たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

指導のあり方 <福井・中2自殺 怒声、身震いするほど ・・・>を読みながら

2017-10-17 | 公共事業と多様な価値

171017 指導のあり方 <福井・中2自殺怒声、身震いするほど ・・・>を読みながら

 

情報が多いのでどうも記憶がはっきりしていませんが(ただの高齢化でしょうね)、数日前のTV放映で、たしか高校野球の名門指導者の声を拾っていました。インタビューアーは東大野球部でもピッチャーをやっていたという大越NHK元キャスター。

 

大越氏いわく、以前は指導者が一方的に指導して、練習量を増やすことが中心で、いわゆるしごきが当たり前だったというのです。同年代の広島で活躍した小早川元選手も同感といった感じでしたか。

 

私はへたくそな高校球児で、彼らよりはさらに古い世代です。もう監督が一方的に練習メニューを用意し、ノックは本数を増やすことが中心で倒れるまでやるといった感じでしたか。さらに先輩からは一人のミスが出れば全員に「けつばん」といって、バットでおしりを打たれるなど、いろいろしごかれました。個々の選手が自主的に考えてといった雰囲気はゼロでしたか。

 

ただ、別のチームのピッチャーと同じ電車で通っていたことから、少し先輩で甲子園でも少し活躍した人でしたが、彼は自分でノートを作り、自分なりに日々どんな動きが必要かとか、自分のフォームなども描いているのを見せてくれアドバイスしてくれたのをいまでも覚えています。そんな風に自分で考えて練習するんだととても印象的でした。が、自分のチームではただただ一年休みなしの量だけの練習といった感じでしたか。そしてどなることが当たり前でした(監督は殴ると言うことはなかったかもしれません、当時としては珍しかったかも)。先輩からのしごきもかなりきついものでした。

 

でも当然ながら、最近は様変わりしつつあるようです。その番組で紹介されたのは、とりわけ強豪校の履正社、広陵?、早稲田?だった記憶です。履正社だけ覚えていますが、球児が自主的に練習を始め、自分で考えてやっているというのです。ノックも、決まり切ったルーティンで同じことをするのではなく、実践を想定した場面にその都度切り替え、それに応じた対応を瞬時に求めるものでした。たしかに自分で反射的に考える必要があるのはわかります。でもほんとうに自分で考えて練習していると言えるかとなると、若干、疑問があります。練習のあり方、ノックの仕方についても、生徒から監督に提案するなどができるとか、より自主性が生まれるのではないかと思うのです。

 

他方で、筋トレとかどの筋肉を強化する必要があるかとかについて、トレーナーなど専門的・科学的なアドバイスに基づき、練習をする傾向にあるようですが、これこそ望ましい方向ではないかと思うのです。ただ、しかったり、どなったりするのではなく、その指導が科学的な知見を基に、適正に個別的に行うことが求められているのだと思います。むろん一般の学校ではそのような費用を用立てることは容易でないとしても、それが子どもの将来に有効なものだとすれば、両親などが経済的な支援をすることに躊躇しない可能性が大ではないかと思うのです。

 

と、見出しのテーマと関係ないような話になってしまいましたが、通常の学校教育においても同じ精神というか、指導の基礎が必要ではないかと思うのです。

 

新聞記事だけでは、正確に事実関係を踏まえることができないことを前提にしつつ、少し記事を基に議論してみたいと思います。

 

事件は<福井県池田町の町立池田中学校で今年3月、2年の男子生徒(当時14歳)が飛び降り自殺した問題>です。<有識者による調査委>が調査した結果、<担任教諭が男子生徒を叱責するのを目撃した生徒らが「(聞いていて)身震いするくらい怒鳴っていた」などと話していることが分かった。>として、この点について、委員の一人である<松木健一・福井大大学院教授(教育心理学)は15日の記者会見で「他の子がいる中で叱るのは指導の範囲を超えている」と批判した。>ということです。

 

叱ることも指導の一方法だと思いますが、その叱る理由、しかり方、TPOなど、とても大事なことですが、残念ながら教師の中にはこのことの適切な方法を理解できていない人が少なくないのかもしれません。

 

いや、そういう私自身、怒ること、叱ることは、17条憲法で聖徳太子(一応実在説に立てば)がしっかりと慎むこと、強いて言えば禁じ手であるかのような定めをしていることを常に意識していますが、なかなか人間、その域に達するのは容易でないですね。

 

ただ、教師は、生徒という大勢のいま成長期にある子どもを教育指導する立場、職業に就いている専門家といってよいでしょう。となると、常にこの指導方法は適正に行うことを生涯を通じて習得していく必要があるように思うのです。

 

ましてや、叱られた生徒が、自殺するような事態に陥ることを絶対に避ける必要があるでしょう。

 

記事によると、調査結果では<担任は30代男性で、副担任は30代女性。男子生徒は2人からしばしば叱責されていた。2年生後期から生徒会役員になったが、昨年10月、マラソン大会の準備が遅れたことを理由に担任に大声で叱責された。目撃した生徒は調査委に「身震いするくらい、すごい怒鳴っていた。かわいそうに感じた」と証言した。>とのこと。

 

このときは、叱責の理由は<マラソン大会の準備が遅れた>ことです。それが他の生徒、教師が聞こえるほど<「身震いするくらい、すごい怒鳴っていた。>というのです。

 

これだけとってみると、叱った副担任の弁解を聞く必要があるものの、やはり準備が遅れたことについて、人前で譴責する合理性があるか、しかもそばにいる生徒が怖がるほどというのは、まさに家庭内DVに匹敵する暴力ともいうべき行為で、指導の限度を超えていると言わざるを得ません。

 

ところが、いまなお、このような指導という名前での叱責がまだ行われていることを仄聞します。私自身、半世紀前の世界ですが、当時は割合当たり前だったように思うのです。でもそれが自由な心の育成や、子どもの健全な心の形成には有効でないことは常識になっているのではないでしょうか。

 

教師の叱責は、繰り返し行われていることが指摘されています。

<更に担任が今年1~2月ごろ、職員室前で叱責した際「お前(生徒会を)やめてもいいよ」と発言。同2月上旬には生徒会主催の行事で忘れ物をしたことを大声で叱責した。目撃した複数の生徒は「言い方がひどかった」「(男子生徒は)下を向いて暗い感じだった」などと証言した。>

<昨年11月、副担任から宿題を出していない理由を問われ、生徒会や部活動のためだと話した。副担任が「できないならやらなくてよい」と言うと、「やらせてください」と土下座しようとした。自殺前日にも副担任から宿題のことを聞かれ、過呼吸を訴えた。>

 

もう一つ重要な事は、教師が叱責する場合、生徒がどのような反応をするか、しっかり受け止めているか(場合により愛の鞭になりうる可能性も否定しません)を注意深く見ているかが重要ではないかと思うのです。とくに自殺前日は、過呼吸を訴えているにもかかわらず、副担任は、それにどう対応したのでしょうか明らかでありません。校長など上司に報告して対応のアドバイスを受けることも必要でしょうし、とりわけ両親には報告すべきことではないでしょうか。いや、それ以前の段階で、それぞれの叱責について両親に話をする必要があったかもしれません。叱責と生徒の反応をどうみたか、調査結果が記事となっていないのでわかりませんが、調査もその点を大事にしてもらいたいですね。

 

そして生徒の様子を注意していれば、より早い段階で生徒の異常に気づくことができた可能性があります。過呼吸に至ったことは緊急事態との意識がなぜ生じなかったのか、教師の指導方法というより、教師の生徒に対する姿勢を根本的に見直す必要があるのではないでしょうか。

 

すでに一時間がすぎました。今日はこの辺でおしまいとします。中途半端はいつもながらですが。