のない地方の自治体が潤い、住民が少しでも豊かに暮らしていくようにすることが趣旨だ。家電や宝飾品のような返礼品は資産価値があるから、もらった人が転売し、どこへでも流通してしまう恐れがあるので制度の趣旨に反するが、感謝券は町内だけで消費されるので他に持ち出されることはない。こんなに理にかなった制度の利用方法はないのではないか。私は地方創生の先頭に立っていると自負している。>

 

観光地ならではの方式でしょうか。感謝券の場合もらっても草津に行って買い物などをしないと活用できないわけですから、地域振興により直接的につながっているでしょう。むろん地元特産の品物を提供することも同じだというかもしれませんが、やはり感謝券をもって草津に訪れるというのは観光地としては一つの納税のあり方として結構おもしろいと思うのです。

 

ただこのふるさと納税制度は、自治体の創意工夫を生み出す、納税意欲をかき立てる努力が問われていると思うのです。それがより行政本来のサービスという公共性に近づくものであれば協賛が広まるのではないでしょうか。

 

3番目の<地域の課題解決へ知恵 須永珠代・「トラストバンク」代表取締役>は、そういった将来性のある提案をしているように思えます。

 

このトラストバンクでは<ふるさと納税を紹介、仲介する総合サイト「ふるさとチョイス」を始めて5年。現在、全国の約7割に当たる1270を超える自治体に利用していただいている。>とのこと。

 

<ここまで市場が成長した理由には、自治体が魅力的な返礼品を競い合ったことが挙げられるが、その一方で制度の本来の狙いである「地域の課題解決」のための寄付金の用途にもいろいろな知恵が出てきている。北海道上士幌町は人口5000人弱の町だが、寄付金は子育て支援に集中するという大方針を打ち出した。16年度から10年間、町内の認定こども園を無料にした。すると関東・関西圏などから移住する若い家族が増え、道内有数の人口増自治体となった。>

 

寄付金の用途を明確にして今求められているサービスに提供することを打ち出す、行政サービスの特定化でしょうか。<災害による緊急寄付><経済的理由で食生活に影響が出る恐れのある家庭の子どもたちに食品を配送する「こども宅食」>など、次々と寄付金用途の個別化、差別化と実需に対応するようになってきたようです。

 

ただ、<ふるさと納税の行き過ぎた返礼品への対応として総務省は4月、大臣名で「返礼品の送付等について」という通知を出した。「一部の地方団体において趣旨に反するような返礼品が送付されている状況が続けば、制度全体に対する国民の信頼を損なう」と指摘。(1)商品券や電子マネーなど(2)資産性が高い貴金属や時計など(3)高額商品(4)返礼割合が高いもの--を返礼品にしないように求めた。返礼割合は「良識の範囲」として3割を上限としている。>と制限を設けました。

 

当然かもしれません。他方で、各自治体は自らの行政サービスを見直して、納税者の期待にどう答えるかを、常に真剣に検討して提供していくことが、このふるさと納税制度を契機に納税意識をもった多くの住民の期待に応えることになるのではと思うのです。

 

これからの自治体による行政サービスの進化に期待して今日はこの辺でおしまいです。


水と物質の循環 <シーカヤックで和歌山・湯浅湾を拠点に活動する平田毅氏の視点から少し考える>

2017-10-05 | 心のやすらぎ・豊かさ

171005 水と物質の循環 <シーカヤックで和歌山・湯浅湾を拠点に活動する平田毅氏の視点から少し考える>

 

昨夜、BS日テレの「深層NEWS」に五木寛之氏と僧侶で宗教学者の釈徹宗氏が登場して、「多死社会」の老い・病・死をテーマに語り合いというか、むしろ五木流の緩やかで含みがある生き方論を展開されました。孤独死が問題にされる中、孤独こそ大切と強調されました。世の中のさまざまな情報から、むろん人間関係からも一端遮断された孤立した中でこそ、自分という存在と対峙でき、生死も、自分自身も考えることができるのではないかと私自身思っていますが、そのような趣旨の発言をされていたかと思うのです。

 

五木氏の作品は、親鸞や蓮如などの宗教的色彩の小説などの書物しか読んだことがないので、五木氏が人気を博した著名な小説はまったくといっていいほど知りません。でもラジオ深夜便での語りも長いこと聞いていましたし、五木氏の思想なり考えの影響も少しはうけているかもしれません。

 

ここのところ生死の話が多かったような気がするので、今日の話題はシーカヤックにしようかと思います。残念ながら毎日和歌山版に掲載された平田氏による記事・写真は、今のところウェブにアップされていないので、記事を参考に、私の思いを語ってみようかと思うのです。

 

平田氏は世界各地をカヤックで旅を重ねてきた海洋冒険家です。以下は彼の主催するアイランドストリームのウェブ情報から入手したものです。

 

平田氏は<身体一つで地球の鼓動を感じる「プラネット感覚」>の旅をしてきたのです。それは海岸線をシーカヤックでパドリングしていると、ダイナミックな岩肌、洞窟、さまざまな岩がむき出しになっていて体感できるからでしょう。

 

そこには、いくらリアス式海岸やフィヨルド渓谷の景観美が目の前にあっても、観光船などでは絶対に味わえないものがあるのです。水面からはトビウオどころかさまざまな魚が手に取れるところにあるだけでなく、体にぶつかってもくるのです。水面下も素潜りするような感じで、岩礁も魚介類、も類などが一体感となって迫ってくるのです。

 

海のまっただ中までいけば、強い流れの海流がまるで川の奔流のごとく、ジェットコースターのごとく、流れています。それもまた地球の鼓動の一つかもしれません。

 

平田氏はいま和歌山・湯浅湾を拠点にツアートリップを営んだりしているようですが、その湾内にある黒島の洞窟について、次のように地球進化の歴史体験を見事に語っています。

 

「貫通した穴、袋小路の空洞、予期せぬ場所から抜け出せる迷路、差し込む光が神秘的に内部の海水を照らす通路などなど。・・・その中に身を置く間隔は独特で、岸壁の神々しい重厚感が心身に響く。・・・ここは約4億年前の地質であり、気の遠くなる年月を経た風格が、シーカヤックという敏感な乗り物を通すことによって、我が身にずっしりのしかかってくる。」

 

このような見方は、野田知佑さんの描いたカヌー感とも、ケネス・ブラウワーの『宇宙船とカヌー』とも、異なる視点かなと思うのです。

 

プレートテクトニクスの考え方が急速に普及し、NHKなどの放送で地質・地形の見方が普通の人でもある程度わかるようになったことも影響あるのでしょうか。うれしいことです。

 

とりわけ日本の海岸線はまさにプレート同士が衝突し、海底深いプレートの下に潜り込んで行っている場所ですから、その衝突の結果や持続している状態が如実に見ることができるのですね。

 

水は海から蒸発して水蒸気となり、凝固して雲となり、風で陸に運ばれ、雨となって降下し、高い山々に降った雨は川や滝となって下っていき、再び海に集まると行った水循環はよくいわれる話ではないかと思います。もう一つのルートはまさにプレートテクトニクスとプルームテクトニクスではないかと思うのです。プレートはプレート下のマントルに落ち込んでいくのですが、そこには堆積した物質とそこに含有する水分も含まれているのだと思うのです。

 

それが火山活動によって、プルームとして地上に噴出する物質とそこに含まれる水分が物質と水の循環のルートになっているのではないかと思うのです。

 

このあたりになると素人の生知恵ではいい加減となってきました。せっかくの、カヤックトリップによって「悠久の地球時間が体の芯を通り抜けてゆくひとときが味わえる」という平田氏の美しくも荘厳な表現力をおとしめてしまいそうです。

 

今日はこの辺でおしまいです。