たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

僧侶も模索する <生老病死、四苦に立ち向かう~僧侶・高橋卓志>を見ながら

2019-01-31 | 宗教とは 神社・寺・教会 信仰

190131 僧侶も模索する <生老病死、四苦に立ち向かう~僧侶・高橋卓志>を見ながら

 

今日は終日雨模様。しかもかなり強い雨の中、和歌山まで往復しました。ちょっと車の具合が悪かったので、とくに帰りは慎重に運転しました。

 

昔カナダ滞在中、友人の教授が訪ねてきたので、カルガリーから250km離れたところにある自然保全委員会に案内して既知の委員長との会談をセッティングし、そのドライブ途中で天候が急変して、前も見えないほどアラレだったか雨だったか襲ってきて、道路上で立ち往生したことを思い出しました。友人2人は恐怖を感じていたようでしたが、私も案内した手前、落ち着いたふりをしながらどうなることやらと不安を覚えたのを思い出しました。

 

時折フラッシュバックのように、過去の一瞬が思い出されることがあります。人の一生は長いようで短く、短いようで長いかもしれません。家康のように重い荷を背負っていくのが人生とまでは思いませんが、なかなか厄介なようで、気楽でもあるようで、不思議なものかもしれません。そんな人の一生、とくに死後にかかわる仕事のプロと言えば僧侶ですね。

 

NHKの<プロフェッショナル 仕事の流儀>番組は時折見ていますが、昨夜録画していた<生老病死、四苦に立ち向かう~僧侶・高橋卓志>を見ました。現代は葬送のあり方もいろいろで、檀家離れ、葬儀離れ、墓離れなどなど、お寺、住職にとっては大変な状況かもしれません。他方で、葬儀業者というのでしょうか、どんどん進化して昨日ブログで書いたエンバーミングもしっかり取り入れたり、故人の生き様などを遺族からしっかり聞き取り、告別式・葬儀のプロローグとして演出に入れ込むくらいは普通のようです。僧侶は葬儀業者を通じて派遣されるプロ?という役割を担っていることも少しずつ普及していますね。僧侶もなかなか大変な時代となっているようです。

 

そんなときNHK番組は、僧侶高橋卓志氏の僧侶として、人としての仕事の流儀を披露してくれました。これは一見の価値がありました。

 

高橋氏のお寺では檀家が700軒というのですから、最近の減少傾向に反する多さです。では高橋氏の人気はどこから生まれるのか。番組はいくつかの家族の死への旅立ちに高橋氏がどうかかわるかを密着取材で、紹介しています。私の記憶でそのいくつかを取り上げたいと思います。

 

高橋氏はお経を上げるのが僧侶の仕事と固執していません。彼は葬儀というものを死者の旅立ちであるとともに、残された遺族への死者の思いと遺族の新たな旅立ちの契機となる舞台を提供するものといったとらえ方をしているように思いました。

 

そのために、高橋氏は、遺族、とくに喪主となる人から丁寧に時間をかけて、故人の生き様、それに対する遺族の思い、残念に思っていることなど、必要な情報を聞き取ります。そして葬儀の前日深夜まで、原稿を校正しながら、写真などビジュアルデータを合成して、自らスライドデータを作り上げるのです。つまり手作りの葬儀シナリオであり映像なのです。

 

それだけではありません。葬儀の式場全体を自分が故人や遺族のことを考えて設定するのです。それは業者に依頼すると費用がかかることをも考慮するだけでなく、故人・遺族に寄り添うスタイルを貫こうとするのです。

 

それはある意味、葬儀のマニュアル化、儀式化したものに対する、仏教徒としての思いもあるのでしょうか。

 

高橋氏自身、元々は寺の跡取りとして、いやいや仏教大学を出て、小さいころから父である住職について葬儀に連れられていた延長上に、自分の僧侶、住職としての仕事も型どおりに行い、ある種心のないお経を読み続けていたようです。彼の転機は第二次大戦の遺骨収集団の一員として参加したときに経験した遺族の取り乱しにお経を読めなかった自分に渇を入れられたことでした。

 

それから初めて本気で、生老病死の四苦に立ち向かう必要を感じ、その一つである死を弔う、葬儀の場で、故人・遺族・会葬者が納得できるような死の苦に直接対応する心構えになったようです。

 

ですので高橋氏の取り組みは、死者や遺族に対することにとどまりません。生きる苦しみ、病気や老齢の苦しみにも目を閉ざさず、取り組んできたのです。たとえばNPOバンクを立ち上げ、社会のために事業をしたいが資金の乏しい団体に貸付をするのです。あるいは末期がんでしたか、病気で苦しむ高齢者に付添い、ユマニチュードのようにその人に触れながら笑顔で語りかけるなど、病苦や高齢に苦しむ人に寄り添うのです。

 

たしかデイケアセンターとか、配食サービスとかの事業もやっているとか・・・?いろいろな事業を展開しているとのこと。

 

僧侶は決して葬儀や法要を行う人と行った偏った見方はしていません。私自身、道昭、行基といった本来の仏教徒が、生きる人のために、薬の処方、橋の建設、困窮者への救済など、多様な慈悲的活動を行うことこそ、本来の行いではないかと思うことがあります。その中に法要も含まれるでしょうけど。

 

で高橋氏は、寺の新しいあり方も追求して、その持続性を考え、副住職にその地位を継承したのです。この場合お子さんではなさそうな感じでした。その寺の業務を継ぐのに適切な人格、能力を持った人が適切ではないでしょうか。住職の地位は相続されるといった見方もあるようですが、本来仏教はそのような教えではないですね。妻帯自体禁止でしたからね、すい最近、明治維新くらいまで・・・親鸞みたいな人は一応、例外中の例外だったはずですね。

 

最期に、高橋氏は、住職の地位を退いた後、仏教国、タイに渡り、新たに仏教というものを勉強しているそうです。今後の高橋氏の動向を注視し、期待したいと思います。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。


永代供養と宗教 <本堂再興 興福寺貫首><NHKファミリーヒストリー▽伊東四朗><NHK拡大家族>などを見聞して

2019-01-29 | 宗教とは 神社・寺・教会 信仰

190129 永代供養と宗教 <本堂再興 興福寺貫首><NHKファミリーヒストリー▽伊東四朗><NHK拡大家族>などを見聞して

 

今日はうれしい発見がありました。図書館で何気なく書籍をスキャンしていたら、先般、私がまるで前方後円墳と指摘した場所が遺跡調査で古墳とされていることがわかりました。最近10年くらいは何かを見て古墳の形状を思い浮かべるくらいですから、ちょっと思い過ごしと思っていましたがばっちりでした。ただし、円墳で、方墳に匹敵する部分は別の遺跡だったようです。たしか霜山城趾だった記憶です。で、円墳はというと、上兵庫古墳ないし岡山古墳として比定されています。

 

歩く道というテーマは私の運動不足を補うために始めた思いつきのプロジェクト?ですが、私にとっては意外な発見(むろん私自身の)があり、毎回面白く取り組んでいます。この岡山古墳についてもいつか調査記録を読んでみたいと思います。なお、<遺跡ウォーカーβ 上兵庫古墳/岡山古墳>でも掲載されています。ついでにすぐ南方、紀ノ川河岸段丘の直上には、「血縄遺跡」があり、縄文時代とも言われていますが、別の文献では弥生時代のものとの調査資料もあり、いずれにしても古代の生活が偲ばれます。

 

その血縄遺跡に関係する民話があり、<隅田地方に伝わる民話>の筆頭に取り上げられています。興味深い地域です。中世・隅田党の武士団が活躍する以前、万葉時代に和歌の舞台になる以前、そして神功皇后が人物画像鏡を下賜するさらに前に、豊かな文化を彩る生活があったのかと思われるのです。

 

さて、古墳の話とは直接関係ないですが、永代供養の話を少しだけしたくなりました。こういった古墳は日本各地に膨大な数で残されていますが、その供養が永続的に今日まで続いているという話は聞いたことがありません。日本最大の仁徳天皇陵や次点の応神天皇陵(今回は通称?を使います)でもそうですね。

 

ところが、ほとんどの日本人は、宗派を問わず、むろん神道、仏教はもとより、キリスト教など異教?とされる宗教の信者も、おおむね供養という宗教行為を行っているのではないでしょうか。法要も当然ながらそれぞれの宗派、地域の慣習に従って行っているのではないかと思うのです。むろん最近は次第に簡略化される傾向にありますが、その顕著な例として永代供養があるのかもしれません。このような供養さえしないことは考えられないと思う人が普通かもしれません。

 

でもそれは宗教が要求していることでしょうか。だいたいキリスト教の信者も供養するというのですね。祈る行為は本来、イエスキリストに対してだけのはずですが、どういう祈りでしょうか。そういう意味では、仏教も釈迦・仏陀に対してさえ祈ることがどうかと思うことがありますが、あるいは宗祖くらいはと思うのですが、それが祖先崇拝ということで細かな法要ルールどおりとか、それができないから永代供養とかが最近広がっていますが、どうして供養にこだわるのでしょう。そこが私にはどうも分からないのです。

 

そういう考え方がおかしいと論難する人もいます。でも先祖崇拝というのですが、3代前くらいの先祖ですら知らない人が多いのではないでしょうか。それ以前となると、まったくどんな人かも知らないということが普通ではないでしょうか。

 

私は仕事柄、ときに4代以上前に遡る調査をしますが、その人柄までを理解できる資料に出くわすことは希です。せいぜい古文書があれば少し推測できる程度です。墓が残っている家も少ないと思います。明治維新以降、それまで個人墓か共同墓で遺体埋葬が主流だったのを、政府が家の墓制度を持ち込もうとしましたが、都市圏はともかく地方では従来通りで、火葬導入も地方では遅々として進まなかった記憶です。

 

共同墓(埋葬)だと、誰がどこにといった特定が容易でないですね。両親、祖父母まではお参りするかもしれませんが、それ以前の代だとどうでしょうか。

 

昨夜放映された<ファミリーヒストリー▽伊東四朗~思いがけず平氏と源氏 たどりついた喜劇の道>では、伊東四郎さんは祖父母になると少し知識が怪しくなり、それ以前は皆目見当がつかない印象でした。彼のことはてんぷくトリオ時代から知っていますが、あまり目立った印象がなかったのですが、役者として芸達者なイメージを持っていました。昔の同級生や仕事の同僚などの話だと、すごい記憶力だったようですね。演ずる役者の台詞をすべて覚えていたというのですから、なかなか努力家であり、芸への熱い情熱を感じます。

 

それだけの記憶がある彼も、先祖となると危ういのですね。藤原鎌足につながる伊藤という家系とか、源義経に仕える熊井なにがしという家来の血流とか、NHKもいろいろ調べるものです。きちんとした過去帳でフォローできたのかは知りませんが、飛鳥天平に遡ったり、そこまでいかなくても平安末期まで遡れば、誰もがなにかつながってくるのかもしれません。いや逆に遠くでは、などにたどり着くのかもしれません。

 

ともかく、私たちの血はたしかに連綿とアダムとイブ?からなんらかの形でつながっているのでしょう。でも先祖崇拝、血のつながりをどういう形で崇拝するのでしょう。それがいまひとつわかりません。いや分かる人、そういう秩序を大事にしようとする人は沿う会って欲しいですし、私もその理解を尊重したいと思います。しかし、そういう気持ちはひとそれぞれに委ねてはどうかと思うのです。

 

社会秩序やしきたり、慣習などで、なんらかの形で強いるものではないと思うのです。

 

興福寺中金堂の再興を祝う<そこが聞きたい300年の悲願、本堂再興 興福寺貫首 多川俊映氏>では、多川氏のことばが私なりに響いてきました。

 

興福寺は法相宗の大本山で、多川氏は< 法相宗の根本教義は「唯識」という考えです。一言でいえば、「私たちが今、見ている世界はすべて見ている人の心の反映である」「人間は自分が知りえた限りの世界に住んでいる」ということ。>というのです。そして <「唯識」の思想に立てば、お互いの違いを知り、尊敬しあい、自分にない違いを取り込むことで発展することができます。>と。

 

人間の認識を大事にすると言うことでしょうか、それは他の何者にも影響を受けない心を大事にすると言うことでしょうか。勝手な論理かもしれませんが、そこには祖先崇拝とか、さらには永代供養とかという考えはむろん本質的なことではないでしょう。

 

興福寺では、唐に留学して一切経を持ち帰った玄昉を日本人としてかず少ない宗祖の一人とされているとのこと。彼は奈良時代、一時代を作った政治力もあった僧侶ですが、最後は左遷され誰にも知られない形でなくなっています。長く弔う人もいなかったのかもしれません。

 

話は変わりますが、今朝のNHKで、「拡大家族」というテーマを取り上げていました。縁もゆかりもない何十人かの人たちが共同生活をしている様子を報道していました。親子も一組いましたが、ほとんどが単身です。それぞれ自室があるのですが、だれもが勝手に出入りするのです。そして話し合いでそれぞれが役割分担をするのです。食事や買い物、おそらく掃除、洗濯とかの家事でしょうか。そして可能な範囲で共同して食事をとるのです。一人の生活をエンジョイしつつ、暫定家族を演じるのです。それぞれの血脈家族と少し離れて。

 

こういった家族も成立していくのでしょうね。さらに発展するかもしれません。むろん死に至る過程、死後のあり方も今後さまざまな有り様を模索するのでしょう。それは私たちに多様性のある生き方、死に方を相互に尊重する社会づくりを受け入れる用意を迫っているように思うのです。

 

 

今日はこのへんでおしまい。また明日。


お寺がもつ多元的機能 <お寺が地域の「伴走者」に 僧侶らの電力販売会社>を読みながら

2018-11-02 | 宗教とは 神社・寺・教会 信仰

181102 お寺がもつ多元的機能 <お寺が地域の「伴走者」に 僧侶らの電力販売会社>を読みながら

 

さきほど事務所の建物が揺れました。といってもすこし音を立てて短く揺れた程度でした。すぐにニュースを見ましたら、震度4ないし3でした。和歌山県が4で、奈良県が3ですので、そんな見方が適当かもしれません。それにしてスマホに緊急地震通報が届くほどのものかと思いつつ、建物構造や地盤によっては揺れが違うでしょうから、これも仕方ないですね。

 

東京圏だと同じ震度3でも揺れが違ったような記憶です。台地の場合は別ですが、低湿地帯を埋め立てた地域ではやはり揺れが結構強かった思い出があります。

 

時代を遡れば、わが国の建物は庶民の場合平屋建てで板葺きが普通だったのではないでしょうか。地震がくれば容易に倒壊したでしょうけど、すぐ建て直すこともできたと思います。家自体を長期に保有する資産とは考えていなかったかもしれません。家財道具もいつでも持ち出せる程度のものしか置かず、簡素なものだったのでしょう。このような質素な生活様式は幕末期に来日した西欧人が記録していますね。

 

それでも一時的には被災した人たちは困りますね。そんなとき救貧対策を講じたのは幕藩側だったかもしれませんが、長く活躍したのは寺社の僧侶・神人であったのではないでしょうか。無縁社会としての中世の寺社についてこのブログで何回か最近書いたと思いますが、途中で腰折れしたような記憶です。

 

それはともかく無縁社会としての寺社、そこに集まる多様な人材は、僧侶などをバック、あるいは中心にすえて、多元的な機能を営んでいたのではないかと思います。近世江戸時代、檀家制度の下、葬式仏教の担い手に押し込まれるまでは、エネルギーあふれ、想像力あふれる自由で多様な人材が集まってきていたのではないかと思うのです。

 

そこにはギリシア・ローマのような民主制や自由平等とは異なる、別の原理が働いていたのかもしれませんが、結構、自由を謳歌していたのかもしれません。縁で固く結ばれた社会からはじき出された人たちの駆込場所だったかもしれません。閉塞した社会を変革しようとした野望に燃えた人も集まっていたのかもしれません。

 

そんな空想的な発想をついしてしまったのは、昨日の毎日新聞夕刊記事<特集ワイドお寺が地域の「伴走者」に 僧侶らの電力販売会社、来春始動 利益で自死対策支援や寺の修復>を、仕事を一段落させた後読んだせいかもしれません。

 

記事のタイトルを見ると、地域の伴走者って何と思ってしまいます。それに僧侶らが電力販売会社を始動って、何をしたいのと思ってしまいます。

 

その疑問については記事が丁寧に紹介してくれています。

<電気事業を通し、地域活性化と命の問題に光を当てたい。そう願う僧侶らが、今年6月に電力小売会社「TERA Energy(テラ エナジー)」(京都市)を設立し、来年4月から事業を開始する。少子高齢化で檀家(だんか)などとのつながりが弱まる中、寺は地域と人々の「伴走者」になれるのか。【玉木達也】>

 

たしかにいま既存のお寺は風前の灯火かもしれません。檀家は減る一方、葬式は家族葬やゼロ葬など世相も様変わりです。墓地に変わって事業家が営む立体型納骨堂(しかも宗派を問わない)、散骨など、さらに法要も永代供養からそれすら不要という風潮です。それでは住職になってみたものの・・・という話になりそうです。

 

でも僧侶というのは行基以来(いやもっと前から)、ずっとあらゆる社会活動、貢献をすることにより仏教思想を普及してきたのではないでしょうか。キリスト教をはじめその他の宗教も似たり寄ったりで、葬式仏教こそ(それも大事であることは否定しませんが)、本来の活動の一部でしかないのではと思うのです。

 

電力販売事業をすることくらいは当然のことでしょう。有力寺社は中世の時代、金融業はもちろんのこと、荘園経営を含む多様な商売だけでなく、傭兵派遣から兵器産業までやっていたといわれるのですから。寺の場合江戸時代以来の檀家制度、その後の廃仏毀釈で骨抜きにされてきたのかもしれません。

 

僧侶の行う電力事業もちゃんとした根本思想、気候変動問題に対処するという考えに基づいていますね。

<社長は浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺)僧侶、竹本了悟さん(40)。取締役6人中4人が僧侶だ。竹本さんとNPO法人「気候ネットワーク」との交流がきっかけで、地域エネルギー支援会社「みやまパワーHD」(福岡県みやま市)との協力が実現。電力は同社を通じ再生可能エネルギーを中心に調達することになった。>

 

そして僧侶は計算高い?といわれることもありますが、他方で武家の商法みたいに揶揄されることもありますが、ちゃんと先を読んでいるようです。

<テラ社は初年度の売り上げを約7億円と想定。売り上げの一部を「お寺サポート費」として1000万円以上を見込み、寺の修復や地域の活動に充てる方針だ。>

 

江戸時代、檀家制度の中で僧侶が左団扇で過ごしていたかというと、地域の文化・芸術そして生活の中止的存在として活動していたのはやはり、そういう住職と檀家の関係が成立していたのではないかと思うのです。単なる葬式仏教ではなかったように思うのです。小林一茶の物語にでてくるような和尚をはじめ、地域の信頼を集めるだけの生き方をしていたのではないかと思うのです。その一つは寺子屋でしょうか。日本人多くが明治維新に対応できるだけの算術や識字力はここで養われたのではと思うのです。貧富の差もなく。

 

<国立精神・神経医療研究センター(東京都小平市)の精神保健研究所薬物依存研究部長を務める松本俊彦さん(51)>いわく

<「寺は昔、いろんな悩み事の相談場所として地域に溶け込んでいました。ただ、最近は法要が中心になっています。それが今回『電力』を通じて、より身近な存在になる可能性があります」と指摘する。さらにこう続ける。「寺や檀家らに電力を売った利益の一部を使い、地元で福祉的な活動を行えば、檀家らもその活動に参加する図式になります。檀家らにとっては、支援をされるし、支援もすることになって寺との交流がより深くなるはずです」と分析する。>

 

檀家をも巻き込んで、地域力をあげて、衰退する地域の立て直しをするということでしょうか。

 

地球の悲鳴に答えるための再生エネルギー利用事業と、その利益を活用して、人の悲鳴に答える伴走者としての事業とを、両立しようとしているようです。

 

<センターの代表として「『死にたい』『生きているのがつらい』『消えてしまいたい』。そんな気持ちを一人で抱えている人のそばにいて、寄り添いたい」と思う竹本さん。>

 

さらに孤立している人へのおっせかいです。

<「一人暮らしは孤独かもしれないが、何かの時に誰かと連絡が取れる関係があれば大丈夫。むしろ、家族と一緒に暮らしていても意思の疎通ができる人がいない孤立が問題です」と懸念する。さらに「孤立している人に軽い『おせっかい』をすることがとても大切。ただ、その際、押しつけがましくない、何か口実が必要になります」とも語る。>

 

<テラ社は今後、「お寺は地域とみんなの共有財産」として地域課題を考える場所や地域食材を使った精進レストラン、盆踊りの会場、子ども食堂などに使ってほしいと地元に呼び掛けていくつもりだ。テラ社の活動が寺の在り方を見直し、地域コミュニティーを変える一歩になるかもしれない。>

 

同じような取り組みは、すでに全国のどこかで少しずつ始まっているように思います。私もそのような活動の一端に参加できればと思っています。

 

今日はこれにておしまい。ほぼ一時間で終えました。また明日。


自由・民主・平等と無縁都市 <伊藤正敏著『寺社勢力の中世』その2>

2018-09-26 | 宗教とは 神社・寺・教会 信仰

180926 自由・民主・平等と無縁都市 <伊藤正敏著『寺社勢力の中世』その2>

 

今日もたいした仕事があったわけではないのですが、打ち合わせが長引いたりして、いつの間にか業務終了時間になっています。

 

今朝の毎日紙面は、伊方3号機再稼働容認の広島高裁逆転決定をめぐるものが多面的に取り上げていました。中心争点は「破局的噴火」を考慮するか否か、言葉を換えて言えば噴火の発生可能性をどのような尺度で見るかということかもしれません。

 

噴火予知が科学的には未知な領域でしょうから、これまた判然としない社会通念というものにそのリスク基準を委ねるかどうか、その場合の社会通念の基礎を今度はどこに置くかと言うことになって、結局、憲法が保障している裁判官の良心に委ねることになるかもしれません。その意味では裁判所の構成によって判断が変わることもやむを得ないでしょう。

 

いずれにしも、原発問題を含め社会の中で必然的に発生する多くの多様な紛争は、裁判所に持ち込まれ、そこでの判断により一つの解決の道が開かれているというか、ある意味最終的な解決の方法として残されているのが現代社会ではないかと思うのです。

 

ところで、伊藤氏は中世の時代について、寺社を「無縁都市」という新設造語により、まるで古代ギリシアのポリスのような独立した政治経済の中心として捉え直そうとしているように思えます。

 

今日も読む時間がとれなかったので、整理できていませんが、そこには新しい文化・芸能・技術・商業・軍事産業など、多様な価値を生み出し、独立した都市空間を形成していたかのように、捉えるのです。それは、ある面ではアテナイ、マケドニア、ある面では今度はベニス、フィレンツェなど、とても魅力あふれる都市空間のように聞こえてくるのです。

 

私たちは比叡山延暦寺とか、奈良興福寺、高野山金剛峯寺などと聞くと、現在ではそれぞれ天台宗、法相宗、真言宗を修行する荘厳な場所といったイメージがありますが、中世は全然違っていたようです。

 

伊藤氏の見解は、とくに無縁都市といった根本的な部分は学界の通説とは異なるようですが、それでも、裁判で言えば証拠能力も信憑性も高い、一次資料を基に主張を展開しているので、異論があれば、合理的根拠を示してもらいたいと、原発再稼働問題よりも、確固とした証拠と合理的基準によっているようです。

 

私が「ようです」というのは伊藤氏が示す証拠は誰でもアクセスして見聞できるのですが、まだ検討していませんが、個々の古文書(こもんじょ)を読むだけの能力がないので、ここは伊藤氏の見解が私にとって目から鱗の感じなのと、腑に落ちることも少なくないので、少しずつ勉強しながら紹介していこうと思っています(昨日もそのようなことを書いた記憶で、発展がありません・・・)。

 

ともかく今日私が唯一まともに紹介できるのは伊藤氏が高い評価をし、その見解のよりどころとする「東京大学史料編纂所」の「データベース選択画面」を通じて一次資料の古文書等を誰でもがアプローチして検証できるということです。それ以外で私が紹介した内容は話半分で読んでいただければと思います。

 

無縁所という言葉は、昔から使われていて、教科書にも書かれていたかもしれません。日本中世史家網野善彦氏が、無縁とは世俗権力の私的支配下にないということを意味し、自由思想の中核概念として捉えたとして評価されてきたのではないかと思います。

 

伊藤氏は、網野見解をより掘り下げてというか、その高度で多様な価値を整理し、その強力なエネルギー源を構成する要素を整理して解説してくれているように思われるのです。

 

戦国時代でいえば、有名なのは紀ノ川沿いに独立都市圏が成立していましたね。西から下流域の根来寺(真義真言宗)、東は上流域の高野山金剛峯寺(真言宗)、真ん中の中流域は粉河寺(天台宗)がそれぞれ大大名波に支配権を及ぼしていましたね。それが宗派の違いによって生まれたのではないというのです。

 

それぞれの寺が勢力を伸ばしたのは、その教義ではなく、軍事力や経済力、政治力だというのです。この3寺に限らず、どの寺も内部に多様な宗派の僧侶が入り込み、混在していたというのです。たしかに比叡山は天台宗の本山ですが、多くの宗派が生まれていますね。高野山にも多様な宗派の僧侶が修行に入っていますね。学侶はそれぞれの宗派の教義を懸命に学ぶのかもしれませんが、事務方の行人などは教義はあまり関係ないですし、布教活動で世俗の中に入る聖などは教義そのものにはほとんど関心がなかったかもしれません。それでないと庶民は優婆塞にもなれないかもしれません。

 

南無・・・・といえば、どの宗派でもOKだったことで、有縁の公家・武家などの支配層から逃げ出した人、迫害を受けた人、疎んじられた人などが、いまでいう難民・移民となって、この無縁都市に逃げ込み、初めて自由を勝ち取った多様な移民の集合体となっていったのかもしれません。それは治外法権がこの無縁都市にあったので、朝廷も幕府も警察権も司法権も及ぼすことができなかったようです。

 

なお、河口付近は雑賀衆ですがこれは寺社勢力とまで言えないのでしょうね。ただ、一向宗に荷担したのですから、これもふくめてもよいかもしれませんが、寺社でないということでオミットしているのでしょうか。

 

ともかく、軍事力は、交易・商売が得意だったようで、最先端の武器を大量に購入し、兵隊も訓練されていたので、外人部隊として、各地を転戦したようですね。

 

ちょっと適当に読んだ内容を書き出しましたが、何が興味深いかの要点が定まらず、今日はというか、今日も未消化のママ、さわりを書いてしまいました。捲土重来?を明日に託して、今日はこの程度で終わりにします。また明日。


宗教と信仰 <伊藤正敏著『寺社勢力の中世』>を読みながら

2018-09-25 | 宗教とは 神社・寺・教会 信仰

180925 宗教と信仰 <伊藤正敏著『寺社勢力の中世』>を読みながら

 

今日は久しぶりに病院に行きました。待ち時間を読書にと思い、最近は表題の本を持ち歩いています。少しずつ進んでいますが、一挙にまとめてというわけにはいきませんので、断続的なかたちで著者の意図を垣間見ています。

 

この医師の場合、残念なことに(いや、うれしいことになんですが)、待ち時間がわずかなことが多く、今日もそうで、なかなか読み進みません。

 

その後打ち合わせとか、調べものとか、問い合わせとかあり、今日はもうそろそろ出かける時間になりました。今日はすでに一本ブログを書き終えていますので、あえて書かなくても良かったのですが、このテーマなかなか面白くて、いつか書こうと思いながら、一向に一歩が出ませんでした。今日はともかくその一歩を踏み出して、できれば連載的に書いてみようかと思っています。

 

なにが興味を惹くかというと、やはり宗教とは何かということと人が何を信じるかと言うこととの間にある種大きな隔絶があるのではということです。いや、それはこの著作の本の一旦でして、さまざまと中世寺社の実態に迫る興味深い話が盛りだくさんで、面白いのです。

 

そして「境内都市」という特異な概念がもつ実態や「無縁所」というものの複層的な意味合いを解き明かすことも大きな眼目ではないかと思うのですが、私も適当につまみ食いをするような読み方をしているので、紹介しながら学んでみたいと思っています。

 

今日はその一つ、「ダイシ信仰」を取り上げたいと思います。私たち日本人は、聖徳太子、弘法大師(空海)、伝教大師(最澄)をタイシとかおダイシさまと親しく呼びかけることが多いかと思いますが、それぞれどのような宗教を生み出し、広めたか、理解している人は少ないと思います。

 

私は以前からそれを不思議に思っていたのですが、それが日本人の信仰であり、宗教観ではないかと、そのように伊藤氏が喝破しているようにも思えるのです。この3者、なお、最後は最澄の弟子、元三大師良源のことをいうようです。

 

いずれにしてもダイシ信仰(聖徳太子も含む)はだれもが親しみをもって巡礼など現在も活発にしていますが、その宗教のなんたるかを知っている人はごくわずかでしょうね。

 

ではなぜダイシ信仰が広まり、多くの人が長く信じて、生活の基本にしてきたのか、それは実態があるのですね。宗教というものとは少し異なる社会の面でさまざまな力をもっていたということなんではないかと思うのです。

 

そのあたりを今後、少しずつ考えていきたいと思います。そのことにより中世史はもちろん、現在の社会を見る目も変わってくるように思うのです。

 

今日はこれでおしまい。また明日。