たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

+補筆

2019-04-23 | 災害と事前・事後

190423 避難対策と多様な価値 <天路山城跡 日高町、一部破壊 位置把握せず造成工事>などを読みながら+補筆

 

今日はようやく花言葉、再開です。リビングストーンデージーという花です。デージー(雛菊)という名前がついていますが、デージーとは異なる品種のようです。<3月12日の花リビングストンデージー(紅波璃)>によると、花言葉は<瞳の輝き・気前よく与える・華やかさ・賑やかな人>前2者はともかく、後の2つはなんとなく納得でしょうか。<南アフリカケープ地方原産の非耐寒性の一年草>と、異国情緒たっぷりです。私が興味をひいたのは花弁ではなく茎のところの少し光り輝くような部分でしょうか。写真ではとげとげがあるように見えていまいちですが・・・

 

 

さて今朝の毎日新聞を見て驚きました。<天路山城跡日高町、一部破壊 位置把握せず造成工事 /和歌山>との見出しで、昨日取り上げた「湯川氏」が登場していたのです。あまり城郭には関心がないのですが、ついつい読んでしまいました。

 

記事の冒頭では<日高町は19日、同町比井にある戦国時代の山城跡「天路山(てんじやま)城跡」の一部を公共事業の造成工事で誤って破壊したと発表し、陳謝した。担当者が城跡の正確な位置を把握しないまま工事を進めていた。県教委は文化財保護法に違反したとして埋蔵文化財の保護に努めるよう町を指導した。【山成孝治】>と城跡跡地の一部を公共工事で破壊したことが取り上げられていました。

 

紙面記事では、去年10月に町が謝罪(誰に?)したそうですが、城郭愛好家のブログでしょうか<紀伊 天路山城>では昨年1月(投稿)にはすでに大きく削られています。

 

私自身、ようやく紀ノ川沿いの地形や地名に少し馴染みが出てきた程度で、県西部とりわけ海岸付近はまったくの不案内です。それで早速、グーグルアースで見たら、小浦崎と馳出の鼻という左右に突き出た岬に両手で囲まれたような内湾の中に、ある小さな港の一つ、比井という漁港を間近に守るような唐子崎という岬部分の頂上部内側が大きく削り取られています。

 

地形図アプリでみると頂上部が標高56mですね。ところが国土地理院の地形図だと、双子の頂があり手前が64m、先が69mとなっていて、先の頂上部がおそらく城跡なのでしょうか。

 

もう少し記事を引用します。

<天路山城跡は、戦国時代に日高地方を中心に権勢をふるった湯川氏の拠点の一つ。標高約70メートルの天路山にあり、規模は東西約300メートル、南北約120メートル。戦国時代の紀伊を代表する領主だった湯川氏を研究するうえで貴重な遺跡という。>

 

この<東西約300メートル、南北約120メートル>というのは斜面地形状を保持した形での山城だからその規模として比定できるのでしょうね。平坦部はグール具アースで見るとわずかしかない感じです。

 

町の工事ということですが、その目的はというと<産業建設課が2014年、津波襲来に備えた避難場所2カ所と集落道の計2660平方メートルを整備するため、予定地内に遺跡がないかどうか町教委に問い合わせ、「ない」との回答だったため15年度に工事を始めた。>

 

南海大地震への対策はこのような海岸周辺では当然の措置ではないかと思います。安政の大地震津波のときに村人を救って高台に避難させた濱ロ梧陵は、隣の広川町ですね。日高町も避難対策を真剣に考えてやってきたのでしょう。

 

とはいえ、本工事で<本丸や二の丸、「土居」と呼ばれる主屋跡の一部、城の周囲に巡らせた「曲輪(くるわ)」と呼ばれる土石の囲いが破壊されていることが分かった。>ということで、問題になったわけです。

 

<県内の考古学に詳しい日本考古学協会の冨加見泰彦・地区委員は取材に「天路山城跡は地域の歴史を語るうえで貴重で、破壊されたのは極めて残念。保全に努めるだけでなく、専門職員を配置するなど対応すべきだ」と指摘した。>と厳しく町の姿勢を批判しています。

 

なぜこのような事態になったかについて、<町教委によると、これまで埋蔵文化財の専門職員の採用実績がなく、遺跡の確認が十分にできていなかった。さらに、城跡があるとみられる範囲を示した地図を2002年に作っていたが、実際より狭く表示されていたという。今後は遺跡の確認を複数の職員で行うなど態勢を強化する。>とのこと。

 

学芸員といった専門職を採用していなかったとしても、それだからこそ、県教委など専門家に問い合わせするべきであったのではないかと思うのです。町の歴史的遺産の保全をきちんとやってこなかったと批判されても仕方ないかもしれません。

 

ところで、この問題を取り上げた理由として、この歴史的文化的価値の保全策の問題とともに、グーグルアースの写真を見て気になった点があります。

 

当該場所は結構な急傾斜地です。手前の傾斜地を削っていますが、これは急傾斜地保全工事のようにも見えます。今回の城跡破壊となった工事箇所も、相当な傾斜で、法面保全工事が相当大変だと思われます。ここを津波避難場所2カ所とするようですが、避難場所としてそれだけの面積を確保するとなると大規模な人工地盤になるのではと思うのですが、そのような大規模工事をするだけの費用対効果が認められるのか心配です。だいたい、津波がやってくる岬に向かって避難するといった避難方法自体、住民の意識として自然かどうか気になります。

 

この比井港には奥に小高い標高70m級の山があります。いや頂上部を平坦にすれば50mくらいになりそうです。少しくらい高いかもしれませんが、その他の山も含め他の選択肢はなぜ排斥されたのか不思議です。

 

南海大地震津波は一挙に海岸線を襲う分けですから、こういった高台の避難場所の準備は各自治体の優先課題だと思います。でも場所選択に問題はないでしょうか。今回は文化財的価値を見逃して一部破壊したということで問題になりましたが、それ以前に場所選択が適切であるか、部外者ですが気になります。

 

仮に今問題となっている山林所有者の所在が不明、あるいは一部に反対があるといったことで、他の選択肢が排除され、この場所が選ばれたのだとすると、改めて山林所有者不明・所有者意思の確認方法など、新たな立法措置での対応を今後より進める必要があるのではないかと思うのです。現行の法制ではとても間に合わないでしょう。

 

最後に、「湯川氏(湯河氏)の城―その歴史と魅力」という歴史講座が今年3月に開催され、大勢が参加したそうですが、私も参加したかったですね。残念。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。少しずつ元気を取り戻しつつあるようです。


補筆

 

避難場所について、300m×120mという4.2haの大きさから、人工地盤と言った指摘をしましたが、斜面を掘削して平坦にすれば標高4050mの場所でそのくらいの面積を確保できるかもしれません。

昔、経済成長真っ盛りのころ、私が子どものころ遊んだ「ぎょんさん」という小高い山が全部、掘削され海浜の埋立用の土砂として利用されました。山がなくなり、平坦な土地になりました。風林火山ということばとは裏腹のような体験でした。山が動かないどころかなくなること、ふるさとの原型をなくすような経験をしてしまったのです。そんなことを思い出してしまいました。60年代というのは脅威の列島改造だったかもしれません。負の遺産も大きかったように思います。

今回の計画が城跡の一部破壊に加えて、場所の選定が妥当かという点、さらに大規模土砂の行方も気になります。



 

 

 

 

 


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