たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

大畑才蔵考(その11) <才蔵の評価についての高野山支配との関係で私見を少し試みてみようかしら>

2017-10-18 | 大畑才蔵

171018 大畑才蔵考(その11) <才蔵の評価についての高野山支配との関係で私見を少し試みてみようかしら>

 

今日はなんとブログを開始して一周年記念? 実際始めたのはその数年前ですが、3日坊主ならぬ、2日で打ち止め。当時はまだ腱鞘炎など痛みがひどく試しに始めようとしましたが、痛みの方が勝ってしまいました。それからfbに参加し、これも最大半年くらいしかつづかなかったかもしれません。その都度痛みで頓挫したように記憶しています。その意味で今回は一年続いたのですから、自分ながらたいしたものだとおもいます。時折痛みがありますが、以前ほど強くないので、2000字くらいは平気になりましたか。リハビリ気分が本格的になってきたように思います。fbでも同じにような感じというかもう少し整理して書いていたように思いますが、そうすると時間がかかってしまい、仕事にも差し支える(ほど仕事していませんが)ということもあり、このブログのように思いつくまま書きなぐりでご勘弁を願っています。

 

さて、一周年といっても特別の企画はなく、というか今日は法律相談、その後に和歌山に行く予定でしたので、1時間の余裕が相談の合間しかなかったのです。ところが相談が長引きブログを書く暇もなく、和歌山に行きました。それで久しぶりに自宅でラップトップで書こうかと思ったら、法律相談のとき電源を切るのを忘れていて、電源が残っていません。

 

仕方なく、再び事務所に戻りいま書き始めた次第です。

 

本題に入る前に、夕方、和歌山まで行った理由に触れておきます。夜のドライブ、しかも高速を使うのはとても今の私には危険で、リスク回避からはこれまで避けてきました。それなのにわざわざ行ったのは、私の親友がある選挙にでるということで東京から和歌山までやって来たので、久しぶりに会っておきたいと思ったからです。彼は才能豊かでリーダーシップがあり、とても私が太刀打ちできる相手ではありませんが、なぜか気が合うのです。方向性も違うのですが、彼の考え方の基本は私も賛同するので、彼が目指すことに少しでも支援したいと思っているので、邪魔にならないよう、出かけていったのです。

 

さて本題に戻ります。今日は遅くなったので、ほんのさわり程度にしたいと思います。

 

大畑才蔵が紀ノ川北岸にそって小田井、藤崎井など、大灌漑用水を開設したというその土木遺産は、先に紹介しましたように、世界かんがい施設遺産として登録認定されました。では、その事業の意義は何か、この事業の難点の一つである、多くの交差する河川を横断して用水を通す工事の技術面でした。たとえば穴伏川という大きな河川を渡すのに渡樋施設として龍之渡井を作ったことや、伏越という川の下をくぐらせる手法とか、さまざまな工法を使っている点でしょうか。それに加えて長距離にわたるわずかな勾配を整備するため、正確な測量を行うため、水盛り台という測量道具を開発して、実施するなど、その土木技術は秀でたものであったことがその重要な要素の一つといえるでしょう。

 

しかし私は異なる側面に光を当ててみたいと思っています。その前に西山孝樹・知野泰明著<紀の川上・中流域における近世中期以前の灌漑水利の変遷> に少し触れておいた方がいいかと思うのです。これは両氏による<応其上人に関する研究>に続く論文で、才蔵の事業の位置付けを理解するにおさえておくべき視点ではないかと思います。

 

それは従来、関東流と紀州流という2つの対立軸で江戸中期の治水技術を論じる考え方が普遍していて、才蔵は紀州流の祖であるとか、あるいはその上司であった井沢弥惣兵衛がそうであるとか、当然のように紹介されてきましたが、それは大河川の治水技術として川筋を直線化したり、連続堤防を設置するといった趣旨で紀州流をとらえる立場でしたが、井澤も才蔵もそのような事業を行ったことがないことが、上記論文で指摘されています。

 

私自身、以前のブログでもこの点は指摘していますが、あまり意味のない立論だと思い、これをいつまでも議論することは有益でないと思っています。どうような議論は林業分野で明治以来行われてきましたが、無益ではないかと思っているのです。

 

それはともかく、西山・知野氏の論文で注目すべき点は、才蔵の技術が、その一世紀前に行われた応其上人によるため池かんがいなどの技術が継承されたのではないかという点です。両者の土木技術のどの点が具体的に共通性があり、継承されたと見ることができる技術的な根拠があるかという点は、まだ私には腑に落ちないところがありますが、参考に値すると思っています。

 

ですが、私がここで取り上げるのは、土木技術の継承という側面ではなく、強いて言えば、技術的にはもっと早い段階で、このようなかんがい事業を行うことが可能であったのではないかという点と、それが17世紀末以降、18世紀初頭にかけて花開いたのは歴史的な経緯があったのではないかという点です。

 

これはまさしく試論というより、まだなんとなく思う程度ですが、高野山支配と関係するという見方です。

 

高野山の領域は、空海が816年嵯峨天皇から開山の勅許を得たとき、その四囲が決まっていました。その後平安中期から末期に欠けて、藤原道長からはじまり、白河、鳥羽各上皇などが次々に紀ノ川両岸を高野山に寄付しています。

 

紀ノ川右岸が相当入れ乱れる形で、領主が異なっていました。たとえば東からいけば、桛田荘は神護寺、名手荘は高野山、その隣は粉河寺と。で、名手荘と隣の荘園との間には名手川が流れていますが、元の名前が水無川と呼ばれていました。

 

つまり水の流れない川ですから、当然、川を挟んだ両岸で水戦争が起こるわけですね。それがわが国でも例がないほどの200年以上にわたる争論という裁許、戦争沙汰が続いた根源でもあるわけです。あの鎌倉時代に始まり戦国期まで続いているのです。六波羅探題では対処できず、鎌倉幕府も裁許を出しても決着せず、朝廷がでていっても収まらなかった大騒動です。

 

それがいつのまにか収まったのが、信長による根来寺、粉河寺の殲滅、そして秀吉による高野山攻めと応其上人の立ち会いによる和睦で、先に述べた白河上皇らの寄付を帳消しにして空海が下賜された元の領土にもどった頃から、紛争が収まったとされています。

 

この経緯は、服部英雄著『名手・粉河の山と水―水利秩序はなぜ形成されなかったのか』(『土地と在地の世界をさぐる-古代から中世』内)で指摘されている一部をかなり大ざっぱにまとめたものです。

 

ただ、私はこの服部説にも疑問があります。服部説では、秀吉が紀州一国を支配し、弟秀長に領地支配を任せた結果、秀長の治世で、名手と隣の荘園が統合され、水争いがなくなったというのです。たしかにその要素は大きいかと思うのです。

 

ただ、秀吉に安堵された高野山は、それで満足していたかどうかなのです。少なくともその後100年以上にわたって、学侶方と行人方が対立抗争を繰り返していたことは間違いありません。その事情は定かではありませんが、秀吉によって領土を17万石から21300石に減らされたのですから、戦争で灰燼にされるのを避けられた当時は我慢していたかもしれませんが、再び領地支配の力が及んだ可能性を否定できないと思っているのです。

 

それはたとえば、紀ノ川南岸の荒川荘が美福門院から高野山に寄付された後、対岸の田中荘との対立抗争が絶え間なかったのです。西行物語では、弟仲清が支配していた田中荘(田仲荘とも表記される)が荒川荘の高野山僧侶によってなんども略奪されることを心配している様子がえがかれています。これに対し高野山文書などでは逆に仲清(兄と表記)川が暴力的に侵奪すると批判しています。このように高野山領をめぐってはなんども土地紛争が繰り返されており、秀吉との一時的和解で決着できたとは思わないのです。

 

実際、その功績者である応其上人は、関ヶ原の戦いの後徳川支配が確定し、その後しばらくして高野山から離れています。

 

で、高野山紛争は1692年、才蔵の30年にわたる調査をも踏まえて、寺社奉行が高野山の麓、橋本まで出かけてきて一大裁許を行い、行人方500人以上を追放し、1000か寺以上を破却して、ようやく高野山が落ち着いたのです。その直後に、かんがい用水事業が名手川のそば、藤崎井から始まっているのです。

 

私はこれが偶然ではないと思っています。河川を横断するかんがい事業は、既存の水利権秩序に新たな配水秩序をもたらすもので、あえていえば、水利権革命をもたらすものです。それができたのは、紀州藩が紀ノ川北岸に確立した用水支配権について、高野山の影響を取り除いた後にようやくできたのではないかと、ちょっと考えてみました。

 

飛躍の多い推論ですが、西行の高野山30年滞在の理由とも関係して、なにか才蔵の高野山探索30年と関連するなにかがありそうな気がして、勝手な推論をしてみました。

 

今日はこの辺でおしまい。