たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

大嘗祭 <特例退位、国民が共感 異なる天皇像の間で>などを読みながら

2019-04-30 | 古代を考える

190430 大嘗祭 <特例退位、国民が共感 異なる天皇像の間で>などを読みながら

 

高野山の峰々が新緑と杉檜の濃緑と混じり合って鮮やかです。今日は天皇退位の日ですね。穏やかな一日が終わろうとしています。今日の花は退位とは関係なくティアレラ スプリングシンフォニーを選びました。とても可憐で清楚な印象の花です。花言葉をネットで探しましたが、見当たりません。ネットでアップされた写真の中には花弁が大きく捉えられていて、その感じがよくでています。小さな花弁なので、遠目だとほとんど形が見えず、綿帽子がほっそりした感じに見えます。でもしっかりした美しい花弁をもっていることがネットの写真ではわかります。

 

ところで、今朝の毎日は当然のように、第一面に<皇室天皇陛下きょう退位 202年ぶり、憲政史上初 平成の30年終わる>と大きく取り上げています。また、<皇室天皇陛下きょう退位 儀式、極力簡素に 陛下の意向尊重>では、皇位継承の儀式の主なものが下記の内容で掲載されています。

 

◆皇位継承に関する主な儀式

退位に関する儀式

 3月12日 賢所(かしこどころ)に退位及びその期日奉告(ほうこく)の儀

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   26日 神武天皇陵参拝

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 4月18日 伊勢神宮参拝

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   23日 昭和天皇陵参拝

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   30日 退位礼当日賢所大前の儀・退位礼当日皇霊殿神殿に奉告の儀

       (午前10時~)

       …………………………………………

       退位礼正殿の儀★

       (午後5時~)

即位に関する儀式

 5月 1日 剣璽(けんじ)等承継の儀★

       (午前10時半~)

       …………………………………………

       即位後朝見の儀★

       (午前11時10分~)

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10月22日 即位礼正殿の儀★

       …………………………………………

       祝賀御列の儀★

       (パレード)

        …………………………………………

       饗宴(きょうえん)の儀★

       (25、29、31日も実施)

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11月14、15日 大嘗祭(だいじょうさい)

 ※★は国事行為の儀式

 

この生前退位と儀式のあり方については、憲法との整合性等をめぐり、三面の<クローズアップ特例退位、国民が共感 異なる天皇像の間で>記事で整理しています。まあ、この憲法論議はここではとりあげません。

 

最近、天皇の退位をめぐっていろいろ議論が喧しいので、私も少し勉強しようと、たとえば岡田荘司著『大嘗祭と古代の祭祀』などを最近読み始めています。この本をちらっと斜め読みしていて、興味深いところがあったので、今日はそれに触れてみたいと思います。

 

この著作では、平成天皇が即位した後行われた大嘗祭をめぐる当時の議論を最初に整理して、その後に展開された議論を次に収めています。

 

大嘗祭といっても、あまり関心のなかった私には、この著作で律令時代や平安時代、さらにその後の資料を踏まえて儀式の有り様を丁寧に記述している点は参考になります。図入りの解説で、とても面白く読めました。

 

で、大嘗祭はというと、おおざっぱに言えば、新たに即位した天皇が天照大神と食事を供にし(食事を提供するわけですね)、一夜を共にするという2つで構成される分けのようです。

 

岡田氏は、上記の後段に当たる一夜を過ごす点について、多数説となっている?折口信夫が唱えた聖婚儀礼説に対して、そうではないと反論を膨大な資料を踏まえて行っています。まあ、私にはあまり関心のない世界なので、どちらでもいい話です。ただ、岡田氏が大論文を書いて「厳粛・素朴な国家最高の『饗(あえ)の事(こと)』と指摘されている結論に異論はありませんが。他方で、聖婚儀礼説というのはそれが多数説ないしは通説になっていること自体が不思議です。

 

それより私が興味を抱いたのは前段の共食ということです。

 

岡田氏の言葉を引用すると、「大嘗祭の中心儀礼は、嘗殿における天皇「御」一人による神膳供進・共食(薦享の儀)と“真床覆衾”の二つの儀礼から成り立っているといわれてきた。」とされている、「共食(薦享の儀)」という用語です。

 

薦享(せんきょう)の儀という名前ですが、なぜ薦享というのか、説明がありません。それが岡田氏が多数引用している儀式を詳細に記述して残してきた律令・平安時代やそれ以降の記録にもなさそうです。

 

強いて言えば、著作の中で「『礼記』五(王制)には「天子諸侯宗廟之祭、春日柏、夏日締、秋日嘗、冬日系」とあり、同書(月令)にも「是月也、農乃登穀、天子嘗新、先薦寝廟-」とある。すなわち、中国の秋の収穫儀礼は「嘗」であり、新穀を租廟に薦め、天子もいただかれる。」という記述から、「薦享」ということばが儀式用語として使われたのかなと推測するしかないのです。「薦」ということばがなぜ使われたか勝手な関心が働いたのです。

 

ただ、寝床の畳にも、薦が必須とされていて、7枚ないし8枚とのことで、それが多少影響しているのかと思いながら、やはり格調高い『礼記』の記述からとったのかなと思うのです。

 

どうでもいい話ですが、個人的には気になるのです。

 

より興味深いのは食事として出される食物ですが、海山川の産物、とくに海産物が貴重なものとして取り上げられつつ、主食として米と粟となっている点です。そう粟が米と同等に位置づけられていたのです。この点、岡田氏は、飢饉など災害対策として粟を生産貯蓄していた趣旨を指摘しています。私は庶民にとって戦後初期くらいまでは米はぜいたくなものであったと思うのです。まして戦前や江戸時代以前は庶民には手に届かないくらいのものであったと思っています。大畑才蔵の記録では米を食べるのは年に数回と彼の清廉さを示す記述が残っていたと思います。粟や稗、麦・豆など雑穀が主食であったと思うのです。

 

それくらいは天皇でも承知していたと思います。陸田で育つ粟は縄文期以来、日本人にとって大事な食料であったと思うのです。それだからこそ、五穀の代表として粟を薦享(せんきょう)の儀に提供していたのではないかと思うのです。

 

それ以外に、竹・藁を使う様式が現在も続いているなど取り上げたいことが残りましたが、今日はこの辺でおしまいとします。また明日。


日本橋高島屋 <森まゆみ てくてくまち再見>を読みながら

2019-04-29 | 心のやすらぎ・豊かさ

190429 日本橋高島屋 <森まゆみ てくてくまち再見>を読みながら

 

今朝はある事件の医療記録の整理をしていて、少し煩雑だったことから、気分転換に小田井堰を歩きました。大畑才蔵考などとブログに書きながら、遠目では見ていましたが、近くまで行ったのは初めてでした。ただ、立入禁止の表示とチェーンが張られていて、間近に近く付くことはできませんでした。

 

代わりに、紀ノ川の河川敷に降りて、砂利が滞積する大きな河原、さらに小さな流れに残った石伝いにちっちゃな中州までいって、正面から小田井堰を見ました。今年の大畑才蔵ネットワーク和歌山の歴史ウォークは小田井堰からのコースになりそうです。そのときは小田井土地改良区のYさんに解説してもらおうかと思っています。

 

その河原にもいくつかのきれいな野草が咲いていて、今日の花言葉に選ぼうかと思いましたが、まだ事務所の花シリーズ?が始まったばかりなので、もう少し続けることにしました。

今日はヘリオトロープです。小さな花弁ですが、元気で長く咲いていて、結構いいです。さっと枯れてしまうのも可憐かもしれませんが、長く咲き続ける元気印もいいです。さて<ヘリオトロープの花言葉>によると、<「献身的な愛」「夢中」「熱望」>が花言葉だそうです。名前の由来も<花言葉の「献身的な愛」は、太陽神アポロンに恋をした水の精クリティが、ヘリオトロープに姿を変えたというギリシア神話>からきているそうです。太陽神アポロンを仰ぎ見続けたとのことですが、それくらい強靱なのかもしれません。

 

さて今日のお題ですが、簡単にまとめようかと思います。毎日朝刊<週刊サラダぼうる・森まゆみてくてくまち再見 日本橋高島屋 増改築で風格高く>で、日本橋高島屋が2009年に日本の百貨店で初めて重要文化財に指定されたと紹介されています。

 

その理由は<重文指定に関わった後藤治・工学院大理事長が高島屋史料館TOKYOでのセミナーで語った。

 「各地のデパートを見て歩きました。デパートは営業し、客が入る場所ですから増築が多い。それもどんどん雑になるのが通例。高島屋の場合、当初の建築も優れているが、増改築もレベルが高く、元の建物と一体となって品格を保ち、価値を増しているというのが、指定の決め手になりました」>

 

当初は<33年に新築した時はコンペで当選した高橋貞太郎(1892~1970年)の設計>で、<戦後、改修をしたのが村野藤吾(1891~1984年)>で、<2人の仕事が不可分なものとして価値>があることが指定理由とのこと。

 

でもこれでは中身がよくわかりませんね。森さんは建築が専門ではなかったのではないかと思いますので、<京都工芸繊維大の松隈洋教授>の話でしょうか<7、8階の増築は高橋案を生かして黄土色の古典的なスタイルにし、その下3階から6階までガラスブロックを積み重ね、明るさとモダンさを出している。あそこに蛇みたいな愉快な意匠が挟まっているでしょう。あれも面白い>というところに多少、意匠面でのユニークさと価値が認められたのでしょうか。

 

これでは日本橋高島屋のよさがやはり分からない。私は日本の百貨店の中で最も好きなのがこの店です。といってもそんなに多くの百貨店を行脚したわけではないですし、ここ20年くらいはたぶん行ったことがないと思います(難波とかでちょいと買い物がある程度です)。私が通っていたのはバブル期前後の90年ころでしょうか。日本橋三越や銀座三越、新宿伊勢丹などいくつかの店を時折訪れていましたが、やはり日本橋高島屋はとても落ち着くいい雰囲気をもっていました。正面階段を上がるときが気分よく、そのときの周囲の落ち着き、2階に並んだ店舗の気品みたいなものがすてきでした。むろん店員さんの何気ない対応も心安らぎました。こんな感覚を日本で味わうことができたので、海外に出かけていっても、どんな店に入るときもさほど気後れすることがありませんでした(まあ、どうでもいいことですが)。

 

それは建物がもつ全体の雰囲気、松隈氏が指摘するような意匠デザインなど、豪華を競うこともなく落ち着きをもった品の良さを感じさせ、店内を歩く顧客層も雰囲気に馴染んでいたように感じます。2000年代に入りショッピングセンターといったものが各地で増大し、そういった雰囲気は消し飛んでしまいました。そこには建築家の魂というか、心意気といったものはうかがえません。商品は多様で多種大量、サービスも多様かもしれません。しかし、そこには私の落ち着くような雰囲気や場所もなかなかありません。高齢者のぼやきになりました。

 

ぼやきはほどほどがいいようで、今日はこの辺でおしまい。又明日。


古代に惹かれる <謎に挑む、盗掘を阻む><『新しい古代史へ1 地域に生きる人びと>などを読みながら

2019-04-28 | 古代を考える

190428 古代に惹かれる <謎に挑む、盗掘を阻む><『新しい古代史へ1 地域に生きる人びと>などを読みながら

 

今日は連休2日目ですか。田舎は静かです。静寂といってもよいでしょう。聞こえるのは鳥の声くらいでしょうか。連休をあちこち出かけて混雑に拍車をかけるのもそれぞれの感性ですのでそれもよいでしょう。今朝の毎日一面で大きく取り上げていたいのは<西日本豪雨10連休、被災地で汗 岡山・真備で写真洗浄/広島・呉で畑を修復>でした。こんな連休の過ごし方もいいですね。

 

さて、今日の花はトリアシスミレ。<トリアシスミレの花は>に写っている花とは少し違う感じですが、葉の形が変わっていて、先端で細く別れていて、鳥の足に似ていると言われると、はあ、と思いつつも、まあ、ネーミングですからOKでしょうか。花弁の色・形を無視しているところがちょっと面白いです。その花言葉は<「誠実、小さな幸せ」>ですか。

 

さて、古代においても誠実さはやはり評価されたのかもしれません。塩野七生著『ローマ人の物語I ローマは一日にして成らず』をざっとですが読み上げました。登場する人物が多すぎて地理も不案内なためまだぼやっとしたところにあります。次は途中をとばして一挙に『ユリウス・カエサル』を今日から読もうかと思っています。というのはアマゾンのプライムビデオでは、ROMEというタイトルで、紀元前50年ころから30年ころまでのローマを、カエサルやアントニウスなどを中心に長編ドラマとして描いていて、最近これを時折見ています。カエサルのような独裁官といった人たちの生活や考え方を描くだけでなく、ローマ市民、市民権のない庶民、奴隷などの生活や考え方が色濃く描かれていて面白いです。

 

わが国の歴史小説なり映画・ドラマではどうしても武将とか英雄、天皇・貴族といった人が中心になっていますね。庶民の生活は江戸時代くらいにならないと資料不足で描けないのでしょうかね。むろん澤田ふじ子・瞳子両氏のように、奈良・平安・室町まで庶民や奴隷をリアルに取り上げた作品もあるので、皆無というわけではありませんが、歴史家が慎重である分、小説家は大胆な仮説で描いてもらいたいと願うのです。

 

塩野氏のローマ物語Iは紀元前10世紀くらいから4世紀くらいまで長丁場を扱い、全体の総括的な意味合いもあるのでしょうか、リアルな状況描写はほとんどありませんが、全体を理解するのに論理的で解説も丁寧で面白く読みました。ROMEでカエサルの人間像を含め多層な社会構造のリアルな状況を多少理解しているので、読み進めるのを楽しみにしています。

 

前置きがまたまた長くなりましたが、今朝の毎日記事<ストーリー謎に挑む、盗掘を阻む 混乱続くエジプトの考古学者たち>は、いくつかの点で古代(西洋における)研究の最近の状況の一端や、新たな魅力を浮き上がらせてくれます。

 

篠田航一記者の熱意あふれる記事です。私の関心をまず惹いたのはピラミッドの建設がどのように行われたかでした。<紀元前5世紀の歴史家ヘロドトスは著書「歴史」の中で、カイロ近郊ギザにある巨大ピラミッドを建設したクフ王(紀元前26世紀)を結構悪く書いている。ピラミッドを造った労働者を奴隷のように働かせた、というトーンだ。>そうですね。映画でも奴隷がムチで叩かれたりしてまさに苦役を課され、それでようやく完成するといった画像が普通に当然と受け止めてきたと思います。

 

ところが最近の研究では、そうではないという研究成果が生まれているようです。

<最近の研究によれば、建設に従事した人々は奴隷などではなく、綿密に組織立てられたグループ単位で働き、豊かな食生活を営んでいたという。1988年、ギザのスフィンクスが位置する場所から約400メートル南で、当時の人々が住んでいた町「ピラミッド・タウン」の跡が見つかって以降、こうした状況が徐々に分かってきた。定説が塗り替えられるのも古代史の面白さだ。>

 

これまではピラミッドやスフィンクスといった世界遺産にばかり注目がいっていましたが、その建設を担った人たちはどうだったか、「ピラミッド・タウン」といった作業現場・まちの様子にも注目されるようになったわけです。

 

私が以前このブログで紹介した澤田瞳子著『与楽の飯 東大寺造仏所炊屋私記』は、奈良時代の東大寺大仏をつくる建設現場の状況について、飯場を舞台に見事に描かれていると思うのです。聖武天皇や行基の位置づけも興味深いですが、なによりそこで働く人たちの人物像が光ります。

 

また脱線しました。この「ピラミッド・タウン」から、いわゆる仁徳天皇陵とか応神天皇陵という巨大古墳も、もしかして人々がすすんでつくったのではと一瞬、思ってしまいました。日本書紀では、たしか唯一に近い古墳築造の様子を描いている、箸墓築造については、庶民が協力してバケツリレー並みに二上山から土を運んだとか記されていたかと思います。そんなことは・・・と思っていましたが、もしかして・・は一応、考えておく必要がありましょうか。

 

なにせ「仁徳」と何世紀も経った後、諡(おくりな)がつけられたわけですから、そういった伝承があったのかしら。竈の煙の話はどうもと思うのですが。

 

もう一つ、この記事で興味を惹いたのは3人の女性研究者でした。一人は日本人。

<発掘チームの中に、エジプト在住歴17年の日本人考古学者、矢羽多(やはた)万奈美さんがいる。・・・ 「当時の生活を知る上で大切なのは、ゴミ捨て場です。考古学者にとっては宝の山。日本でいえば貝塚ですね」 ・・・ 一般労働者が住んでいたエリアからはヒツジやヤギの骨が見つかった。一方で身分の高い人々の居住区にはウシの骨が多い。「古代人にとってもやはり牛肉は高級だったようです。作業員はビールを飲み、パンを食べ、栄養価の高い食事をしていました。今はヘロドトスが唱えた『奴隷説』は、ほぼありません」 >と明快です。すばらしいですね。女性研究者のアプローチ、地味ですが定説を覆す意欲を感じます。

 

少し冗舌すぎるので、あと一人、<中米ドミニカ共和国出身の女性考古学者キャスリーン・マルチネスさん>を取り上げます。<本業は弁護士だが、古代エジプトに魅せられた幼少期からの夢をあきらめきれず、法廷に立つ傍ら、考古学の学位も取得。05年から私費も投じて発掘を始めた。20カ所以上を調べた結果、アレクサンドリアから約50キロ南西のタップ・オシリス・マグナ遺跡にたどり着いた。>やりますね。

 

で、マルチネスさん、<「自らをイシス神の化身と考えたクレオパトラは、アントニウスと共にここに眠っているはずです」>と、その墓を発見しようと、発掘を続け、いろいろ関係するような遺物を発見しています。アントニウスもクレオパトラも、ROMEでは極端な性的愛好家のような人物に描かれていますが、さて実態はどうなんでしょう。弁護士も十人十色ですが、こういう夢と希望を求めるタイプはいいですね。

 

ところで、もう一つの記事、<今週の本棚磯田道史・評 『新しい古代史へ1 地域に生きる人びと 甲斐国と古代国家』=平川南・著>は、さすがいま話題の歴史家・磯田氏が取り上げるだけの興味深い本です。ただ、西暦800年前後を古代と呼ぶのはやはり少し抵抗がありますが、わが国では仕方ないでしょうね。

 

<古代社会の地方のありよう>を語ると磯田氏は指摘するものの、「武蔵」「等々力」「栗原」という地名の呼び方とか、古代の一戸ごとのマイナンバー制とか、興味のある話ですが、どうも、暮らしの実相とまではいかないような取り上げ方です。ただ、栗原が呉原から来た馬の飼育場を意味する地名というのは分かりますが、等々力はなんでしょうね。昔ある大きな執行事件現場で、なんども下準備で訪れた東京の等々力渓谷近くを思い出しましたが、そこが馬と関係するとは・・・

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。

 

 

 


亀形石と水 <大阪・四天王寺 「亀形石」>などを読みながら

2019-04-27 | 古代を考える

190427 亀形石と水 <大阪・四天王寺 「亀形石」>などを読みながら

 

一昨日のNHKクローズアップ現代プラスでAIで将来代替される職種が話題の一つになっていました。タイトルは<AIに負けない”人材を育成せよ ~企業・教育 最前線~>で、上記以外に認知症を防ぐ、あるいは直すといったさまざまなAIの可能性も取り上げられていました。その代替されうる職種が私たちが現在、日常的に利用しているほとんどのサービスをカバーしている感じですね。上記ウェブ上にその表がアップされていますが、90%以上に行政書士や税理士が、50%以上に公認会計士や司法書士が上がっています。弁護士は入っていませんが、どうでしょう、私が以前このブログでも書きましたが、50%以上までいくかわかりませんが、相当程度カバーされると思っています。

 

他方で、行政書士も複雑な事案ではAIでも対応できないと思います。むろん税理士、公認会計士、司法書士も同様ですね。番組で解説されていた創造力やコミュニケーション力などそれぞれの職種でよりレベルアップした能力が求められるのではないかと思います。

 

それから今後の(幼年期を含めた)教育のあり方について、松尾豊さん (東京大学大学院 教授)と田坂広志さん (多摩大学大学院 名誉教授)の意見が対立したのが興味深かったですね。前者はAIを積極的に採用で、後者はある一定の年齢まで制限・禁止するというものです。先進国でも両方のやり方が行われているようです。当然でしょうね。一つしかないと考える方がおかしいでしょう。義務教育でもそうでしょう。

 

さて、この話題はこの程度にして、今日の花言葉に移ります。今日は姫うつぎを取り上げます。<5月19日の花ヒメウツギ(姫空木)>によると、<秘密・秘めた恋・夏の訪れ・古風・潔白>ということです。この中で、<古風>というのはなんでしょう。清楚な雰囲気もあることから、その延長線でしょうか。潔白ということばも、秘密とか秘めた恋から怪しまれつつも天に恥じないということでしょうか。まあ、いろいろ考えるものです。私のように創造力の乏しい人間には花言葉で楽しめます。

 

さて本日のお題に入ります。今朝の毎日記事で大きく取り上げられ、①<大阪・四天王寺亀形石、7世紀に製作 国家祭祀用か>②<大阪・四天王寺「亀形石」7世紀製 酒船石遺跡に同遺構 祭祀跡か>③<大阪・四天王寺亀形石造物 1300年、祈り映す亀 国家から庶民へ>の3つがアップされています。

 

<四天王寺(大阪市天王寺区)は26日、建立の祖・聖徳太子の没後1400年忌(2022年)に向けて、境内の亀井堂にある亀形石造物を初めて学術的に調査したところ、7世紀に造られたものだったと発表した。>聖徳太子の没後1400年忌ですか、日本書紀では旧暦25日薨去とされていますね。

 

亀形石造物が7世紀製作とした根拠について、<女帝・斉明天皇(在位655~61年)の祭祀(さいし)遺構とみられる奈良県明日香村の酒船石(さかふねいし)遺跡で2000年に発掘された亀形石造物と年代や規模、構造がほぼ一致した。>と、有名な酒船石との比較検討の結果のようです。

 

②の記事に両方の写真が、③の記事に両方の図が掲載されています。これで違いがある程度分かります。酒船石は多くの人が見たことがあると思います。私も一度見たことがあり、斉明天皇時代の特徴的な石造物の一つかなと思うのです。

 

この両者の違いについて、<網伸也・近畿大教授(考古学)は、四天王寺と飛鳥の亀の表現を比較し、前者は爪や甲羅の表現が写実的だが、後者は「漫画チック」だと指摘。>のとおり、前者は誰が見ても亀ですが、後者はデフォルメしていて、別の意味で芸術性を感じます。

 

この比較から、網氏は、<「四天王寺の方がより古く、仏教を重んじた孝徳天皇に関わる施設ではないか」と話す。>とされていますが、四天王寺の方を古いと推認できる根拠としては上記の差では弱いと思うのですが・・・まして難波宮に都を移した孝徳天皇に関係する施設として、孝徳朝につくられたとみるのはまだ早いのではと思うのです。だいたいこの亀形石造物が仏教とどう関係するのでしょう。日本書紀の記載にそのようなことがうかがえるものはなかった記憶です。この点はすでに諸説あることが記事でも指摘されていますが、想像の域を超えない感じです。

 

余分の話をしてしまいました。この石造物自体に迫りたいと思います。

 

石造物がある<亀井堂は五重塔や金堂など中心伽藍(がらん)の北東に位置。>

その亀井堂の中に③の写真で見られるように、おそらく地表面から階段で降りていったところに、湧水源があり、そこから2つの亀の石造物が繋がっているようです。

<現在の地表面から約1・5メートル低い水の湧く場所に、1対の2匹の亀が向き合う形で据えられている。現在は、上の亀(全長122センチ、幅154センチ)の口から流れ出た水が下の亀形水槽(全長215センチ、幅152センチ)にたまる仕組み。水面に戒名を書いた経木(きょうぎ)を浮かべ先祖を供養する「経木流し」の場として今も用いられ>てきたそうです。

 

その点、酒船石は、私の記憶では、石造りの水道から水を引き、長方形の貯水槽で一旦水をため、そこから亀をデフォルメした水槽?に注ぎ、さらにその先には排水?するようになっていたかと思います。一見すると、両者の思想に共通するものがあるとはいえないと思うのです。とはいえ、深い意味合いがあるのかもしれないので、ここは断定しませんが。

 

で、この石造物が7世紀製作とした根拠については

<今回、石の材質を調べたところ、下の亀形水槽と上の亀の台座部分(手足含む)は、凝灰岩の一種「竜山(たつやま)石」の巨大な一枚岩を削り出して造られていた。また、台座部分は元は水槽だったが、上の亀の頭と甲羅(いずれも花こう岩)が後世にふたをする形で補われ、手足もその際に付け足されたことがわかった。>

このことから、両者の形態上の相似性を認めたのでしょうかね。私は上の亀はともかく、下の亀がかなり異なる形態に見えるのです。

 

他方で、材質や祭祀がどうやら決め手になったようです。

<元文研の佐藤亜聖主任研究員によると、大型の竜山石は、7世紀に大王家の石棺や藤原宮の大極殿など王権中枢部で限定的に使われたという。また、水槽を並べて水を流す祭祀形態は古墳時代からあったが、8世紀になると見られない。加えて、酒船石遺跡と同じく亀形石造物に水が流れる構造で、同様の役割を果たしたと考えられることから、亀形水槽と上の亀の台座部分は、7世紀にさかのぼると判断した。>とのこと。

 

竜山石の利用が限定されていたことは説得力がありますか。ただ、水槽を並べて水を流す構造を前提に、祭祀形態としていますが、亀井堂の方はどうも流すというより、明確な貯水槽ですね。現在経木を浮かべているという利用の仕方が自然ですね。建造当時は酒船石のように流すようにできていて、その後閉めたというのであれば別ですが。それに足部はべつにして、斉明朝の多様な石造物とも明らかに異なる意匠ですし、それ以前、あるいは前後に類似の形態の石造物があったのでしょうかね・・・

 

そんなことは本日の主題ではないのに、また脱線が延々と続いてしまいました。今日のお題は水、しかも湧水です。四天王寺がある位置はたしか上町台地(あるいは孝徳期は岬?)であったと思うのですが、台地ですし、その西はなにわの海、東側は湿地か湖に近い状態であったのではと思うのです。すると水をどのように工面していたのか気になっていましたが、この亀形石造物は地表面から1.5m下に湧き水が出ていたようです。四天王寺は台地(岬)の根元付近であったのではと思うのですが、南方から石川や大和川など多くの河川が北流し、その一部が伏流水となって台地の下を通っていたのかなと勝手な想像を働かしました。

 

仮に仁徳天皇がいて最初に上町台地に都を建設したとすると、そのとき水をどうしていたのかといつも気になっていました。孝徳天皇の場合、仁徳時代に湧き水の水源を発見していたのであれば、上町台地に都をつくることに水の面では支障がなかったかなと思うのです。

 

他方で、天水だよりの時代、日照り旱魃のおそれを常にかかえていたことから、祭祀説も指摘されていますが、上町台地では生活の飲み水としても大事な水源であったのかなと思うのです。

 

思いつきはこの程度にして、今日はこのへんでおしまい。また明日。

 

 


死を考える <滝野隆浩の掃苔記 孤独死と生きづらさ>などを読みながら

2019-04-26 | 人の生と死、生き方

190426 死を考える <滝野隆浩の掃苔記 孤独死と生きづらさ>などを読みながら

 

今日も何かと忙しくしていて、いつの間にか業務時間が過ぎ、はたと今日のテーマをと考えるのですが、浮かびません。最近話題のネット大手による不公正取引(たとえば価格拘束)なども興味深いものと思いつつ、情報不足で今ひとつ乗り気になれません。

 

そんなとき毎日デジタル情報で、偶然<滝野隆浩の掃苔記孤独死と生きづらさ>を読みました。だいたい「掃苔」って何とひっかかりました。そえが孤独死とどう関係するのと、ひきずりこまれました。

 

で、本論に入る前に、今日の花言葉を取り上げます。長ーくまっていたのがようやく花弁が開き始めていて、まちきれずシャッターを切りました。翁草オキナグサです。名前が気に入りました。このなかなか花が開かない状態でいる様子もよかったです。で、花言葉は<オキナグサ(翁草)の花言葉>によると、<「奉仕」 「何も求めない」 「清純な心」 「告げられぬ恋」 「裏切りの恋」 「背徳の恋」>と前3者はある種の共通イメージがわきますが、4番目以降はあれれ という感じです。今日は前3者のイメージでこの翁草をとりあげたいですね。この見出しのテーマとどう関係するのか、いまのところ暗中模索ですが、欠いているうちに脈略ができればとおもうのです・・・

 

さて上記の毎日記事を書いたのは、滝野隆浩記者ですね。その「掃苔(そうたい)」の意味はデジタル大辞泉だと<墓の苔(こけ)をきれいに取り去ること。転じて、墓参り。>とのこと。でも滝野記者の文面を見ている限り、そのような限定ではなさそうです。

 

滝野記者は「孤独死」問題をフォローしているようです。もしかして私が以前、このブログで取り上げたかもしれませんが、一度書くとすぐ忘れるので、そこははっきりしません。

 

「特殊清掃」ということばも出てきたので、毎日記事で検索したら昨年1228日付け記事<記者の目平成とは 激変する葬儀と墓 最後は「お互いさま」で=滝野隆浩(東京社会部)>が上がっていました。

 

そこでは<部屋で突然死し、もし発見が遅れればそこで腐敗していく恐れがあるのだ。そうした「事故物件」の部屋を片づける「特殊清掃」の専門業者>という風に、特殊清掃を取り上げています。

 

滝野記者のこの問題の一端に遭遇した契機についても触れていて、<私が葬送というテーマに出合ったのは、平成が始まった1989年ごろ。東京と新潟に血縁に頼らない合葬式共同墓が誕生し、市民グループが初めて散骨を実施した。>というのです。

 

そう散骨は私が同士と一緒に始めたわけですから、その後のさまざまな問題が展開する契機になったかもしれません。90年代初頭は、都内で霊魂の行方や葬式のあり方、自己決定権とか、次々と多様なテーマでシンポを開催していました。それがバブル後の世相を反映していたのかもしれません。だいたいいつも大勢の人が来て立ち見状態でしたか。真剣な議論だったように思います。それは奉仕とは違いますが、純粋に何かを求めていたかのように思います。忙しくても結構楽しいひとときでした。当代の専門研究者、学者、宗教家にきていただいていました。そこに素人、一般が参加して議論していたのですから、面白いです。

 

でも滝野記者が指摘するように、<「墓じまい」(改葬)が進み、多額の「離檀(りだん)料」請求が問題になることも。「自然へ返れる」と散骨は人気だが、心ない業者がいて地元とトラブルになっている。激変ぶりは葬儀のほうも同じ。あっという間に、安く小規模で短時間にという「安・縮・短」傾向が主流になった。葬儀なしで火葬・納骨される「直葬」は地方でも急増している。>という、私たちの意図とは異なる方向に流れが加速化されたような印象もあります。

 

そのような恐れ、懸念に比べ、家制度や墓制度で自由を奪われてきた個人の尊厳、自由への熱い思いの方に、私の関心の重点があったように思います。今回滝野記者が取り上げるような問題は10数年前くらい前からようやく明確に意識するようになったわけですから、ずいぶんのんきな話です。

 

滝野記者が取り上げた横須賀の孤独死の事例、とくに<虎の子の預金15万円で「無縁仏」にしてほしいと依頼していた>ということを知り、同記者は<<私を引き取る人がいない> これほど深い絶望の言葉を、私は知らない。>と嘆きに近いことばは吐露しています。

 

私自身、横須賀で社協のお手伝いを長くやっていましたので、彼らが懸命に孤立している高齢者のために日夜苦労しているのを見てきました。実によくやっていたと思います。でも市も社協もスタッフが孤立する高齢者の数に比べればとてもわずかで、到底行き届いたサービスを全員に提供することはできません。

 

ただ、無縁仏にして欲しいと依頼した方が、絶望の淵にあったかはわかりません。むろん記者自身は自分のことと思いそう感じたのでしょう。私は諦念という思いと安らかな思いがそのメモにあらわれていないかとふと思うのです。そう思ってあげたいと考えているのかもしれません。

 

自分の遺体の引き取り手がいないことを認め、でもだれか、行政の人にでも、火葬・無縁仏として託すことで安心を得たのではないかと思うのです。託すことで安心したのではないかと思うのです。そう思ってあげたいと思うのです。それに絶望感を抱くのも人情かもしれません。でも私は安念のひとときを感じたいと思うのです。

 

記事では<「引き取り手のない遺骨」の急増を深刻に受け止めた同市は、今年5月から「終活登録」事業を開始した。緊急連絡先や遺言を記した書類の置き場所、さらに墓の所在地などの情報を市役所が預かり、事前の希望に沿って死後に開示する画期的な仕組みだ。>とのこと。横須賀市頑張っているなと、思うのです。私が関与していた当時も、身寄りのない人で判断能力が劣った人に対し、法人後見を開始したり、後見人として市民後見制度を立ち上げたり、それ以外で私の知らない分野でもいろいろ行政ニーズに対応していたように思います。

 

ところで最初の記事に戻ります。<菅野久美子さん(36)の新著「超孤独死社会 特殊清掃の現場をたどる」>が取り上げられています。それは高齢者でない、もっと若い世代にも孤独死がいて、そこに「超」がついているのでしょうね。

 

その現場を菅野さんがどのように掬い上げたかですね。<布団や食べ残したカップ麺、尿の入ったペットボトルに交じって、故人の文庫本やCD、家族から贈られた鉢植えが出てくる。モノは人の内面を映し出す。だから、見えてきた。「ゴミの部屋にいた人はずっと、『生きづらさ』を感じてきたんだと思います」>と生きづらさを指摘しています。

 

菅野さんはいじめを受けた経験から<孤独死しないためのさまざまな具体策が挙げられている。IT機器を使った安否確認のサービスや、自治体による各種取り組みも取材した。>というのです。このようにゴミの部屋になった状態であれば、やはり救済の措置を検討されてよいと思うのです。しかし、そうでない孤独死もあると私は信じています。

 

以前少し書いた記憶がありますが、死後事務委任のことです。終活とか死の作法とか、いろいろな表現で、喧伝されていますが、私は人は一人ひとりが自分で死にまじめに直面して、考え、多様な選択の道を自らの考えて選んでいくものだと思っています。むろん死後の世界にあれこれいうのはどうかと思う面もあります。他方で死後の処理をきちんと収まりつけるのも自由を享受する人であれば、けじめかなと思うのです。

 

立つ鳥跡を濁さず、ということがほんとかどうか知りませんが、人生を閉じるときそうありたいと思うのです。それはいつやってくるかもわかりません。まだ当分やってこないかもしれませんが、いつやってきても安心して迎えを受ける覚悟というか、気持ちが大事だと思うのです。その場合死後事務委任というものがうまく働くといいなと思いながら、実際にはなかなか機能しにくいかもしれないとこのことを考えるようになって思っています。

 

有形物についてはたいていはなんとか自分の責任で処理し、死後においても対応できる措置は可能だと思います。ただ厄介なのは自分の遺体ですね。まだこれはイタイというか、いい考えが浮かびません。

 

と脈略のない話となりました。おつきあいありがとうございます。どこまで花言葉の前3者と符合するかは?ですが、今日はこれにておしまい。また明日。