たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

人の死をめぐって <単身高齢者の社会的ケア、葬式、火葬後などを考えてみる>

2017-10-03 | 人の生と死、生き方

171003 人の死をめぐって <単身高齢者の社会的ケア、葬式、火葬後などを考えてみる>

 

統計数は見ていませんが、高齢者二人だけの家庭あるいは高齢者単身の生活もいまでは普通ではないでしょうか。

 

日野原重明氏のように子どものお嫁さんが日常的に世話をしてくれたり、さまざまな方がなんらかの形でサポートしていることも、故人の100歳を超えてもお元気であった源の一つかもしれません。むろん故人の類い希な精神力というか意欲・体調管理が基礎でしょうけど。

 

でもその日野原氏のビデオメッセージというのか、亡くなる直前を撮影した放送では、日野原氏も死を恐れていた、不安に思っていたというのは、少し意外に感じました。すごく前向きに生きてこられた方であっても、死は不安と恐怖に包まれるのかもしれません。多くの人に笑顔を振りまき、元気を与えてくださった方でも、自分の死に対しては不安があったのでしょうか。よど号ハイジャック事件で搭乗されていたときでも乗客の健康診断をするなど、それほどの不安はなかったように思えるのですが、そのような人であっても死は脅威の冥界なのでしょうか。

 

私は直面したことがないからか、死の不安を感じていません。なんどか自分なりに重いと亜感じた症状のとき、さまざまな危険に立ち向かうとき、死を意識しつつ、不安・脅威はあっても、さほどのものではありませんでした。それはほんとの死の直前の苦痛や脅威を経験したことがないからかもしれません。

 

地獄を描いて阿弥陀如来による救済を唱えた源信や、その後の法然、親鸞のように、飢餓・疫病でもだえ苦しむ多くの死者を見た僧侶だから、その不安・脅威からの救済を訴えることができたのかもしれません。

 

さて長々と余談を書いてしまいましたが、NHKけさのクローズアップで、昨日は<なぜ「残骨灰」の争奪戦が起きるのか>、今日は<最期は必ず誰かが見送ってくれる>を取り上げていました。

 

新聞を読みながらボッと眺めていたのですが、NHKのホームページでは上記の通り、台本並みに詳細にアップしているのですね。これは大助かりです。

 

いずれも人の死をめぐり、その死後の対応、後者はその事前の準備的な意味合いも触れています。それでつい人の、とくに単身者の死、その生前と死後について少し考えてみようかと思ったのです。

 

私自身は死は常在、生の裏表と思っていますので、これまでもこのようなテーマはなんどか書いてきましたので、多少は繰り返しになるかもしれません。

 

残骨灰の件は、そういえば、四半世紀以上前、葬送の自由をすすめる会というのを立ち上げた仲間の共通認識の一つは、火葬後の骨上げが東と西日本で違う(前者はほとんどを骨壺に、後者は相当少ない量)とか、骨上げ後の残骨灰を産廃として処理することが相当広がっていることとかを踏まえつつ、散骨を含め骨灰の処理の方法は墓地埋葬法の対象外で、節度をもって行えば自由であるということでした。

 

むろん当時の墓地と廃棄物を所管していた厚生省とはきちんと法令の適用について協議して、そのことを確認していました。多少問題になり得る刑法についても法務省刑事局と丁寧に協議を行って、適法性を確認していました。

 

そんな過去のことを少し思い出しながら、残骨灰の処理というと、遺骨を大事に思っている多くの人には違和感というか嫌悪感を感じる人もいるかもしれません。ただ、私は、遺体の処理、遺骨の処理も個人の信条の自由の範囲だと思っています。他人が遺骨を大事にする姿勢を軽蔑したり、あるいはそういう人から見てあまりに杜撰な取り扱いをすることは賛成できませんが、やり方は自由であってよいとおもっています。

 

その意味で、残骨灰の処理として、産廃業者が、金属類と骨灰を分別して、前者を有料で販売し、後者を丁寧に葬ることも、問題にすることではないと思っています。故人の、あるいは遺族の所有権とか、遺骨に対する崇拝の思いを壊す不届きな行為とまで個人が思うのは結構ですが、社会としてそのように理解するのはどうかと思うのです。

 

行政の取り扱いも、たしか東京都は自分のところで全部納骨していたと思います。火葬場から納骨堂まで見学させてもらったことがあります。丁寧ではありますが、残骨灰はさまざまです。残骨灰を、骨上げの遺骨と同様に崇拝の対象としなければならないというのはどうでしょう。むろん大抵の行政の職員はそういう気持ちでやられているように思いますが、時代が変われば、残骨灰に対する気持ちくらいは変わってもおかしくないのではないかと思うのです。

 

そもそも遺体、遺骨に対する人の意識は定まったものではないと思うのです。以前は忌み嫌うものとして、捨てていた時代もあり、共同墓地も土と一体となり跡形もなくなるのですね。

 

以前に紹介したイギリスにおける火葬の普及後、骨灰に関心を抱かないのが一般では内科と思います。私自身も、「千の風になって」がいいですね。きれいな景色の見える墓地でとか、あの人と一緒に入りたいとか、いやあの家の墓には絶対入りたくないとか、それぞれいろんな思いがあるようですが、これも執着でしょうか。自我というものの傲慢さのように感じるのはまだ私が成熟できていないためでしょうかね。

 

むろん「千の風になって」がいいというのも執着と言えば執着です。私はこのブログを書くことで、私自身が存在しないのではという証明を考えている節もあるのです。だからこう書いたからといって私がこうしなければならないといった執着があるはずがないとも思っているのです。

 

では、火葬の前の、葬式はどうでしょう。今日のNHKは<「誰にもみとられることなく、1人亡くなり、しばらくたってから発見される『孤立死』。65歳以上の高齢者で『孤立死』する人の数は『年間およそ3万人』にも及ぶと推計されています。」>と問題として取り上げています。

 

そして続けて<「『孤立死』する人の多くは、すでに家族との関係が断たれているため、その後、葬式すらあげてもらうことなく、行政によって火葬されることになります。」>と現状を敷衍しています。

 

それは問題だという前提で、<「こうした中、孤独に生きてきた人たちの最期を見送ろうという取り組みが始まっています。」>とその取り組みを紹介しているのです。

 

身寄りのいない人の葬式ですが、<葬式には50人が参列していました。>西成区釜ヶ崎で、僧侶が音頭をとり、釜ヶ崎見送りの会を立ちあげたのです。

 

<入会すると、会に葬式を任せる「委任状」を提出します。

それを受けて、会では、本人が亡くなった時、行政や病院など、関係機関に必ず会に連絡するよう要請します。

もし、亡くなった場合、連絡が届き、会がメンバーに参列を呼びかけて葬式を行います。

その費用は、本人の貯蓄や生活保護費からまかなわれます。>

 

現在、檀家制度的なものが残っている田舎では、それに類似する仕組みが以前からありましたが、次第に形骸化しつつあるものの、それでも区会などがしっかりしているので葬儀は立派に行われています。

 

葬儀は大切だと思う人にはこのような取り組みは有効であり、死を安らかに迎えることができるかもしれません。孤立死という否定的な見方をすれば、そうかもしれません。でも空海がいうように、生まれるときも死ぬときも一人、暗闇の中で、生まれ、また、死を迎えるのも人の自然ではないでしょうか。孤高の死という言い方もあってよいのかもしれません。

 

むろん葬式は、死者のためより、残された人のためのものと考えれば、それぞれが思いを尽くせばよいのでしょう。いま儒教的思想も、また、古代の殯の伝統もほぼ多くの人の意識からは薄れてきた、あるいはなくなってきたように感じます。新たな葬送感もあっていいのではと思っています。

 

他方で、重要と思うのは、孤立した高齢者の生存、生活です。私が以前、市が行う法人後見に関わっていましたが、孤立して判断能力や行動力に衰えや制限がある場合、多くの支援が必要です。成年後見制度では身寄りがある、一定の収入があることが、法律上ではなく、事実上の条件のようになっていました。それでは多くの収入のない孤立した高齢者が救われません。

 

市が法人後見として申立、後見人となって、ある高齢者の世話を行ったのですが、これは大変でした。多くの関係部署が協力して対応しないとできませんでした。そうすると、人的にも費用的にも、多数の人に対応できないのが現実です。いまそういう孤立した高齢者がいかにおおいか、死後の問題以上に、手をさしのべる必要があるのではないかと思うのです。

 

一時間が過ぎました。この辺でおしまいです。