たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

高野山の山林管理 <高野三山を歩きながら>

2017-10-01 | 空海と高野山

171001 高野山の山林管理 <高野三山を歩きながら>

 

昨日の天気予報では今日は快晴とか、ということで運動不足を解消する意味もあって、高野三山の登りに挑戦しようと、まだ人が少ないと思われる朝8時半過ぎに出発しました。

 

でもこの時期、まだ紅葉前ですがちょうどよい気候ですので、残念ながらバス道はやはり少し混雑していました。駐車場はなんとか滑り込みセーフで、私が駐車したら満杯の看板を出していました。まだ人通りはなく、奥の院もほんとにまばらでしたが、皆さんどこにいっているのでしょうね。午後の帰りの時は高野山の通りは外国人はいつものように多く、また団体の観光客も相当で、道路を自由に横断する状態ですから安全運転でのろのろとなりました。

 

さて、先週は体力不足であきらめた高野三山(摩尼山、楊柳山、転軸山)に今日は挑戦です。なお、この名称のいわれは<高野三山めぐり>が参考となります、霊宝館の当該箇所は現在アクセスできなくなっています。

 

奥の院の参詣道から摩尼山の登山口に入っていくのですが、奥の院自体、ほんとに人がまばらでした。宿坊に泊まる人でも早朝の清浄な空気の中で歩いたのでしょうか、ほんとに人影の少ない奥の院も久しぶりです。

 

と思ったら、高野三山でも出会ったのはわずか3組のみでした。2組は反対方向から、1組は私が追い抜いた方たちでした。行程2時間50分で、私の場合は不動坂女人堂までの正式コースではなく、駐車場に近い中の橋霊園を通るショートカットで、それより結構短い距離になります。が、私の現在の脚力では高野三山を登るので精一杯でした。ショートカットして3時間以上かかってしまいました。普通の人の歩くペースよりも遅いわけですね。しかも最初はすぐに息切れしてしまい、昔は得意だった登りのきついこと、休み休みとなりました。下りは案の定、膝に痛みがきておそるおそるとなりました。でもなんとか高野三山完走でき、一安心です。

 

途中、大阪からきた私より少し年配のご夫婦と挨拶を交わし、高野山の木々についてしばらく談話することができました。このコースの周りはほとんどスギが林立していました。それで木の話になり、すごい密植ですねと言われたので、高野山は基本的は植林された木が多いですと答え、間伐もある程度はやっているでしょうけど、人手が十分でないこともあり管理が行き届かないのは仕方がないかもしれませんと話したのです。

 

それでもコース沿いのスギは大抵、かなりの高さまで枝がないので、枝打ちは相当やってきたのだと思いますと答えると、自然に落ちたんではないのですかと聞かれ、そういうのもあるでしょうと、このあたりは私も判別できませんであいまいな話をしました。

 

帰ってきて改めてグーグルマップを見ると、樹冠がきちんとした円形でほとんど隙間がないほど詰まっていました。少々密集しすぎで、間伐が間に合わないのかなと思いつつ、たしか楊柳山を下ったところでは、かなり間伐がしっかりできていて、大きく林間が空いているところがあり、よくやっているなと感じてしまったところもありました。

 

ところで、コースの道は、人一人歩くだけの幅しかないところもありますが、大抵は一間ないし半間は十分にある道で、広いところでは砕石が撒かれていました。それだけだと歩きづらいのですが、スギの枝葉が相当落ちていてちょうどよい緩衝材になっていました。

 

これはわざと放置しているのか、それとも管理上はこういった枝葉も取り除いて、砕石だけの道にしておくつもりなのか気になりました。というのは枝葉は緩衝材になりちょうどいいのですが、大きな枝も、中には大木が折れてそのままに道に横倒しになっているところもあり、しかも折れた部分がわずかに残った幹の部分でつながっている状態ですから、結構危険です。やはり基本的には管理が十分行き届いていないのかもしれません。

 

私は枯れ枝はできるだけ取り除いたのですが、さすがに大木は対処できませんでした。チェーンソーをもってきてやるしかないでしょう。残った幹の部分だけ切るならノコギリできれば、倒れかかっている幹を横に倒すことができ安全にはなるでしょう。ただ、それだけでは道をふさぐので、造材のように短く切って道の横に並べないといけませんので、それはノコギリで切るには径長30cmくらいあったので、きびしいですね。

 

東京の高尾山だったか陣馬国定公園だったかと思いますが、管理が行き届いている(東京都は金がある?)のがよくわかります。散策コースなどはウッドチップが敷き詰められていて、とても歩きやすいようにしていました(もう四半世紀以上前の話ですが)。

 

高野山の山道は自然がいいといっても、道を開設しても、多くの人が歩くと土だけだと崩れてしまいますので、砕石などを敷くのはやむを得ないと思うのですが、それだけだとお年寄りや足の弱いかた、不自由な方にはきついですね。奥の院のように石畳にするのはほとんどの方に便利なのですが、山道となると、バランスが必要でしょうね。

 

で、長々と書いてきたのですが、実は本論は、なぜ空海が高野山を選んだかの続きの中で、以前ブラタモリでは、水と食料と人の3つが取り上げられていたことと関連して、私は水銀ないしレアアースなり鉱脈を考えていたのですが、木は間違いないのではと思っています。

 

現在うっそうとしているスギを中心とする木々は、ほとんどが植林によって造林されたものだと思います。ただ、空海が開基した816年当時は、原生林が鬱蒼としていたのではないかと思うのです。というのは奥ノ院の巨大なスギをいつも感心するのですが、まさに屋久杉に匹敵する巨大さだと思うのです。屋久杉は1000年以上の樹齢をいうのですが、まさにそういう感慨をいだきます。私自身、奥ノ院や周辺の巨木の杉木立を歩いていると、屋久島でいかなくてもいいと感じることもあります。

 

高野山真言宗総本山金剛峯寺・山林部のホームページ<高野山の森林と歴史>にはその当たりのことが簡潔に解説されています。開山当時については<当時の山上の平地は、周囲を鬱蒼とした森林で囲まれた無人の沼野であった>

 

空海としても、根本大塔や金堂などを建築する必要があったわけですが、それを道路もない人のいない山の中でやりとげるには、遠くの山から木を切って運ぶことは、さすがに空海といえどもできなかったと思います(むろん嵯峨天皇などから寄付してもらえば別ですが彼は拒否していたと言われています)。

 

そうすると、場所を選ぶとき、まず用材が大量にあって困らないところ、それが高野山だったのではないかと思うのです。水はたしかに重要ですが、当時は一定程度の水の確保は山の中であればさほど困らなかったと思うのです(その後の大規模化まで考えれば別ですが)。

 

屋久島の屋久杉も、戦後のある時期までは大量に切られています。あれだけの巨木は寺社建築にはとても有用でしょう。高野山もそうだったのだと思うのです。

 

開基後なんども火災で全焼したりしていますが、原生的な巨木が大量にあったから、復興が容易だったのではと思うのです。

 

ただ、植林がどの程度行われていたかというと、少なくとも明治以前は疑問があります。江戸末期に作成された紀伊国名所図会では、高野山の当時の状態がかなり正確に描かれていますが、まさに裸山同然です。それは高野山に限らず、維新前後に訪れた多くの西欧人による写真や絵で日本全国がそういう状態だったことが示されています。私が一時住んでいた鎌倉も今は木々で鬱蒼としていますが、維新前後の鶴岡八幡宮の背後の山は裸同然でした。大佛次郎などが景観保全を訴え伐採阻止運動を繰り広げたその裏山が維新当時はひどい状態だったわけです。

 

それは用材としても燃料としても人家に近い山の木々は有効に使われていたからです。高野山の寒い冬を、良寛さん流に、寒さを耐えるほどの僧侶がどれだけいたでしょう。当然、高野山が裸山同然であってもだれも不思議に思わなかったのです。

 

維新の時、高野山の所領3000ha?が全部没収されたことは記録に残っていますので、高野山としては檀家制度も廃止され、経済的に困ったと思います。それで苦肉の策として、山林経営を経済的な基礎にしたのではないかと愚考するのです。最終的には保管林として、国に没収された山林も経済林として、植林して林業収入を上げて、高野山経営を成り立たせた主要な一つになったのではと思うのです。

 

とはいえ戦時中は国へ燃料不足を補うため木材拠出が強いられたという記憶ですし、また高野山に住む人の燃料としても使われ、戦後は裸に近い状態ではなかったかと思うのです。

 

それから林野庁の拡大造林政策にのり、スギの大量植林を全山で行った結果、ちょうど伐期の樹齢70年とかになっている林相が多いのではと思うのです。

 

この高野山の森林のことと、プレートテクトニクス論でどのようにして高野山系ができあがったのかは、まだだま皆目わからない問題ですが、徐々に問題に近づいていきたいと思っています。

 

いつの間にか2時間近くになってしまいました。中途半場ですが、今日はこの辺でおしまい。