たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

梅か桜か <岡目八目ならぬ和歌の素人読み>

2019-04-02 | 日本文化 観光 施設 ガイド

190402 梅か桜か <岡目八目ならぬ和歌の素人読み>

 

今日もブログが残っていますので、続けることにします。でもメールでは今日も契約終了の通知がきています。不思議な居心地です。

 

それはともかく、昨日決まった新元号、ちょっと遊び心である事件の期日請書に「令和」と使ってみました。5月施行ですので、勇み足ですが、まあ5月の期日でしたので、ご愛敬ということで特段、訂正もでませんでした。私は普段西暦表示をしていますので、今回もそちらはちゃんと書いています。

 

やはりというか「令和」の「令」についてはいろいろ異論もあるようです。どんな元号も賛否があって当然でしょう。ただ、典拠が万葉集と言うことで、この点は割合支持されているようです。典拠が中国書か和書かなんてことで議論するのもどうかと思いますね。ところで、典拠となった和歌では、梅の宴で読まれたとのことでしたか。奈良時代、ちょうど梅が遣唐使によってもたらされ、唐風文化とともに梅を愛でる和歌が流行ったとか。

 

それまではやはり桜だったのでしょうか。日本書紀の履中天皇3年冬11月、天皇が磐余の市磯池(いちしのいけ)で船を浮かべて酒宴を催したとき、桜の花びらが杯に散ったそうですね。それで天皇が「咲くべきでないときに散ってきた」といってその花を探させて、吉祥を喜び、宮の名、「磐余若桜宮」と名付けたそうですが、その後「稚桜宮」になったようです。

 

まあ、長々と書紀を取り上げましたが、「履中天皇陵」と宮内庁から治定されている日本で3番目に大きい陵墓がありますね。その履中天皇の業績というとわずか6年くらいの在位期間で上記の宴を開いて宮の名付けをしたなど、ほとんどないに等しいのですね。書紀の記述を信頼する人でも、この実態のなさと陵墓の大規模さとの釣り合いのなさをどう感じているのでしょうか。

 

また余分なことを書いてしまいました。今日は梅と桜の話をするつもりで書き出したのです。ともかく桜は日本固有種でしょうね。エドヒガンといった在来種があったようですね。それにあのNHKジオジャパンでビジュアル解説されたフィリピン海プレート端に並んだ火山島嶼群が次々と日本列島にぶつかり、伊豆半島がくっついた?ことで列島が形作られ、その結果、大島桜も固有種に参加したわけでしょうか。その後両者は混じり合ったのでしょうね。

 

で律令期に梅が到来するまでは、わが世の春を謳歌していたのかもしれません。8世紀は一時梅の時代と万葉開花で梅の歌がたくさん題材になったのでしょうか。その後平安期以降は桜に首座を奪われてしまったのでしょうかね。でも平安期以降に歌われ、業平や、定家、西行などが歌った桜は、私たちが見て親しんでいるソメイヨシノとは違うようですね。後者は江戸末期から明治初期に、江戸の染井村で育成された人工種のようです。

 

西行が奈良の吉野で歌った桜は別の品種の桜だそうです。

 

では梅はどうなんでしょうね。「令和」の典拠となった和歌では、大伴旅人が酒宴を催したとき参加していた歌人が詠んだのでしたか。旅人は、藤原家の興隆を受けて、武門の名誉も過去の話となり、杜甫などのように、酒と和歌詠みに明け暮れていたともいわれていますね。

 

異母妹の坂上郎女がいろんな恋愛遍歴を経て、家刀自(主婦と訳されるようですが、戸主に近いのではと思うのです)となって、旅人の子、家持の養育を買って出て、額田王と競い合う程(万葉集最多の歌を残す)の和歌の技量を伝授したのかもしれません。

 

その郎女、元号の典拠とした和歌と同時代に(少し後になるようです)、疫病等で禁酒令がでていたとき、梅の下で酒宴を催し、次の歌を残しています。昔、坂上郎女と旅人・家持親子の歌を解説した本を読んだ記憶があります。恋愛の情をときにユーモラスに歌いあげていたような記憶ですが、この歌は年齢を重ねた潔さも感じます。

 

酒坏(さかづき)に 梅の花浮け思ふどち 飲みての後は 散りぬともよし

 

これは律令時代ですが、平安時代もむろん梅の花が歌われています。なんといっても菅原道真のものが有名ですね。

 

こちふかば にほひよこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな

 

道真という人は不思議な人だと思うのです(まあ、別にいくつか彼に関する書籍を読んだ程度ですが)。宇多天皇の寵愛を受けて、藤原時代に右大臣まで上り詰めるすごい政治力もあったのでしょうか。それにしても自分の屋敷にたしか紅梅と白梅を植えていましたが、なぜ梅だったか不思議なのです。そして紅梅殿といった名前の塾で優秀な塾生を育てていたようです。

 

不比等以来の天下採りを狙う藤原に刃向かうと、当然左遷の憂き目に遭ったわけですね。旅人も家持も同じような運命ですね。梅となにかひっかかるのは余計な勘ぐりでしょうか。

 

でも旅人も家持も神にはなれませんでした。なぜ道真は天神様と祭られ、各地で天満宮が建てられたのでしょう。藤原一族や関係者が災難にあい、飢饉・災害が多発したからでしょうか。それならそれまでも結構有りましたし、左遷や冤罪に問われて惨死した貴人は大勢いました。そういった人の罪を赦したり、死後官位を与えたりでだいたい片が付いているようです。

 

でも道真は天神様になっただけでではなく、今は学問の神様になっていますね。驚くべき推移でしょうか。

 

今読んでいる澤田瞳子著『腐れ梅』は、ちょうどその当たりの不思議に迫る内容です。偶然、「令和」で典拠となった梅の話がでて、なにかこじつけのようでもありますが、道真の天神様への御成の不思議がわかったような、新たな不思議の世界に迷い込むかもしれない話となっています。

 

さて写真は「寒梅」を以前、撮影していたのをトリミングしてアップしました。元々手ぶれがあって、さらに拡大したので、ピンぼけもいいところです。まあ下手の横好きとお笑いください。

 

今日はこれまで。明日はこのブログが残っていればまた続きます。


文化財は誰がどう生かす? <改正文化財保護法 4月施行 「史実より神話」の傾向懸念>などを読みながら

2019-01-24 | 日本文化 観光 施設 ガイド

190124 文化財は誰がどう生かす? <改正文化財保護法 4月施行 「史実より神話」の傾向懸念>などを読みながら

 

今朝は、ブログで大畑才蔵の歴史ウォーク案内をアップしました。

 

本日の話題をいまトピック性のある<巨大IT企業公取委、優越的地位どう判断IT巨人VS公取委)>を取り上げようと少し考えているとき、少し材料不足かなと思い断念しました。

 

今朝のブログのつながりで、昨日の毎日夕刊記事<Topics改正文化財保護法 4月施行 「史実より神話」の傾向懸念 京大教授、国立歴史民俗博物館長ら討論>がちょうどいかなとおもってしまいました。といってもこの討論、昨年11月にあったもの、花澤茂人記者の思い入れ?がやっと通ったのでしょうかね。

 

記事の内容は、見出しの通り改正文化財保護法をめぐって賛否の議論です。

 

まずは改正の要点を引用します。番号は私がふりました。

    <都道府県に文化財の保存と活用の「大綱」、市町村に「地域計画」の策定を求める

 → 国の認定を受けると現状変更など国の権限の一部を移譲

    個々の文化財所有者に「保存活用計画」の作成を求める

 → 国の認定を受けると現状変更などの手続きを緩和

    文化財保護業務を教育委員会から首長部局に移管

 → 首長の観光やまちづくり政策への文化財の活用がスムーズに>

 

詳細は文化庁の<文化財保護法の一部を改正する法律等について>を参照ください。といっても私も条文すら見ていませんが。

 

文化庁から自治体の教育委員会に縦割り式で統一的な文化行政の中核とも言える部分を大きく変更するものですね。安倍政権のうたい文句の一つ、地方創生というか活性化を各省庁、法改正ないし新設で地方分権の徹底を図っているとも言えるかもしれません。おそらく平成31年度は各自治体の職員はあらゆる分野で大きな制度変更に直面することになると、一応はいえるかもしれません(そういった法改正は以前もよくありましたが、実態はそれほど変わらなかったのは歴史が証明しているかと思います)。

 

本改正についていうと、<過疎化や少子高齢化で文化財が危機に直面する中で、国から地方への権限の移譲などによって、文化財を活用したまちづくりや観光を推進する狙いがある。>しかも文化財行政を担う主体を教育委員会から首長部局に移管できるようになるというのですから、大きな変更のようにも見えます。

 

まず改正法に反対の論者は、たとえば<保護がおろそかになったり、「稼げない文化財」が軽視されたりすることへの懸念もある。>とか、<京都大の高木博志教授は、・・・近年、観光のために史実より神話や物語を優先するような傾向が復権しているとし、「戦後の歴史学改革の営みに逆行する」と疑問を呈した。>りとか、問題視しています。

 

他方で運用のあり方で文化財を有効活用できるという指摘もあります。まあ法改正の支持者というわけではないかもしれませんが。

たとえば<国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の久留島浩館長は、博物館の来館者が「見せられている客体から、見る主体になる必要がある」と強調。「一つのものを見て人々や暮らしを想像し、自分で再構成した歴史と他人のものを比較、議論する場としての博物館が理想。観光そのものは否定しないが、観光客ではなく地域の人が何度行っても面白いことが大切」と話した。>

 

この意見に賛成です。

ただ、はたして文化財を展示する側でそういった発想で行っているところがどの程度あるでしょう。立派な解説書や展示物に掲示されている簡単なコメントで、おおよその個々の文化財を理解することができますが、おおくは教科書的な理解にとどまるような扱いではないかと懸念します。

 

むろん最近はやりの・・・子、・・・女子とか的にちょっとしたブームを呼ぶ仕掛けは勝手に起こるかもしれませんが、文化財の見方、扱い方を見直すよい機会かもしれません。

 

また次のような、地域のその成り立ち、構成要素を、自分のライフスタイルに取り込むような、持続性ある取り組みを心がけている施設もあるのですね。

<京都大の岩城卓二教授は兵庫県尼崎市の市立地域研究史料館を取り上げ「市史の編さんが終わった後も地域研究の拠点となり、来館者への手厚い対応で対話が生まれた。市民を巻き込んで収集、保存、研究、公開を繰り返す『循環型』の施設になっている」と今後のモデルとしての可能性に期待した。>

 

いいですね。この循環型の施設という発想、ぜひよりいっそうすすめてもらいたいものです。

 

各地の市町村にはその歴史を編纂した市史などがどこでもあるかと思います。これは大変な努力と時間で作り上げ、多面的で、古代から現代まで自分の住むまちの生き様を丁寧に記述していますね。これを図書館や購入した人の積んでおくだけではもったいない話です。

 

私は関東各地でさまざまな住民運動を担うリーダー格の人たちとお会いする機会が結構ありました。そういう人たちのほとんどが、生まれた、あるいはよそからやってきて住み着いたそのまちの過去を知ることで、その地への愛着をしっかりと抱いていると思いました。

 

中には首長になった人もいますし、一時的な住民のリーダーであった人もいますが、いずれもその地を知ることでその地を守り育てる生きがいに燃えていました。どこでも誇るべきさまざまな価値がありました。文化財もそうです。まだ文化的景観といった用語もない時代に、そのような価値を見いだした人もいました。私なんぞは、当初はそんな気概もなく、彼ら彼女らの意気に後押しされて次々の訴訟を起こしていたようなものでした。

 

ところで少し小田井に目を向けて、多少改正法との関連に言及して、今日は終わりにします。

大畑才蔵は江戸中期に、紀ノ川上流から中流にかけて小田井用水開削事業を、農業土木技術者として、かつ農民として、既存の水利体系との紛糾を回避しつつ、廃田を少なく上田を多くし、他方で工区管理を合理的に算定して、費用対効果を受益農家に理解してもらいながら、多くの中小河川を横断する技術を駆使して成功させました。

 

その小田井には国の登録有形文化財(建造物)が<龍之渡井>はじめ4つもあります。これ自体すばらしいことでしょう。ただ、残念なのは、この登録有形文化財が主に焦点が当たって、小田井灌漑用水自体や小田井堰に必ずしも注目が当たっていないことでしょうか。さらにいえばその歴史的意義、さらにいえば現代的意義についていえば、前者はある程度理解が進んでいるようにも思えますが、後者は疑問です。

 

文化財は歴史的な意義、価値があるのは当然ですが、現代、さらには将来にわたって活用されることでその意義がより高まると思うのです。いや、ほんとうの意味を見いだせるかもしれません。

 

温故知新ということばは、文化財と人、地域を考えたとき、肝に銘じおいてよいのではと思うのです

 

文化財の専門職員を増やすことも大事でしょう。他方で、文化財は私たち一人ひとりにとってもとても大切な価値があります。それこそ自治体の首長部局が担うのであれば、私たち一人ひとりの意見が反映する仕組みを構築するのでなければ、砂上の楼閣になりかねないかもしれません。自治体は、国の要請で、これまでもさまざまな地域計画づくりをしてきましたが、生かされているものがどれだけあるでしょう。多額の費用を投じたマスタープランもいつのまにか死蔵状態のところもあるのではと思うのです。

 

こういった懸念を払拭するような新たな文化財行政を生み出すことを各地の自治体に期待したいものです。

 

今日はこの辺でおしまい。またしても何を書こうとしたのかあいまいになりました。ともかくまた明日。


美食追求と地震予測と <ガッテン・本当にうまい刺身が家庭で!>と<ちきゅう、プレート境界断層へ>などを見、読みながら

2018-11-15 | 日本文化 観光 施設 ガイド

181115 美食追求と地震予測と <ガッテン・本当にうまい刺身が家庭で!>と<ちきゅう、プレート境界断層へ>などを見、読みながら

 

日々知らないことを知ることは生きていることの魅力の一つかもしれません。昨夜NHK番組ガッテンでは<そう来たか! 達人直伝 本当にうまい刺身が家庭で>で、新たな驚きがありました。

 

以前、外国で和食を食べるとき、ソバや刺身といった好物はできるだけ食べないようにしていました。不味すぎて、せっかくの郷土味をかえって不快に感じる結果となっていたからです。これは途上国のみならず西欧各国でも同じでした。最近はどうでしょう。

 

スーパーの刺身も、外国での体験ほどではないとしても、似たような感じで、やはりちゃんとした料理店でないと美味しく味わえないと我慢しながら食べていました。しかしガッテンで放映された映像は、スーパーの刺身が問題ではなく(そこに展示するまでに鮮度を保つために多様な氷の保存法を使っていかに苦労されているかよく分かりました)、私も含め多くの消費者の持ち帰りや家での保存方法に問題があったことを明らかにしてくれたのです。

 

焼津で大人気の魚店の5代目が、専門料理店の板前さんも指導を受ける、とっときの保存法を伝授してくれたのです。たくさんありますが、重要なポイントの一つは、刺身パックを冷凍保存するための氷パックの作り方と、他の食材を含めて袋に詰める方法で、要はいずれも密封にすることでした。詳細は上記のガッテンの箇所をクリックしていただければ、画像入りでその手法が事細かく書かれています。

 

スーパーの刺身を家で食べるとき、必ずそのお皿ないしはツマには赤い汁状のものがでていますが、これが適切に冷凍保存されてない結果で、旨みの多くが逃げていくのだそうです。そうだったのかと納得です。でも5代目が名人技で華麗に振る舞う塩振りが必須と知り、やはり簡単ではないなと、最後は食にこだわるほど味覚が発達していないでよかったと思う次第です。

 

わが国で採れる魚が美味いのはなぜでしょうと、連続講義?が毎日記事であり、最近では<美食地質学入門第8講 グジ(アマダイ) 若狭のおわん、豊かな餌場>で、その所以を紹介しています。

 

日本は海に囲まれていて、沿岸各地で採れる魚介類は絶品ですね。漁港近くのお店で食べる刺身は格別です。それはなぜか。むろん鮮度ですが、その魚介類そのものの出来が違うようです。私は海外で美味しいと思った魚介類を食べた経験がありません。味付けは上手とは思いますが・・・

 

今回は若狭湾が舞台です。なぜ美味しいのでしょう。

それは伏流水と地形に影響があるようです。少し長いですが、二人の専門家<神戸大学海洋底探査センター長の巽好幸先生(左)と「エコール 辻 大阪」副校長の大引伸昭先生>の話を引用します。

<大引「暖流と寒流が交わり、栄養価が高いんです。伏流水も湧き出てる。グジは砂泥に穴を掘ってすむ魚で、餌場としてもいい」

 伏流水とは字のごとく、伏して見えない流れのこと。川の地下などを流れ、砂れきでろ過された清水だ。マグマ学者の巽好幸先生が手を打つ。

巽「伏流水は海底の砂泥を下からかき混ぜるんで、酸素や栄養分が行き渡り、グジの餌の甲殻類なんかが豊富なはず」

大引「海底の地形も生息しやすいのでは。グジは深さ50~100メートルにすむ。若狭湾の水深は平均100メートルくらい」

巽「若狭湾は沈み続けてるんです。言うたら大きなおわんが沈んでるようなもの。逆に断崖の越前海岸など、周囲は隆起している。すると高低差がつきますね。盛り上がった所は浸食されるので、その砂がおわんにたまるわけ。それと伏流水にも高低差が必要」

 高い所から勢いよく流れ落ちるから、深い湾内で湧き出るのだ。>

 

そして核心の若狭湾がなぜ沈み込んでいるかについて、南海トラフを作り出しているフィリピン海プレートの沈み込みが若狭湾から伊勢湾にかけて連続的に続いているのだそうです。詳細は上記毎日記事をクリックして、図解とともに丁寧な解説をご覧ください。

 

さて南海トラフ大地震・大津波がいつ起こってもおかしくない状況にある中、その動向を探る新しい科学探査が行われていることが今朝の毎日記事<科学の森ちきゅう、プレート境界断層へ 大地震懸念の南海トラフ、海底下5200メートル掘削計画>に掲載されていました。

 

すごいですね、すでに海底下を3000mも掘削しているのですね。さらに今度は5200mまで掘削するというのですから、大変な作業であることが素人でも分かります。世界一のレベルだそうですね。

 

<10月10日、静岡市の清水港。全長210メートルの「ちきゅう」が大勢の見送りを受けて出航した。向かったのは紀伊半島沖の熊野灘。この地点は過去の航海ですでに海底下約3000メートルまで掘削してあり、今回は約5200メートルまで掘り抜くことを目標としている。8カ国の研究者が参加する国際共同プロジェクトだ。>

 

<掘削の目的は、この固着域を直接観測し、岩石を採取すること。その上で、ひずみの蓄積具合や断層のずれ方などの特徴に迫ろうとしている。共同首席研究者の木村学・東京海洋大特任教授は「巨大地震の切迫度を評価できるようにしたい」と意気込む。

 計画は2007年から始まり、これまでに熊野灘とその沖合の15地点で掘削してきた。掘削総延長は34キロにも及ぶ。掘削孔に設置された観測システムや掘り抜いた岩石の試料からは、プレート境界断層の浅い領域で起こっているゆっくりとしたすべり現象や、過去の地震の痕跡が明らかになった。ただ、固着域まで掘り進んだ地点はなかった。>

 

もしかしたら直にプレート境界断層の岩石などを採取できるかもしれませんね。

<木下教授は「目的地に到達すれば、地層とは違う、ひび割れのようなものが出てくるのでは」と予想している。>わくわくする話でしょうか。

 

そして巨大地震発生前に、予測できる監視できる体制に近づくことでしょうね。

<海洋機構は掘削完了後、孔内に圧力計などの観測機器を設置し、リアルタイムで固着域を監視したい考えだ。木下教授は「巨大地震までの準備の過程を、発生の前に捉えたい」と話している。>期待したい試みです。

 

今日はこの後出張で、事務所には帰ってこれないので、早めにブログを書きました。

これにておしまい。また明日。


竹と文化 <沖浦和光著『タケノ民族誌』>を少し読みながら

2018-09-01 | 日本文化 観光 施設 ガイド

180901 竹と文化 <沖浦和光著『タケノ民族誌』>を少し読みながら

 

私がこのブログを書き始めた最初が竹に関する内容でした。ま、このときは三日坊主ならぬ2日くらいで書くのを断念しました。その後何年かしてリハビリ気分で再開したときも、竹林に関係していました。

 

実は当地に来て竹藪の世話に埋没していた時期があり、竹自体に自然と関心を抱くようになり、日々肉体的には竹や笹とともに暮らしていたので、ついブログ記事にも反映したのかもしれません。

 

その頃、竹の活用を考えて、竹関係の書籍を結構読み、ある種試行錯誤をしましたが、結局、いつの間にか持続性を欠き、なにも達成できず、竹とも遠ざかることになりました。

 

ヒノキやスギの手入れ的な作業では、さほど怪我をしたことがなかったのですが、竹林、竹藪では小さな怪我は毎日のようにできました。枝や切り株につい当たってしまうのですね。それに竹の弾力性で竹木を伐倒したとき、その竹木自体、あるいは別の竹木と当たって、跳ね返りでメガネなんかはよく飛ばされてしまいました。傾斜面での作業ですので、ちょっと滑ったり、転倒したりすると、切り株に背中や体のあちこちが当たってしまうこともしょっちゅうでした。

 

そんなこともあったなと思いながらも、最近は竹について書いていないように思っていたところ、沖浦和光著『竹の民族誌 ~日本文化の深層を探る』に出会いました。なかなか内容が濃く、他方でその考察がとても面白く、竹文化の深さ、日本人の成り立ちなど、いろんな思いが走りました。頭の中でうまく整理できていないので、今回は簡単に、また、適当につまみ食いをしてみたいと思います。

 

ところで、竹林の面積比率はわが国の森林面積の中でどのくらいと思いますか。これは沖浦氏が指摘しています。なんとく竹林に慣れ親しんでいる、あるいは竹藪が増えて困っていると悩んでいるという話題が刷り込まれているせいか、たいていの人が3~5%くらいと答えるそうです。私は多少知っているので、そこまではないけど、1%くらいかなと思ったら、沖浦氏は「森林総面積約2600万ヘクタールのうち、竹林はおよそ10万ヘクタールにすぎない。大ざっぱに言って0.38パーセントである。」と指摘されています。

 

この数値に少し疑問を感じ、私も調べてみると、林野庁の<竹関係係資料>では、平成19年現在では、竹林面積が約16haで、しかも進入率25%以上の竹林を含めると、その面積は約41haとなるようです。つまり前者でも0.6%、後者だと1.5%強となりますね。ま、私の感覚に近いかなと思うのです。

 

ではなぜ沖浦氏の数値が低かったのかといいますと、この著作は91年発刊岩波新書を原本にしているそうですから、おそらく調査記録としては昭和末期のものかもしれません。

 

この点、<竹関係資料>でも<・竹林面積は、昭和50年代後半から増加>と指摘しています。そうです。いろいろご託を並べたのは、これをいいたいからです。

 

私が田舎で暮らしていた戦後から昭和40年代半ばまで、竹林はだいたい管理され、それほど目立つ状況にはなかったと思います。私たちの暮らしはまだかなりの部分で竹製品が身の回りの生活の中にあちこちにあったように思います。それが次第にプラスチック製品に置き換わり、普段目にすることがどんどんなくなっていったころから、竹藪あるいは竹林が増えていったように思うのです。

 

いまでは道路を走っていて、繁茂した竹林というか竹藪を見ないことがないほど、各地で普通に見かける状態になったように思います。

 

興味深いことに、いまプラスチック製品の普及に歯止めをかける動きがEUから生まれ、わが国でも代替品について研究する動きが出る一方、増殖し管理されない竹の利用について林野庁はこの資料の中で検討しています。

 

ずいぶん前置きが長くなりました。今日のテーマは竹と文化です。沖浦氏は多面的・重層的に、縄文期から現代に至る竹の多様な利用とそれを担ってきた人にスポットを当てています。日本書紀や万葉集、あるいは魏志倭人伝など多様な文献から深みに入っていますが、今回はそれはパスします。

 

竹(タケ・ササを一括して呼称します)の植生分布とその担い手、政治支配に伴う、身分制について、とくに九州南部を巧みに描いているように思えますので、それを取り上げたいと思っています。

 

<竹関係資料>では現在でも竹林面積が多いのが鹿児島、大分、福岡といった九州がメインです。飛び抜けていますね。

 

竹の製品化は縄文期に漆喰を利用して使われていたとされています。土器などとちがって、竹ですので、なかなか現在まで残らないのででしょう。

 

話は飛びますが、日本人の多くは維新前後の担い手たちの活躍に心を動かされ、最も関心のある時代の一つだと思います。いまNHK大河ドラマでも「西郷どん」でしたか、放映されていますが、こういう場合の筋書きはたいてい、旧弊だらけで硬直した身分制に埋没した幕府体制の問題点と、それを打ち破る差別された下層武士を中心とした能力主義的な薩長による倒幕が描かれているかと思います(少し誇張しすぎましたが)。

 

しかし、そこで見過ごされてきたのは、被差別民であり、えたとされた人たちです。かれらは、竹を利用して見事な竹製品を生み出し、伝統的に継承し、地域の伝統を活かす重要な要素として竹を活用してきたというのです。

 

日本の伝統文芸の世界でも、といわれた被差別民がいかに竹を活用して新しい文化を形成してきたのではないでしょうか。

 

短時間でうまく取り上げることができませんでした。沖浦氏の伝えたかったであろう日本文化の深層の手がかりでも描こうとしたのですが、それは別の機会にします。

 

今日はこれにておしまい。また明日。

 


ブラジル・トメアス考 <眞子さま アマゾン訪問 皇室としては初>を読みながら

2018-07-28 | 日本文化 観光 施設 ガイド

180728 ブラジル・トメアス考 <眞子さま アマゾン訪問 皇室としては初>を読みながら

 

昨夜は台風の影響か?深夜なんどか起きました。といっても外は穏やかで、蒸し暑いというより涼やか、あるいは少し寒さを感じるくらいでした。ともかくぐっすり眠れませんでした。そのため朝食後もぼっとして、最近ほとんど座ったことのないロッキングチェアに腰を下ろした途端、ぐっすりと眠りにつきました。

 

目覚めた後台風の備えをしようかと思いつつ、ま、今夜か明朝当たりが紀伊半島かなと思い、それより事務所に置く花を購入に出かけました。毎週取り替えていますので、花屋さんとはなじみになったはずですが、いわゆる個人の花屋さんではないので、あまり会話が弾みません。事務所で花を取り替えた後、台風の様子を見ようとネットでNHKを見ると、<眞子さま アマゾン訪問 皇室としては初>と出ていました。たしかNHKTVニュースでも取り上げられていたのですが、なにか気になりました。

 

今日は台風がいつやってくるか分からないので、早めにブログも書き上げておこうと思い、その?の眞子さまニュースに注目して書こうかと思います。

 

眞子さんが訪問された、トメアスといえば、私が四半世紀前に仲間3人で訪れたところです。眞子さまニュースで取り上げられたトメアスのイメージと、私たちが半日ばかり過ごしたトメアスとは雲泥の差を感じたのです。同じところとは思えませんでした。

 

だいたい眞子さんが映った映像なり写真では、小型機といえどそれなりの立派な飛行機で、降り立った姿でした。え、トメアスに飛行場があったのと思ってしまいました。それに立派な講堂とか、町並み、墓地などなど、これはずいぶん開けた「都市」といってよいですね。

 

たしかにNHKの記事でも<ブラジルを公式訪問している秋篠宮ご夫妻の長女の眞子さまが、日本の皇室としては初めて、アマゾン地域のトメアスを訪れ、日系開拓者の慰霊碑に花を捧げたほか、現地の日系人が経営する農園などを見学されました。

眞子さまは27日、ブラジルのアマゾン地域の都市トメアスに到着されました。>とあり、冠名で、「都市トメアス」とありました。

 

えっと驚きました。私が見たトメアスと同じなのかと二度びっくりです。でグーグルマップをみると、確かに街路が縦横に走り、住宅地が整備されています。レストランもありますね。

 

でも私たちが経験したトメアスは、私が幼い頃の日本の田舎の農村風景か、それ以上に前時代的でした。だいたい、アマゾン川河口最大の都市、ベレンでも、私たちが宿泊した地区は整備されていましたが、その外は治安がよくない状況でした。で、トメアスまでの交通手段はというと、車しかないと思っていました。実はこの旅程は、先輩のOさんがほとんど全部決めていて、わたしともう一人後輩のKさんもそれに乗っかっただけでした。それに当時は、ネット情報もなく、Oさんが現地ガイドと連絡してガイドの情報を頼りに決めたのだと思います。

 

この3人の珍道中はとても面白くて次々と事件が起こり、その顛末をいまのようにネットに載せると結構面白かったと思います。当時は日記を書く習慣もなく、その後も次々と調査旅行があり、ときに話題にしても新たな事件などで忘れてしまっていました。それにOさんとKさんはとても饒舌で、二人で話題が尽きないほどずっとしゃべっていて、私にとってはうるさいくらいで、さまざまな体験があまり心にしみこまなかったかもしれません。

 

この二人の面白さは簡単に言い尽くせないのでこの程度にして、思い出したトメアスまでのこと、トメアスでの出来事を書いてみようかと思います。

 

車で行くと言っても、大変な悪路で、あれほどの悪路を長時間高速で走ったのは経験ないほどです。むろん舗装してなく、でこぼこ道で、砂埃が走った後に満ち一杯になります。ということは対向車があれば、まったく見えないことになります。幸か不幸か、長時間のトメアス往復で、対向車があったことを覚えていません。あったら怖かったでしょうね。

 

というか、ガイドによると、この道は強盗が出るのでということで、拳銃を携帯していましたから、対向車なりがあると、強盗の危険もあり、こちらも怖かったのです。

 

とはいえ、無事トメアスに到着してほっとしたのはほんの一時、また大変なことが分かりました。たしかトランクのドアが開かなかったのだと思います。荷物は全部そこにはいっていますから、ガイドも含めみんなで四苦八苦したように思います。陸の孤島と聞いていたので、JAFのような救援隊もありません。あきらめ気分になったとき、Oさんだったか、なにをしたのか分かりませんが、ドアが開いたのです。

 

そのとき農家の方からいただいたドリアンのジュースがとても美味しくて、その後ドリアンを飲むときこの思い出と重なることがあります。

 

農家の方は日系人で、その方にコーヒー畑を案内してもらいました。素朴な作り方でした。ジャングルの中に少し開けた感じで、手作業で畑作りをしている印象でした。

 

その後住宅が多少あるところまで案内してもらいましたが、人影も少なく、店舗もないか、あっても簡易なものだった記憶です。印象としてはわずかしか人が住んでいないのでは、それに移民したもののうまくいかなかったのかなと思ったのです。ほんと全体の一部しか見てなかったのです。ま、それも事実ではありますが。

 

私自身、事前知識もなく、Oさんの計画にのって動いていたこともあり、ほとんど疑問らしいものも沸いてこなかったのでした。もう一つは日本から安い航空便で40時間近くかかり、さらにひどい悪路で、疲れ果てていたのかもしれません。トメアスについての予備知識もなく行くのですから、適当この上なかったです。というかそれまでリオサミットの準備などで追われていて、旅先のことまで関心が及ばなかったのです。

 

いくつか事件が起こりましたが、もう一つ取り上げると、ベレンへの帰路、アマゾン川の支流、川の名前は覚えていませんが、平底のフェリー渡しがありました。そこを渡ると、検問があり、往きのときは無事通過できたのですが、帰りの時、止められたのです。そしてガイドが検問所に連れられていって、話をしていたのですが、それが一向にらちがあかないのです。たしか1時間ではきかなかったように思います。どうも行かせてくれないようなのです。へんな日本人と思ったのでしょうか。結局、お金で解決したように記憶しています。

 

そんな思い出が残るベレン往復でしたが、眞子さんの場合、そんな怖い道路を使うはずもなく、快適な空の旅で、しかも成功したトメアスの日系人たちに歓迎され、日本人のお墓参りをされたようで、なによりです。

 

なお、私たちも、ベレンでは、日系人の結構えらい方から、美人コンテスト?とかの祝典に来賓で招待され、結構な接待を受けました。日系ブラジル人は各地で活躍され、人望もあり、日本人が訪れると、ほんときもちよく接待していただいた、思い出があちこちでありました。

 

いま東京オリンピック・パラリンピックで「おもてなし」と標榜していますが、私たち日本人が忘れてしまったことを、日系移民の方々は現地で大切にその心を残されているのではと思い、むしろ私たちが学ばなければならないことも少なくないと思うのです。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。明日は異常な台風が襲ってくるのかしら、各地で大きな災害が起こらないことを祈っています。