たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

保釈・執行猶予制度について ASKA覚せい剤使用を考える

2016-11-30 | 刑事司法

161130 保釈・執行猶予制度について ASKA覚せい剤使用を考える

 

一昨日、執行猶予中のASKAが覚せい剤を使用したとして、逮捕されたことが大きなニュースになりました。著名人の薬物使用による逮捕事件は、時折、大きな話題となります。他方で、各地でさまざまな人による多様な薬物事件が頻繁に発生し、また、薬物の影響による悲惨な被害事例が起こっています。薬物事件と同様に依存性・執着性のある性犯罪も多いですね。

 

こういう事案、発覚して逮捕に至るまでも、捜査側も簡単でないと思われます。逮捕しても否認して争う人も少なくないですね。むろん誤認逮捕やそこまで行かなくても証拠が十分でないのに逮捕に至る事案もあるでしょうから、争うこと自体は一つの手段でしょう。

 

このような被疑者に対して、捜査側は逮捕後48時間、最大72時間、取り調べすることができ、その上で検察官に送致して、勾留する必要がある場合(多くはそうでしょう)裁判所に勾留請求して、通常10日間の勾留決定を得て、取り調べを継続できます。さらに必要であれば10日間の延長が認められています。その後、検察官が起訴するか否かを決定して、起訴しない場合は釈放され、起訴する場合はそのまま公判手続き終了まで勾留が継続されます(この段階になると拘置所に移管という形で移ります)。

 

その勾留場所ですが、刑訴法上は、拘置所となっていますが、施設不足という名目で警察署で勾留されているのが普通です(留置施設の構造や制度は警察庁のパンフがわかりやすい)。拘置所だと取調官のいる警察署とは別の施設などで、取り調べの環境や雰囲気、被疑者の意識も違ってきますが、同じ警察署だと、ずっと取調官の支配下にあるといった印象をもつのもやむを得ません。

 

アメリカではたいていの州では、別の施設になっていますし、実態はよくわかりませんが、勾留段階で否認していても保釈が簡単に認められているような印象をもっています(映画でくらいしか知りませんが。)なお、わが国の保釈制度の運用では否認事件では容易に認めないし、認めるとしても相当公判審理が進んだ段階ではないか思います。

 

わが国の刑事訴訟はアメリカ法を相当程度手本にしていますし、アメリカにおける公民権運動やヒスパニックへの差別的取扱を前提とした不当な刑事手続きに関する裁判例が紹介され、理論的・実践的に、被疑者・被告人保護の方向が進展してきたように思います(といっても私のこの知見は40年くらい前の話)。

 

で、長々と前口上を述べましたが、保釈制度が最近、運用面でだいぶ変わってきたように思うので、少し触れてみたいと思った次第です。保釈が割合、認められる傾向になり、相当増えているようです。これは裁判員制度の下、取調の可視化を進め、取調内容をビデオ収録して残すケースが飛躍的に増大したのと同時に、起訴後は被告人側の防御の必要性を認め、刑訴法本来の原則保釈の運用に一歩前進した感じです。

 

これは、従前は私選弁護人がつくようなときは、保釈保証金の用意もできることが多かったのですが、他方で、国選弁護人の場合、被疑者段階でつくようになってからでもなかなか保釈金の用意ができないことが想定され、あきらめる傾向があったかのように思います。

 

ところが、日本保釈支援協会という団体が、簡単な手続きと、割合安い手数料で、保釈記保証金の立替をするようになり、それが全国的に広がっていったことにより、各地で経済的に厳しい人も保釈申請して認められるケースが増えているように思います。また全国弁護士協同組合連合会の保釈保証書制度も最近事業化し、これも今後利用が拡大するのでしょう。

 

私も前者は利用したことがありますが、非常に簡単で、起訴が見込まれる場合、事前に協会の審査を受けておれば(これも迅速で簡単、ただし複雑な案件は別かも)、保釈請求、保釈許可決定、保釈保証金相当の支払、納付、そして保釈がほぼ一日で可能になります。

 

そんなわけで、ごくわずかな人しか保釈の恩恵を受けなかった状況から、さまざまな犯罪、多様な人にも、保釈が認められる状況が生まれているように思うのです。ま、これが刑訴法上の保釈制度本来の姿と思いますが。

 

で、問題はここからです。保釈は、裁判で実刑判決を受けなければ、公判出頭している限り、割合自由な行動が許されます。多くは逃げたりすると保釈保証金が没収されるので、そういった危険は少ないと思われます。しかし、同じような犯罪、つまり依存性のある犯罪の被告人については、用心が必要です。その間に、再度犯罪を冒す危険もあるのです。ASUKAの場合は執行猶予中でしたが、保釈中は大丈夫だったのでしょう。

 

現在の保釈制度は、そもそも無罪推定の基本原理の下、被告人の立場ですので、いくら犯罪を認めていたとしても、適切な管理や更生に向けたシステムは成立しにくいでしょう。しかし、保釈中はもちろん、その後執行猶予を受けた場合は当然、再犯防止のために適切な管理システムというと言葉がよくありませんが、更生を確保するシステムを構築しておかないと、単に自由を確保するということで、かえって脆弱な状態の本人にとっては行き場のないことになり、追い詰められる危険性が高いのではと思うのです。それはASUKAをはじめ多くの著名人が繰り返していることからも理解できるかと思います。

 

私自身、懸命に保釈許可をとり、やっと保釈できよかったと思った矢先、保釈中に、同種犯罪を繰り返され、結構落胆したことがあります。精神的な疾患を抱えていると言ってよいかもしれません。この人の場合は執行猶予判決をなんとかとり、病院に入院させましたが、もっと適切な対応を考えら得なかったか、反省ばかり残ります。

 

執行猶予判決で、保護観察を付する場合というのは、私自身、一定の事件では必須ではないかと思うことがあります。とはいえ、保護観察制度も重要な役割を果たしているものの、現在の状況では、人手不足と、保護観察官一人では十分に対応できません。通常は、一定期間ごとに、遵守事項等について、報告義務を課しているので、たいていの保護観察中の人はきちんと守っていると思います。とはいえ、報告とそれに対する指導だけでうまく行く人なら、容易に立ち直ることができるでしょうが、とくに依存性の犯罪を犯したような場合、そういう人は希かもしれません。社会的に連携した取り組みが必要でしょう。それはかなり前から言われ続けて、あまり変わっていないように思いますが。なお、アメリカでは一定の刑事犯に対してGPS監視(Electronic tagging)をする場合があるようですが、これはどうかと思います。

 

とはいえ、ダルクなど、こういった依存性のある犯罪を犯した人たちを支援する組織があり、大きな力になっていると思いますが、まだまだこういった取り組みが経済的にも制度的にも確立しておらず、再犯を減らす方向にはなかなか進んでいないように思えます。精神医療の支援も、また、就職支援制度との連携も不可欠ではないかと思います。

 

少し調べてから書こうと思っていたのですが、時間が無く、記憶の範囲で走り書きをしてしまいました。

 


国立公園考 インバウンドと公園システムの役割

2016-11-29 | 公園の持つ多様性と活用 管理と責任

161129 国立公園考 インバウンドと公園システムの役割

 

今朝の毎日・オピニオンでは、「インバウンド時代の国立公園プロジェクト」を「地方創生、基幹産業に」といった趣旨の意見が掲載されていました。

 

すでに環境省が、政府のインバウンド施策の一環として、725日、「国立公園満喫プロジェクト」の対象として、日本国内にある33箇所のうち、8つの国立公園を選定して発表していますが、それを受けた意見かと思います。

 

私自身も、国立公園制度には興味を持ち、国内各地を訪問したり、北米ではカナダの東西10箇所程度、アメリカは主に西海岸を訪ねたことがあります。各国の国立公園制度は相当異なり、比較制度論はこれまでも結構議論されてきたかと思います。それは横に置いて、少し私の体験を語ってみたいと思います。

 

とくにカナダの国立公園では、バンフ・ジャスパーは例外ですが、ほとんどが自然そのままのような状態で保全されている印象です。訪問者も個人ないし小グループでその自然の中にすっぽり包まれている様子を感じます。たとえば荒涼たる自然もあれば、潮位の高低差で地球の営みを感じたり、ただただ灌木が続く道をひたすら走るといったある種、単一の生態を経験することもあります。いずれにしても人が多数訪れ、お土産物を買ったり、ホテルで宿泊したりといったことはないと思います。といってもロッキー山脈の東西では、スパが自然の営みのごとく河沿いにこっそりあったり、あるいは大規模な人工のプール状のものがあったり、それなりに日本的な観光もありますが、カナダの国立公園としては例外だと思っています。むろんバンフ・ジャスパーのような高級リゾートホテルやお土産物店などは例外中の例外だと思います。

 

で、基本的に、公園内は、入園料をとり、レインジャーによる案内説明が一般的な体験システムではないかと思います。このような入園料は公園の保護管理に使用されています。で、その保護システムこそ、国立公園の基本的な枠組みではないかと思います。交通計画も重要で、バンフ・ジャスパーのように基幹道路が真ん中を走っている例はないと思います。とはいえ、バンフでも交通が渋滞したりするような入れ込み数が過大にならないよう抑制策も採っています。とりわけ基幹道路以外の道路は少なく、そこへの入り込みは制限されているのが普通ではないかと思います。このような保護と利用はゾーニングを通じて行われ、公園計画に基づきますが、それが住民参加の徹底した議論で行われるところが基本です。

 

わが国の公園計画も基本的にはそのような形式をとっていますが、実態は大きく異なると思います。計画内容自体、一般に理解されにくいようなものと思います。たとえば、普通地域、3種の特別地域、特別保護区その他さまざまなゾーニングは、はたしてどれだけの利害関係者が承知しているでしょうか。まして利用者のほとんどは自分がいるところがどのようなゾーニングで利用規制があるか知らないというのが実態ではないでしょうか。わが国の計画制度は、国立公園はもとより、都市計画、農業振興計画、森林計画その他、多様にありますが、いずれもその内容を知っているひとはわずかではないでしょうか。その計画自体を見たことがない人も多いと思います。首都圏でも自分の宅地がどのような都市計画のゾーニングで規制がどうなっているかを知らない人が大半という印象です。

 

さて、首都圏で身近な冨士伊豆箱根国立公園は、公園指定が36年で、今回のプロジェクト対象となった公園と同時期の老舗ですが、なぜか除外されています。その入り込み数が年間1.1億人(2010年)と極めて多いですね。私も毎年数回はいっていました。しかし残念ながら、車両乗り入れが自由で、しかも単に通り抜けするだけも相当の量で、なんら制限がありません。公園のコアもバッファーも配慮されていないと言わざるを得ません。公園内普通地域には観光ホテルなどが林立していますが、はたして景観的配慮が幾分でも考慮されているか、疑問を感じます。

 

それに比べて、今回対象となった8つの国立公園は、それほどの入り込み数もなく、一定の改善があれば、国立公園の魅力を生かしつつ、インバウンドを増やせるかもしれません。

 

とはいえ、国立公園を拠点的にプロジェクト化しても、いままでの観光スタイルのように、それぞれをルートで回る、観光ツアーでは本来の国立公園の魅力を体験できるか、また保護施策と両立できるか疑問が残ります。

 

国立公園の魅力を体験するには、一定の期間滞在して(場合によって公園外の施設で)、専門のインタープリターによる案内・説明がインフラとして必要と思います。現行の環境省の人的体制では、自然保護官は許認可作業と言った事務処理に追われ、北米のようにインタープリター的役割も、また、違法な自然物の採取・捕獲・破壊を防いだり摘発するといった外部での指導監督的作業がこなされていません。

 

東南アジアやオセアニアでも国立公園制度は、英連邦の制度を導入したところでは、こういったレインジャー制度が確立していて、公園内の行動規制もしっかりしています。インバウンド数の増加を国立公園プロジェクトとして実践しようとするのであれば、地域住民の参加を得て、抜本的な見直しが必要ではないかと思うのです。

 

その場合、国立公園周辺にある魅力あるさまざまな取り組みとネットワーク・連携を行って行くのでなければ、国立公園のみ浮いてしまうことになるでしょう。場合によっては、自然の魅力を増すために、夜間営業を制限し、闇の世界を提供するとか、パークアンドライドをより一層徹底するとともに、電気自動車による走行などを行うとともに、維新時訪問した異邦人が感嘆した、礼節と親切、笑顔といった真の「おもてなし」を含めサービス、日本人らしい凝ったさまざまな食品・商品の提供など、多様な仕掛けを地域全体で取り組むことにより、地域の未来に向けた社会改革にもなりえるように思うのです。

 

国立公園システムは、1872年にイエローストーンが指定されましたが、本来の自然保護的な意味では、ジョン・ミューアが1890年ヨセミテで提唱して産声を上げ、野性的なセオドア・ルーズベルト大統領が確立したものといってもよいかもしれません。わが国はわずか60年ほど遅れて1934年瀬戸内など3箇所が第1号指定されていますが、制度的な確立のないまま、戦後整備されたものは一次産業や観光業の圧力に押されて、保護的な面が後退してきたといわなければならないと思います。

 

そういう意味で、今回のプロジェクトは、世界基準を目指すのであれば、新たな公園システムを再構築するチャンスになるかと思っています。そして日本流の「おもてない」の伝統をうまくベストミックスしてもらいたいと思います。


プライバシー保護とは 改正通信傍受法施行の行方

2016-11-28 | 知る権利・プライバシー保護と情報収集・管理の適正化

161128 プライバシー保護とは 改正通信傍受法施行の行方

 

昨夜NHKで「パナマ文書」の調査報道が放映され、その後どうなったかと気になり、見ていたのですが途中まで見て眠ってしまいました。世界各国から移動した膨大なタックスヘイブンの情報がパナマの一法律事務所から出てきて、各国の報道機関が協力して調査してきたので、真相が相当分かるのではと期待していましたが、それ以後あまり報道がなかったことから予想されるとおり、なにかを裏付けるだけの情報にたどり着いていない印象を受けました。

 

このパナマ文書は、内部情報者からのリークでしょうか。匿名での提供というのもそんなイメージを与えます。

 

ふと思い出したのが映画「ザ・ファーム」でトム・クルーズが演じた新米弁護士による勤務先法律事務所がもつ顧客情報です。それはケイマン諸島に隠されたタックスヘイブンやマネーロンダリングに関わる情報のFBIへの提供です。弁護士の秘匿義務に違反しないで、当該法律事務所の違法行為を糾弾するといった、二律背反の状況で、彼が選んだのは郵便詐欺(Mail Fraud)というアメリカ法特有の制度です。その法律事務所では、弁護士が顧客に報酬を過大請求したり、やっていないのにやったことにして虚偽の報酬請求していたことについて、郵便詐欺罪(連邦法違反)として告発したのです。ですので、実際は、パナマ文書のような内容自体(映画では違法な内容を記載した顧客情報の文書)は開示されていません。

 

ところで、143月トヨタ自動車が大規模リコール問題に関し、米国司法省との間で、12億ドルの制裁金を支払うことで起訴猶予合意していますが、その法的根拠となったのが、郵便詐欺と類似の電話詐欺(Wire Fraud)です。リコールの車両製造自体の問題というより、通信の内容の虚偽性が問題として摘発されているわけですね。

 

そういうわけで内部情報自体には、アクセスされていず、問題も解明されているとはいえません。しかし、他方で、アメリカでは「スノーデン事件」で明らかになったように、各国の大統領・首相から行政の主要官僚はもちろん、一般の人まで通信傍受が大々的に行われてきたわけです。むろん国家的な機密や安全に関わる情報収集という一応の公益性はあったかもしれませんが、まったく関係ないプライバシーも当然含まれていたわけです。

 

そのアメリカの圧力を背景に、2000年通信傍受法がわが国で施行され、さらに今春には毎日のように表現の自由・通信の秘密侵害・違憲論が論議されながら、大幅に改正拡充され、その施行が今週木曜日(来月1日)になりましたが、なんだか不思議なほど平穏です。

 

今朝の毎日は、その改正法の内容を割合淡々とまとめています。まず通信傍受を認める対象犯罪を、従来は薬物、銃器、集団密航、組織的殺人の4類型の犯罪だったのを、詐欺、恐喝、窃盗、強盗、傷害、現住建造物等放火、児童買春・ポルノ禁止法違反に拡大した他、その要件も緩和しました。

 

たしかに、オレオレ詐欺を含め、上記の犯罪は集団的、あるいは役割分担を決めてやる犯罪類型が増えていることから、一定の必要性・合理性があることも支持された一因かもしれません。

 

私自身も、窃盗と言っても、重機窃盗などでは、外国人が購入者、特殊車両の運転手、仲介者、仮装の売主、仕掛け人など、多数が介在して行われている事案を取り扱ったことがありますが、通信機器による通信内容を傍受できれば、一網打尽できると思われるものの、多くは末端のみが検挙されるに過ぎず、各地で同種犯罪が続いているように思うのです。

 

上記の新しい犯罪類型で特殊ともいえるのが、児童買春・ポルノ禁止法違反ではないかと思います。警察庁のホームページを見ると、大きくこの問題を取り上げています。世界的に児童ポルノなどの情報が事実上野放しで、次々とあちらをたたけばこちらから出現するといった状態で、わが国としてもきちんと対応しないといけないと思っているようなふしがあります。

 

上記と直接関係があるわけではありませんが、わが国では、本屋さん、電車広告、その他公開の場で、少しおとなしくなったとはいえ、女性のヌードないしそれに類似する写真等がおおっぴらに見られる状況にあるように思います。西欧の町では一定の場所をのぞき、子どもや女性を含む大衆がアクセスできるところでは見かけないように思うのです。いい大人が電車の中でそういった写真の掲載された新聞や雑誌を堂々と見る風景は見ていて悲しくなります。

 

改正通信傍受法に戻ると、もう一つの柱は2年後に施行の立会人の監視なしに行うという点です。従来、傍受の期間が10日間といった制限や、通信事業者の施設に出向き、社員の立ち会いが必要とか、制限があったのを撤廃し、特定の機器を使えば以下の方法でよいとしています。

(1)傍受令状に従って通信事業者から通信が特定の機器に暗号送信

(2)暗号を復元して傍受すると同時に、再生した通信内容は漏れなく自動的に原記録に暗号記録

(3)原記録は裁判所に提出

法務省幹部は「データ改ざんなど不正の余地が物理的に排除されている。立会人の役割は代替できている」と説明しているそうです。

 

一見非の打ち所がないようなところが危ないように思います。だいたい、暗号記録を傍受記録にして、そのうち犯罪関係だけを抽出する作業は容易でないように思うのです。さまざまなプライバシー情報が含まれているわけで、それと犯罪情報の仕訳が簡単にはいかないように思うのです。また会話録音の反訳をやった経験がある人なら分かりますが、大変な作業です。傍受内容がクリアだったとしても、人によっては言葉の判別が容易でないことも少なくありません。それを捜査官だけに委ねることは不安が残ります。

 

もう一つ重要な点は、サイバーテロなどに対するデータ保護が確保されているかですが、これまた警察庁レベルではある程度充実してきているとは思います。しかし、都道府県警レベル、ましてや末端の警察署でのデータ管理はどこまで対応できるか、疑問です。

 

 

後書き

昨夜、ビデオで撮っていた「追跡 パナマ文書」を削除しようとしたら、まだ半分も見ていないことに気づき、残りを見ました。するとあの1300億円が消失した年金詐欺・金融取引法違反事件15年の懲役が確定した浅川和彦元被告の名前がのった文書があり、口座には1000万円残っていたとのこと。口座名義人が代理人名だったのが事件発覚後本人名に変更されたということから、自由に資金移動が行われた可能性が示唆されていました。となると、口座資金の移動が開示されない場合、やはり闇の中にとどまったままとなりますが、もし改正通信傍受法が施行されていれば、捜査側が詐欺事件容疑で傍聴して、資金移動の指示などを認知できたかもしれないことになりますね。簡単ではないですが、国税庁を含む他の捜査や証拠収集を期待するしかないかもしれません。

 

もう一つ、7名の日本人の偽造パスポートで作られたペーパーカンパニーが、問題の出会い系サイトを運営していて、暴力団と関係するような組織が児童買収・ポルノを行っていたようです。まさに警察庁が摘発すべく懸命に努力している分野ですね。改正通信傍受法の施行をより促進するような、NHK番組報道になったのは偶然でしょうけど、他方で、いまだ調査報道の対象となっていない、多くの日本人名の行方はどうなるのでしょう。

 

 


教育のあり方 「高校生レストラン」の番組を見て

2016-11-27 | 教育 学校 社会

161127 教育のあり方 「高校生レストラン」の番組を見て

 

今朝は体が重い。昨日の疲れがずっしりのしかかるよう。窓の外は静寂な中潤いを感じる。どうやら雨のよう。こういうのを慈雨というのは的外れかもしれないが、私の体にとってはまさにそう。小糠雨は詩情豊かにしてくれる。体もやさしく包んでくれる。というわけで、伐採した竹の野焼きを予定してましたが、晴れて休止宣言。

 

それで朝から少しTV鑑賞。NHK総合で、「サキどり「高校生がレストラン!?学校がつくる地域のミライ」というのを途中からですが、おもしろく最後まで見てしまいました。

 

北海道のかつての炭坑町にある廃校寸前だった三笠高校で、教師が率先して高校生に料理教育からレストラン開業、そして休耕田などの草刈を始め農産物の生産、地域との交流と見えない糸のようにつながっていきました。生産から消費にまで広がり、それがこんどは各地の企業・産業とも結びつくという話題です。単なる地域興しに止まらない。最後には、なんと和歌山JAが柿の食材としての活用を高校生に検討してもらいと依頼案件まででて、たくさんの実験的な調理品が生まれました。個々の高校生の熱心なまなざし、創意工夫、それが地域や各地の悩む大人たちとのコラボが生き生きと伝わってきます。

 

他方で、現在のわが国の教育システムは、あくまで閉鎖的で大学受験までのステップアップを中心にカリキュラムが作られ、それを支援する塾が周辺に拡大し、それらは一大産業となっていますが、極めて閉鎖的で、現在の各地で困窮しているさまざまな問題とは一切向き合わない特異な状況ではないかと思うのです。

 

20年以上前でしたか、カナダの大学で時折、さまざまな研究者のセミナーを聴講しながら、大学院や大学の授業を聴講していましたが、教授から与えられたいろいろなテーマについて学生同士のディベートがどんどんエスカレートし、特定の結論を見いだすより、そのディベートを的確に軌道修正するといったことが教授の役割のように感じました。

 

そんなときたまたま、知り合いの日本の大学教授が二人、コスタリカで開催されたある国際会議に参加した後私を訪ねてくれましたが、そのとき大学授業の違いを話し合ったことがあります。いずれも日本の大学では教授側が一方的に講義する形で、学生から質問があっても教授とのやりとりで、それも極めて少ない。ただ、留学生になると議論が活発で、これは受験教育の影響かなと悲観的な思いで語っていましたが、それは現在でもあまり変わっていないように思うのです。

 

私自身、10年以上前に、3年ほど、非常勤講師という立場で、大学で授業を担当したことがありますが、私なりに、実験的に、ディベート方式を導入してみました。まだ「白熱教室」が話題になる前だったかと思いますが、結果は私の準備不足と課題の難しさもあって、思ったような成果は得られませんでした。とはいえ、多くの学生は、一週間前に事前に課題に関わる資料を読み込み、議論できるよう長時間かけて授業に出て、発表するのですから、大変だったと思います。それは他の授業ではまさに講義を受けるという受け身で十分なわけですから、大変な負担だと思います。でもこれが北米の大学では普通です。

 

このような授業方式は、企業に入って社会の中でもまれることにより、初めて実践的な感覚や、創意工夫を生み出す、わが国の教育と産業の一般的なあり方だったのかもしれません。それが破綻したと言われたのは四半世紀以上前だと思うのですが、一部を除き、なかなか変わっているようには見えません。

 

そんな中、先にあげた三笠高校の実践的教育スタイルは、教育と産業、そして地域との連関を見事にやりとげているように思えるのです。教育というのは、一つの方向だけではないと思います。それは大学に入学することが当然の前提と言うことではないでしょう。あるいは社会で一旦、仕事に就き、改めて学ぶ必要を感じて、大学で学ぶ形態も(かなり以前から社会人教育として採用されていることは事実ですが、亜流の位置づけではないでしょうか)本流の一つとして確立する必要があるのではないでしょうか。

 

駅前に塾が乱立したり、受験教育を第一義に挙げて有名大への入学率を競う中高や小学校の存在が当たり前のように是認され、さらに教育費として多額の支出をする現行の状態は決して望ましいとはいえないように思うのです。社会福祉費の増大を嘆く前に、必要とされている教育への支出の中身を見直す必要を感じています。

 

三笠高校が選択した料理教育、高校生レストランは、ある種総合芸術、文化、伝統を学び、地域共同体を学ぶ総合教育として一つの立派なモデルとなるように思います。そして高校教育という一つの中にとどめるのではなく、さらにレベルアップする社会教育制度や資格付与など、周辺の制度設計も必要だと思います。

 

このことは、料理という世界に止まらないと思います。いまグローバル化の過激な競争にさらされている農業、林業、漁業など一次産業としても、真剣に教育のあり方を考える必要があると思います。「近大マグロ」は大学教育が地域漁業との連携などで見事な成功を収めていますが、このことはそれぞれの産業の担い手になりうる人には、現在の教育システムの変更を促しているように思えるのです。

 

たとえばピアニストやバイオリニストなど音楽家は、当たり前のように、幼児から英才教育を受け、それでも限られた人のみがプロとしてやっていけると言われています。単純に比較できませんが、農業や林業、漁業も、いま総合的な知見、経験、技能が求められていると思います。

 

それを補助金行政で現行の産業実態のまま、支援するだけでは、現在の社会に適合する産業に蘇ることは厳しいと思います。中でもその担い手に対する教育システムは残念ながら極めて貧弱です。

 

たとえばスイスの「森の人」と呼ばれる森林管理の担い手は、森林が本来もっている多様な機能・価値を実現し、持続的管理と経営を行うわけです。現場で作業する人には充実した3年程度の職業訓練学校があり、実地研修が必須です。卒業により国家資格が与えられますが、さらにステップアップするためのフォレスター教育制度が整備されています。この詳細は浜田久美子著『スイス式「森のひと」の育て方』が参考になります。

 

森林も、農地も、そして海や河も、本来多様な価値をもち、私たちに大きな恵をあたえくれました。しかし、一歩間違えば、アルド・レオポルトが指摘したように、あるいはレチェル・カーソンが警告したように、いずれも脆弱な母なる存在が露呈されるのです。私たちは、もっとも大事な対象に対して接する人の教育に幼児から適切な教育を怠ってきたのではないかと危惧しています。維新前は自然に家族の生活の中で身についていた事柄が現在は見えなくなっているのではと思うのです。

 

トランプ式、習近平式など、金が一番のような国の運営は、極端な差別化を推し進め、子どもの心に深くそのことを根付けさせ、子どもの、そして大人の、さまざまないじめ、ハラスメントなど学校、家庭、職場ではびこる病を生む大きな要因となることを心配します。


ガラスのボックス? ガラスの天井(A glass ceiling )は皮相的では

2016-11-26 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

161126 ガラスのボックス? ガラスの天井(A glass ceiling )は皮相的では

 

今朝は快晴。早朝の紀ノ川は川面から靄が立ち上がり、また、小高い丘には放射冷却を示す薄雲が長く伸びていました。

 

平日は作業をしていないせいで、体調はよく、今朝は約5時間竹を切り続け、相当量の切り株の山になりました。どっと疲れるのですが、この疲労感はなんともいえず、生きているという体の響きを感じてしまいます。

 

そうすると、再び、近世農民の生活が封建領主の強制で牛馬のごとく体にむち打って作業させられていたのかと、疑問の思いもわき上がってきます。こんなきつい作業をいやいや終日、休みもなく続けられるだろうかと、そういう思いがどうしてもぬぐえないのです。

 

電通の過労死事件のように、「鬼十則」という行動準則的なものが近世農民に課せられていたのではないか、という考えもありえますが、やはり違うと思っています。いずれこの点は、言及してみたいと思います。

 

ところで、クリントン女史が大統領選を進めているとき、また敗退したときも、ガラスの天井(A glass ceiling )という言葉が何度も聞かれました。そうかアメリカでもまだまだこの言葉が生きているのかと、呪術のような感じを受けました。

 

私がこのガラスの天井という言葉を知ったのは、20年以上前、映画「Disclosure」をカナダで見たときが初めてだと思います。当時はあまりぴんとこなかったのです。だいたいディスクローズされたのは何なのか、ぴんとこなかったのです(裁判用語としては結構意味があるのですが)。この映画、なかなか内容が濃く(以下の話以外に裁判審理類似する調停手続き(mediation)の審理方式やなじみのシアトル都心や郊外の分譲地の様子など盛りだくさん)、多岐にわたる情報が含まれ、簡単に理解できなかった(英語のヒアリングもですが)のですが、非常に印象に残りました。

 

この映画では、IT産業でも先端企業の開発部門の拠点を他社と合併し分離独立させ、そのトップの副社長に、開発部門外から若い女性を選ぶという、社長の大胆な選択の際、彼がこの言葉を使ったのです。当時は、アメリカでも企業のCEOなどトップに女性がそれほどいなかったように思います。他方で、この映画では、なんと上司の女性による部下へのセクハラが主要テーマの一つでした。なにかこの設定自体、どうも女性への偏見を感じてしまいました。

 

とはいえ、たしかまだWindows95が発売された頃で、私もようやくPCを使えるようになり、さまざまなソフトを楽しんでいたとき、この映画ではバーチャルリアリティの実践がこの企業の目玉商品で、その映像自体、とても先進的でした。とはいえ、その開発部門に所属する女性社員に対し、副社長からセクハラを受け、企業と対立する関係に追い詰められた主人公が、どちらにつくかと質問もしたとき、その女性は自分は大学でエンジニアを専攻し、この企業で7年?経験している、そのような質問はナンセンスといった回答をするのです。

 

この質問回答は興味深いです。アメリカ社会では、技術部門など専門分野での経験はそれ自体評価され、女性であっても重視されるとの自負を感じます。7年程度は専門家の世界ではまだまだとも思いつつ、懸命にやれば、性別の違いを超えて、十分に評価に値するという点は、強調されてもいいのでしょう。20年後の日本でもかなりそういう状態に近づきつつあるのかなと思いつつ、いろいろな壁を感じています。

 

それはトップないし社会的地位への登用において、ガラスの天井があることは明白でしょう。そしてそれは天井だけではなく、前にも横にも、床にも、歴然として壁がある、つまりglass boxではないでしょうか。それは女性だけでなく、さまざまなマイノリティに対して旧来の慣行が大きな壁となっているのではないでしょうか。

 

では私が勝手に「ガラス・ボックス」といま造語した理由を少し披露します。私は割とBSフジのプラムニュースを見ますが、ちょうど「配偶者控除」と「子育て支援経済成長」というテーマが連続して取り上げられました。キャスターの反町さんは当然ながらある立場でそれぞれのテーマについて議論を促しますが、その立場はある程度明らかなので、それを割り引けば、その質問は結構、的確になされていることが多く、その答えも参考になります。

 

で、配偶者控除ですが、旧態依然のしがらみで、安倍首相が働き方改革の一丁目一番地の一つではないかと思うのですが、なんとこれを維持してさらに150万円から200万円まで上限を嵩上げすることで、自民税調も是認したようですね。結婚しない女性、ジェンダーの人、への配慮はどうするのでしょう。

 

夫が働き女性が家で子育て家庭を守るというモデルは、日本の歴史の中でも、とりわけ庶民の世界ではほんのわずかな時期に、アメリカ白人層的な、それも一時的な家庭像を理想にしたにすぎないように思うのです。なお、異邦人が見た維新時の庶民生活では、親は夫も妻も子育てを担い、それを喜びにしている様子が描かれています。

 

子育て支援のテーマでは、京大准教授の柴田悠氏が著書「子育て支援が日本を救う」で、統計的手法で子育て支援の経済的有効性を主張しており、その説を中心に議論されました。詳細は、覚えていませんが、たとえば小池都知事を含め認可保育園の拡大など施設に比重が置かれていることに対し、保育士の給与を1.5倍に引き上げることの方がより重要だといった主張だったと思います。

 

この議論は、ある意味、施設と保育士を比較したとき、そのような議論も有効かと思います。しかし、この待機児童対策が問題にされているのは、都市部であり、その解決を目指すものですが、都市部へ女性が集中するという傾向をさらに促進させることを容認する内容です。

 

はたしてそれが女性の真の多様な活躍の場を提供することになるのだろうか、疑問があります。地方の豊かな環境で子育てする家族のあり方を、そして夫または妻が、容易に、自分に合った仕事、また高い給与で働くことができる場の提供を阻害するおそれも感じます。

 

子育て支援において、保育士像が女性に偏りすぎないかも、気になります。また、この制度設計自体、女性が働けないのは子育てを女性にだけに押しつけている現行のさまざまな潜在的な制度について、なんの問題提起もしないことを考えておく必要があると思います。

 

少し異なる観点では、夫婦別姓への抵抗も、女性が働く場を、働き方を、社会の仕組みとして制約している要因の一つではないかと思います。これも昨年12月の最高裁判決は否定的判断を下しましたが、女性が婚姻前の姓で社会的地位を確立していたとき、少なくないハンディになるでしょう。とはいえ15人中5人が違憲判断していることから、将来的には民法改正も検討が視野の世界に入ったかもしれません。

 

ガラス・ボックスは、多面的・重層的で、いま思いつきで書いたので、いつか整理して触れてみたいと思います。

 

なぜ人は、性別、ジェンダー、人種、貧富、信仰などなどで、差別するのでしょう。これは人の本質でしょうか。自分という存在が確立するには、他との差別が不可欠であると、いつのまにか思い込むのでしょうか。むろん公平・平等に対処するということ自体、簡単ではありません。でも自我はそもそも存在しないとも、禅の世界で言われています。いや般若心経自体、私とか、私を意味づけるものが無い、無だとも断定しています。

 

私のこのブログは、私なりのエンディングノートです。世間で言われているものとは趣を異にしますが、私というものがあるのかないのか分かりませんが、書いているとあるのかもしれないと思いつつ、いや私の言葉ではないと思ったり、いろいろです。いつまで続くか、この調子を当分続けてみたいと思います。