たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

葬送と社会性 <葬送の多様性とはだれのため何のため>

2017-08-31 | 人の生と死、生き方

170831 葬送と社会性 <葬送の多様性とはだれのため何のため>

 

先日のNHK放送「クローズアップ現代」だったと思いますが、納骨する代わりに、業者に骨壺を郵送して、機械などで骨灰にして海や山に撒いてもらうサービスが次第に普及しているという情報をもとに少し議論がありました。

 

依頼者は、現在ある墓から骨壺を取り出して、墓への埋蔵を辞める人、墓を購入する資金に困って火葬後に納骨しないまま、上記業者に送る人などでした。前者は墓参りは大変な重荷、自分たちの世代だけにしたい、次の世代に負担を継承させたくないという思いでしょうか。後者は経済的に厳しいことも要因でしょうか。取材された業者は、業界ルール的に径2㎜以内の灰状にしていました。

 

私は以前脱穀機を使っていましたが、最近の機械は遺骨を骨粉にすることくらいは簡単にできると思います。それくらい簡易にかつ見事粉状にしてくれるのです。業者の中には手動のコーヒーミルのような機械で、気持ちを込めてやっていました。

 

私から言えば、ある遺骨を、関係者が車座になって深夜故人のことを話しながら、それぞれ手で小さく砕いてく、それを次々と回していく、そういう儀式的な、仲間の集いはとても印象に残っています。

 

基本、葬送は自分たちで、できるだけ行うのが本来かなと勝手に思っています。

 

とはいえ、上記のような業者が現れるのも現代の宗教事情でしょうか。いや、葬送そのものが宗教中立的な存在になりつつあるのかもしれません。

 

比叡山・源信が地獄をおどろおどろしい絵図で描いて、極楽を求める衆生、いや貴族の関心を引いたように、その後の鎌倉新仏教もこの浄土思想を背景に発達したように思うのです。

 

しかし、現代において、そのような地獄や極楽は多くの人の心に訴えるものではないでしょう。

 

だからいって、骨粉にして他人に撒いてもらうのもどうでしょう。中国ですら(そういう表現は不適切ですね)、北京や上海で大量の散骨を河口などで行っていますが、実施するのは遺族自身です。ただ、本来、強烈な感情を露わにする中国人ですが、数百人が次々と大きな穴の開いた筒から投入するわけで、情緒もなかなか感じ難いですね。中国人の宗教観に合致するのでしょうかね。

アメリカではもう四半世紀以上前から海での散骨を行い、一定のルールを決めていました。業者が当時から大きく宣伝していました。中には国立公園で散骨できるとうたっていました。いや実際、いくつかの国立公園は許容していましたね。現代はどうでしょう。

 

骨の形状が残っていなければ、含有物が有害なものがないのですから、どこで撒いても、不快感もないかもしれない。とまではいえないですが、次第に世の中意識が変わってきたなと、これに取り組んだ四半世紀以上前との違いを感じます。

 

元に戻りますが、遺骨を郵便や宅急便で送るという行為自体は、ここまでくると、まさに物でしょうか。以前、何人かの宗教学者と議論したことがありますが、こういうことをも懸念していたのでしょうね。私自身は当時は想定していませんでしたが。

 

でもイギリスでの散骨事情、火葬場での遺骨(遺灰ashと表現)の引き取りを遺族の自由な判断にゆだねている火葬規則があり、火葬場管理者としては物扱いは当然の成り行きかもしれません。散骨する芝生という場所はそれなりに美しいですが、それ以上に物的な処理をするのを見せていただきました。

 

実際、最近の火葬場・納骨堂を経営する自治体としては、物として扱えないけど、徐々に、産業廃棄物業者の手にゆだねなければいけない状態に近づいているのかもしれません。

 

このブログで何度か取り上げていますが、骨に意味があるのは、その人、遺族であり、他人がとやかくいう問題ではない、社会が、ましてや国家がああせい、こうせいということは、個人の信条、生き方に不当に介入することになりかねないと私個人としては思っています。

 

この点は宗教学者と、まったく相いれませんでしたが、それがすぐに一般化するとも思っていませんでしたので、個人的な意見としては許容されると思ってきました。

 

とはいえ、NHKが武田さんでしたか、キャスター、そして識者としての小谷さんが、葬送は社会的に行うもの、共同体で行うものといった意識で、違和感を訴えていましたが、私自身は異なる考えなので、公の立場で、意見を述べる場合、個人の立場を意識した発言をしてもらいたいと思うのです。そもそも葬送の社会性は、江戸時代、戦前は国家強制もあり、その実態があったと思いますが、はたしてそれ以前はどうでしょう。

 

鎌倉以前、親鸞が生きた時代にはなかったのでは。縄文期にすでにあったとも思われますが、それはより自由な意思によるものであったのではと勝手な推測をしています。

 

もうそろそろ到着駅が近づいてきました。今日はこの辺でおしまい。電車の中で揺れながら、ラップトップのいい加減な反応で、ミスタイプの連続。読み返すのもしんどいので、ますますいい加減になりました。失礼しました。


旅と弁当 <久しぶりの新幹線乗車と弁当を買っての思い>

2017-08-31 | 心のやすらぎ・豊かさ

170831 旅と弁当 <久しぶりの新幹線乗車と弁当を買っての思い>

 

今日は夕方5時まで地元で会議に出席し、会議後すたこらさっさで、自宅に帰り、ローカルの南海電車に乗り、新大阪まで一直線。明日からの関東での会議のためです。

 

以前は余裕をもって新大阪の駅にたどり着くのですが、地下鉄駅を出たところで出発まで10分を切っていました。これからお土産を買って、弁当を選び、乗り込むにはちょっときつい。でも久しぶりの新大阪駅。雰囲気が少し変わっています。地下鉄を出たところから、ハイカラなお店が並んでいます(古い言葉でこれでは新鮮味がない!)。目ざとく見つけた店舗に入り、適当に選んで、後はスイーカで支払って秒殺ならぬ、課題1を終えました。

 

のしんだことのあるEX-ICカードとスイーカ(これもきわめて長い歴史もの)で改札をさっと抜け出し、弁当屋をさがし、どうも品ぞろえが以前と違う、勝手が違うと思いつつ、ぱっと目についた、「京のおばんざい」を指し、画像はぱっとしないとおもいつつも、時間がないと選びました。後はほんとはワインでもと思っていたので、時間的に余裕がなく、ビールの銘柄はと聞かれ、目の前に飛び込んだプレミアムにしました。いい加減この上ない選択です。

 

以前はこんな感じだったなと思いながら、久しぶりの新幹線と弁当でした。でも弁当はうれしい誤算。これはいけます。かぼちゃはさほど好みではないのですが、白だしあんの蒸し南瓜は見事な味付けでした。鮭の西京焼きもあまり好みではない(自然に塩焼きが一番と思っているのです)ですが、これは柔らかい感じの焼き加減、鮭の荒々しさがないものの、さすが京の味でした。ごぼうの牛肉の煮物も山椒入りで、ごぼうの切れ味がおつなもの。最近は京風味の味わいを忘れていましたし、弁当は以前からありますが、まったくその風味がないと思っていたのを、これはいけると、まったくグルメとは縁遠い私がいうのですからあてにはならないものですが、私は大満足。

 

これで新大阪から名古屋まで、このブログを書いたのです。なにせラップトップもあまり使っていないので、スムーズに動いてくれず、あちこち関係のないアプリケーションが立ち上がり、悪戦苦闘しながら、書いています。

 

ところで、日本くらい電車で弁当、しかも各地の旅情をそそる味わいの食事ができるのは、旅の醍醐味というか、贅沢ではないかと思うのです。それほど諸外国の電車に乗ったわけではないですが、少なくとも弁当は聞いたことも見たことも、もちろん味わったこともないでtしたことがありますが、だいたいナイフ・フォークを使って車窓の景色を楽しみということはまず考えられません。それに料理も外観はいいですが、とても美味とか旅情をそそるというものではないですね。そういう意味で、私は日本一周電車の旅をしたことがありますが、やはり日本の凄さでしょうか。

 

ただ、最近は地域の地産性を感じる弁当は少なくなったのではと、旅行も遠のいているのに、感じています。

 

旅行情緒といえば、やはり以前のように、それはいわゆる鈍行列車でしょうか、互いに座る席ですね。それが自然に知らない人同士で話し合うことができたように思うのです。こういう感覚は最近薄れたように思うのは旅行していないせいでしょうかね。

 

私が若いころは、横に座ったり、前に座った人と適当な話を良くしたものです。どちらかというと人見知りするのですが、こういうとき、恥は旅の掛け捨てみたいな感覚が自然に通用していたのかなと思ったりします。それが日本の旅のよさの一つだったかもしれません。

 

長々と趣旨不明の文章を書きましたが、このブログは多少アルコールも入ったので、この辺で終わりとします。


長寿と援助の在り方 <長寿リスク社会 検証・介護報酬改定/上 生活援助「乱用」に異論>を読んで

2017-08-30 | 医療・介護・後見

170830 長寿と援助の在り方 <長寿リスク社会 検証・介護報酬改定/上 生活援助「乱用」に異論>を読んで

 

久しぶりに電子内容証明郵便を使ったのですが、どんどんやり方が変わるため、なかなか新しいやり方が飲み込めません。高齢者の頭の体操としては少々きついです。20年近く前でしたか、このソフトの開設当初は簡単で便利でしたが、OSやワードもどんどん進化するので、それに追いつくために、ややこしくなってきたというのが私の印象です。

 

世の中、<毎日イノベーション・フォーラム AIやIoT、不可欠に 新技術で社会変える(その1)><AIやIoT、不可欠に 新技術で社会変える(その2止)>なんか読んでいますと、AIもIoTやらIoHなんてのもでてきて、ややこしやが増える一方です。便利にするということですが、はてさて高齢者や普通の頭脳の庶民には手が届かないものになるかもなんてことになりかねません。

 

で、電子内容証明郵便の作成で時間をとってしまい、もう6時半を回っています。それで今日も安直に、重い問題ですが、簡単に要約するべく、見出しの記事を取り上げることにしました。

 

財務省は危機に瀕した(もう破綻寸前?)といわれる財政赤字を削減するべく、福祉分野に大なたを振るかのように削減策を次々と出しているようです。今回は介護のうちの生活援助で、<「生活援助のみ」を昨年9月に90~101回利用した16自治体の21例が並んでいる。「月31回以上の利用者が6626人にのぼる」と「必要以上の提供」だと乱用を強調。1日の「報酬の上限設定」を提案した。財務省は「便利だから使うということではない」と削減案の意図を説明する。>

 

便利だから使うといっても月90回以上も利用したら、ちょっと使いすぎでは、過剰ではないかといわれると、この数字だけ見ればそうかと思ってしまいます。

 

便利で利用するということと、それが過剰だというのとは介護の実態をよくみて判断する必要があるというのが、記者斎藤義彦氏の視点かなと思うのです。

 

たしかに回数が月90回を超えると聞くとそんなに利用回数が必要なの、自分が動くのが面倒だから安いサービスを過剰に使っているんじゃないなんて疑問が湧くのも自然な感覚かもしれません。数字だけ見れば。でも一日3回食事などの世話が必要な人だと、当然な場合もあるでしょう。

 

記者は指摘します。<毎日新聞が16自治体に問い合わせ、人物の特性が判明した80~91歳の10例を見ると、8例が独居の認知症で、1例は早朝から夜まで働く息子と暮らす物忘れの激しい80代の女性だった。最大の101回だった北海道標茶(しべちゃ)町の女性(80)は山間部に住み、軽度の認知症で、元々の疾患のため自発行動が弱く、食事や衣服の着脱に促しが必要だ。町の特別養護老人ホームは100人待ち。町は「回数だけ問題にされるのは心外。やむをえない事例」と話す。>一人で自立して生活できない人がほとんどです。

 

別の例は「在宅介護の限界事例」です。<岩手県八幡平市などで作る盛岡北部行政事務組合管轄の認知症の男性(89)は、2人暮らしだった認知症の妻が入所し、介護していた息子の嫁も入院。精神的に不安定で向精神薬の服薬確認や3度の食事の準備で1日3回、月90回利用した。組合は「特別な事情がある」と話す。厚労省振興課は多くの例が「在宅介護の限界事例だ」と話す。>

 

その実態は施設不足の中、<生活援助で認知症の人が在宅で暮らせる良い例ではないか」と話す。>また<生活援助は利用者を安心させ、生きる意欲を引き出すことを理解すべきだ」と話す。>のであって、きわめて有効な代替策ではないかと思われるのです。

 

ちょっと話が変わりますが、ある施設の実態を探っていたら、施設建設費が何億円もかかっているのですが、それが全額助成金(ただし民間)でした。そんな助成金で施設を増やすより、在宅介護の費用に回すことの方がより効果的といえる場合がすくなくないのではと思うこともあります。

 

そして財務省の議論は砂上の楼閣ではないかと思われるのです。つまり限度額を超えるのはわずかか、ほとんどないのです。意味のない削減論ではないかと思うのです。

 

<財務省が示した例で個人が特定できた14例のうち11例の費用は「区分支給限度基準額」(限度額)以下だった。介護保険制度には元々、「利用に歯止めが利きにくい」(厚労省)ため、要介護度ごとに在宅サービス費用の限度額がある。これを超えた利用は自己負担だ。限度額は2000年の制度発足以来、消費税引き上げに伴い1度、上げられただけで、ほぼ据え置かれている。1人当たりの平均利用額は限度額の約32~65%。超過利用する人は全体の0.2~5%しかおらず乱用とは言い難い。神戸市などの3例は超過分を自己負担する。神戸市は「適切なケアプランに基づいている。本人が限度額を超え自己負担で使うのは自由」と話す。>

 

最後に、生活援助によって生きる意欲を引き出している例を記者は細かく描写していますので引用します(記事では最初ですが)。

 

<「ご飯、しっかり食べて。牛乳も飲んで」。静岡県三島市のアパート。ヘルパーの小林聖子さん(49)が促す。1人暮らしの飯田安夫さん(77)は「うるせえなあ」と笑いながら卵かけご飯を完食、牛乳も飲み干した。「愛のムチだわね」と小林さんも笑う。飯田さんは肺気腫で昨年入院。退院後、生きる意欲が湧かず、食事は残し、薬も飲まず、起き上がれず失禁も始まった。

 ヘルパーが食事の準備や食べるのを促す「生活援助」を始めると、飯田さんは徐々に意欲を取り戻し食べられるようになった。現在、要介護1と認定され週5日程度、朝夕に生活援助を受ける。

 小林さんは朝9時に訪れるとエアコンが利いているかチェック。「夏は熱中症との闘いです」。冷凍していたご飯を温めて卵をかけて朝食に。薬を目の前で飲んでもらう。急いで買い物に行った後、昼食をテーブルに準備。着替えやベッドの様子、ごみの内容など生活ぶりや、携帯電話の充電も確認した。

 小林さんが所長を務める訪問介護事業所「ラ・サンテふよう」は、入院後、施設に短期滞在して食欲が低下、車椅子で「このまま死ぬかも」と話していた女性(89)を自宅に戻し、生活援助中心に食事で元気にさせ、自力で歩けるまで回復させた。「生活援助がなければ施設入所していた。ヘルパーが生活をマネジメントし、安心を与え意欲を持たせる生活援助は在宅生活の基盤だ」と話す。>

 

最後に一言。以前、コペンハーゲンで、在宅介護をしている人からヒアリングをしたりしたことがありますが、基本歩きとか自転車とかで回れる範囲だったと思います。そういう意味では、この在宅介護にこそ、コンパクトシティというか、コンパクトな在り方を真剣に検討してもらいたいと思うのです。

 

30分で引用ばかりのブログでした。今日はこれでおしまい。



 
 

農業の未来 <ニュース解説 田畑一つで発電と農業>などを読みながら

2017-08-29 | 農林業のあり方

170829 農業の未来 <ニュース解説 田畑一つで発電と農業>などを読みながら

 

今朝はFMクラシックをのんびり聴いていたら、驚きました。Jアラートです。何事か、これでは音楽を聴く状態ではないですね。それでTVを見たら各局すべてJアラートと刻々変わる情報伝達に終始しています。これって何と思いつつ、戦時中の空襲を思えば、あのときはほんとに落ちてくるんだから、気が気でない状態だったと思います。

 

やはりネット上ではいろいろ議論があったようです。<【炎上】堀江貴文さん・・・>では、<ネットでは「Jアラートいちいち鳴らすな!」「数分で避難できるわけない」という声から、「とりあえずJアラートが鳴って34分ぐらいってのは分かった」「北朝鮮を非難せずに日本政府やJアラートに文句言ってる人どうなの?」といった声まで様々>ところが、堀江氏は<「こんなんで起こすなクソ」→ 批判殺到>ということだったようです。

 

たしかにJアラートによって有効な退避行動がとれるかとなると、客観的には厳しいでしょうね。他方で、北朝鮮のミサイルは日本上空を通過したとはいえ、これまでの経緯から日本領域内に落下するような無謀な計画は考えられませんか。意図しない事故で破片が落下ということはあっても。

 

ま、この議論をしているとそれだけで本日の話題にたどり着かなくなるので、この辺でやめときます。今後はこのようなことが繰り返されるおそれが高いかもしれません。私は、それなりの覚悟ができているので、どうってことはないですが、やはり多くの被害が出たら大変です。有効な対策があるか、難しいですが、誰も戦争は回避したい、それにかけることかもしれません。

 

さて、もう7時を過ぎ、本日の話題を簡潔にまとめたいと思います。30分でできるか挑戦です。

 

毎日記事<ニュース解説田畑一つで発電と農業=尾中香尚里(オピニオングループ)>は、以前紹介した農地の複層的利用の成功例を取り上げています。

 

これでおもしろいと思ったのは、普段身近でみる太陽光パネルがただ延々と農地の空間を覆い尽くしている、なんとも田園景観にはそぐわない状態しか知らない私には、その形状でした。

 

記事に写っている写真では、高さ3m近い支柱に設置されているパネルは少し斜めというより、垂直に近く見えるほど立っています。ですから、太陽の光が当然、パネルだけでなくその下の水田にまでさんさんと注ぐことがわかります。遮光率35%を確保するというのはこういう仕掛けかと思った次第です。

 

<青々と茂る稲の波。その上には、パイプで高さ3メートルほどの架台が組まれ、太陽光パネルがすのこ状にすき間を空けて取り付けられ「屋根のある水田」という風情だ。日照の約35%がパネルで遮られるが、斎藤さんは「周辺の水田に比べて稲の育ちは悪くない」と胸を張る。>ということですから、たしかに太陽はパネルにも水田にもちゃんと光を供与しているのですね。

 

しかも収入も大きい。<昨年、約5500平方メートルの水田や大豆畑に太陽光パネルを設営した。約60世帯分に相当する約33万キロワット時を発電し、東北電力に売る。売電収入は年間約1300万円。米の収入見込み約60万~70万円をはるかに上回る金額だ。>

 

米の収入を低すぎるとみるか、太陽光売電収入を高すぎるとみるかは人それぞれでしょう。ただ、この設置にかかるイニシャルコストはかなりの金額であることは想定でき、その回収にどのくらい期間を要するかですね。ランニングコストはさほどかからないのでしょうかね。

 

それに農地法の規制が壁ですね。<農水省が農家に対して農地の一時転用を認めているのは3年限り。売電収入を得た農家が農業をおろそかにするのを防ぐための措置だが、3年後の時点で十分な営農実績がなければ、更新は認められず、太陽光パネルを撤去して元の農地に戻さなければならない。>です。

 

それで<このため、農家が太陽光パネルを設置したくても、金融機関が融資に二の足を踏む。「転用期間を10年、できれば20年に延ばしてほしい」と関係者は口々に語る。>のは理解できます。

 

送電網への接続障害も大きいですね。<太陽光で作った電気の買い取り価格は太陽光パネルの価格下落を上回る勢いで急落し、電力会社が太陽光発電による電気について、送電網への接続を拒む例もあるとされる。>

 

ところで、このソーラーシェアリングについて、<「江戸時代の農家は薪を売るなどしてエネルギーの供給も行った。薪が太陽光発電になっただけ。農家がエネルギーを供給するのは、むしろ当たり前のことです」> そうです。近世農法を見ていると、とりわけ都市近郊では兼業農家がきわめて多く、それが普通だったようにも思うのです。百姓は、その言葉の通りさまざまな業を営む姓をもち、専業農民はわずかだったと思うのです。これぞ日本農民の基本姿かもしれません。

 

そして定年後や、都市での企業勤めからはいさよならといって新規就農する人も、このようなソーラーシェアリングは一つの方策かもしれません。

 

ただ、田園景観や地域の住環境との調和を丁寧に図っていくことも忘れないでほしいものです。安易に企業勤め間隔で農業を行うことは慎重であってほしいものです。

 

この点、別の記事ですが、<地域とともに、農業再生に挑む 毎日農業記録賞に寄せて/下 鹿児島県志布志市 ピーマン 新規就農呼び込む /熊本>では<札幌市で会社勤めをしていた2008年、志布志市農業公社の新規就農支援事業に応募。直線距離で1500キロ以上離れた南九州の志布志に妻とともに移住して、ピーマン農家になった。>例が取り上げられています。

 

その新規就農者の心持ちがなるほどです。<なぜ志布志のピーマンが都会の就農希望者の心をつかんだのか。理由の一つは、ピーマン栽培が「サラリーマン時代の生活スタイルをそれほど変えずにできる」ことだ。ハウスの水やりも自動化され、休もうと思えば日曜日は休める。「農業は年中無休というイメージがあるが、ピーマンは7月から8月にかけ、作業がない農閑期がある。この時期、海外旅行に行ったり、東京や大阪へ帰省したりする人もいる」と農業公社事務局長の留中直昭さん(54)。>

 

現代の労働者感覚でしょうか。でも、それで成り立つ農業は限られないかなと思うのです。むろん今後、AIがより高度化して、人間が常時監視したり、対応しなくてもよい、オランダの先進的な農業がわが国でも広がってくるでしょう。でも、こういった農法は、農作物のほんとうの機微や農地がもつ微妙な変化に対応できるとは思えないというのは、古い考え方でしょうか。

 

こういう人ではないと新規就農が増えない、それが21世紀の農業の姿でしょうか。それは残念な気がします。むろんそういう分野もあっていいのですが、本来の農業は、365日自然の移ろいの中で悪戦苦闘し、大地と風と空の中で活かされているからいいのではないでしょうか。

 

そんなところで、今日は終わりです。ちょうど30分でした。

 


人とのおつきあい <人生相談人間関係に疲れました=回答者・高橋源一郎>を読みながら

2017-08-28 | 心のやすらぎ・豊かさ

170828 人とのおつきあい <人生相談人間関係に疲れました=回答者・高橋源一郎>を読みながら

 

昨夜というか深夜から明け方にかけて、寒いぐらいに冷え冷えした状態になり、どうもきちんと眠れなかったようです。午前中はまぶたが重く、頭もどうもはっきりしません。そんな中、今日書面提出期限の裁判事件があり、普段であれば臭味の本でも読んでいるのですが、そういうわけにもいかず、なんとか仕上げました。そして裁判所や代理人(当事者が多く)合計4者に合計40枚くらいの文書をファックスで送りました。登記事項証明書などはどうも送信時間がかかり、全部送信終わるのに1時間くらいはかかったようです。

 

その後もすっきりせず、いつの間にか夕方6時半を過ぎ、帰る時間です。ブログを書いていないことを思い出し、<さい帯血の無届け投与容疑で医師ら6人も逮捕>が出たとの記事を読みながら、これはどうかと思いましたが、時間がかかりそうで断念しました。だいたい、これ立件できるのなんて気にしつつ、捜査本部も一罰百戒の感じで無軌道な再生医療に歯止めをかける意図がわかるので、その整理に時間がかかりそうと思った次第です。

 

こういうときは、いわゆる「源ちゃん」と呼ばれている高橋源一郎氏のすかっとする人生相談で、簡潔にまとめようと思った次第です。

 

今回の相談は34歳の女性で<人間関係に疲れています。自分から周りの人を盛り上げるように適度に気を使って、人間関係を築いてきたつもりです。ですが前職で、仲良くしていた同期の女性から裏切られ、会社中からいじめに遭い、頑張る気力がなくなりました。・・>といったもの。

 

高橋氏の回答は、まず知人の葬儀の話でした。<知人が何十年も勤めた会社を定年で辞め、数年後に亡くなったとき、彼の葬儀に参加した会社の元同僚は「ひとりだけ」だったそうです。・・・「職場の同僚」にとって、彼らは「通行人」と同じような存在だったのです。>

 

定年をとっくに過ぎ、高齢者と呼ばれる存在は私も含め、日本人の何割でしょうか。どんどん増えていますが、上記の葬儀事情は結構どこにでもありそうです。

 

次に高橋氏は漫画家の話を見事に引用します。<マンガ家のしりあがり寿さんは「友だちがいない」と悩みを訴える学生に「そもそも、偶然同じ場所に集められて勉強しているだけの人間を『友だち』と呼ばされているだけで、そんなのなんの関係もない人なんだから、いなくてふつう」と答えました。名答だと思いませんか。 たまたま一緒にいるだけの人と必要以上に親しくすることはありません。>

 

最近、fb、SNSLANでしたか、次々と仲間作りのネットが流行していますが、これこそ上記の名答と同様でしょうね。むろん一定の距離を置いて付き合えば、それなりにいい関係が作れると思いますが、人間関係に気兼ねしたり、悩んだりするまで深く入り込むことは普通の大人であればあまりないでしょうね。ただ、学生や若い人の場合上記の名答を心しておいた方がいいかもしれません。

 

最後にまた、「源ちゃん」の名答を。<理解し合える友人や心はずむ相手が、ふだん仕事している職場にもいる方が珍しい。いたらラッキー。いなくて当たり前。 あなたのやりたいことは何ですか? どうせ考えるなら、楽しいことにしてください。あとあなたの最高の笑顔は、大切な人にとっておくこと!>

 

今日は20分もかからない超短縮でした。これでもブログ千日を続けたうちに入るかどうかは、お天道様に聞いておくことにしましょうか。ほんと千日回峰行を実践する人はつくづくすごいと思う次第です。

 

今日はこれでおしまい。

付け足し

昨日このように書いた後、なんとなく気になっていました。高橋氏が葬儀の出席者の顔ぶれで、故人の付き合い方の事情を寸評している点です。何気なく、そんなものだろうと。でも腑に落ちなかったのです。

葬儀・法要・納骨など、葬送は個人的な事情を背景に、従来の慣行が大きく崩れ、葬儀出欠も義理的なものがすくなくなりつつあるのが都市社会ではないかと。田舎はまだ違いますが。それでも分散して居住する都市も田舎も、葬儀に参加するという当然のように思われた国民感情も、希薄化していくように感じています。イギリスなどの葬儀事業はもっと早い時代から始まっているのでは。

そんなことを書き出したのは、今朝、いとこの夫が亡くなったという電話が兄からあり、自分は認知症の母の対応で行かれないので、代わりにいってくれないかという話がありました。兄はいとこ夫婦と懇意でしたので、母がショートステイで帰宅するのに対応しないといけないから、泊まりになるため出席できないというのです。私は長年会っていないこともあり、兄を連れて参加しようかと思ったのですが、一人での参加は辞退することで兄の了解を得ました。

この3者は距離的には車でそれぞれ5時間程度は離れています。普段長距離ドライブをしていないので、きついのですが、それでも母も一緒に行けるのなら連れて行くのですが、無理ですので、断念しました。

要は、高齢化社会の結果、老々介護があり、親族といえどども離ればなれに暮らし、加えて認知症の家族がいるといった場合、葬儀への出席は儀礼的に留まり、本来の追悼の気持ちを示すことも容易でないでしょう。兄は今度時間調整して訪ねると行っていました。その方が落ち着いて話ができるでしょう。

葬儀が儀礼形式になりつつある一方、家族葬など多様なやり方も次第に選ばれていきます。生前の付き合いを、葬儀への出欠席で示すことは、必ずしも当を得ていないのではと思って、少し付け足してみました。