たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

清楚さと決断 <1型糖尿病「障害基礎年金の打ち切りは違法」>などを読みながら

2019-04-12 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

190412 清楚さと決断 <1型糖尿病「障害基礎年金の打ち切りは違法」>などを読みながら

 

花を見てもどうも花言葉がぴんとこないことが少なくありません。でもこの桜姫千鳥(セントラデニューム)は腑に落ちます。<エピデンドラム:虹手毬蘭の花言葉・誕生花>によりますと、こちらが正式名のようです。で花言葉はこれまた多彩で、<判断力・ささやき・浄福・可憐な美・孤高へのあこがれ・日々豊かに・清らかな幸福>とあります。

 

私は、この花から<可憐な美>とか<清らかな幸福>を感じました。苔むしたところから糸のように細い茎を伸ばしてすくっと立ち、可憐な花を咲かします。厳しい環境の高山帯にでも清らかに咲くかのようです。

 

今朝の毎日記事<「年金停止は違法判断、立ち上がって良かった」1型糖尿病の原告、勝訴に喜び>で勝訴した原告の一人として映っていた滝谷香さんの姿を見て、この花をふと思い浮かべました。1型糖尿病の症状と言ってもよくわかりませんでしたが、次のように語られています。

 

1型糖尿病は、生活習慣が主な原因の2型とは違い、幼少期に発症することが多い。滝谷さんは5歳で診断を受け、20歳から障害基礎年金を受給。保育士として働いていたが、勤務中に低血糖を起こして倒れ、退職を余儀なくされた。

 血糖値を下げるインスリンが体内で分泌されないため、毎食後の注射が欠かせない。頻繁に血糖値を測っているが、自覚症状がないまま意識を失うことも。根本的な治療法はなく、「いつ倒れるか分からない」という不安が常につきまとう。>

 

夫婦とも同じ病気で、<国は2016年、理由も説明せず香さんへの支給を停止。和之さんは翌年度に更新した。夫婦とも症状は変わっておらず、香さんは「なぜ自分が打ち切られるのか。社会に見捨てられたように感じた」と振り返る。>

 

こんな中で裁判を起こすのは大変勇気がいったでしょう。<「裁判を起こして良かったのか」とくじけそうになったこともあった>というのは本音でしょうね。

 

冒頭の記事<1型糖尿病「障害基礎年金の打ち切りは違法」 患者9人が全面勝訴 大阪地裁>で、<幼少期に発症することが多い「1型糖尿病」の患者9人が、理由を明示されずに障害基礎年金を打ち切られたとして、国に処分の取り消しを求めた訴訟の判決で、大阪地裁は11日、患者側の主張を全面的に認め、全員の処分取り消しを命じた。>と報じています。

 

<判決は、支給停止について「生活設計を崩す重大な不利益処分」と指摘。通知書は「2級には該当しない」という結論のみが示された簡素なもので、不利益処分の場合はその理由を説明するよう定めた行政手続法に反すると結論付けた。>ということで、一見、形式的な理由に見えます。記事も<2級に該当する症状だったかについて判断はなかった。>ということで実質的な判断誤認とまで判示していません。

 

念のために、原告側の主張について、訴状段階の171121日付け記事を見ますと、<1型糖尿病年金再開求め提訴 患者「打ち切りは違法」>では<川下清弁護団長は「国は患者の生活の厳しさを分かった上で年金を支給してきたはずなのに、なぜ打ち切ったのか。訴訟を通じて、処分のおかしさを明らかにしたい」と訴えた。>と当然ながら支給停止の実体的な誤りを指摘しています。

 

とはいえ、理由を示さない不利益処分は行政手続法に違反します。

同法141項では

「行政庁は、不利益処分をする場合には、その名あて人に対し、同時に、当該不利益処分の理由を示さなければならない。ただし、当該理由を示さないで処分をすべき差し迫った必要がある場合は、この限りでない。」と規定されています。

 

厚労省は2級に該当しないと指摘したことが理由と考えたのでしょうか。そうだとすると、それはおかしいですね。2級に該当するかどうかは、年金受給者にとって重大な事柄ですし、症状認定の理由を具体的に示す必要がありますね。たとえば自動車損害賠償責任保険の後遺障害等級の認定票では、結論の理由を具体的に記載して通知しています。それは当たり前です。

 

ところで、厚労省は、判決を受けてやっと重い腰をあげたようです。

別の記事<1型糖尿病訴訟年金通知方法見直し 厚労相表明>で、<根本匠厚生労働相は12日の閣議後記者会見で「今後通知する書面で、どの程度丁寧に理由を記載できるか検討したい」と述べ、受給者への通知のあり方を見直す考えを示した。>ということです。

 

この厚労相の発言からは、訴訟ではこういった通知でいいのだと主張して違法を争ってきたのでしょうね。しかし上記の通りそれはおかしいですね。

 

実際、厚労相の実務上の取扱は、<問題が新聞報道された後、打ち切られた会員はいないという。>ことですから、それは単に通知の形式なミスにとどまらず、等級非該当という判断自体が合理的な根拠を欠いていた可能性を示唆するものですし、大阪地裁としても判断の背後にはそういった事実経過も踏まえているように思えます。

 

今回の1型糖尿病についての一斉2級非該当・支給停止は、国から等級の審査を委任された現・日本年金機構大阪広域事務センターによるものですが、適切な処理が行われているかどうかに大きな懸念を抱かざるを得ません。

 

それにしてもわずかな年金できつきつの生活をしてきたでしょうに半額が突然受け取れなくなれば生きていけないと嘆きたくなるでしょう。苦しく厳しい日々の生活を送る中、原告となって戦ってきた滝谷さんら皆さんの苦労が報われることを祈っています。

 

今日はこれにておしまい。また明日。

 


判決を求める勇気 <知的障害児・・・遺族「命の価値」問う>などを読んで

2019-03-21 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

190321 判決を求める勇気 <知的障害児・・・遺族「命の価値」問う>などを読んで

 

法曹実務に長年従事していると、その制度に疑問を抱かない、抱いたとしても実際に裁判による解決までのリスクや壁を感じて二の足を踏む思いを、たいていの人がしてきたのではないでしょうか。

 

昨夕の毎日記事<知的障害児「逸失利益」認定は 22日判決 遺族「命の価値」問う>と今朝の毎日記事<旧優生保護法を問う強制不妊、1年で初結審 審理継続の国退け 仙台地裁、5月判決>は、私のような凡庸な人間には勇気のある行為と感じるのです。いずれも大きな見えない壁が立ちはだかる中で、正義を求めてあえて判決を求めた決断と思うのです。

 

まず、前段の事件については、<知的障害のある少年が入所施設から行方不明になって死亡したのは施設側に責任があるとして、両親が約11400万円の賠償を求めた訴訟の判決が22日、東京地裁(田中秀幸裁判長)で言い渡される。争点は、将来得られたはずの収入を算出する「逸失利益」が認められるか否か。「ゼロ」とする施設側に対し、両親は「働ける能力があった」と主張している。>とされています。

 

死亡した場合の損害賠償請求の算定上、その人が将来得られた利益、逸失利益をどう捉えるかが大きな争点となっています。この逸失利益については、交通事故の裁判例が多いですが、労働能力に応じた実収入を基本としつつ、次第に被害者の立場にたった柔軟な事例が続いているかと思います。家事従事者や無職者、生活保護受給者などは、賃金センサスの平均賃金程度は一般的ではないかと思います。しかも賃金センサス年収額表は70歳までの表示ですが、それで打ち止めというわけではなく、80代の高齢者も一定の収入を認めてきました。

 

ただ、これらの裁判例は、あくまで死亡前は一定の労働能力が潜在的に認められることが前提であったようにも思えます。そのためそれぞれの裁判例はその能力の可能性がある事実の探求を腐心していたようにも見えます。他方で、知的障害のある人で、将来的に労働して収入を得ることが困難な場合、はたして同様に逸失利益を認めることができるかとなると、これまでの制度運用からすると、容易でないことがわかります。

 

死亡された方は最重度の障害判定を受けていたようです。私が以前、成年後見を担当した方は、症状的には下記よりも重い方でしたので、一応は概略ながら少しわかります。

<和真さんは言葉がうまく話せなかったが、服を丁寧に畳むなどきちょうめんな性格だったという。両親側は「漢字が書けた」「手先が器用」などとする学校の記録を挙げ、「年齢に応じて成長しており、さらに能力を伸ばすことはできた」と主張。都の基準で「最重度」とされた障害程度の判定に疑問を抱く医師の証言も得た。>

 

就労継続支援A型や同B型事業で就労されている方の場合、収入は微々たるものですね。こういう事業所で就労できる人の場合でも、同様の問題が起こりえます。

 

裁判所は実態把握のため労働現場を訪れたのですね。

<訴訟では、障害者を雇用する会社に裁判官が自ら出向き、仕事内容や職場での配慮などを聞き取るという異例の対応をとった。これを踏まえ、両親側は「障害者の特性に合わせた職場環境の整備が広がっており、(和真さんも)就労する可能性が高かった」と訴えた。>

 

命の価値は同じという、ご両親のことばは重いです。裁判所がどう答えるか、期待したいと思います。

 

なお、一年前の322日付け毎日記事<障害児平均賃金で逸失利益 大阪地裁、算定1940万円>では、同日に、大阪地裁では事情を十分斟酌した和解解決をしています。

<山田裁判長は、家族から愛情を注がれた逞大ちゃんには療育環境が整っており、意思疎通の面などで順調な発達状況がうかがえた点を考慮。「将来的には一般的な就労ができた確率が高い」との判断を示し、平均賃金を逸失利益の算定根拠に取り入れた。>平均賃金の8割ですから、なかなかの判断だと思います。

 

西の大阪地裁の和解に対して、東京地裁が同日の日となったのは、たまたまの天の配剤なのか、意識して選んだのか、判決文でわかるかもしれません。

 

次の強制不妊の根拠となった旧優生保護法違憲訴訟について、記事では< 旧優生保護法(1948~96年)下で不妊手術を強制され、憲法13条が保障する「性と生殖に関する自己決定権(リプロダクティブライツ)」を侵害された>と違憲か否かという重大な問題とともに、損害賠償額の多寡が大きな争点となっているようです。

 

というか、国会対応と司法判断という三権分立の意義が問われているのかもしれません。

< 被害者救済をめぐっては、昨年3月以降、国会の超党派議員連盟や政府与党が救済法案の策定を進めてきた。法案は4月にも可決・成立が予想されており、国が裁判で責任を否定する中、司法判断より救済法の施行が先になる前例のない展開となりそうだ。【遠藤大志】>

 

なお、国が主張する除斥期間は、本件で採用することは考えにくいと思うのです。それはこれだけの不正義に対して司法の役割を果たしていないことになると思うのです。

<原告が2人とも強制手術から40年以上経過していることから、国は原告に請求権はないとしたが、原告側は「当時の社会状況下では個別に被害を訴え出ることは困難だった」と反論。歴代厚相の責任も追及した原告に対し、国は除斥期間を理由に厚相らの責任を否定した。>

 

国が、また医学界、医療機関が、そして社会が、これだけ非人間的差別を行ったことについて、時間の経過で忘却されることでも免責されることでもないと思うのです。私たちは、国がある学会という権威が、社会が正しいと、法律までつくって進めようとしても、そのことにより少数者の権利が不当に侵害されるおそれがあるとき、合憲性を丁寧に検証する必要があることをこの事件は警鐘していると思うのです。

 

だいたい多くの国賠訴訟では国や自治体側は審理を急ぎ充実した主張を展開しないまま早期結審を求める傾向にあるように思うのですが、本件では逆に審理継続を強く主張していたのを、裁判所が打ち切り結審したのですから、原告側には期待できる内容の判決になりそうですね。原告敗訴という判断は除斥期間といった形式理由でしか考えにくいので、そのような判断をするとは到底思えないと司法に期待する私としては考えたいのです。

 

さて争点の判断としては違憲性ですが、十分期待できるものの、違憲判断が必然かどうかは事件の中身をまだ理解していないので、場合によっては違憲判断を回避するかもしれないと思っています。ただ、違憲かどうかの判断はしてもらいたいと思うのです。

 

次は損害金ですが、国会が採用した一時金320万円はちょっと低すぎると思うのです。ただ、適正な額となると難しいですね。どのような判断が示されるか期待したいです。

 

毎日の今朝の記事<クローズアップ2019 旧優生保護法「一時金」 「早期救済」心癒えず 320万円根拠に批判>は、国会対応に批判的です。ただ、訴訟は特定の人の救済にとどまり、控訴もあるので、問題解決の長期化のリスクがありますね。

 

この記事で指摘されている一時金制度の問題を、判決後に新たに見直すことが求められるでしょう。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。

 

 


視力障がい過去と未来 <記者の目 視覚障害者の世界変えるAI技術>を読みながら

2019-03-09 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

190309 視力障がい過去と未来 <記者の目 視覚障害者の世界変えるAI技術>を読みながら

 

今朝、日が長くなったせいか、すでに明るい日差しを感じることができました。実際に暖かい日差しが木々の梢に射してきたころ、野鳥も賑やかです。

 

ふとベランダを見ると、さっと野鳥が飛び立ちました。怪傑ゾロのようなマスクの出で立ちが一瞬、目に留まりまりました。スズメより少し小柄。ヤマガラかなとちょっと期待半分で思いましたが、きっとシジュウカラでしょうと思い直しました。ヤマガラはもう少し山の中に入らないと見る機会が少ないように思います。それに比べシジュウカラは都会にでも現れるこのご時世ですし、当地では時折見かけます。見かけなくても囀りがよく響き渡ります。

 

野鳥観察の能力もなければ努力もしていませんが、視力と聴覚が普通に備えていて助かります。ちゃんと有効に使っているかと言われると恥ずかしい限りです。ただ、聞こえる、見えるというだけです。それでも天寿を全うして、才もない中、天が与えてくれた命を全うしたいと思うのです。

 

そんな余分なことを考える暇もなく、次々と野鳥の姿が目に入ってきました。こんどは少し遠くて裸眼では識別できません。あの超望遠ズームで覗くと、スズメくらいの大きさの野鳥が別々に2羽いました。一羽は芝生の土をほじくる仕草を繰り返しています。どうやらホオジロのようです。念のために野鳥図鑑で調べると、同じ色模様がありませんでした。でも特徴の目の下が黒い帯という点では一致しているので、間違いないかなと思うのです。

 

胴体の色合いが少し変わっていました。それで迷ってしまったのですが、目の下の帯こそこのはっきりした特徴かなと思います。でもこのホオジロの呼称にいつも不思議を感じます。ホオジロというのは頬のところが白いということではないのでしょうか。目の下は太い帯状の線が黒くなっています。いや頬は黒と言ってよいと思います。ホオグロというと顔と名前が一致しやすいように思うのです。白い部分は目の上の額部分ですね。まあそんなことはたいした話ではないですね。ホオジロの忙しく動く様はスズメそっくりのようにも思えますが、スズメのように群衆で動くことはあまりみかけません。どうやらメスのようです。

 

さてもう一羽ですが、一週間前にも見たカワラヒワです。ただ、前回はオスだと思いますが、今回はメスのようです。

 

さて今日はほんとは歩く道の日と思っていたのですが、先週から体調を少し崩し気味で、先週歩いた後かなり具合が悪かったので、しばらく歩く道の計画は中断しようと思っています。

 

そんなわけで仕事もあまり乗り気にならない中、野鳥を観察していると、少し気分がよくなってきます。

 

ほとんど有効に使えていない私の視力ですが、視力障害者の方は視力をカバーするために大変な努力をされていますね。

 

昨日の毎日記事<記者の目視覚障害者の世界変えるAI技術 活字読み上げ、人の判別も=岩下恭士(デジタルメディア局)>では、全盲記者の岩下恭士氏が最近のAI技術を取り入れた製品を体験レビューしています。

 

それは<人工知能(AI)技術「オーカム マイアイ2」>というものです。

これは<100円ライターのような小型カメラ>の大きさで、<メガネの弦に装着>すると<「若い女の人があなたの前にいます」> と<耳元でささや>いてくれるのです。

 

すごいですね。

<一昨年、イスラエルのハイテク企業、オーカム・テクノロジーズが開発し、英語圏を中心に世界30カ国以上の視覚障害者や読字障害者らの間で大きな反響を呼んでいる>

 

さてその内容をもう少し引用してみましょう。

<このAI技術、最大の特徴は自分のメガネに装着して使えることで、スマートフォンのように手で持つ必要がなく、ネット環境も不要だ。>というのです。

 

そしてこの認識力と読み上げ力は<新聞や飲食店のメニュー、紙幣や店の看板などを指で示すとその部分を読み上げる。時刻はもちろん、設定すれば色やバーコードなども認識する。>というのです。

 

この技術は、いま流行の自動運転技術を応用したもののようです。

<自動走行する車が瞬時に路上の車線を認識できるカメラ技術を、全盲者の歩行誘導に応用してしまおうという画期的な発想なのだ。>

 

ただ、顔認識はウライバシー侵害に当たるということで、先駆け的開発を進めるグーグルはこういった昨日の事業化を図っていないようです。

 

他方で、オーカムはそのプライバシー保護の措置を講じて開発に踏み出したのです。

<オーカムは個人の顔を画像でなく、数値に置き換え保存している。「映像として映すことはできない」とアビラム氏は徹底したプライバシー管理をアピールした。>

 

数値に置き換えるといってもぴんときませんね。PC記号化ということでしょうか、とはいえそれでも画像変換可能であれば、多少不安が残りますが、セキュリティ保護が確保されているということでしょうか。他方で、表出されるのは画像ではなく、音声なので問題は起こらないということでしょうか。

 

<「オーカムの使命はこうした人たちに視覚を取り戻し、職業的自立の道を開くことです」とアビラム氏は訴える。>といった製品アピールに共感できます。

 

ただ、問題がありました。価格は<税別価格が60万円と高価な>です。自治体によっては助成金的な制度があるようですが、それでも約50万円が自己負担となると、厳しいですね。

 

また、操作の習熟度が必要とのことですし、バッテリー消耗が激しいようで<自動認識モードでは1時間>しかもたないとのこと。実用性という意味ではもう少し技術開発を必要としていると言えるでしょうか。

 

他方で、人が人を支援する心こそ、お互いが救われるかもしれません。

記者はイスラエル体験記で次のようなエピソードを紹介しています。

<旅行前、日本在住のイスラエル人から「イスラエル人は人に無関心だから一人旅は苦労するよ」と忠告された。ところが現地では、いつも必ず白杖(はくじょう)を持って一人たたずむ東洋人の私を見つけると、ユダヤ人もアラブ人も、性別、年齢にかかわらず近寄ってきて「どこへ行きたいのか?」と聞いてきた。キリストが歩いた2000年前と変わらない光景がそこにあるのを実感した。>

 

そういえば、仏教伝来した6世紀以降、長くそういった光景はわが国でも普通に見られたのではないかとふと思ってしまいました。それが仏教伝来と区切っていいかは私も判断しかねますが。

 

最後に岩下記者は、私がたしか昨日少し表現を変えて使わせてもらったいいことばを残されています。

<AI(人工知能)は、人間への「AI(愛)」なくして生まれえないと思う。>

 

今日はこれにておしまい。また明日。


障がいを超えて <パラリンピック競泳の鈴木孝幸選手を見て>

2019-03-06 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

190306 障がいを超えて <パラリンピック競泳の鈴木孝幸選手を見て>

 

どんよりした天候で、昨日からちょっと調子が落ちている体調で、今朝もぼやっとした感覚でしたが、NHKおはよう日本で登場した競泳選手を見て、俄然、元気を出さないとといった気持ちになりました。

 

初め顔だけがアップになり、パラリンピックの競泳選手と言うことで泳いでいる姿もちらっと見るとさすがにエネルギッシュでした。精悍な顔立ちで、自信たっぷりに話す感じを見て、いったいどんな障がいをお持ちかと一瞬、思ったくらいでした。

 

左手だけ普通の感じですが、四肢の残りは手足の先までないのです。実はTV画像ではしっかり見ていなかったので、ウェブ情報<アジアパラ競泳・鈴木孝幸「"自由形"に手応え」>で初めて確認できたのです。よく見ると、左手も3本の指だったのです。右手の方は肘までで、右足は太ももの付け根、左足がもう少しあるもの、膝の手前で途切れた感じです。こういった不自由な体で、あのエネルギッシュな泳ぎができるなんて信じられないと思ってしまいました。

 

そう鈴木孝幸選手は、堂々とパラリンピック金メダルを目指すべくイギリスでトレーニングを続けているのです。彼は、イングランド北東部のニューカッスル(正式には「・アポン・タイン」がつくようです)で数年前から滞在して、そこを拠点にトレーニングに励んでいるそうです。

 

イングランドは、障がい者に対する姿勢がわが国と大きく異なり、彼にとってはとても居心地がよいそうです。まず日常生活では、車イスで一人通りに出ても特別視されることなく、自由に移動できるそうです。周辺の必要なとき手助けしてくれますが、普通の人と同じ扱いだそうです。

 

むろん、車イス移動に支障をきたすような段差はほとんどないようです。道路上の通行も、電車の乗降も困らないそうです。実際、NHKの映像では、通りを一人で自由に移動したり、地下鉄でしたか乗り降りもしていました。わが国のように車両とホームの隙間や段差があって、駅員がブリッジ用の板を用意する必要もないわけですね。

 

それでカフェーなどで自動ドアでないところでは、鈴木氏に気づいただれかが、そういうときに限ってちゃっと前もってドアを開けて車イスで出入りできるように配慮するのですね。それぞれが個人として尊重され、その自由を脅かさない心配りがあるようです。それは最近、突然のようにいわれだした「おもてない」とは異なり、自然にイングランドの生活に根付いているものなんでしょう。私自身、なんどか短い滞在をしたことがありますが、その都度、感じたことでもありました。

 

障がい者の観点からも、そのことがよりいっそう明確になったように思います。そういった障がい者に対する心構えといったものが、日常生活だけではないそうです。

 

鈴木氏は、パラリンピックの代表選手を目指してトレーニングしているわけですが、そのトレーニング方法自体、わが国とは違うというのです。たとえばウェイトトレーニングでは、鈴木選手の場合左手は指があるものの、右手は肘までしかないので、バーベルなど掴むことができません。それであきらめるわけではないのです。彼の四肢の状態に合わせて、バーベルを掴む方法を考えて工夫するのです。障がいがあるからという理由で、いろいろな課題を初めからあきらめることをしないのです。

 

普通の人(こういうとおかしいかもしれませんがとりあえず呼称します)ができることは障がいがある人も、その意思があれば、できるだけそのような対応をしようとするのですね。

 

また鈴木選手の泳ぎ方についても、そういったトレーニングだけでなく、彼の障がいに応じた対策を考えるのです。競泳選手は誰もがターンの時、キックターンをしますね。彼もそれまで当然のようにキックターンをしていました。ところがここではコーチがキックしないで手をついてターンする方法を提案するのです。すると、キックターンよりたしか0.04秒?でしたか早くなったというのです。

 

それは鈴木選手の場合、両足が付け根か少しだけあるくらいですので、キックターンで有利な足の長さや蹴りの力が十分に出せないことから、手でターンする方が有利と考えたのでした。その障がいの程度に応じて、有利な方法を考えるのですね。合理的かと思います。

 

四肢が完全でなくとも、鈴木選手のように、元気で快活に生きるたくましさは、見ていてすがすがしいですし、勇気をもらえます。

 

彼の声はのびやかで春爛漫のように聞こえてきます。頑張って欲しいと思いつつ、私も高齢だとか、体調が悪いとか、ぐちをいっているばあいではないなと思った次第です。

 

今日も仕事で終日忙しくして、心が安らかとはいえないのですが、鈴木選手のたくましい姿を思い出しながら、いい一日であったと感じたいと思うのです。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。


性と社会 <同性婚 一斉訴訟>などを読みながら

2019-02-15 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

190215 性と社会 <同性婚 一斉訴訟>などを読みながら

 

朝は目覚めると青空が全面に広がる空模様。今日は午後からある年金調査のため和歌山に行く予定でしたので、少しは気持ちが晴れやかになれるかなと期待しました。その甘い見通しはすぐにお釈迦となりました。雪がぱらついてきたのです。結構冷えていましたのでもしかして雪が積もるのかなと今度はスノータイヤが今年初めて役立つかと変な期待になりました。しかしこれもしばらくして雪がやみ、期待ははかなく消え去りました。当地でのいろいろな仕事を終え和歌山までの往路では天候はなんとかもったのですが、帰りは雨模様となり、見通しも悪く前方車の長い列も50kmくらいの速度(高速道路で)となり、のんびり運転となりました。

 

事務所に戻って今日のお題をと考えたのですが、少し記事を見てもぴんときません。辺野古と同性婚が毎日記事で大きく扱っていたのですが、前者はもう少し様子見と思い、後者は躊躇していました。同性婚を認めないのを憲法違反という訴訟のようですので、ちょっと私の意識になかったこともあり、避けようという意識が働いたのです。

 

ただ、毎日の記事を見ると、まるでこの問題一色という紙面構成です。もう驚きです。そうか私の意識が問われているのかもしれないと思い、勉強のつもりでざっと読みました。

 

まずは一面に、<同性婚「不受理は違憲」 全国13組一斉提訴>(紙面の見出しは少し違いますが)と、余録で<多数決でものごとを決する民主主義だから…>が掲載されていました。

 

続いて社説で<同性婚求めて一斉提訴 不利益を放置はできない>ときました。さらにクローズアップ2019では<同性婚、不平等を問う 全国で一斉提訴 制約残る、パートナー制 家族多様化、25カ国容認>と自治体の対応や海外の同性婚を導入した国を取り上げています。

 

そして基本的には同性婚ないし性の多様性を認める立場で、少し異なる視点で3人の論者を取り上げた論点<同性婚を考える>は興味深いものでした。

 

わたしが同性婚、その前提の同性カップルに多少違和感を感じているのは、身近にいないことが大きな要因ではないかと思っています。伝統的な異性カップル・異性婚に慣れ親しんでいるため、そういった感情というか意識があるのかもしれません。でもそれは根深いものではないと思っています。まあいえば、電車内で化粧している女性や、最近はなくなったようですが携帯電話で話す人に対する感情とたいして大差がないくらいのものです。

 

そのことで伝統的な家族感や意識が脅かされるとか、そんなたいそうなものとは思っていません。そもそもその「伝統的な」家族感や意識は、それほど固定的なものと理解していません。

 

少し前のブログでAIの認識・識別力について触れたとき、AIの図抜けた能力をしても性差の識別ができないということを知りましたが、そんなものかと思ったのです。

 

私たちが求める社会は、絶対的な価値観を押しつけるようなものであってはいけないように思うのです。日本国憲法は、基本的人権の最初の条文で、個人の尊厳をうたっています。私は、というか私たちは、この基本的な価値を犯してはいけないと思うのです。私たちはそれぞれ違うわけですね。自分とは異なる考えや言動、むろんまったく反対で嫌いな意見であっても、尊重することが大切だと思うのです。そうでなければ、私たち個人の尊厳、自由も守ることが困難ではないかと思うのです。

 

同性婚について言えば、それを認めないことが違憲といえるかといえば、婚姻制度という長い歴史のある(といっても法律制度としては1898年公布の明治民法以来ですから110年程度ですね)制度ですし、ましてその明治民法の婚姻制度は、日本国憲法の下、1947年に抜本的に改正され、新たな個人を尊重する制度として生まれ変わり、その後も繰り返し改正されてきました。それは世情の変化に応じて変わりうるものですから当然ですね。今回の同一婚訴訟で一挙に違憲判断に結びつく可能性は低いと思いますが、本格的な議論となるでしょうね。

 

話は少し飛びますが、現在の婚姻制度で異性のカップルがうまくいっているのかといえば、疑問です。当然に男女の若者は成人式を済ますと、次は当然に婚姻への道を歩むというのは遠い昔の話になりました。しかも婚姻してもあの世までなんてことは古希のように、希なことではないでしょうか。離婚率がいかに高いか驚くほどです。そのため弁護士はもちろん、いろんな士をつく職業人が仕事の種?になっているのかもしれません。そういった仕事を提供するために婚姻制度が有るわけでは無いでしょうけど、おかしい状態のように感じるのは私だけではないように思います。

 

婚姻しても、DVや今回千葉女児事件で問題になった子どもへの虐待事件が最近、ようやく話題として取り上げられるようになりました(今までなかったのではなく、アメリカのように子どもの権利に着目していればもっと早くクローズアップされていたと思うのです)。

 

こういった現行の婚姻制度は、背景にある社会が事実上、異性のカップルに意識下で半ば婚姻を強制していることによるのかもしれません。同性カップルはどのようなおつきあいをして、暮らしているのかよく知りませんが、お互いを個人として尊重しているように感じられます。そのような関係を構築することができるのなら、ほんとうは理想的なカップル、婚姻ではないかと思うのです。

 

むろんいまはマイノリティの人たちですので、意識も高く、しっかりされているのだと思います。これがどんどん同性婚OKとなったら、異性婚と同様の問題が起こるかもしれませんが、これはおそらく杞憂かなと思うのです。

 

一時間が過ぎました。読むのに時間がかかり引用もしませんでしたが、関心のある方は毎日新聞のやる気を感じさせられる記事をご堪能ください。今日はこのへんでおしまい。また明日。