たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

施設入所者に対する責任 <介護中に窒息 准看護師に有罪判決>などを読みながら

2019-03-26 | 医療・介護・後見

190326 施設入所者に対する責任 <介護中に窒息 准看護師に有罪判決>などを読みながら

 

TVで放映されているような病院における医師の長時間労働はまさに自ら生死の狭間にいるような過酷な労働実態ですね。では看護師や准看護師はどうかですね。

 

以前、ある看護師の依頼で仕事をしたことがあります。夜勤してその後日勤するとかというのは月に相当回数あり、それが普通だそうですね。TV放映された医師ほど緊張感がないかもしれないですが、患者の生死に関わる仕事をしている点では似ている状況にあって、明らかに過重労働状態ですね。

 

それが特養施設や介護老人保健施設だとどうかというと、似たような状態ではないでしょうか。しかもこちらは認知症であっても結構ベッドを抜け出して自由に移動する人やときに奇声を上げたり大変です。昨日の毎日記事では訪問介護の場合のセクハラなどの被害が半数くらいあるそうですが、施設でもかなりの比率であることは元施設職員から聞いたことがあります。

 

そんな過酷な職場環境にあって、今朝の毎日記事<長野・安曇野の特養入所者死亡介護中に窒息 准看護師に有罪判決 地裁松本支部>は、気になる内容です。

 

<長野県安曇野市の特別養護老人ホーム「あずみの里」で2013年、入所者の女性(当時85歳)を死亡させたとして、業務上過失致死罪に問われた准看護師、山口けさえ被告(58)=長野県松本市=に対し、長野地裁松本支部(野沢晃一裁判長)は25日、求刑通り罰金20万円の有罪判決を言い渡した。>

 

一体どんな事実関係であったのでしょう。

<被告は13年12月、施設の食堂で女性におやつとしてドーナツを誤って配り、食べた女性を窒息させて低酸素脳症で約1カ月後に死亡させた。>

 

ドーナツを誤って配って食べさせたことが過失?とは一体どういうことでしょう。

 

女性が窒息したのは、ドーナツが詰まったからといのが検察の主張で、弁護側は被告に中止義務がないことに加えて、<ドーナツも約1センチ四方>で、窒息の危険性がなかったと主張しています。

 

判決では、<詰まらせる1週間前におやつをゼリー状のものに変更していたとし、被告は「記録などで確認すべきだった」とした。>とされています。おやつをゼリー状にするか、個体物にするか、個体物でも細切れにするかは、たいていの施設職員は注意して、選択決定していると思います。判決の認定からうかがえるのは、この施設では施設利用者の状態に応じて個別にその選択をしているかのようです。そしてわずか一週間前に、ドーナツからゼリー状にこの女性について変更したようですね。その変更は通常、介護記録など書面に書かれているでしょうから、被告が確認しなかったと認定したのでしょうか。

 

その前提として、<女性が食べ物をそのままのみ込む癖があり>という点と、<心肺停止後にドーナツを吐き出すと呼吸が戻った経緯>という点を並べて認定しているようですが、前者は事件以前の女性の癖でしょうね。他方で、<心肺停止後にドーナツ吐き出す>云々は、今回の事件で生じたことではないかと思うのです。とすると、本件でドーナツが吐き出されたことから窒息状態があったことは推定できたとしても、それ以前では女性が飲み込む癖があっても詰まらせたことがあったかどうかははっきりしないように思います。

 

そうだとすると、弁護側が主張するドーナツを焼く1㎝四方に細切れにしている対応で、果たして窒息する危険性があったかは、そのことを予見できたかとなると、判示認定となるか疑問があります。むろん小片に切ったとしても、いっぺんに飲み込めば詰まる可能性もあり、細切れするだけでは十分ではないかもしれません。ただ、そういった詰め込んで食べる癖があり、そのことを知り得たとすると、注視義務があったかもしれません。

 

ただ、判決では、<被告が別の要介護者の世話をしており、「女性の異変に気付く注視を求めるのは困難」として退けた。>判決は、ドーナツからゼリー状のものに変更したサービス変更は重大なもので、それに注意して確認する義務を認め、それを怠りドーナツを配布したこと自体に責任を認めています。

 

私はこの認定を見て、少し違和感を抱きました。

 

最近、私が担当している施設利用者の方で、体調の少し悪化を受けて、看護師、ケアマネ、介護職の会議に参加しました。この会議では、食べ物も含め服用などのあり方について協議し、食べ物については従前通りとなったのですが、処方薬について見直しが検討されて、その結果について医師に判断を仰ぎ、承認を得て、見直すことになりました。

 

一人ひとり、丁寧に議論して施設内で一定の共有意識をもってサービス提供していることが分かります。むろん看護師も、介護職員も十分な人数とは言えない状態ですから、利用者の大満足は得られないかもしれませんが、相当の配慮をしていることは看取できます。

 

では、この事件の特養施設では、准看護師はそういった変更について、ノータッチだったのでしょうか。通常、准看護師も看護師と同等の仕事をされていると伺います。おやつの変更、とくにドーナツからゼリー状に変更と言った情報は本来、共有されているはずではないかと思うのですが、この点腑に落ちません。

 

他方で、個別的な対応が容易でない、施設が少なくないように思います。私が担当している別の特養施設では、生活保護受給者の方が入所されていますが、たしかそこの食堂では全員がゼリー状のおやつではなかったかと思います。

 

本来は、健康維持のため、できるだけ固形物というか、咀嚼できるようなものを食する方が、長く健康を維持するにはいいように思うのですが、現実にはスタッフ不足もあり、個別対応せずに、ゼリー状のものを出す傾向は多くの施設で見られるように感じます。

 

本件の施設では、個別対応の努力をされてきたのでしょうか。現場はそういうリスクをかかえながらも一定の配慮をしてきたようにも見えます。

 

結城康博・淑徳大教授(社会福祉学)の話>では、<介護はリスクと背中合わせの仕事なので、現場は萎縮するだろう。多くの介護施設では今、できるだけ利用者の自由度を高め、介護の幅を広げようとしている。(判決で)リスク回避を最優先にする介護に傾斜する可能性がある。>と批判的です。私も同感です。

 

ところで、私自身、看護師と准看護師の実態を知りませんで、ちょっとウェブサイトで調べると<看護師と准看護師の違い>では、前者は若い年代で、病院勤務が多く、後者は診療所勤務が多いようですね。介護施設となるとどうかはここではわかりません。看護師は医師の指示に基づき業務を行いますが、准看護師は医師だけでなく、看護師の指示に基づくとなっています。ただ、実態は同じ業務内容かも知れません。

 

その業務内容については<バイタルサイン(意識・体温・血圧・呼吸・脈拍)が正常か測定を行い、異常があった場合医師に報告>に加えて、<採血や点滴など医療行為・・・また、患者の病室の環境を適切に保つために、環境整備を行い、食事や入浴・排泄の援助>となっています。これは病院でのことで、介護施設では、食事や入浴・排泄の援助は介護職員の業務となっているのではないかと思います。

 

そこで、ドーナツを配ることが准看護師の業務かというと、これは本来、主たるものとは

違うのではないかと思うのですが、介護施設ではスタッフが減少気味で、看護師、准看護師も、忙し食事時はヘルプしているのでしょうか。食事の援助というのは、あくまで介護職員の主たる業務で、判決認定のような注意義務が妥当か気になります。

 

またまとまりのない話となりました。今日はこれにておしまい。また明日。


成年後見の行方 <成年後見人報酬 定額制見直し>などを読みながら

2019-03-25 | 医療・介護・後見

190325 成年後見の行方 <成年後見人報酬 定額制見直し>などを読みながら

 

土曜日夜、久しぶりに飲んだこともあり、日曜日から体調が今ひとつ、今日も芳しくありません。これはほんとにブログ休業を宣告されているのかもしれません。そんなわけで今日も書くのを少しためらったのですが、まだ余力が残っていたみたいで、とりあえずタイピングを始めます。

 

今朝の毎日記事<成年後見人報酬 定額制見直し、業務量で算定 最高裁が通知>によると、後見人報酬を定額制から業務量に応じて算定する方式に見直す、その判断は個々の裁判官の判断に委ねるというもののようです。

 

背景には成年後見制度の利用が今ひとつ進んでいないことを報酬面で見直しを図ったと言うことでしょうか。

 

記事によると<現在は後見を受ける人の資産に応じた定額報酬が一般的>というのですが、私自身の経験では定額というのがあまりぴんときていません。

 

具体的な内容については、<最高裁によると、報酬に全国統一基準はなく、個々の裁判官が後見制度利用者の資産額などを考慮して額を決めている。大半の家裁は報酬額の目安を公表していないが、東京、横浜、大阪の各家裁は基本報酬を一律月2万円と公表。管理資産額が増えると最高で月5万~6万円にまで増額される>ということですね。

 

私自身、以前、横浜家裁の案件で、管理していた財産がかなり高額であったこともあったのでしょうか、上記の定額の最高額を超える金額であった記憶です。遺産相続が絡んでいたこともあり、その点が考慮されたのかもしれません。その意味で定額制を基準にしつつも、別の要素も考慮していたように思います。専門医と治療をめぐって協議したなんてことはあまり考慮されていなかったようにも思います。

 

<「仕事をしていなくても報酬が高い」などの批判>は真摯に受け止めないといけませんね。その意味で最高裁の対応は一応妥当ではないかと思います。

 

その最高裁の通知については、<業務量を問わず一律の額にしたり、資産額を基準にしたりする計算方法は採用しないと明示。財産調査と目録の作成▽生活状況の把握▽介護や医療サービスの利用申請や契約▽家裁への報告書の提出――など個別の事務ごとに「標準額」を定める。>

 

他方で、個別事情については<「預金口座が多い」「本人や親族との意向調整が難しい」など事務の手間や事案の複雑さといった個別事情に応じて加算する一方、報告書の提出が遅れた場合などは減算する。>というのですが、これでは果たして個々の裁判官が適切な裁量を行えるか、気になります。

 

加算すると言っても、預金口座の多寡はそれほど重要な要素かどうかと思うのです。意向調整といったことは成年後見制度の真髄ともいえる事柄ですので、ここは丁寧に検討してもらいたいものの、実際のところは容易ではないでしょうね。

 

それは、単に時間量といった形で評価することは参考にはなるものの(一般にタイムチャージ制をとっていないのでそういった管理自体後見人にはきついでしょう)、必ずしも適切ではないと思います。業務の質の違いこそ重要と思うのですが、その判断は実際に現場を見ていない裁判官には容易でないかもしれません。むろん詳細に報告すればある程度理解できるでしょうけど、大量の事件を取り扱っている裁判官にその報告をつぶさにチェックして判断してもらいたいというのは酷ではないかなと思うのです。

 

<財産管理に加え、日常生活に関わる身上監護などにも高い評価を求め、日常生活の安定を目指す。>という点は、望ましい方向だと思います。首都圏の場合、相当高額な財産管理を伴うことがあり、支払能力もあるため、自然と後見人報酬が高くなるかもしれませんが、地方ではそういったことはあまりないのではと思います。いやそれ以上、成年後見制度を一般に普及するためには、さほど多くない資産や収入の方でも利用でき、しかも日常生活がよくなるような後見人の活動が求められるのではないかと思います。

 

当地では生活保護受給者の後見人を最初に担当しましたが、報酬自体、一般の方のような月額を受け取ると、受給者の資産が目減りする結果となりますね。私の場合行政が負担できる範囲で報酬を決めてもらいましたので、受給者にも行政にも余計な負担をかけなくすみました。こういったことも利用者側の事情に合わせて報酬も考えてもらえればと思うのです。

 

後見人の報酬自体、合理的で透明性のあるものであってほしいと思うのですが、裁判官一人の責任に委ねるのでは、負担が大きすぎないか、気になります。

 

そういった報酬制度の問題もありますが、より深刻なのは次の記事です。116日付け経済プレミアの<ガチガチすぎる「成年後見制度」が家族に嫌われる理由>という渡辺精一記者の記事です。

 

その問題は大きいですね。

<家裁が選んだ「見知らぬ人」が親の資産を管理することに違和感を持つ人は多い。>

これは当然かもしれません。私は以前、担当していたのは、知的障がいや、認知症の程度が重い方が多かったので、本人はもちろん、ご家族とも(家族間の対立はあったりしましたが)割合うまく意思疎通ができていました。

 

しかし、当地に来て、この赤の他人が自分の資産を管理することに違和感、拒絶感をお持ちになる方やご家族が結構、いるように思うのです。

 

 <また、成年後見制度は利用が始まると、本人が回復して判断能力を取り戻すか、亡くなるまで中止できない。生前贈与などの相続対策はほぼ封じられる。>

そうですね、なかなか理解してもらうことが容易でなく、後見人や裁判所に不満を感じる人もいるように思います。

 

統計数字でも後見制度は好ましいものとの理解にはほど遠いように思えます。

<認知症の家族がおり、その財産管理を支援したことがある2000人を対象に、みずほ情報総合研究所が16年に行った調査では、成年後見制度を利用しているのは6%で、「制度は知っているが利用するつもりはない」が55%。いわば「ガチガチで融通の利かない」制度とみなされており、積極的に活用しようというムードが生まれにくい。>

 

16116日付けの社説<成年後見制度 誰のための利用促進か>は、必ずしも実態を反映しているとはいえない部分もありますが、私も含め関係者は、真摯に受け止める必要があると思います。

 

<判断能力にハンディのある重度障害者の意思をどうくみ取るかという「意思決定支援」が最近は支援者の間で研究されている。>そうですね、ユマニチュードのようなスタイルは意思決定支援においても真剣に検討されてよいと思うのです。

 

社説は最後に、<本人の意思を十分にくみ取った支援こそ成年後見制度に最も必要だ。財産管理が中心の現行制度を根底から見直し、本人が利用したくなる成年後見にしなければならない。>と訴えています。至極当然だと思います。

 

私自身、まだまだご本人の気持ちを理解するだけの能力を持ち得ていませんが、財産管理はもちろんのこと、それ以上にその気持ちを推し量る、他方でその不可侵の領域を尊重しつつ、行う、案配を探る日々です。

 

今日はこれにておしまい。また明日。(またがいつまで続くか?)


介護施設への期待 <岐阜・高山の介護施設5人死傷 被害女性、体に圧迫痕>を読みながら

2019-02-05 | 医療・介護・後見

190205 介護施設への期待 <岐阜・高山の介護施設5人死傷 被害女性、体に圧迫痕>を読みながら

 

ツグミは今日も賑やかな様子。わが家と隣の隙間を通って行き交うのはいいのですが、私の駐車車両に毎日のように糞をお土産に落としてくれます。自然の営みですからありがたく頂戴しています。と強がりを言っていますが、ほんとはカーポートを設置しようとしたら、車の大きさとの関係で業者が無理というお墨付きを下したため、あきらめただけです。

 

こんなとき玄侑宗久著『無功徳』にちりばめられたことばの宝庫が役に立ちそうと思うのです。玄侑宗久氏は一度、私が関わっていた団体でシンポを開催したときパネリストの一人としてお呼びして、挨拶を交わしたことがありますが、当時は芥川賞作家で僧侶という肩書き以上にまったく知りませんでした。その後当地にやってきて暇をもてあまして読書三昧を始めたころ、たまたま一冊を読み出し、それが私の感性に結構あったのか、次々と読むようになり、内容が分かっているわけではありませんが、隠れファンの一人になっています。

 

上記の著作も好きな一つです。いつか勉強するために、ここで連載して紹介したいと思っていますが、いつになることやら。ともかく今日はその一句を引用します。「求めない、だからこそ嬉しい」ということばがあります。それが「無功徳」の神髄かもしれませんが、惹かれる一句です。私のような仕事をしていると、とりわけ権利義務の世界で物事を認識・判断する性格がしみこんでしまっているかもしれないので、とくに肝に銘じておきたいものです。世の中、その傾向がどんどん強まってますます生きづらい状況になっているのかもしれません。

 

見出しの事件を取り上げる私のブログも、「求めない、だからこそ嬉しい」を没却したままであれば、空疎でしょうね。用心です。

 

そんな思いをもちながらも、いつもの調子で、毎日記事(中部夕刊)<岐阜・高山の介護施設5人死傷「それいゆ」被害女性、体に圧迫痕 容疑者、押さえつけたか>を取り上げます。

 

記事では<岐阜県高山市の介護老人保健施設「それいゆ」で入所者5人が死傷し、うち91歳だった女性に対する傷害容疑で元介護職員、小鳥剛(おどりたけし)容疑者(33)=名古屋市南区戸部下1=が逮捕された事件で、女性の体には手で押さえつけられたことによる圧迫痕などがあった>とこの逮捕容疑事実についてリーク情報を報じているようです。

 

< 逮捕容疑は2017年8月15日午後2時12分ごろ、施設2階の部屋で入所していた横山秀子さんに暴行を加え、両肋骨(ろっこつ)骨折と両側外傷性血気胸など約2カ月の重傷を負わせた>というのですから、<両肋骨(ろっこつ)骨折と両側外傷性血気胸など>の傷害について確たる証拠を入手しているということでしょうね。

 

実際、<横山さんは同日午後3時10分ごろ、具合が悪くなっているのを他の職員に発見され入院した。複数の肋骨が折れ、折れた骨が肺に刺さって血がたまっていた。>というのですから、事件直後に、入院して医師の診察、治療を受けたわけですね。

 

で、この施設の<折茂理事長は報道陣に「当初から事件か事故か不明だと思っている。・・・」と語った。【川瀬慎一朗】>というのですが、そのままことば通りに理解してよいか疑念をもったことから、取り上げようと思ったのです。

 

中部朝刊記事<岐阜・高山の介護施設5人死傷元職員逮捕 状況証拠重ね容疑固め 発覚から1年半>では、他の事情に言及しています。

 

<両肋骨(ろっこつ)骨折などで入院した横山さんのケースで、特捜本部は負傷状況について専門家の鑑定や意見を求めながら分析を進めた。その中で介助などに伴う事故でなく、故意による事件との見方を強めた。>と逮捕までに1年半かかった事情の一端を吐露しています。しかしなぜそのように長期間必要だったかの疑念を解消できるものではありません。

 

横山さんのご家族の話を取り上げています。<大けがをした横山さんに病院で会うと、首にあざがあり、爪でひっかいたような痕もあったという。「苦しくてひっかいたのではないか」。施設からは「ベッドの柵でぶつけたのだろう」と説明された>とありますが、これが私として奇妙に思えたのです。

 

介護サービスは、施設ではほぼ密室というか、閉鎖的な空間でのできごとで、介護担当者と入所者だけの時間・空間が相当あり、目撃者がいないとか、監視カメラが故障していたとか、はどこの施設でもありうることですし、捜査の進捗に大きな障害になるとは思えません。

 

まず不思議なのは、横山さんの首にあざがあること、爪でひっかいたような痕があったことについて、後者の説明はあるものの、施設の説明が不適切です。前者についてはないようですが、それが不可解です。第一、このような変化について、発見したらすぐ処置することはもちろん原因を検討する必要があるでしょうし、家族にも連絡しておくのが本来でしょう。

 

当時91歳の横山さんの認知症の有無程度がわかりませんが、ご家族の話からは少なくとも会話能力が十分であったとは思えないので、上記のように施設側はとりわけご家族への報告を丁寧にしておくのが本来でしょう。

 

そして事件日に入院したとき、<複数の肋骨が折れ、折れた骨が肺に刺さって血がたまっていた>としたら、今度は医師が適切な対応をしたかどうか、疑念を覚えるのです。このような事態は、91歳の女性が自ら起こすことは考えにくいというか、ありえないことと考えるのが自然でしょう。第三者の加害行為とみるか、少なくとも疑うのが医師としての基本ではないかと思うのです。

 

しかも<圧迫痕>があったというのに、医師はどう対処したのでしょう。圧迫痕は多くの場合、素人の私でも認知できることが多いと思います。肋骨骨折が起こるような圧迫痕であれば、一目瞭然ではないかと思うのです。

 

医師が横山さんの症状を見て治療を施す以外に、上記のような疑念にどのように対処したのか、それが適切になされたのか、まだ事件の概要しか分かりませんので、とやかくいえませんが、疑念が残ります。捜査がどのような経緯ではじまったのか、医師の市役所への連絡などにより動き出したのであれば、逆になぜこのように時間がかかったか、気になるところです。

 

そして施設管理の問題です。介護職員はたいていの場合とても忙しく自分の役割分担をこなすだけで精一杯でしょう。ですので、他の介護職員も適切に介護サービスをパンクチュアルに、そして適切にやっていると信頼しています。性善説でお互いの役割をみるように仕組まれているというと言い過ぎですが、たいていそのような信頼感を抱いているのではないでしょうか。なにか事故なりがあっても介護職員が加害者になるなんてことは予想していないのが普通でしょう。

 

しかし、そこに間隙がないかと思うのです。たとえば介護老人保健施設であれば看護師が常駐していますが、看護師が体の全体を観察し、不自然な変化があれば気づくはずです。それをスタッフと協議する時間と余裕があれば、問題発覚を未然に防ぐことが増えると思うのです。しかし、たいていの施設の看護師は、大勢を一人ないし少人数で見ているため、一人ひとりの体の変化を慎重に見る余裕がないのが実態ではないでしょうか。

 

それを適切に管理するのが、施設長であり、最後は理事長でしょう。理事長の発言は、積極的に対処してきたのかについて、少なからず疑念を抱かせます。

 

現在の介護施設での介護状態は、予算不足のせいか、経験不足のせいか、さまざまな事情があるでしょうけど、望ましい状態とはいえないと思うのです。どうすればよいか、少なくともみんなで実態を見て、検討し、見直しを考えてよい時期にあると思うのです。

 

玄侑宗久氏のいう「求めない、だからこそ嬉しい」とはかけ離れた問題提起かもしれませんが、どこかで通じるところがあれば幸いと思うのです。それはやはりなさそうですが。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。


歯は大事、さてどうする <歯と健康 食べる楽しみ、歯科医が支援>を読みながら

2019-02-03 | 医療・介護・後見

190203 歯は大事、さてどうする <歯と健康 食べる楽しみ、歯科医が支援>を読みながら

 

以前、横須賀に居住していたころ、終末期を自宅で過ごす活動に取り組む団体に参加していましたが、内科医や看護師はもちろん、歯科医の方も参加していました。当時、歯の重要性も分かってなく、歯科医の役割も分かっていなかったので、若干、どんな役割を担っているのかなと思いつつ、その歯科医の方が熱心なので結構刺激を受けました。

 

今朝の毎日記事<セカンドステージ歯と健康 食べる楽しみ、歯科医が支援>は、その当たりのさわりを紹介しています。

 

斎藤義彦記者は冒頭、<かみ、食べ、飲み込むという口腔(こうくう)機能が衰えがちな高齢者の支援に歯科医が取り組んでいる。口腔機能が低下すると栄養不足や肺炎など全身の病気に結びつくためだ。歯科スタッフが口腔機能の維持・向上を試みる現場を訪ねた。>との書き出しで、その多彩なチームプレイを取り上げています。

 

私自身、これまで特養とか老人ホーム、老健とかを訪ねる中で、口腔ケアの必要性とか、歯科衛生士の定期的なケアとかを聞かされてきましたが、一度も直接その場面を経験したことがないので、実際のところはよく分かっていません。斎藤記者は現場報告とまでいきませんが、概要がわかるように記事にしています。

 

高齢者の場合、誤嚥性肺炎の危険があり、その結果死に至る重篤状態になることはよく聞きますが、そのメカニズムをしっかり理解しているわけではないので、改めてこの記事を記憶しておきたいと思うのです。

 

<「食べられなくなった人はケア態勢の整わない施設や在宅で放置されている。>と<日本歯科大口腔リハビリテーション多摩クリニックの菊谷武院長>は指摘して、再び食べられるように<訪問歯科モデルを広げたい>と話しています。

 

私は日本の多くの高齢者が置かれた状態は食べられなくなったら、ゼリー状の食事を提供してもらい、ますます全身が弱り、誤嚥性肺炎の危機の淵に追いやられていないか、気になっています。

 

菊谷院長の活動は是非とも広げてもらいたいものです。それではその活動の一端を取り上げます。

<菊谷院長は高齢者や障害者の食の支援を目的に「口腔機能」のリハビリテーション専門クリニックを2012年に開設。75歳以上の高齢者を中心に月延べ150人を訪問診療する。歯科で先進的な取り組みだ。>

 

その取り組み概要は<歯の治療や食べること(摂食)、飲み込むこと(嚥下)の検査にとどまらず、言語聴覚士、管理栄養士ら多職種チームで、何をどのような形で食べるべきか、実現可能な提案を行う。重度の患者には食べる能力を維持させる。>とのこと。

 

で、具体的な例として終末期で自宅に戻った患者さん対応が紹介されています。

<女性は昨年10月、入院先で治療が難しいとされ、看取(みと)りも視野に自宅に戻った。長女の介護で徐々に少量を食べられるようになったが、1月下旬、むせて熱も出てきた。女性が飲んでいる高カロリー栄養剤を菊谷院長がチェック。「とろみが足りない」ととろみ剤で粘度を上げるよう指示、一緒に作って指導した。>と、まさに訪問歯科医でないと難しいでしょうね。

 

また、老人ホームで寝たきりの女性の例も。

<院長はある老人ホームの寝たきりの女性(81)を訪ねた。高カロリーの点滴で栄養を確保し、口からほとんど食べていない。本当は少量のゼリーから始めて徐々に食べられる可能性もあるが、ホーム職員は「現場だけで対応するのは難しい」と難色を示す。院長は今の職場の態勢でもできるよう「棒付きのあめ玉から食べさせて」と職員に提案した。>。施設では個々の利用者の状態に応じた対応が職員数の不足で難しいでしょうけど、均一に取り扱うことでは適切な介護サービスができなくなるおそれがありますね。

 

以上とは異なり、<国で開発され藤田医科大が翻訳、アレンジした><「口腔アセスメント(OHAT)>も紹介されています。

<唇、舌、唾液など8項目について「健全」や「病的」など3段階で簡単に写真で判定、採点できる。このホームで15年に導入したころは6~7点の人も多かったが、徐々に下がり、今は平均点は1点台だ。歯や口がケアされ適切に食べると、口の中の細菌や飲食物が気管から肺に入って起きる誤嚥性肺炎を減らせる。OHATの点数が低くなると同時にホームからの肺炎による入院は半減した。>たしかに唇、舌、唾液といった個々の器官について個別にチェックすることで、客観的な指標になりますし、普段の介護の中で、漫然と口腔機能の善し悪しを見るのではなく、客観的かつ持続的なフォローアップができそうです。

 

その他<普段の食事の様子を観察し、何をどう食べるのが最適かを探る「ミールラウンド」>という観察方法も紹介されています。

ここでは<お昼時。食事する入居者の周囲に歯科医師、歯科衛生士、看護師、管理栄養士、介護士ら10人以上が集まる。>そして<食事に約40分かかり、体重が減ってきた女性(88)の首に特殊な集音器を付け、飲み込み音を全員で聴く。>

 

そして<日本歯科大の佐々木力丸・歯科医師が車いすのリクライニングを15度ほど倒すと飲み込みが早くなった。重度の認知症で周囲の物を何でも食べてしまう男性(78)は、誤嚥性肺炎を繰り返している。異物を食べないよう男性にはガムをかんでもらっている。>というのですが、これはミールラウンドとどう関係するのかぴんときませんでした。さまざまな専門家が合同して集音器の音を聞きながら、飲み込みを確認し、現状を相互に理解して、今後の対応を考えることは一つの方策として合理性があると思うのですが、リクライニングやガムを噛むことしたことが、この成果と言えるのか判然としませんが、まあ、みんなで見れば気づくことも多いでしょうね。

 

 

読みながら書いたので、分かったようなそうでないような・・・まあ、できれば自分で食事できなくなったら、死の作法を考えたいと思いたいのですが、それまでは口腔機能をできるだけ維持できるよう、しっかり対応したいと思うのです。また介護を受ける方には、口腔機能の維持・改善についてどのような配慮がなされているか、注意を払いたいと思うのです。

 

おしまい。


認知症と暴言暴力 <認知症の人の暴力、どう対応すれば?>などを読みながら

2018-12-14 | 医療・介護・後見

181214 認知症と暴言暴力 <認知症の人の暴力、どう対応すれば?>などを読みながら

 

今日のニュースとしては、やはり毎日記事<東名あおり 強固な犯意「常軌逸している」 懲役18年判決>が影響大でしょうか。今日の話題に入る前に少し触れておきます。このケースでは、自動車運転処罰法違反(危険運転致死傷)、監禁致傷罪の成否が大きな争点となっていましたが、<横浜地裁は14日、危険運転致死傷罪を認め、懲役18年(求刑・懲役23年)を言い渡した。>のです。裁判員裁判で法的評価が変わったかどうかは分かりませんが、よく認めたなと思いつつ、社会の意識としてはおそらく納得できる結論ではないかとおもいます。控訴される可能性大と思いますが、控訴審での判断が注目されるでしょう。

 

あおり運転自体は明確です。しかし、危険運転致死傷罪は<次に掲げる行為を行い、よって、人を負傷させた者は十五年以下の懲役に処し、人を死亡させた者は一年以上の有期懲役に処する。>としています。そのうち、問題の4号「人又は車の通行を妨害する目的で、走行中の自動車の直前に進入し、その他通行中の人又は車に著しく接近し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転する行為」のあおり運転と死亡との因果関係が成立するかどうかはやっかいな議論でしょうね。

 

ところで、殺人罪を問うべきだったという見解を取り上げたウェブ記事がありましたが、疑問です。それこそこの一連の行為で、殺人罪の構成要件を満たすというのは、上記の規範的な解釈をさらに広げるものと考えるのが本来ではないでしょうか。その意味では私は横浜地検はそれなりに頑張ったと評価しています。この件は東京高裁で審理される可能性が高いと思いますので、その判断を待ちたいと思います。私は量刑は相当と思いつつ、果たして危険運転致傷罪に問えるかはまだ思案中です。裁判員の方々はご苦労様でした。

 

さて話変わって、同じ毎日朝刊記事<くらしナビ・ライフスタイル認知症の人の暴力、どう対応すれば? 大阪の佐保さん事件から考える>を読みながら、最近、よく考える認知症の人とどう向き合うか、を改めて突きつけられたように思いました。

 

野口由紀記者のレポートで、<認知症の人に、暴言や暴力といった行動が表れ、介護者が難しい対応を迫られることがある。認知症で暴れる母を止めようとしたことが罪に問われ、その後の人生に多大な影響を受けた大阪市の夫妻の事例を基に、暴言や暴力の原因や、予防のために家族でできるケアについて探る。>というものです。

 

私は、認知症の人による暴言などで感情的になって暴力を振るった人の刑事事件を担当したことがあります。この佐保さん事件とは事情が異なる事案ですが、やはり気になります。ふつうに話している人が、突然、怒りだし感情的になることもあります。認知症の方でした。私がかなり以前に担当した高齢の方で、妄想が強く財産が家族に盗まれたと訴えるのです。こういう訴えをする人はたいていまじめで、話もある程度筋道も通っています。一回、二回と伺って、多少の疑問を感じても、真剣に言われると、ともかく疑うより信じて調査するのです。でもその結果は、財産は盗まれていなかったことが判明するのです。

 

また、こういうとき、その家族にもの凄い敵意を抱き、ことばも乱暴になります。そのため、やはり本当かなと思いつつ、その感情的な部分を探ってみると合理性を欠いていることが少なくなく、やはり認知症の影響ではないかと疑うのです。私が担当したいくつかの事件で、実際に精神科の先生に見てもらうことができたのは一件だけでした(認知症と診断されました)。高齢で認知症の疑いのある方はたいてい医師、まして精神科や神経内科などの医師に診てもらいましょうといっても、拒絶されますね。とはいえ、この暴言なかには佐保事件のように暴力が日常的にあると、日々世話する人は家族でもヘルパーさんでも大変でしょう。

 

どうしたらよいのか、この記事はどこまでそれに糸口を見いだしているか、見てみたいと思います。

 

記事では佐保さん事件を冒頭紹介し、<大阪市東淀川区の大阪大歯学部元助教の佐保輝之さん(58)と妻ひかるさん(55)>夫婦が同居の母親に対する傷害致死容疑で逮捕起訴され、大阪地裁で懲役8年の実刑判決となりましたが、大阪高裁では<「1審は母が認知症で暴れた可能性を考慮しておらず不合理」>として、暴行罪で罰金20万円となりました。

 

阪大が佐保さんの復職を認めなかったこと(これもどうかと思います)、不当に長期勾留したことして、国と大阪府などを相手に損害賠償請求の訴え提起して係属中です。元はといえば、認知症の母と子夫婦のトラブルについて、捜査機関が早計に外形から逮捕したことがこのような結果を招いたのかもしれません。

 

この点、記事では<認知症の症状は中核症状と行動・心理症状(BPSD)の二つに分けられる。中核症状は脳の機能障害による物忘れや理解・判断力の低下などで、対してBPSDは中核症状に性格や環境などが絡んで生じる。暴言や暴力は代表的な症状で、家族ら介護者はもちろん、専門職でも対応に苦慮することがある。>としています。

 

中核症状については多くの人が経験していると思いますが、BPSDとなるとそれほど経験者というか、自覚している家族がいるかといえば少ないように思えます。

 

<「認知症の人と家族の会」神奈川県支部代表で、川崎幸クリニック(川崎市)の杉山孝博院長(71)>は、佐保さんの控訴審で事件性を否定する意見書を提出して、採用され、控訴審の逆転判決を導き出す根拠となったと思われます。

 

その杉山院長の指摘、提言は、私自身ごもっともと納得した次第です。これは是非とも多くの人に知って欲しいと思うのです。

 

それはまず、<暴言や暴力の原因について「認知症の人は知的機能の低下により、理性よりも感情が優先される世界にいる」と指摘。心地よいか、そうでないかということを鋭く察知し、感情のまま行動するというのだ。>つまり理性より感情で動くというのです。

 

<その上で「周囲の人の言動に反応しているのであり、異常なものではない」と語り、そうした言動を理解するための3原則=表=を提唱する。>

 

それは

<認知症の人の激しい言動を理解するための3原則

1 本人の記憶になければ本人にとっては事実ではない

2 本人が「こうだ」と思ったことは本人にとっては絶対的な事実である

3 認知症が進行してもプライドがある

 (川崎幸クリニック 杉山孝博院長作成)>

 

認知症の人のこのような症状について、もし対応する人が<これらに反することがあった場合、激しく反応するという。例えば「本人の記憶になければ本人にとって事実ではない」。食事をした直後に認知症の人が「まだ食べていない」と言っても「さっき食べたばかりでしょ」と返すのは好ましくない。覚えがないのに「した」と言われたら頭にくる、というのは理解しやすい。>認知症の人が感情的になる、激高することを、より促進させているのは周りの人ということになりかねないですね。

 

たしかにこの提唱やそれに反する対応への反応は腑に落ちます。といって事実と異なった発言や激怒されたりすると、対応する人もつい違うといったり、同じように激高するかもしれませんね。どうしたらよいのでしょう。

 

杉山院長は対応策を用意しています。

<暴言・暴力を軽減するため、

(1)褒める、感謝する

(2)同情する(相づちを打つ)

(3)共感する(「よかったね」と声をかけながら)

(4)謝るか事実でなくても認める、あるいは上手に演技をするか、うそをつく

--の4手法を勧める。>

 

これは認知症の人の症状を有効に活用することだということのようです。

<記憶障害により、それぞれの出来事について忘れたとしても、その時抱いた感情は覚えているという認知症の特徴がある。>

 

とりわけ(4)はたとえば役者になってよいというのです。

<例えば、介護施設で、企業の元経営者のように他人に指示する立場にあったような人が失禁した場合、職員が「汚いのでズボンを脱ぎましょう」と言うと反発が予想される。そんな時はわざと職員がコップの水をズボンにこぼして「ごめんなさい、着替えさせてください」と演技するのも一つの手だ。>と。

 

杉山院長のことばは経験と専門知見に根付いたもので、対応するのは容易ではないですが、やはり愛情があれば可能というのでしょう。

 

他方で、<杉山院長は「警察や法曹が認知症への理解を深めなければ、同じような悲劇が再び起こり得る」と警鐘を鳴らす。>という点は、私も含め関係者に意識啓蒙を促しています。私も心して対応したいと思っています。

 

今日はこれにておしまい。また明日。