たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

水と物質の循環 <シーカヤックで和歌山・湯浅湾を拠点に活動する平田毅氏の視点から少し考える>

2017-10-05 | 心のやすらぎ・豊かさ

171005 水と物質の循環 <シーカヤックで和歌山・湯浅湾を拠点に活動する平田毅氏の視点から少し考える>

 

昨夜、BS日テレの「深層NEWS」に五木寛之氏と僧侶で宗教学者の釈徹宗氏が登場して、「多死社会」の老い・病・死をテーマに語り合いというか、むしろ五木流の緩やかで含みがある生き方論を展開されました。孤独死が問題にされる中、孤独こそ大切と強調されました。世の中のさまざまな情報から、むろん人間関係からも一端遮断された孤立した中でこそ、自分という存在と対峙でき、生死も、自分自身も考えることができるのではないかと私自身思っていますが、そのような趣旨の発言をされていたかと思うのです。

 

五木氏の作品は、親鸞や蓮如などの宗教的色彩の小説などの書物しか読んだことがないので、五木氏が人気を博した著名な小説はまったくといっていいほど知りません。でもラジオ深夜便での語りも長いこと聞いていましたし、五木氏の思想なり考えの影響も少しはうけているかもしれません。

 

ここのところ生死の話が多かったような気がするので、今日の話題はシーカヤックにしようかと思います。残念ながら毎日和歌山版に掲載された平田氏による記事・写真は、今のところウェブにアップされていないので、記事を参考に、私の思いを語ってみようかと思うのです。

 

平田氏は世界各地をカヤックで旅を重ねてきた海洋冒険家です。以下は彼の主催するアイランドストリームのウェブ情報から入手したものです。

 

平田氏は<身体一つで地球の鼓動を感じる「プラネット感覚」>の旅をしてきたのです。それは海岸線をシーカヤックでパドリングしていると、ダイナミックな岩肌、洞窟、さまざまな岩がむき出しになっていて体感できるからでしょう。

 

そこには、いくらリアス式海岸やフィヨルド渓谷の景観美が目の前にあっても、観光船などでは絶対に味わえないものがあるのです。水面からはトビウオどころかさまざまな魚が手に取れるところにあるだけでなく、体にぶつかってもくるのです。水面下も素潜りするような感じで、岩礁も魚介類、も類などが一体感となって迫ってくるのです。

 

海のまっただ中までいけば、強い流れの海流がまるで川の奔流のごとく、ジェットコースターのごとく、流れています。それもまた地球の鼓動の一つかもしれません。

 

平田氏はいま和歌山・湯浅湾を拠点にツアートリップを営んだりしているようですが、その湾内にある黒島の洞窟について、次のように地球進化の歴史体験を見事に語っています。

 

「貫通した穴、袋小路の空洞、予期せぬ場所から抜け出せる迷路、差し込む光が神秘的に内部の海水を照らす通路などなど。・・・その中に身を置く間隔は独特で、岸壁の神々しい重厚感が心身に響く。・・・ここは約4億年前の地質であり、気の遠くなる年月を経た風格が、シーカヤックという敏感な乗り物を通すことによって、我が身にずっしりのしかかってくる。」

 

このような見方は、野田知佑さんの描いたカヌー感とも、ケネス・ブラウワーの『宇宙船とカヌー』とも、異なる視点かなと思うのです。

 

プレートテクトニクスの考え方が急速に普及し、NHKなどの放送で地質・地形の見方が普通の人でもある程度わかるようになったことも影響あるのでしょうか。うれしいことです。

 

とりわけ日本の海岸線はまさにプレート同士が衝突し、海底深いプレートの下に潜り込んで行っている場所ですから、その衝突の結果や持続している状態が如実に見ることができるのですね。

 

水は海から蒸発して水蒸気となり、凝固して雲となり、風で陸に運ばれ、雨となって降下し、高い山々に降った雨は川や滝となって下っていき、再び海に集まると行った水循環はよくいわれる話ではないかと思います。もう一つのルートはまさにプレートテクトニクスとプルームテクトニクスではないかと思うのです。プレートはプレート下のマントルに落ち込んでいくのですが、そこには堆積した物質とそこに含有する水分も含まれているのだと思うのです。

 

それが火山活動によって、プルームとして地上に噴出する物質とそこに含まれる水分が物質と水の循環のルートになっているのではないかと思うのです。

 

このあたりになると素人の生知恵ではいい加減となってきました。せっかくの、カヤックトリップによって「悠久の地球時間が体の芯を通り抜けてゆくひとときが味わえる」という平田氏の美しくも荘厳な表現力をおとしめてしまいそうです。

 

今日はこの辺でおしまいです。