たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

子と親と社会 <論点 問われる保育の質>などを読みながら

2017-05-31 | 家族・親子

170531 子と親と社会 <論点 問われる保育の質>などを読みながら

 

昨夜はわが家も暑さを感じてしまいました。居間でのんびりするときはいつも涼やかな風でゆったり気分になれます。ところが昨晩は違っていました。むんむんするのです。気温は28度近くあったと思います。ただ、階下にいたとき結構涼しさを感じたので、下の部屋に行くとやはり快適なほど涼しいのです。気温を測りましたがすぐに2度くらい下がったと思います。しばらく読書をして休む頃には22度か23度と冷えるほどでした。

 

やはり2階は屋根に当たる日差しで、夜になっても気温が下がらなかったんですね。それに比べ階下は日差しが遮断され、快適空間でした。そして数日前に灌漑用水を入れた田んぼでは、カエルの合唱が谷一面にこだまして賑やかです。当分の間カエルくんの合唱を危機ながら読書でしょうか。

 

早暁には今度は野鳥の鳴き声がけたたましく聞こえてきました。ヒナが親鳥に餌をねだっているのでしょうか、ホオジロもヒヨドリも、ツバメも忙しく飛び回っています。子育ては彼らにとって一番の仕事かもしれません。楽しくもあり厳しくもある、でも最高の喜びの中で懸命に働いているのでしょうか。そこには命の喜びにあふれているのかもしれません。

 

さて人間社会は豊かになったのか、それとも不幸せになったのか、簡単にはいえないですが、最近の親子をめぐる話題はあまりうれしくなるような内容に乏しく、残念な思いをしますが、それも個々人の豊かさを求め、欲求を追求する裏返しなのでしょうか。世界的に見れば、飢餓・疫病・圧政・略奪・そして戦争といった苦しみから逃れられない多くの人の不幸と比較すれば、贅沢な悩みなんでしょうか。

 

そんなことを思いながら、今朝の毎日記事<論点問われる保育の質>を読みました。昨年でしたか、「保育所落ちた日本死ね!」のブログ、そして共感する大勢が話題なりました。そこまで追い詰められているんですね。なにが追い詰めていくのでしょうか。女性側が一人悩む状況が取り上げられることが多いように思います。男性側が朝早くから夜遅くまで仕事で子供の世話まで手が回らないとかの都合のよい弁解も記事になっていたりします。

 

少なくとも子育ての負担が女性側に傾きすぎるという社会意識・制度に問題の一因があるように思います。

 

いろいろ考えてみたいこともありますが、とりあえず記事の論点での指摘を取り上げます。

 

<待機児童を減らすため、政府は保育士の配置基準を緩和するなどして受け入れ可能な「量」の拡大を目指している>ことに対して、ここでは保育の質の問題を3人の論者が異論ないし別の問題を唱えています。

 

まず、秋田喜代美・東京大発達保育実践政策学センター長は、保育の質を強化することの必要性を訴え、<保育者が就職してはすぐに辞める構造ができてしまっており、ベテランの保育者が少ないためだ。保育者が長く勤め続けられるよう、離職防止や負担軽減に向けた取り組みが必要だ。>

 

たしかにそのとおりと思うのですが、このような事情は、介護士や社会福祉士など福祉の分野や児童・高齢者虐待の分野でも類似の問題を抱えていますね。

 

また、保育の質を調査したところ<保育者と子どもの関係性では、子どもの悲しみや喜びなどを受け止める「受容・共感・傾聴」や「集団での遊び・活動の支援」でクラス担任の自己評価が高かった。保育者の労働環境では、担任が負担を感じるトップ3は「事務的作業の多さ」「保育者不足」「責任の重さ」。「疲れを感じる」と答えた担任は「やや」「とても」で8割弱だった。>

 

しっかりしたクラス担任がいれば保育の質を高められるということでしょうか。それは教育システム全体にもいえますね。同様に事務的作業の多さなどは、まさに現在の教員が抱えている過重労働と同じのように見えてきます。

 

私の依頼者の中にも保育士の方が時折いますが、みなさんまじめで懸命に生きているという印象を受けます。きっと子供たちにも懸命に対応しているのだと思います。ただ、幼い子どもの体調管理や安全性の確保、さまざまな子供たちの間でのトラブルなど気を抜けない毎日でしょうが、その割に給料がきわめて低いですね。首都圏では保育士の絶対的な不足もあり賃金値上げの傾向がみられるようですが、地方にまでは波及していないようです。

 

本来、高い保育の質を求められ、持続的な研修の必要性が高いわけですが、ここで指摘されている認可外や企業主導型保育だけでなく、認可保育園でも、研修制度が十分とはいえない状況と思います。

 

首都圏の自治体は各自さまざまな工夫をしているようですが、保坂展人・東京都世田谷区長は、<保育施設を整備する土地を確保するため、賃料の3分の2を区が負担するなどの対策を取り、今年は3歳児以上の待機児童はゼロになった。2016年度中に1976人分の受け皿を拡充し、20年4月の待機児童ゼロを目標にしている。>と積極的な姿勢がうかがえます。

 

保坂氏は、独自に「世田谷区保育の質ガイドライン」を公表して、保育の質の確保を自治体としてコントロールしている点を自負しています。

 

たしかにこのようなガイドラインを整備し公表して、それに基づき保育園運営を行うこと自体は客観性・公平性を確保しつつ、本来の保育の質・量を高めることに役立つ第一歩として評価できると思います。

 

しかし、ガイドラインをざっとスキャンしてみただけですが、具体的な保育の質を高めるにはさらにさまざまなガイドラインの中身が問題で、さらにいえばその内容がじゅうじつしたものであるだけでなく、実際に、実効性あるものでなければ、絵に描いた餅にすぎません。私自身、世田谷区ではいろいろ事件を取り扱い、古くからの地主層もいれば多種多様で、必ずしも高度の教育を受けた、あるいは成功した人ばかりが居住しているわけではありませんね。日本特有の混在した町の一つでしょう。まちづくりにしても先験的な取り組みをしてきた一面、一般的にそういう意識かというと当てはまらないと思います。同様に、保育の質ガイドラインが有効に働くかは、これからの住民活動の頑張り次第ではないかと思います。期待したいです。

 

寺町東子・弁護士は、保育の質として、基本は安全の確保という視点で、<保育は他人の子どもを預かる仕事であり、専門性は保育の質を確保するために不可欠だ。無資格者のみの施設はなくすべきだ。>と指摘しています。また、量を確保するために、配置基準の緩和をはかる政府に対して、<今必要なのは、保育士の目を確実に子どもに行き届かせるために、配置基準を今より手厚い方向に見直すことだ。>とも主張しています。そして<保育士の待遇改善>や事故が起こった場合の<検証制度を法的に位置付ける必要もある。>も指摘しています。

 

たしかに寺町氏の基本的スタンスは妥当なものだと思います。ただ、保護者側にも問題はないか、いまこの点を取り上げるのは妥当ではないかもしれませんが、将来的にはより充実した保育のあり方に進んでいくとしたら、保護者と保育者との連携・協力は不可欠ではないでしょうか。事故対応を中心に議論していますが、その場合にでもなぜ保護者が問題を公にするのを避けようとするのか、その背景に迫る必要があるように思うのです。

 

待機児童の量の問題について、他の記事を見ますと以下の記事が出てきました。

 

待機児童2020年度末ゼロ 政府新目標、受け皿22万人増> 

すごいですね、数字の帳尻合わせは得意なんでしょうか。それ自体に先に指摘されたような無理があるのではないかと懸念ばかり浮かんできます。と同時に、潜在的な需要が顕在化して、いたちごっこになるおそれもありますね。そこにはよりよい親の生き方、この育ち方、社会のあり方というものが、政府の構想の中には見えてこないのですが、それは私の勉強不足に過ぎないのでしょうか。

 

ところで、首都圏では、<待機児童豊島区、ゼロ 杉並区は緊急事態宣言解除 /東京>といった、早速大きな成果?をあげたところもあれば、他方で、地方でも共働きが増大しているせいか<待機児童筑後地区115人 依然厳しい現状 4月1日時点 /福岡>ということにもなっているようです。

 

で、これらの待機児童は大きく話題となり、関係する人も多いため、政府が、自治体が、それなりに相当の力を入れてきていると思うのです。でも一方で蚊帳の外に置かれている児童がいることも忘れてはならないと思うのです。

 

輪の中へ医療的ケア児と保育所 第2部/上 自治体の支援進展に差>で取り上げられている医療的ケア児と家族にとってはより厳しい現実にさらされていると思います。

 

<たん吸引や栄養注入などの医療的ケアを必要とする子どもについて、2016年5月に児童福祉法と障害者総合支援法が改正され、自治体に支援の努力義務が課された。>

 

毎日新聞が調査した結果、<全国の主要自治体を対象に実施した調査では、政令指定都市、道府県庁所在地、東京23区の計74自治体のうち、34自治体が医療的ケア児の保育所受け入れは「ゼロまたは不明」と回答。そのうち12自治体は入所を受け付けていなかった。>ということです。

 

支援の努力義務を理解し意識している自治体や首長は一体どのくらいいるのでしょうか。少数だから切り捨ててよいのでしょうか。

 

例外的に受け入れた品川区の例が紹介されています。

 

<東京都品川区は今年度から認可保育所で医療的ケアに対応する体制を整備する。「やっと地元で腰を落ち着けて育児ができる」。たん吸引が必要な長女(1)を今秋から預ける予定の父親(42)が胸をなで下ろす。

 長女は15年10月、未熟児で誕生。生後2カ月で気管切開してたん吸引が必要になり、入院生活が始まった。16年11月には闘病中だった妻が死去。当時、区内の保育所や児童発達支援施設で医療的ケアは提供されていなかった。一人親となった父親は民間の受け入れ先を探し、区外で看護師がケアに対応する託児所を確保。朝夕、娘を抱いて通勤電車に揺られた。

 品川区は法改正を踏まえ、対応を協議。託児所や病院とも連携して安全を確保した上で受け入れ可能と判断した。区は保育所に看護師1人を追加配置する方針で、保育士も医療的ケアができるよう研修を進めている。

 父親は「前例がない取り組みに、区は迅速に対応してくれた。たくさんの人が協力してくれた」と感謝する。区は当面、たん吸引と経管栄養注入に限って受け入れる方針。「看護師不在の場合、保育士でもケア可能な体制を整えるため」という。>

 

いかに大変か、自分がかかわった経験がないですが、父親の言葉の重みを感じます。自宅で終末を迎える運動に関わっていたことがありますが、医師・看護師・家族などの連携と努力は並大抵ではありません。皆さん心優しいひとばかりです。こういう人たちと仲間を組めることに幸せを感じるのかもしれません。

 

まして幼い子どもの場合、適切な体制が整備されていないと、制度の狭間の中で対応することができず、家族だけで世話することではやっていけないでしょう。数少ないけれど自らの力で生きていくことが困難な人たちにしっかり支援のテが届くように、社会が対応するのでなければ、心豊かな人たちの生きる社会にはなれないように思うのです。

 

1時間半以上になってきました。そろそろ終わりにします。まとまりがないのと、よりもっとなにかをいいたかったように思うのですが、疲れで頭も回らなくなってきていますので、この辺で今日は終わります。


弁護士の未来(2) <20回弁護士業務改革シンポ・紹介制度>を読みながら

2017-05-30 | 司法と弁護士・裁判官・検察官

170530 弁護士の未来(2) <20回弁護士業務改革シンポ・紹介制度>を読みながら

 

昨夜は珍しく帰宅が9時になり、疲れて早々と床に入りました。おそらく多くの弁護士は9時を過ぎても平気で仕事を続け、渉外事務所なら夜中過ぎ、あるいは朝方までやっているかもしれません。それは昔の話で、今は働き方改革の影響で、夕方6時には仕事を終えるといった話がどこかであるかもしれませんが、私は希な例だと思っています。

 

ま、いわゆる日常業務は6時ないし7時に終わっても、それからさまざまな会合に出かけるのが弁護士業務の一環と考えるのがいまでも常態化しているのではないかと思います。会議案内も6時以降が普通です。私は体調を考えて不参加を決め込んでもう10年以上になります。

 

おかげで朝は気持ちよく起きられ、新鮮な空気にえもいわれぬ快感を得ています。それは金銭で得られない贅沢品ですね。今朝もそんな贅沢品をいただきながら、野鳥とともに気持ちのよい朝を楽しむことができました。

 

ところで、新聞情報もウェブ情報も、とくに興味をそそるものがなく、そういえば先日書き残した見出しの記事<20回弁護士業務改革シンポジウムのご案内>を続けようかと思い、前のブログでどこまで書いた確認したところ、第1から第3分科会までで終わっていました。見るとまだ第4から第9分科会まであるので、これは大変と思いつつ、皆さんどんな将来を目指しているのか、私も勉強になるので、記事をフォローしながら、触れてみたいと思います。むろんこういう活動は6時以降であったり、土日であったりですので、メンバーは過重労働をこなしているわけです。

 

<第4分科会 弁護士紹介制度のあるべき姿>といっても、一般の方はこのような制度があること自体知らないかもしれません。というのは弁護士の一般的な事業モデルの古いタイプ(私もそうかもしれません)では、知り合いの誰かから紹介を受けた方を業務の依頼人にする形態であったかと思います。看板は別にして、広告宣伝などはもってのほかというか、弁護士倫理として認められていなかったと思うのです。

 

それがいつの間にか、広告宣伝が次第に普及し、<弁護士職務基本規定>でも、

「第九条 弁護士は、広告又は宣伝をするときは、虚偽又は誤導にわたる情報を提供しては ならない。

弁護士は、品位を損なう広告又は宣伝をしてはならない」

 

と広告宣伝が一定の制約を設けつつも、その媒体なりに制限がなくなり、いまではアメリカ並みに?TVやウェブ上で相当な数になっていますね。

 

で従来の基本モデルの「紹介」についても、弁護士職務基本規定11条では次のような制限があります。

 

弁護士法72条(非弁護士の法律事務の取扱い等の禁止)以下で禁止されているような人から「依頼者の紹介を受け、こ れらの者を利用し、又はこれらの者に自己の名義を利用させてはならない。

 

また、私たち弁護士は仲間の弁護士や知人から紹介されるのが従前、一般的でしたが、その場合に紹介に対価や謝礼を授受してはいないことになっています。

 

同13条「第十三条 弁護士は、依頼者の紹介を受けたことに対する謝礼その他の対価を支払っては ならない。

 弁護士は、依頼者の紹介をしたことに対する謝礼その他の対価を受け取ってはなら ない。

 

このような紹介システムは、弁護士の公正さや倫理性を担保するのに、意味があったと思います。私の場合知り合いの弁護士からの紹介を受けた事件が少なくなかったのですが、謝礼を払うとか、お礼の気持ちを表すということはありませんでした。むしろ紹介する弁護士の方がよろしくお願いしますと、ありがたがってくれていました(本音だと思いますが)。

 

しかし、このような個人的ルートで紹介するようなことだと、一般の方にとっては弁護士へのアクセスが非常に難しいですね。自分が関わっている事件に専門的知見があるとか、といった情報はどこにもありません。これは医者や医療情報と比較すると格段の差ですね。

 

といって弁護士の間でも、この弁護士がどの分野に強いといったことはあまり情報としては普及されてきませんでした。広告宣伝が禁止されていたこともあり、○○が得意とか、専門だとか標榜するチャンスもありませんでした。ま、そういうことを宣伝するといったことがはしたないことと思われていたきらいがありますね。

 

でも紛争に巻き込まれたり、トラブルが起こったとしても、弁護士の知り合いがいない人は困ってしまうでしょう。いや知り合いがいても多くの弁護士は、先述の通り他の弁護士の専門的知見情報をほとんど知らないのが実情だと思います。他方で、弁護士は一般に、特定分野を除き、オールラウンドプレーヤーの気分ですので、なんでも対応するかもしれません。

 

で、私の知り合いの弁護士はもう30数年前から、個別にそれぞれの弁護士の取り扱った事件データを収集し、勝敗を含めやり方など、整理していたのを覚えています。データの収集は、当時は判例データベースもなかったので、手作りですし、まだPCもプログラミングするには難しかったので、その解析とか判断要素・基準などを確立するのは容易ではなかったと思いますが、先見の明ともいえるかもしれませんでした。彼はいまこういった業務改革運動をリードしている一人になっています。

 

長々と余談が続いてしまいました。本論に戻らないと、すでに一時間近く経過しています。で分科会では

 

<当分科会では、①米国カリフォルニア州の弁護士会を訪問し、弁護士紹介サービスについて調査した結果の概要報告>として

ア 弁護士紹介サービスの合法化、

イ 弁護士紹介サービスについての認証制度の導入、

ウ 郡弁護士会における相談者に対する非営利の認証弁護士紹介サービスの実施、をあげています。

②弁護士紹介制度の存在意義、弁護士紹介の在り方等についての日米比較、

③弁護士検索サイトを運営する弁護士紹介業者に対する認証制度の検討状況の報告、

④今後の日本における弁護士紹介制度の在り方の提案等を行います。>

 

ということで、そういえばウェブ情報でも、紹介業者がいろんな方法で広報していることを思い出しました。また、私にまで頻繁に登録を求めるファックスとかが送られてきたのを思い出しました。私自身は、こういった紹介事業が適正に行われるのであれば、より積極的にしてもよいのではないかと思っています。ただ、過払い金返還請求とか、離婚慰謝料とか、養育費請求とか、保釈請求とか、割合、一般的なケースで、多数をこなしていれば、多少はノウハウも生まれるのでしょうから、それは一定の広報宣伝もいいでしょうけど、問題事例がないか、苦情受け付けが適切になされているかなど、配慮が必要だと思うのです。

 

で、弁護士会は弁護士紹介制度を設けていますが、専門分野ついてはまだ客観的な評価基準が確立していないので、これを研修制度の受講くらいですますのではなく、もう少し実務研修的なものまで組み込まないと専門性はなかなか客観的なものとして評価されないように思うのです。

 

とはいえ、たとえば医療事故などについて専門的知見のある弁護士といった評価を下すのは簡単ではないでしょう。どんな事件でもその個別性は顕著で、まして医療事故であれば、医師の専門分化が極端に進んでいる中、産婦人科の事例だけでも多種多様なのに、心臓外科や他の科の事件についての相談に、専門的知見をもって対応できるかというと、簡単にはいえないと思うのです。むろん基本的な証拠保全手続きとか、診療記録の検討、訴訟手続きなどは共通しますし、専門的な知見はその分野に通暁した専門医や文献によるので、なんでもOKといえばいえなくもないですが、やはり無理があると思っています。

 

といったわけで、紹介制度はある分野など多くの弁護士が納得できる手続きを通じて、専門分野を持つ弁護士を育て、紹介していくことかと思います。その場合、その分野ごと事例研修を定期的に行うことも必要ではないかと思うのです。たしか東弁で外国人問題を扱ったときなど、最初は手探りで、それぞれ事例を担当し、事件処理をその後相互研修しながら、相談マニュアルを作るなどして、専門性を高めていったように記憶しています。これは宇都宮元日弁連会長が主導したように記憶しています。

 

で、次の話題に入ろうかと思いましたが、少々疲れてきましたし、一時間を優に過ぎて6時も過ぎたので、この辺で今日は終わりにします。また続編をいつか書くかもしれません。

 


人と物の後始末 <そこが聞きたい 空き家問題 東洋大教授・野澤千絵氏>を読みながら

2017-05-29 | 不動産と所有権 土地利用 建築

170529 人と物の後始末 <そこが聞きたい 空き家問題 東洋大教授・野澤千絵氏>を読みながら

 

昨夜は深夜に首の痛みで目覚め、しばらく寝られませんでした。起きてもなかなか痛みがとれず、頸椎症が再発したかと思っていたら、少しずつ痛みが軽くなり、痛み止めでだいたい収まりました。高齢者の一人になり、あちこち不調が生じるのはやむを得ないので、うまくつきあうよう心したいと思う次第です。

 

今日はその痛みばかりが気になって、仕事はさほど忙しくなかったのですが、来客対応が終わったらもう730分になっていて、帰宅時間です。ブログのために1時間延長して頑張るしかありません。

 

で、とっさに目についたのが<風知草国連特別報告者って?=山田孝男>の記事です。山田氏にしてはめずらしく論調がわかりにくく思い、それはなぜかを整理しようと思ったのです。ケナタッチの報告と海渡弁護士の意見陳述との関連性を整理したいと思ったのですが、それぞれの原文を見つけるのに時間がかかりそうなので、やめにしました。海渡さんは昔からの知り合いですが、論理的で雄弁であり攻撃的に見える部分もありますが、どちらかというと人好きのする面白くて柔軟な考え方もできる有能な弁護士の一人でしょう。いつか共謀罪や原発について彼の議論を整理したいとは思いますが、いつになるか。

 

さて、今日のお題として選んだ<そこが聞きたい空き家問題 東洋大教授・野澤千絵氏>は、どちらかというと、前口上的な部分になるかもしれません。とはいえ野澤氏が指摘している空き家の数字は驚異的なものであり、本論とも関わってきます。

 

記事によると<全国に約820万戸の空き家があり、街中に広がるスポンジの穴のように空き家が増える「都市のスポンジ化」が進んでいる。野村総合研究所の予測=1=によると、2033年には3戸に1戸が空き家になる計算だ。>

 

野澤氏は<住宅に65歳以上の高齢者だけが住んでいる場合を「空き家予備軍」と定義して、持ち家の割合が高い戸建て住宅を対象に全国の状況を調べてみると、空き家予備軍は約720万戸もあります。将来、予備軍の住宅が相続された際、適切な管理や賃貸への変更、中古住宅としての売却などがきちんと実施されないと、大半が空き家になるのではないかと懸念しています。>と指摘します。

 

高齢者だけの住宅は「空き家予備軍」ということのようです。たしかに相続で継承するケースはどんどん少なくなっているかもしれません。以前は、自宅敷地が広くて宅地分割して相続することで、一応の相続継承がなされたこともあったでしょうが、それだけの不動産を所有している人も少なくなったでしょう。宅地分割自体は、わが国特有の制度ですが、近隣との間で景観・環境問題となり、それが少なくなることは住環境保全の面では悪いことではないのですが。

 

ただ、相続を契機に空き家問題が現実化するのは、子供が自分の住処を所有あるいは賃借でも、別の場所に置いていることも要因ではないかと思うのです。新たな働き場所、学校などがあると、それが両親の住む実家と離れていれば、簡単に実家に住むということにはならないでしょう。

 

野澤氏は<予備軍の住宅が相続された際、適切な管理や賃貸への変更、中古住宅としての売却などがきちんと実施されないと、大半が空き家になるのではないかと懸念しています。>と述べ、結局、<中古住宅の市場流通>の改善を求めているようです。

 

たしかにわが国の中古住宅については売却・賃貸いずれも整備されていないと思います。ただ、それにはいくつかの理由が複合的になっているのではないでしょうか。そもそも住宅所有者が所有者として適切なメンテナンスを行っていないケースが多いと思います。私はカナダなど海外で暮らしましたが、多くの人が中古住宅を大事に利用し、さらに売却して、よりいい中古住宅に移ることを意識しているように思えるのです。その一例が住宅には名前の書いた表札がなく、ナンバープレートだけですね。終の棲家とは考えないのです。その代わり、毎日家の外、中の手入れを欠かさない人が多いと思うのです。

 

中古市場にとって重要な役割を果たすリフォーム事業については、最近はかなり品質の安定やバラエティーさなども含め強化されてきたと思いますが、それでも全国的な普及という面ではもっと頑張ってほしいですし、それが価格に反映するような工夫も必要かと思います。住宅は個性的です。とはいえ自分勝手な個性がまかり通るばかりでは、中古市場の格付けも合理的な評価が生まれにくくなるでしょう。

 

都市経営の観点からの対策について、都市計画法の改正に触れて、線引きの緩和運用を問題にしていますが、それはある意味では鶏か卵の問題かもしれません。北米では各自治体が独自のゾーニング制をしいて、一定の区画された地域以外での開発を禁止し、またゾーニングの種類は日本のように12種類といた大ざっぱ仕分けではなく(ないに等しい)、100とか場合によって数百、それを優に超える詳細ゾーニングを市民が支持しています。自由勝手に低層住宅街に高層マンション(地下室型)が立地するようなことは絶対に不可能なのです。

 

わが国では、まともに都市計画が住民みずからの意思決定で成立していると思っている人は何人くらいいるのでしょうか。官僚を別にすれば、都市計画法の手続きを踏んだ程度で、住民参加がなされ、住民の意思が反映してできあがっているとは思わないでしょう。自分たちが住んでいる住宅に、どのような建物がどのような配置で立つかわかっている人が何人いるでしょうか。まして都市計画図を見ている人が何人いるか、ましてその内容を正確にわかっている人がどのくらいいるでしょうか。そのうえで、線引きを緩和して調整区域に住宅開発をといった問題に切り込むことは結構なことだとは思います。

 

分譲マンショの建て替えについては、規制緩和策を講じていますが、これまでの建築方式からすると、都市計画の規制強化もあり、現実的な建て替えは超えがたいほどの壁になるでしょうね。それでも業者の広告宣伝、さまざまなリスクをかかえているにもかかわらず、高層マンションなどマンションの増加は税の優遇策もあり、止まらないでしょう。

 

<国は郊外に無秩序に市街地が広がることを抑制し、公共施設や病院などの都市機能や居住機能を拠点に集約させる「コンパクトシティー」=2=の構想>や<「規制緩和によって市街化調整区域で宅地開発が可能となる新築分」について、各自治体が住宅の総量抑制を行う}ことが有効な策のように指摘されていますが、ほんとにそうでしょうか。

 

コンパクトシティ構想は遅くとも2000年代には政府が主張していましたが、ほとんどまともな成果を得られていないのではないでしょうか。総量規制策が、実際に制度化して実現できるのでしょうか。貸し金規制のようにうまくいかない理由はなにかそこにメスを入れる必要があると思います。

 

空き家が、そして空き家予備軍が、膨大な数になっていくという潜在的な脅威は、かれらマンションを求める住民・業者には自分の問題として映りにくいのかもしれません。

 

空き家問題については、次の解説がわかりやすいと思います。

空き家対策特別措置法(空き家法)を分かりやすく解説

http://www.tochikatsuyou.net/column/akiya-hou/ 

家の解体費用の相場と見積もりの事例(木造・軽量鉄骨他)

http://www.tochikatsuyou.net/vacant/kaitai-hiyou/  

空き家を手にしたらどうするか?そのリスク・費用・方法について

http://www.tochikatsuyou.net/vacant/dousuru/ 

 

で、これまでが前口上で、本論は<自分らしく、老後の整理 作家・群ようこさんに聞く>の記事を思い出し、老後の整理で、一番大事なものは、残された人への配慮だと思いますが、次にものとして考えておくべき重要なのはまさに不動産ではないでしょうか。

 

群ようこ氏のものの断捨離についての指摘は老後とはいわず、日々心すべき事柄ではないかと思います。人は生まれた瞬間、確実に避けられないのは死です。常に死を意識して生きる必要がありませんが、ものの整理は美しく生きるためには欠かせないことではないかと思うのです。なにが美しいか、それが問題ですね。それはまた別の機会に。

 

で、ものの後始末で一番重要なのは自宅や不動産の処理です。どうするか、それは誰かに相続させるといった不動産所有権の帰属といった形ではありません。むろんこれは基本的に重要ですから、このことに悩み続ける人を何人も見てきました。中には公正証書遺言を3回わずかの間に書き換えした人もいました。しかし、私がいま問題にするのは、その自宅なり、不動産をどのように活用するのがよいのか、適切なのか、その担い手は誰か、そういったことを真剣に考えていくことこそ、所有者としての最後のつとめではないかと思うのです。

 

相続人の誰かに相続させればよいとかではありません。不動産は個人の私有財産の場合、自分が自由に処分できますが、その存在は社会的な関係において成立しています。まずは社会的な意味ある存在として適切な管理を行うことが求められているのではないでしょうか。

 

私が居住する分譲地では、ほとんどの住宅では塀などに花を植えたり、飾っています。ガーデン住宅とまでいうといいすぎですが、通りを歩いていて気分よく過ごせることを皆さんが努力して行っているように思うのです。それは住宅ではもちろんのこと、田畑や山林でも同じです。そういうことに老後の後始末として心をさいて欲しいと思うのです。

 

私はどうしたらいいか悩んでいる人がいたら、それこそ私も一緒に考えてあげたいと思っています。絶対の正解はないと思います。

 

一時間を過ぎました。そろそろ終わりにしたいと思います。


選択の権利と責任 <時代の風 「分煙」が不可な本当の理由=藻谷浩介>を読んで

2017-05-28 | 人の生と死、生き方

170528 選択の権利と責任 <時代の風 「分煙」が不可な本当の理由=藻谷浩介>を読んで

 

今朝は珍しく光が差すまで目覚めないどころか、かなり暖かくなってもどうも体の動きが悪いのです。昨夜久しぶりに缶ビール2缶飲んだせいかと思ってみたりしますが、人間のからはわからないものです。

 

外を見ると、高野の山々はくっきりと浮かび上がっていて、その稜線の刻みがよくわかります。稜線が途中で切れて、別の稜線が重なっているとか。でも結局、今のところ、それぞれの山容がいまだによくわかりません。見えているようで、はっきりしません。人間の視力、認識力、そういったものは、多くは見えるものも人の能力や意識によって見えないものであるというのが、日々山を見えていて、自分の能力のなさと工夫の足りなさ、山に対する意識なり配慮のなさを感じるのです。

 

で、もう今日も5時になりますが、ようやく本日のお題をいま決めたところです。どうも体が重くて、仕事をする元気もなく、午後からは囲碁対戦も淡路さんと王さんの久しぶりのベテラン対戦を興味深く見ていたものの、寝入ってしまいました。いまもぼっとしたままです。

 

今日の見出し記事として選んだ<時代の風「分煙」が不可な本当の理由=藻谷浩介・日本総合研究所主席研究員>は、藻谷さんのわかりやすい整理が気に入ったこともあり、ボッとした頭でもなんとかフォローできるかなと思ったわけです。

 

だいたい頭の方も、内容より、藻谷山が歩いているところはどこかな、なんて気になり、歩道は下水汚泥で作ったレンガ道のような印象ですし、正面右背後の高層ビルと、歩道の奥にはかなりのスペースがあるようにも見えますし、街路樹はさほど立派ではないけど樹冠が剪定されず残されていて樹木への配慮がありそうな印象。となると、日比谷公園の北東隅(昔、交通裁判所?があったところ)で現在は噴水プールのある広場ではないか)なんてそういった勝手な空想は少し働くのです。数十年前によく歩いたところなので、懐古趣味的に連想してみました。

 

こういう風に、人の認識は自分の体験によって事実を書こうというか、客観的に見えない認識力というか機能というか、選択的認識をしていると思うのです。

 

で、藻谷山が最初に指摘した共謀罪の有効性・必要性については、私も趣旨は同じですが異なる視点で、先のブログで書きました。

 

もう一つの<厚生労働省が提案した飲食店内の全面禁煙>についても多少触れた記憶があるのですが、なんども禁煙問題は書いてきたので、この提案について書いたかははっきりしません。

 

藻谷さんの明快な論理は後で触れるとして、やはり時代の流れを、そして時代の風を感じてしまいます。私自身、父がヘビースモーカーでしたので、家の中が紫煙でいっぱいというのは自然なことでした。たしか通学していたとき電車の中でも喫煙は普通だったように思います。

 

東京で大学生活を送るようになったときも、自動車の排ガスにはいっぺんで参りました。まだ明治通りには路面電車が走っている頃で、その排ガスのひどさは地方育ちの私には耐えがたいものでした。すぐに胸の痛みが耐えられないほど苦しんだことがあります。

 

これに比べて、コンパなどでは皆たばこ粋がってすうのが当たり前でしたが、これは全然、平気でした。ただ、私はあまり好きになれず、せいぜい一本も吸えばいやになる、みんなの前のかっこつけくらいの感じでしたか。映画の高倉健にあこがれて、スポーツ刈りをしていましたが、たばこはまねできませんでした。

 

そういえば長髪もはやりましたね。南こうせつさんも神田川を歌っていた頃、フォーク歌手らしく長髪でした。で、私も長髪をある時期から始めましたが、それはフォークなどといった軟弱(失礼)というか、流行には関心がなく、当時の学生の多くがかぶれた、マルクス・エンゲルスに「心酔」するような雰囲気で、大英図書館とは大違いの、大学図書館にこもって長髪にしていたような記憶があります。

 

これらはそれぞれの選択の自由でしょうね。権利かもしれません。がその行為が他の人、生物、生態系に悪影響を及ぼすとしたら、そしてそのことを認識できたら、それは選択の自由とおおいばりできるでしょうか。

 

多くの日本人の美徳の一つは、いつ頃から生まれたのか、太古の時代からかはわかりませんが、人に迷惑をかけないように生きることを意識して、生活という日々の中で、数々の選択的行動をしてきたのではないかと思うのです。

 

人に迷惑というのは、昔であれば共通の秩序の中で、たとえば江戸時代であれば、小さなムラという共同体の中で、独自の行政・警察権をもって、構成員それぞれがその秩序の意義を共通の土台にできる状況があったのではないかと思うのです。

 

しかし、現代は残念ながら、そのような地理的な意味での共通の地域性を持った共同体も、その秩序も成立することが困難な状況です。自治会、区会、町内会などといった存在も、その意味では、行政が決めたルールを下位機関として提供するにとどまる面が強くなってきていると思います。

 

少し余談が長くなりましたが、では、たばこを吸うのは権利ではないかと点、藻谷さんも指摘されているとおり、わが国はもちろんどの国でもそれは認めています。大麻や麻薬、覚醒剤とは違います。しかし、たばこには多種多様な有害物質が含まれていて、吸うことにより喫煙者自身だけでなく、周りの人も受動喫煙によって、発がん性物質など有害物資を吸引することはすでに科学的な知見となっています。

 

自分の選択の結果を知りたくないと思う人もいるでしょう。しかし、選ぶということ、その選ぶ権利があるということは、選んだ結果どのような影響があるかについて責任も甘受する必要があります。嫌なことは知りたくない、ということで済ませる話ではないと思うのです。

 

今回の厚労省の案のうち、飲食店全面禁止(例外を認めるものの)について審議中、がん患者は働くなとヤジを飛ばした議員の発言や人間性が問題となっています。しかし、それは彼一人の問題とは思いません。彼の背後に膨大な数の人が彼と同じことを考えている、そこまでいわなくても、たばこが嫌いな人は喫煙できる店に行かなきゃいいんだといったぐらいの気持ちは持ち合わせている人も少なくないと思います。

 

喫煙者の人には、自分の吸っている周りには、なんの変化もない、子供も、赤ん坊でさえ、元気に育っているというかもしれません。

 

発がん性物質を含むたばこに含まれる有害化学物質は、その影響が蓄積され、それぞれの閾値を超えたとき、突然、体に変異を起こすということがこれまでの医学的知見の一つではないかと思います。

 

私自身、長くほとんど影響がありませんでした。先輩のヘビースモーカーと一緒に長時間のフライトをしていても特別気になりませんでした。ところがある時期から、目の前でたばこを吸っていなくても、その人が息を吐いただけで気分がおかしくなる状態になりました。あるときは、依頼人が書き留めたノートを用意してくれたのですが、それを見ただけで、めまいをして読み続けられなくなりました。とても反応が敏感になりました。いまはいつも注意しています。

 

いま喫煙者自身、あるいは周辺の方が元気でいても、ある時期、突然体調悪化し、治療を必要とされるかもしれません。長年の喫煙生活であるときから肺がんなどになり、生死をさまよう苦痛を味わいながら、旅だった人を何人も見てきました。それは喫煙者だけではないことを理解する必要があると思います。

 

最後の締めに、藻谷さんの言葉を引用したいと思います。<いま日本が問われているのは、世界共通のこういう理屈と経験的事実を、理屈通り、事実に即して受け入れる理解力、基本的な人権感覚があるかどうかだ。世界に恥じない結果になることを願うのみである。>

 

なお、厚労省の案は、諸外国の状況とわが国の立ち位置を含めその必要性・法案の構成などわかりやすく資料化されており、藻谷さんが指摘する主張を裏付けるものです。実際、このことに関して裏付ける史料は膨大すぎるので、厚労省くらいの整理がちょうどいいかもしれません。

受動喫煙防止対策の強化について(基本的な考え方の案)

http://www.mhlw.go.jp/file/04-Houdouhappyou-10904750-Kenkoukyoku-Gantaisakukenkouzoushinka/0000162842_4.pdf

受動喫煙防止対策強化の必要性

http://www.mhlw.go.jp/file/04-Houdouhappyou-10904750-Kenkoukyoku-Gantaisakukenkouzoushinka/0000159912.pdf

受動喫煙防止対策の強化について(たたき台)

http://www.mhlw.go.jp/file/04-Houdouhappyou-10904750-Kenkoukyoku-Gantaisakukenkouzoushinka/0000153431.pdf

受動喫煙防止対策の強化について (基本的な考え方の案) 【参考資料】

http://www.mhlw.go.jp/file/04-Houdouhappyou-10904750-Kenkoukyoku-Gantaisakukenkouzoushinka/0000153435.pdf


 

これでちょうど1時間弱です。ほどよいところで終わりにします。

 

 

 


弁護士のこれから <弁護士業務改革シンポ>の記事を見て

2017-05-27 | 司法と弁護士・裁判官・検察官

170527 弁護士のこれから <弁護士業務改革シンポ>の記事を見て

 

今朝は少しひんやりしたそよ風が部屋の中に入ってきて、いまはほんとにいい季節だなと思わず感じました。日中はたしかに暑くなりますが、家の方位・建て方によっては冷ややかな空気の流れを作り出し、気持ちのよい日中を家で過ごすことができます。伝統的な和風建築はこの観点から建てられてきたのではないかと思います。江戸時代の武家屋敷なども下級武士でも配置も含め風の流れを意識して建てられています。風のながれというものが昔はとても意識されていたのではないかと思うのです。

 

今日仕事でお客さんの家を訪ね、リビングで話をしたのですが、とてもきもちのよい風が入ってきて、気持ちよく過ごすことができました。施主と大工さんが日本の湿気が多く暑さに対応するため、配慮した作り方をしたのだと思います。

 

朝一番は、シジュウカラが、その後ヤマガラが、それぞれ美しくさえずり、それも気持ちを和らげてくれる出足でした。しかし、庭木の剪定や、片付け、庭石や花の苗の買い入れなど、いろいろ作業をしているとあっという間に時間がたち、午後の打ち合わせも順調に進んだのですが、地籍図の境界標の確認などを終えて、事務所で簡単な仕事を済ますと、もう5時です。

 

今日のお題はとウェブ情報を見てシャープの買収後1年でのV字回復を図る景気のいい報道には少し首をかしげてしまい、一年前に不安視された買収劇のその後を調べようとしたのですが、簡単には情報が見つからず、今回は断念しました。

 

それで、久しぶりに弁護士ネタでも取り上げようと、日弁連委員会ニュース今月号のトップに掲載されていた見出しのテーマについて、少し触れて見ようかと思います。つい最近まで、顰蹙を買うかもしれませんが、この種の弁護士会からの情報はほとんど読んでいませんでした。昔東弁の広報委員をしていた頃はむろんよく読んでいましたが、その後環境問題にシフトして、それ以外のテーマにはほとんど関心を持たず、当地に移ってきても、ただ積んでおくということでした。

 

昔議論をした仲間の名前がでていたりして、多少は関心がありますし、広報委員当時はこの種の議論をよくしたものでした。

 

で、日弁連のホームページでどのように扱われているかとみたところ、<20回弁護士業務改革シンポジウムのご案内>という見出しで、詳細が載っていました。でもこのウェブページに簡単にたどり着いたわけではありません。ホームページの構成に工夫があってもよいように思いますね。

 

さてシンポは9つの分科会に分かれて、それぞれが個別のテーマで議論するようですので、一時間以内で扱えられる範囲で取り上げたいと思います。

 

まず、<第1分科会 企業経営とジェネラルカウンセルの役割>となっています。

 

内容は<欧米では、上場企業に弁護士資格を有し高度な専門家責任を負う者が、自らも経営陣の一員として経営に参加しつつ法務部門を統括し、企業内での強い権限や発言力を有する、「ジェネラルカウンセル(GC)」が設置される例が一般的ですが、日本企業での設置例は、未だ少数に留まっています。

当分科会では、国内外の現状を紹介しつつ、複雑化する企業経営環境下において、GCが経営責任の遂行のために果たし得る役割を議論し、日本においてGC制度を根付かせるための諸課題を検討します。>とのこと。

 

たしかにGCといっても、ほとんどの人が知らないでしょうね。たしか日本IBMで最初にそれに相当する人がいた記憶があります。もう30年以上前の話ですが。当時でもわずかということで、単なる企業内弁護士ではない、経営に参画してトータルに法務を見るといった人は他にいなかったのではとの記憶です。それが現在もさほど増えていないようですね。

 

それは最近のニュースで取り上げられる大企業の不祥事を見ればそうかなと思います。とはいえ、90年後半くらいからでしょうか、監査役、さらには社外取締役に弁護士がなるというのが相当増えてきている訳ですが、GCに相当するような人はあまり聞こえてきませんね。

 

では弁護士がいれば大丈夫か。たしかに不祥事・不正処理事件などが発生すると、第三者委員会が発足し、それによる調査・報告・提言などが行われ、コンプライアンスやリスク管理の施行実態が追求される訳ですから、これは事後的ですが、事前にそのような指導・管理が行われれば、問題が少なくなることが理解されるようにも思うのです。

 

ただ、多くの第三者委員会の調査においても、依頼者である企業の依頼内容によっては相当限定的な調査しか行われていない、公正さが担保されていないものであったり、公表が不十分であったり、と問題のある調査報告もこれまで指摘されています。

 

すると、企業内に入った場合に、さらに支配従属関係になるのか、委任関係になるのか、違いはありますが、やはり企業の影響を受けるおそれは否定できないでしょう。

 

このGCの業務内容について、その適正さを保つガイドラインをどう構築するか、あるいはその信頼性をどう高めていき、第三者が見て理解できるものにできるか、いろいろ課題があると思います。さて、シンポではどのような議論が行われ、海外で活躍しているという?GCがわが国でも活用されるようになるのか、期待したいところです。

 

アメリカのGCが取り上げられていますが、私は今なお、リーマン・ショックにおいてウォール街の金融証券業者らによる厚顔無恥な不正がおこなわれたと思っていますので、GCが一体どんな役割を果たしたかも検証してもらいと思っています。

 

次に<第2分科会 スポーツ新時代に求められる弁護士の使命と役割>というテーマです。

 

それによると、<スポーツ界では、2012年にIOCが“SUSTAINABILITY THROUGH SPORT”を発行する等、ビジネスの分野と同様、持続的な発展のために何をすべきか、を考えなければならない時代にあります。

イベント主催者や競技団体だけでなく、スポンサーやサプライヤー等イベントに関わる企業も含め、国際的な人権感覚を共有することが求められています。弁護士は、関連するサステナビリティに関するガイドライン等を理解した上での正しい人権感覚に基づいた正確な判断が求められます。

当分科会では、持続可能なスポーツイベントを実現するために必要な弁護士の役割を論じるとともに、スポーツ界に求められる国際的な人権感覚とは何か、について考えます。>

 

これこそ新しい活動の舞台でしょうね。私の友人の同僚だった人がこの分野の先駆け的な存在ではないかと思うのですが、最近は広範囲に弁護士が登場しますね。スポーツ界においても各選手に代理人として、アメリカのエージェント的な人以外に、その人権的側面に配慮する契約交渉などでは弁護士が十分活躍できるでしょうね。ここで<関連するサステナビリティに関するガイドライン等>というのが具体的にどのようなものを考えているのかピントきませんが、単に事業の持続性ということではなく、リオ・サミットで宣言された意味での地球全体、そして地域や人種・民族・性差・障がいなどの違いを超えた意味で、サステナビリティの具体的な実現を担うことを弁護士に求めているのもしれません。

 

東京オリンピック・パラリンピックを前に考えるという副題もついていますので、いま小池都知事が登場して大きな話題となっていますが、はたしてサステナビリティの視点がどのように検討されたのか、はなはだ疑わしく感じている私としては、十分に議論してもらいたいです。

 

<第3分科会 近未来の法律事務所 ~e裁判による後見・破産、電子契約等~>というのは「近未来」というものに、副題からみれば、ネット活用を見ているように思えます。

 

ではその内容はというと、<当分科会では、電子裁判手続の導入のメリットを分かりやすくビジュアル化します。即ち、多数の債権者が関わり手続が煩瑣な破産手続や、手続が長期化しがちであり、関連書類が堆積する成年後見手続を題材に、実際に裁判所の事件管理に用いることを念頭に置いたシステムを準備しています。当日は、このシステムを用いたデモンストレーションを通じて、電子裁判手続による手続事務の省力化、費用節約の効果を具体的に明らかにし、わが国での電子裁判手続の導入を提言します。

また、各種電子機器やサービス、ITインフラについて紹介し、その活用が弁護士の日常業務の効率化やサービスの向上にどのように寄与し得るかを探ります。>

 

<電子裁判手続き>ということですか、わかったようなわからないような印象ですが、ま、期待したいと思います。登記手続きや税務申告などもどんどん電子手続きになっていますね。でも裁判まで電子手続きになると、裁判官、弁護士、検察官もいらなくなるということではもちろんないですね。でも究極はそれに近い状態になるのが、近未来から遠い将来には達成可能になるのでしょうかね。AIのディープランニングはすでに囲碁の世界一の棋士の能力を凌駕しました。いまウェブ上に掲載されているような情報はすべて無価値になるのはそれほど遠い先とは思えません。

 

法の正義とか裁判は、より高度の内容が関係者に求められるようになるのではないかと思うのですが、私はそちらの方に興味をそそられます。

 

ここまで書いてきて、少々疲れたのと、すでに一時間が過ぎ、後は別の機会にしたいと思います。もう取り上げないかもしれませんが、気が向いたらそういう機会があるかもしれません。 今日はこの辺で終わりにします。