たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

<ノートルダム大聖堂火災><ボローニャ大学>そして<紀ノ川にあった『3大学』>などを考えてみる

2019-04-16 | 景観の多様性と保全のあり方を問う

190416 遺産の活かし方 <ノートルダム大聖堂火災><ボローニャ大学>そして<紀ノ川にあった『3大学』>などを考えてみる

 

今日の花は数日前からこれに決めていました。<ボロニア・ピナータ>という名前のカラフルで気持ちを明るくさせてくれそうな花です。その花言葉は<心がなごむ、的確>とのこと。前者は納得ですが、後者は?ですね。

 

実のところ、ボローニャという西欧最古のボローニャ大学のまちで、歴史的景観をまちづくりに活かしてきた町の名前から来ていると勘違いしていたのです。前者はBoronia pinnataというスペル、後者はBolognaですから、全く違っていました。ただ、ボロニアという名前は、イタリア植物学者の名前が由来とのことですので、かすかに糸が繋がっていそうともいえましょうか?

 

ボローニャは、四半世紀前、日弁連で西欧のまちづくりを学ぶと言うことで、調査団を派遣したところでしたが、私は当時いろいろ掛け持ちしてて、この調査には参加しませんでした。その後たしか20年くらい前、ボローニャの近くを流れるポー川を今度は湿地保全の調査をすることになったときも、都合が付かず参加できませんでした。なんとなく気になりながら、もういまでは飛行機に乗ることも、遠距離旅行することもとても体調的に無理な状態になってしまいました。それで少しボローニャの面影を追っていたのかも知れません。

 

ボローニャを思い出してしまったもう一つは、今朝のノートルダム大聖堂が火災で炎上し、あの尖塔が崩壊するショッキングな映像を見たからかもしれません。ここには45年以上前一度だけその前に立った記憶があります。パリではルーブルが一番印象に残りましたが、この尖塔も、他の様々な教会を見てきましたが、教会の中の教会のように感じさせられるものでした。私自身はルターのように教会というものにあまり関心がないのですが、この景観要素は別かも知れません。

 

ボローニャ大学も、ノートルダム大聖堂も、ほぼ似たような時期にできた(後者はその後長い時間をかけて完成したようですが)そうですね。日本で言えば平安末期でしょうか。

 

そんな古い歴史があるノートルダム大聖堂、なんで火で燃えるのと不思議に思いました。目の前で見た建築物は石造りであったはずと、いい加減な記憶ながら、はてなと思っていました。

 

するとFNNが<世界遺産ノートルダム大聖堂火災“石造り”なのになぜ炎上したのか?>という記事で、その疑問に答えていました。

 

火災の経過については<現地時間、415日午後7時前に尖塔がある屋根の付近から出火。その後、火は屋根全体に広がり1時間後には高さ約90mあるシンボルの尖塔も焼け落ちてしまった。>というのです。

 

構造・材質について、<巨大石造りでゴシック建築の代表作として知られるパリのノートルダム大聖堂。なぜここまで火が燃え広がってしまったのだろうか?>と疑問を提起しています。

 

一部木造だったのですね。<外壁や中部の柱など多くの部分は石でできており本来火には強いはずだが、屋根の一部には上記のように木が使われており、そこから火が広がってしまった可能性がある。>まだ出火原因や箇所が特定できたわけではないでしょうから、推測の域を出ないとは思いますが、掲載された写真では屋根裏はまさに日本家屋並みですね。石造り、中身は張り子の虎だったとはいいませんが、案外そんなものかもしれません。

 

仮に屋根裏の木材部分から出火したとしても、なぜそのようなところに発火要素があったのでしょう。わが国では多くの世界遺産に登録された歴史的建築物は木造がほとんどをしめているでしょうから、防火対策は念には念をいれて行われてきたように思います。他方で、石造りを基本前提としているような西欧の歴史的建造物の場合、意外と落とし穴があったかもしれません。

 

それにしても残念な結果です。今後の原因調査を待ちたいと思います。そしてどのような復元が今後検討されるのかも注視したいと思うのです。

 

さてボローニャ大学を思い出したのは、もう一つ理由があります。『きのくに荘園の世界』上巻で、編者の山陰加春夫氏が冒頭で、「総論 中世紀伊国の位置―キリスト教宣教師の二つの記述を手がかりに」と題する論考を載せています。

 

フランシスコ・ザビエルが書いた手紙の中に、「ミヤコの大学のほかに他の五つの主要な大学があって、(それらのうち)高野、根来、比叡山、近江と名付けられる四つの大学は、ミヤコの周囲にあり、それぞれの大学は三千五百人以上の学生を擁しているといわれています。」と書かれていたのです。

 

山陰氏は、高野は高野山金剛峯寺、根来は根来寺、比叡山は比叡山延暦寺としつつ、近江は園城寺ではないかと指摘しています。前2者はいずれも9世紀に始まっているわけですから、西欧最古よりも古い歴史を持っているといってもよいかもしれません。

山陰氏は、ザビエルが日本国内有数の大学として、紀州国に2つをあげていることに着目しています。

 

さらにルイス・フロイスの『日本史』では、紀州には四、五の共和国があったと指摘されていることをとりあげます。それは高野、粉河、根来衆、雑賀の四つであり、もう一つは熊野に違いないと山陰氏は指摘しています。

 

多くの日本人も、高野、根来、雑賀、熊野は理解できるかも知れませんが、粉河となると近畿の人は別にして、それどこと疑問をもつかもしれません。でも山陰氏は、他の四つの共和国に匹敵する、粉河寺を中心とする共和国の内容を掘り下げています。

 

高野山金剛峯寺は山内には町というか都市国家といえそうな雰囲気もありますが、どうも領域が狭いですね。根来寺も当時の境内が広大であったと思いますが、どうもまちづくりとしては秀吉によって壊滅された後は跡形もないですし、現在の周辺の町との関係も素人的には判然としません。それに比べて粉河寺は粉河町の領域をまちづくりとしていかしていたのではないかと思われるほど、その残影を感じさせてくれます。

 

今週末、粉河寺を訪れる予定ですが、そんなこともあって、山陰氏の指摘になるほどと思ってしまいました。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日といいたいところですが、明日は日程が混んでいておそらく書ける時間がとれそうもないので、明後日となるでしょう。


まちなみ景観を考える <堺市 環濠都市、減る町家 高齢化で維持困難>を読みながら

2018-12-16 | 景観の多様性と保全のあり方を問う

181216 まちなみ景観を考える <堺市 環濠都市、減る町家 高齢化で維持困難>を読みながら

 

最近のニュースで少し気になっていることがあります。毎日記事<米大統領の元顧問弁護士コーエン被告に禁錮3年の実刑>や、その後のニュースで放映された彼のインタビュービデオです。

 

このコーエン氏のインタビューを見ていて、ついウォーターゲート事件というか、この事件を題材にした映画『大統領の陰謀』で、記者役のダスティンホフマンがニクソン大統領の顧問?弁護士の一人を追求する場面を思い出しました。この弁護士の発言を含め様々な事実が明るみに出て、ニクソン氏が弾劾裁判を前に辞職したことは有名ですね。

 

今回の顧問弁護士の発言は結構、重みのある内容ですが、さほど大きな話題になっていない印象です。ニクソン氏が政治家として誠実さを保持してきた(外形上は)ことに比べ、トランプ氏は誠実さとか信用とか二の次といった感じでここまでやってきているので、またかということでしょうか。とはいえ、CNNの今日のウェブ記事<Trump's worst nightmare>

ではこれでもかというくらい悪化の一途を辿っている印象です。でも他の北米や西欧の記事は違うようですから、CNNが目の敵にされるのも分かるような気がします。トランプ氏にとって目の上のたんこぶ以上でしょうか。

 

で、この問題を引っ張ってきたのは、やはり辺野古問題です。アメリカの軍事戦略にのっかって突き進むわが国の防衛、これでいいのと思うのです(むろん中国の動きを無視できませんが)。ましてやトランプ大統領がいうアメリカファーストという手前勝手な考えを信頼していいの、なのです。他方で、沖縄に対してこれまでわが国が採ってきた対応は決して許されるものではないと思うのです。ニクソン政権におけるベトナム対応の失敗と同じに扱えませんが、トランプ氏の対中を含む対外戦略に追随するような対応だと二の舞を演じることになりませんかね。

 

この難しい問題を数行で片付ける分けにはいきませんが、ふとコーエン氏とニクソンの側近弁護士(映画上)の差を感じました。後者はたしか場末のモーテルに宿泊しているほど、落ちぶれていましたが、前者は衣服も高級服を身にまとい、実刑になったとはいえ、蓄財を重ねてきたのかなとつい思いました。いかにトランプ氏が金で人を動かしてきたかを物語る一面ではないかと思います。こういう人物とタッグを結び、親しい関係を標榜するのはわが国の首相としていかがなものかと思うのです。

 

さて話は本題に移ります。毎日昨夕記事<堺市環濠都市、減る町家 高齢化で維持困難>に少し驚きました。堺は環濠都市として栄えたことは有名です。でも今は残っていないのではと思っていました。

 

記事では<中世から交易で栄えた堺市は、堀で囲まれた「環濠(かんごう)都市」として北部地区に多くの町家が残ることでも知られている。>そう堀で囲まれていたからこそ、環濠都市といえるわけで、東洋のベニスと称されたとしても自慢してよかったと思います。

 

とはいえ、それは近世の話。明治維新以降の近代化の中で様相は大きく変わってきました。とりわけ戦後は、大都市ではどこでも堀割が邪魔扱いされ、臭いものに蓋みたいに、隠されたり、埋め立てられたりして、ほとんどの堀割が消失したと思うのです。

 

<市によると、2014年度に300軒近くあった町家が、約4年間で1割以上減った。所有者の高齢化に伴う維持管理の難しさなどが背景にあるとみられ、地元の住民は「町並みを守る取り組みを強化してほしい」と訴えており、市は地元と協力して景観などの規制を検討することを決めた。【矢追健介】>

 

どうやら堀割の話ではなく、町屋の話のようです。実はなんどかこの環濠都市の実情を探ろうと周辺まで足を伸ばしたことがありますが、堀割がなかったり、町屋も他の保存に力を注いできた奈良の今井町や滋賀の近江八幡などのような丁寧に保存された町屋はあまり見かけないように思い、途中で断念しました。

 

環濠都市>といえばウィキペディアで、<その周囲に堀を配することによって、堀を外敵からの防禦施設や排水濠として利用した都市である。 代表的なものとしては、アンコール・トム(カンボジア)や金沢、今井(奈良県)、堺(大阪府)等があげられる。>と堺もあげられています。

 

それで、グーグルマップでちょっと空から覗くと、堺市も米空軍の大空襲で被災し、戦後は必ずしも秩序ある復興を遂げたとはいえない印象を感じます。だいたい環濠といえるような状態はどこにも見当たりません。それで環濠都市として銘打って町並み保存と言っても、所有者の理解を得るのは容易ではないように思うのです。

 

柳川や松江のように堀を再生し維持保全する活動をしてきたのであれば、わかりますが、もう少し異なる視点で、町並み保存を訴えてもよいのではないかと思うのです。グーグルマップで空から眺めても、環濠都市として存在していたころの地割がイメージしにくい印象です。そういったビジュアル的な面での提示があってもよいのかなと思うのです。一つ一つの町屋についても、ストリートビューで通り沿いの建物を見ても、なかなか他の保存に努力してきた町屋と比べると見劣りがするといっていは失礼ですが、努力が必要ではないかと思うのです。

 

ただ、記事では<第二次世界大戦で空襲を受けたが、戦火を免れた北部地区には、江戸初期の国内最古級の町家など古い家が多く残った。市は2011年、景観計画で北部地区を重点地域に指定し、15年からは既存建物について、伝統的な町並みに合わせて景観を整備する「修景」に補助金を出している。>と一部について景観法の重点地域に指定しているということですから、期待できるのかもしれません。とはいえ、景観法は04年成立で、鎌倉市などは成立まもなく地域指定を始めて景観規制に取り組んできました。それに比べると、いかにも遅すぎる印象です。

 

なぜ堺市に厳しい目を向けるかというと、一方で、大山古墳では二重濠が有名で、世界遺産登録の動きが活発である中で、環濠都市と銘打って仮にPRしたら、羊頭狗肉と海外の観光客から批判されないか心配だからです。たしか堺市役所で、仁徳天皇陵のパンフと一緒か別のパンフでこの環濠都市も含まれていたのを見たような記憶があります。

 

「仁徳天皇陵」という名称も考古学の世界では誰からも支持されないと思いますし、同様に「履中天皇陵」なども疑問です。まあこれは専門家の話として一応おいておいても、「環濠都市」は観光の目玉になり得るはずですが、天皇陵の濠をイメージされると肩すかしにあいます。それが心配です。

 

<町家の減少が進む。市は11~14年度、約2800世帯が住んでいた北部地区を調査、281軒の町家を確認していた。しかし、今年4~8月に再調査すると、取り壊しや建て替えなどで36軒が失われ、245軒になっていた。>と数の減少を心配していますが、町屋所有者・その継承者に残す価値を提示しないと、所有者・継承者にはとても負担が大きいと思います。

 

<市都市景観室は13日の市議会建設委員会で「引き続き地元と話し合い、合意形成を図りながら、必要な規制を検討していきたい」と答弁した。>というのですが、環濠の復活(仮にソウルのような大改造までできなくても、イメージくらいでも)くらいを考えるような施策を提示して、個々の町屋の意義や通りに、一部でも全体としてのまちなみ景観価値を再認識できるものにしないと、難しいのではと思うのです。そうでないと、個々の町屋所有者に窮屈な我慢を強いることになりかねないでしょう。堺市がそこまで統一的なまちづくりができないのだとすれば、新たな視点を見いだすことの方が賢明ではないかと思うのです。

 

今日はこのへんでおしまい。また明日。


くにたち上原景観基金1万人の会 <市民運動の記録が本に>

2018-01-26 | 景観の多様性と保全のあり方を問う

180126 くにたち上原景観基金1万人の会 <市民運動の記録が本に>

 

先日、ブラタモリで田園調布がテーマになっていました。私もなんどか歩いたことがあります。さすがよく整った緑豊かな分譲地です。でもわが国の都市計画法制のなかで、残念ながら当初の田園都市景観は大きく変貌したように思います。

 

ハワードにより提案された田園都市構想は、イギリスで実際に整備されたレッチワースは、よく考えら得た職住近接で、周囲をグリーンベルト地帯という、今なおイギリスの都市構造の基本となっている原型を生み出したともいえるでしょう。また職住近接という基本的な町の構造は、単に緑豊かな整った環境にとどまらない、機能的な内容でした。加えて、放射線状の中心的こそ、古代ギリシア以来の公共空間を配置して、さまざまな公的なサービス提供の施設整備が基本です。

 

たしかに日本でもこの構想後さほど時間の経過を経ず、20世紀初頭に、都市圏の郊外で実験的な田園都市が生まれたのは、当時の都市計画家・事業者に先見の眼があったことは評価されて良いと思います。ただし、鉄道事業の普及との累積的影響を考慮したものとも言える点は若干差し引いて評価されるかもしれません。

 

一つ、補足として付け加えておきたいことがあります。田園都市構想が世界を席巻した当時、イギリス、日本でも都市計画法が全国レベルで整備していませんでした。ローカルルールで開発に対応できていたのでしょう。

その後、戦後になってイギリスは都市・農村計画法(Town and Country Planning Act)を、わが国はイギリス都市計画法を参考にしつつ、69年にまったく異質の都市計画法を、成立させましたが、ご承知の通り列島改造・経済発展に邁進する時代を背景に、開発優先の法制度となっています。ちなみにイギリスでは環境法の一部ともみなされているのですから、大きな違いですね。


その一つ、立川市と国分寺市の間、ということで名前も国立市(当時は村でしたか)に、堤康次郎氏が一橋大学の学長と掛け合って作った、放射線状の整備された分譲地に学園都市が見事に調和した内容でした。

 

残念ながら、戦後は多難な時代を繰り返し、国立景観訴訟でも、不完全な都市計画法・建築基準法を前提に、国立大学通りの景観を侵害するマンション建設に対し市民からの強い反対運動を受けて市長として断固とした法的に対抗した上原公子さんが、最終的に巨額の損害賠償責任を司法によって認定されました。

 

しかし全国の市民は、この司法判断は、上原さん一人の責任ではない、いや責任を取らすこと自体が誤っているとの立場で、くにたち上原景観基金1万人の会を一年前立ち上げ、全国から参加者が次々と募金に応じたのです。その結果わずかの間に5000万円を超える基金が全国から集まりました。

 

今回、『国立景観裁判・ドキュメント17ー私は「上原公子」ー』がその成果を残す形で出版されることになりました。私は末端の呼びかけ人の人に過ぎませんが、運動に尽力された皆さん、そして上原さんにご苦労様といいたいです。

 

この書籍の一部は、和歌山県立図書館と和歌山弁護士会に寄付しました。関心のある方はぜひ手にとって読んでいたければと思うのです。希望者は私に連絡いただければ事情次第で無償ないしは安価でおわけします。


鞆の浦と町保存 <文化審答申 国宝に三重の専修寺・・・など重文に>を読みながら

2017-10-21 | 景観の多様性と保全のあり方を問う

171021 鞆の浦と町保存 <文化審答申 国宝に三重の専修寺・・・など重文に>を読みながら

 

台風21号の暴風雨が次第に近づいてくる気配を十分に感じさせる今日の雨模様です。明日の投票日は相当荒れそうですから今日までに投票を済ませるのも懸命な選択かもしれません。私はあえて多少の雨風があっても明日を選びました。政治の状況はそれ以上に大変な状態かもしれないと思いつつ。

 

ところで大畑才蔵の歴史ウォークは昨日、天候悪化を受けて中止を決断しました。適切な判断だったと思います。早朝はまだ小雨でしたが次第に雨風も強くなり、のんびりと散策を楽しむというより、きびしい試練に立ち向かう、あるいは事故でも起こりかねない天候となったので、よかったと思います。

 

さて今朝の毎日ウェブ情報では<文化審答申国宝に三重の専修寺 京都の松殿山荘など重文に>の見出しでしたが、「景勝地・鞆の浦を選定」と大阪版では大きな活字となっていました。ウェブ情報では選定された3つを簡潔に記載していましたが、大阪版は「伝世の潮待ち港 保存加速」との見出しで、鞆町伝統的建造物保存地区について、真下記者の取り組み20年がようやく結実した趣旨の報告が掲載されています。

 

その記事を参考にしつつ少し経過を書いてみましょう。鞆の浦では、80年代に都市計画道路の架橋計画が持ち上がり、97年に重伝建選定の取り組みが本格化しつつありましたが、その後長期間塩漬け状態となっていました。

 

前者の湾の埋め立て架橋計画は、鞆の浦の景観価値を損なうとして、01年に世界文化遺産財団が「危機に瀕した遺産100」に選定し、鞆の町並み保存活動をしていた住民を中心に景観保護を訴える各地の声が高まりました。私も仲間に誘われ新しい形の訴訟に参加すべく準備を開始したのです。

 

そして074月、約10年前に、05年施行の改正行政事件訴訟法で新設された仮差し止め申立制度を利用して、知事の公有水面埋立免許の仮差止申立を皮切りに、本案訴訟提起と、訴訟手続きにより、鞆の浦の景観価値や鞆町のまちなみ景観価値を保存することの意義を訴えたのです。

 

そのとき鞆の浦の価値について、大伴家持がうたい万葉集に載せた「吾妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき」を申立書や訴状の表紙に記載して、鞆の浦が万葉の時代からいかに日本人の心に訴えてきたかを指摘したのです。

 

その意味で、たしかに鞆町自体は、中世に潮待ち港として発達したのは確かでしょうが、その潮待ち港としての歴史はきわめて古いことを指摘しておきたいと思います。いや、「鞆」という名称自体、神功皇后が朝鮮出兵後大和に東征する際、当地に立ち寄り、自分の鞆を沼名前(ぬなくま)神社に奉納したことから、鞆の浦と呼ばれるようになったという伝承もあるのですから、ほんとに古いですね。

 

なお、不思議なことに、私のもう一つの関心事である当地橋本で発見された隅田(すだ)八幡神社人物画像鏡も神功皇后から下賜されたという伝承があるのです。

 

訴訟は、広島地裁で免許差止を認める判決が出て、広島県・福山市から控訴されましたが、広島高裁での審理開始段階で、広島県知事の架橋計画撤回表明がありその後地元での協議が行われ、最終的には昨年2月には正式に埋め立て免許申請の取下により、事実上の勝利となり訴訟は終結しました。

 

これにより重伝建選定の手続きも加速化されたと思います。鞆の浦の架橋問題が残っていると、町の保存計画も確定しないためです。

 

福山市は架橋して鞆町内をバイパスする道路を開設ことが町の保存と発展が両立するという立場で薦めてきたわけですが、私自身、そのような架橋は鞆の浦の景観を台無しにするだけでなく、道路ができることにより、産業道路化し、大型トラックが昼夜相当量走行することが明らかで、そうなると、鞆の浦と鞆町が育んできた外形的な景観だけでなく、静寂な景観価値をも破壊してしまうことを危惧していました。

 

鞆町内の道路は狭隘で対向車とのすれ違いができないほどですので、大変ですが、むしろその環境を大事に保存することこそ、歴史的価値を残すことが可能になると思うのです。生活者に不便という声もありますが、車が容易に行き交うことの方が危険です。歩行者が大事にされる町並みの保存こそ、生活者にとって安全で快適になるのではと思うのです。

 

ところで、<広島)知事、5年ぶり説明会 鞆の浦計画撤回>の朝日記事にあるように、広島県知事は、今年4月、相対立する住民の中で、撤回の理由を説明しています。

 

そしてこのおうな広島県が架橋計画撤回を地元住民にも説明したことを受け、毎日記事では7月に、<福山市鞆地区、国の重伝建選定へ 住民説明会で保存計画案示す 「整備に制約」反対意見も>と、福山市が本格的に重伝建選定の手続きに入ったことを取り上げていました。

 

では文化庁はどう評価したのでしょう。あまり具体的な評価はわかりませんが、ウェブ上も別格な扱いを感じます。

 

文化庁の<重要伝統的建造物群保存地区の選定について>では、<今回の答申における特筆すべきもの>として、特別に同地区について記載し、<福山市鞆町は,古来より海上交通の大動脈であった瀬戸内海の港町で,周辺の島々と共に成す海域の美しさは,「鞆の浦」として万葉集にも歌われている。今回,重要伝統的建造物群保存地区として選定するのは,江戸時代の町人地のうち,廻船業の中核を成し,近代以降の地割の変化が少なく,江戸時代の町家主屋が寺社,石垣等の石造物,港湾施設などと共に良く残る面積約8.6ヘクタールの範囲である。>としています。

 

同じく参考資料としての<新規選定1万葉の時代より潮待ちの港として栄えた瀬戸内海の港町>にはさらに詳しく書かれています。

 

が、残念ながら、私たちが訴訟で主張したその価値の多様さは、この表現からはなかなか理解できないように思います。訴訟で主張した内容は、以前ホームページでアップしていたのですが、いまはどうでしょう。訴状の後の主張でも相当詳細に鞆の浦、鞆町の価値を具体的に指摘してきました。広島地裁裁判官3名は現地で実際に現場検証として歩き体感したと思うのです。

 

それは文章だけでは理解できない、景観がもつ重要な価値ではないかと思うのです。

 

そんなことを10年の経過とともに、思い出しました。いまも現地で保存活動に頑張っている皆さんに少しでも応援の言葉となればと思うのです。

 

今日はこの辺でおしまい。

 


山の魅力と眺望景観保全 <山が呼んでいる 高見山 霧氷のそばにそっと春>を読んで

2017-02-25 | 景観の多様性と保全のあり方を問う

170225 山の魅力と眺望景観保全 <山が呼んでいる 高見山 霧氷のそばにそっと春>を読んで

 

今朝は少し霜が降りていましたが、作業するにはちょうどよい感じで、ちょっといろいろ家事をした後、竹林に出かけました。先週は久しぶりでがんばったせいか、23日筋肉痛で歩くのも大変といった状況で、今日は少しのんびりやろうと思ったのですが、やり出すと止まらない性分なので結局、あちこち怪我はするはいろいろ大変な目に遭いました。

 

慣れているはずなのですが、斜面で伐倒した竹が適当に置かれているのと、籔状態なので、見えにくいということもあり、なんど転倒したか、やはり年齢も影響しているのかと少々は気になってしまいます。一度は崖状態のところで、滑り落ち、そのままだと後ろ向きに転倒するところでした。川底の岩に頭でも当たれば、一巻の終わりとまで行かなくても意識がなくなるかもしれません。そういう経験もありますが、今回はやっとのことでわずか数ミリの篠竹を一本つかんで転倒を免れました。篠竹の細身でも場合によっては結構、根がしっかり張っていて人を支えることもあるんですね。

 

次は完全に後ろ向きに転倒してしまったのですが、幸い、伐倒した竹木の枯れたのが並んでいて、腰を強く打った程度、大丈夫でした。

 

林業の世界では、ビギナーはもちろん、ベテランでも、いろいろな負傷事故、場合によって死亡事故が起こっています。そういった事故報告を見る機会があるのですが、なんでと思うようなこともありますが、必ずしも油断してたり、本来必要な手順を踏んでいなかったり、といった場合に限りません。で多くはスギ・ヒノキの伐倒やその後の作業中に発生しています。ただ、竹木についてはあまり聞かないのですね。

 

ということは私のやり方に問題があるのかなと思いながら、おそらくこんなに整理されていない竹木で作業をやることはないのではないかと勝手な解釈をして、自分のいろいろの負傷は仕方ないと手前味噌の言い分を考えています。

 

ところで、昨日の夕刊から今朝の毎日記事ですが、相変わらずトランプ旋風から、金正男氏殺害事件でのトリック的なVX使用、豊洲問題の百条委員会の行方(これも心配?です)、森友学園との国有地売買における廃棄物処理の不可解さ(昭恵夫人が名誉校長を辞任したのは当然でしょうがそれですむのか?)、相模原障害者施設での大量殺傷事件について責任能力をめぐる公判の行方とか、東芝の子会社WHの破産申請の可能性とか、あげればきりがありませんが、結構、深い闇に包まれているような事件が続いているように見えます。

 

いずれまた、それぞれの事件の進行に応じて、時折、取り上げたいと思いますが、今日は、いつもというか、ある山のことがとても気になって、あれこれ調べていたのですが、どうしても特定できないでいたのが、昨日の毎日夕刊の記事(見出し)でようやく分かったことから、少し山について考えてみたいと思います。

 

その山は、朝、紀ノ川河岸道路を車で走っていると、澄み切った空のとき、やはり冬の青空でしょうか、そういうときに、すごく美しシルエットを見せてくれるのです。三角錐のように見えるのです。遠くなので、よほど注意して目をこらしていないと、その河岸道路を車で走っていても、あるいは歩いていても、気がつかないと思います。

 

でも私は遠くの山を見るのが割合好きで、和泉山系(これはさほど遠くはありませんが)も一つ一つの頂が気になります。役行者が修業のために金剛山系から西端の加太の海辺まで続く山並みですが、その表情は場所場所で相当異なります。和歌山まで出かけるのは疲れるので、あまり好きではないですが、紀ノ川のと和泉山系の景観を見るのは慰めとなります。

 

脱線しましたが、その山は遠くに離れていますが、とても誇らしげに感じるのです。そういえば横須賀に住んでいた頃、60km離れた筑波山の山影が年に何度かわが家から見えました。これがまた素晴らしいのです。それと同じように、たまに見える、遠くに見える、形の見事さは、気になる存在でした。

 

それが毎日記事で、「高見山」ということが分かりました。記事だけ見ても、霧氷が輝く美しい写真があったり、<頂上からは360度のパノラマビューが楽しめる、はずだったが、視界はゼロ。>というものの、山容が分かるような写真が掲載されていなかったので、最初は疑心暗鬼でした。このウェブ情報にはありませんが、新聞記事では、<奈良県東吉野村>という位置、「関西のマッターホルン」という表現がされていたことから、この山に違いないとほぼ確信しました。

 

そして今日の午後、ちょっと仕事ででかけて帰ってきて、ウェブ情報で高見山の写真を確認すると、まさにこの山容こそ、私が追い求めていた山だと改めて確認できました。地図で調べると、4050kmくらいは離れているのでしょうか、結構離れていますが、やはり、「関西のマッターホルン」と言われるだけの見事な景観です。高さがわずか1248mしかなく、若干小ぶりですが、周囲や前景に見える山並みの中で突出した雰囲気は、高さではないと感じます。

 

私はカナダ・カルガリーに滞在していた頃、市の境界付近でしたが、ちょうど遠く100数十キロ先にロッキー山脈が家から毎日見えていたので、それを眺めるのがとても心地よくしてくれました。一杯のコーヒーが壮大で冠雪がどこまでも連なる眺望景観で心が満たされていました。で、早朝のドライブの年にそれほどない、そのマッターホルン的景観が眼に入ると気持ちが癒やされます。

 

さてこのあたりで、山の魅力というか、山に対する人の意識なりと、眺望景観の保全というテーマについて、少し触れてみたいと思います。

 

わが国における景観保全の運動としては、大佛次郎氏が中心になって大きな話題となった「御谷(おやつ)騒動」が初期の一つではないかと思います。鶴岡八幡宮の裏山で開発計画が取り上げられたとき、大佛氏ら著名文学者がその保全運動、開発反対運動を繰り広げ、開発が撤回されたと記憶しています。その後、古都保存法ができ、鎌倉、京都、奈良でしたか、地域指定して開発を規制するようになりました。

 

そのときテーマは古都の歴史景観だったと思います。ただ、どこまでが保全の対象となるかについて、景観概念自体がまだ確立していない時代ですから、法的に明確なメルクマールで、線引きがなされたかとなると、疑問を感じています。

 

御谷の付近は、その後私自身も保全運動に係わり、枝打ちや間伐の真似事をしたりしましたので、その雰囲気はそれなりに分かっています。八幡宮の裏といっても、三輪山のように八幡宮のご神体があるわけでもありませんし、宗教的な意味合いで保全すべき対象となる景観といえるかは、その形態・地理的関係・歴史的沿革などから、そういえるかは気になるところです。

 

鶴岡八幡宮の裏山を含め周辺の山の景観ですが、維新時に異邦人に撮影された写真が残っています。見事にはげ山状態です。江戸時代では奥山は別として、里山は、農作業に不可欠なところで、草・枝条・柴・葉っぱは刈敷などとして利用されていました。木々は燃料として、各種の用材として、活用されていました。それは神社でも寺院でも同じです。

 

19世紀初頭の紀伊の各地を描いた、たしか「紀伊国名所図会」でしたか、高野山も描かれていますが、やはり木々はわずかしか描かれていません。神官も僧侶も寒さには勝てないでしょう(道元の永平寺とか厳格なところは別でしょうが)。

 

なぜこういったことを書くかというと、なぜ山の眺望景観を保全するかといった場合に、その根本があまり議論されていないように思えるのです。

 

古都保存法の後、全国各地で景観保全を目的とする条例ができたり、その後何十年もたってようやく景観法ができ、各地で景観保全地域などが当たり前のように生まれていますが、山への眺望景観を保全する根本が明確になっていないように感じるのは私の誤解でしょうか。

 

とりわけ大規模事業に適用される景観アセスメントや、各地の景観保全マニュアルなりガイドラインでは、たとえば<山の眺望景観保全における視点場設定と高さ制限に関する研究>といった景観工学的なアプローチが通常なされていますが、それはそれで、ひとつ見方として、尊重されることは私も賛成です。視点場設定(俗に言えば、ビューポイントでしょうか)とか、建物等の高さ制限の視角、視野などを数字的に説明するにはある種、理解を得やすいと、多くの行政マンは考えているように思えます。

 

ではなぜ山への眺望を保全する必要があるのかについては、あまりはっきりした議論がないように思うのです。さきに御谷騒動を取り上げたのは、多くは当然のように、「山は古来より信仰の対象として親しまれてきた」といった見方がされるものの、それはどういうことかについては、釈然としていないと思います。

 

仏教の世界では西方浄土と言われ、西方に浄土があるわけですから、山が信仰の対象とはいえないように思うのです。そこで山折哲男氏のように、霊魂は山に帰るという考え方が昔から日本人の心の世界に宿っていたといった言い方(すみませんおぼろげな記憶です)で、村々では山に霊魂が帰るから、山を信仰の対象としてきた、山川草木悉皆成仏も日本人が抱いていた伝統的な信仰心に仏教が受け入れたとも言われています。

 

いずれにしても山は死者の霊魂、死者の黄泉の世界とも言われてきたのではないかと思うのです。だから山は大事にする、信仰の対象ともなってきたのではないかと考えるのです。でもその山は、立入を禁止するようなことは、奥山は別にして、里山はみんなが利用する山ではなかったのかと思うのです。

 

利用する山であっても、眺望しその景観を楽しむといったことは、庶民の世界ではあまりなかったように思うのです。高い身分の人もまた、日本式庭園が普及した室町時代以降に、借景としての背景の山が眺望景観の対象となったのではないかと思うのです。

 

では現代における山の魅力は、というと、極めて多様であり、少なくとも地域地域でその魅力や価値を確立していくことが肝要ではないかと思っています。

 

最後は、相変わらず飛躍の連続となりましたが、景観保全という問題の本質について、しっかりとした議論がなされていない、そこにわが国の心の貧困を感じています。