たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

亀形石と水 <大阪・四天王寺 「亀形石」>などを読みながら

2019-04-27 | 古代を考える

190427 亀形石と水 <大阪・四天王寺 「亀形石」>などを読みながら

 

一昨日のNHKクローズアップ現代プラスでAIで将来代替される職種が話題の一つになっていました。タイトルは<AIに負けない”人材を育成せよ ~企業・教育 最前線~>で、上記以外に認知症を防ぐ、あるいは直すといったさまざまなAIの可能性も取り上げられていました。その代替されうる職種が私たちが現在、日常的に利用しているほとんどのサービスをカバーしている感じですね。上記ウェブ上にその表がアップされていますが、90%以上に行政書士や税理士が、50%以上に公認会計士や司法書士が上がっています。弁護士は入っていませんが、どうでしょう、私が以前このブログでも書きましたが、50%以上までいくかわかりませんが、相当程度カバーされると思っています。

 

他方で、行政書士も複雑な事案ではAIでも対応できないと思います。むろん税理士、公認会計士、司法書士も同様ですね。番組で解説されていた創造力やコミュニケーション力などそれぞれの職種でよりレベルアップした能力が求められるのではないかと思います。

 

それから今後の(幼年期を含めた)教育のあり方について、松尾豊さん (東京大学大学院 教授)と田坂広志さん (多摩大学大学院 名誉教授)の意見が対立したのが興味深かったですね。前者はAIを積極的に採用で、後者はある一定の年齢まで制限・禁止するというものです。先進国でも両方のやり方が行われているようです。当然でしょうね。一つしかないと考える方がおかしいでしょう。義務教育でもそうでしょう。

 

さて、この話題はこの程度にして、今日の花言葉に移ります。今日は姫うつぎを取り上げます。<5月19日の花ヒメウツギ(姫空木)>によると、<秘密・秘めた恋・夏の訪れ・古風・潔白>ということです。この中で、<古風>というのはなんでしょう。清楚な雰囲気もあることから、その延長線でしょうか。潔白ということばも、秘密とか秘めた恋から怪しまれつつも天に恥じないということでしょうか。まあ、いろいろ考えるものです。私のように創造力の乏しい人間には花言葉で楽しめます。

 

さて本日のお題に入ります。今朝の毎日記事で大きく取り上げられ、①<大阪・四天王寺亀形石、7世紀に製作 国家祭祀用か>②<大阪・四天王寺「亀形石」7世紀製 酒船石遺跡に同遺構 祭祀跡か>③<大阪・四天王寺亀形石造物 1300年、祈り映す亀 国家から庶民へ>の3つがアップされています。

 

<四天王寺(大阪市天王寺区)は26日、建立の祖・聖徳太子の没後1400年忌(2022年)に向けて、境内の亀井堂にある亀形石造物を初めて学術的に調査したところ、7世紀に造られたものだったと発表した。>聖徳太子の没後1400年忌ですか、日本書紀では旧暦25日薨去とされていますね。

 

亀形石造物が7世紀製作とした根拠について、<女帝・斉明天皇(在位655~61年)の祭祀(さいし)遺構とみられる奈良県明日香村の酒船石(さかふねいし)遺跡で2000年に発掘された亀形石造物と年代や規模、構造がほぼ一致した。>と、有名な酒船石との比較検討の結果のようです。

 

②の記事に両方の写真が、③の記事に両方の図が掲載されています。これで違いがある程度分かります。酒船石は多くの人が見たことがあると思います。私も一度見たことがあり、斉明天皇時代の特徴的な石造物の一つかなと思うのです。

 

この両者の違いについて、<網伸也・近畿大教授(考古学)は、四天王寺と飛鳥の亀の表現を比較し、前者は爪や甲羅の表現が写実的だが、後者は「漫画チック」だと指摘。>のとおり、前者は誰が見ても亀ですが、後者はデフォルメしていて、別の意味で芸術性を感じます。

 

この比較から、網氏は、<「四天王寺の方がより古く、仏教を重んじた孝徳天皇に関わる施設ではないか」と話す。>とされていますが、四天王寺の方を古いと推認できる根拠としては上記の差では弱いと思うのですが・・・まして難波宮に都を移した孝徳天皇に関係する施設として、孝徳朝につくられたとみるのはまだ早いのではと思うのです。だいたいこの亀形石造物が仏教とどう関係するのでしょう。日本書紀の記載にそのようなことがうかがえるものはなかった記憶です。この点はすでに諸説あることが記事でも指摘されていますが、想像の域を超えない感じです。

 

余分の話をしてしまいました。この石造物自体に迫りたいと思います。

 

石造物がある<亀井堂は五重塔や金堂など中心伽藍(がらん)の北東に位置。>

その亀井堂の中に③の写真で見られるように、おそらく地表面から階段で降りていったところに、湧水源があり、そこから2つの亀の石造物が繋がっているようです。

<現在の地表面から約1・5メートル低い水の湧く場所に、1対の2匹の亀が向き合う形で据えられている。現在は、上の亀(全長122センチ、幅154センチ)の口から流れ出た水が下の亀形水槽(全長215センチ、幅152センチ)にたまる仕組み。水面に戒名を書いた経木(きょうぎ)を浮かべ先祖を供養する「経木流し」の場として今も用いられ>てきたそうです。

 

その点、酒船石は、私の記憶では、石造りの水道から水を引き、長方形の貯水槽で一旦水をため、そこから亀をデフォルメした水槽?に注ぎ、さらにその先には排水?するようになっていたかと思います。一見すると、両者の思想に共通するものがあるとはいえないと思うのです。とはいえ、深い意味合いがあるのかもしれないので、ここは断定しませんが。

 

で、この石造物が7世紀製作とした根拠については

<今回、石の材質を調べたところ、下の亀形水槽と上の亀の台座部分(手足含む)は、凝灰岩の一種「竜山(たつやま)石」の巨大な一枚岩を削り出して造られていた。また、台座部分は元は水槽だったが、上の亀の頭と甲羅(いずれも花こう岩)が後世にふたをする形で補われ、手足もその際に付け足されたことがわかった。>

このことから、両者の形態上の相似性を認めたのでしょうかね。私は上の亀はともかく、下の亀がかなり異なる形態に見えるのです。

 

他方で、材質や祭祀がどうやら決め手になったようです。

<元文研の佐藤亜聖主任研究員によると、大型の竜山石は、7世紀に大王家の石棺や藤原宮の大極殿など王権中枢部で限定的に使われたという。また、水槽を並べて水を流す祭祀形態は古墳時代からあったが、8世紀になると見られない。加えて、酒船石遺跡と同じく亀形石造物に水が流れる構造で、同様の役割を果たしたと考えられることから、亀形水槽と上の亀の台座部分は、7世紀にさかのぼると判断した。>とのこと。

 

竜山石の利用が限定されていたことは説得力がありますか。ただ、水槽を並べて水を流す構造を前提に、祭祀形態としていますが、亀井堂の方はどうも流すというより、明確な貯水槽ですね。現在経木を浮かべているという利用の仕方が自然ですね。建造当時は酒船石のように流すようにできていて、その後閉めたというのであれば別ですが。それに足部はべつにして、斉明朝の多様な石造物とも明らかに異なる意匠ですし、それ以前、あるいは前後に類似の形態の石造物があったのでしょうかね・・・

 

そんなことは本日の主題ではないのに、また脱線が延々と続いてしまいました。今日のお題は水、しかも湧水です。四天王寺がある位置はたしか上町台地(あるいは孝徳期は岬?)であったと思うのですが、台地ですし、その西はなにわの海、東側は湿地か湖に近い状態であったのではと思うのです。すると水をどのように工面していたのか気になっていましたが、この亀形石造物は地表面から1.5m下に湧き水が出ていたようです。四天王寺は台地(岬)の根元付近であったのではと思うのですが、南方から石川や大和川など多くの河川が北流し、その一部が伏流水となって台地の下を通っていたのかなと勝手な想像を働かしました。

 

仮に仁徳天皇がいて最初に上町台地に都を建設したとすると、そのとき水をどうしていたのかといつも気になっていました。孝徳天皇の場合、仁徳時代に湧き水の水源を発見していたのであれば、上町台地に都をつくることに水の面では支障がなかったかなと思うのです。

 

他方で、天水だよりの時代、日照り旱魃のおそれを常にかかえていたことから、祭祀説も指摘されていますが、上町台地では生活の飲み水としても大事な水源であったのかなと思うのです。

 

思いつきはこの程度にして、今日はこのへんでおしまい。また明日。

 

 


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