たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

森林環境税について <日本には数多くの放置された森が…「森林環境税」で整備へ一歩>などを読みながら

2018-03-31 | 農林業のあり方

180331 森林環境税について <日本には数多くの放置された森が…「森林環境税」で整備へ一歩>などを読みながら

 

今日もあれこれと雑用をしているうちに夕方が過ぎました。本日のテーマを考えてみたのですが、どうも気持ちが乗らない日が続きます。こういうときは休養も大事かもしれません。といいながら、千日回峰行にならって、それを実践することはできないですが、ブログくらいならなんとかなると思い、始めたわけですので、そうやすやすと休むのもどうかと思ってしまいます。ま、自分に課したテーマですので、今日もなんとか終わらせようと思います。

 

才蔵をテーマにしようかと思いましたが、今日はなんの考えも浮かばず、自宅前の貧相なスギ・ヒノキの混交林を見ながら、山林問題にしようかと思いました。周辺の山林を含むわが国の多くの山林は広大だけど、長く放置されていることはなんどか取り上げました。その解決策もまた、いろいろな議論を重ねてきたと思います。そのうちの一つ、森林環境税も、20年くらい前くらいから相当議論されてきたと思います。

 

和歌山県をはじめ相当数の自治体では独自に名称はいろいろですが、森林保全目的に類する目的の税制があります。しかし、ようやく国税として森林環境税がほぼ新設されることで決まっていて、東北大震災の復興税の期限が切れた後の24年度から施行される仕組みが整ったようです。ただ、自治体の要望が強いためといった理由で、19年度から前倒しで実施されると言われています。

 

ではその森林環境税とは何か、実のところ、調べたことがなかったので、さきほどネット情報を少し入手しました。一つは林野庁長官からのヒアリングを記載した<日本には数多くの放置された森が…「森林環境税」で整備へ一歩>です。これは日刊工業新聞社系のニュースウィッチです。

 

まずは、森林環境税についての解説がありますので、これを引用します。

<森林環境税とは】

国が市町村経由で徴収し、私有林人工林の面積、林業就業者、森林率に応じて譲与税として自治体に配分する。24年度は300億円、33年度は600億円。

19年度から23年度までは、森林環境譲与税から譲与する。早期対策が必要なことや、新たな森林管理システムが始まることから、森林環境税に先行して実施する。>

 

沖修司長官の話ですが、この新税の背景について大量の植林が伐期を迎えているのに管理されず放置されていると、何十年にわたって問題にされてきたことを繰り返しています。

 

管理されない理由については小規模所有山林の問題と<木材価格が安い。零細な所有者ほど自分たちで伐採、植林しようという意欲が湧きにくいのが現実です>と、これまた私の理解では30年前と同じような見解かと思われます。

 

ただ、戦後の拡大造林で大量に植林した木々が伐期を迎え、いやすでにかなり過ぎた木も相当あると思われますが、採算性や所在・境界不明などの理由で、ますます放置されている現状は深刻かもしれません。

 

また最近の事情として、<幹が太くなると、柱など通常の木材製品よりもサイズが大きくなりすぎます。のこぎりを入れる部分が増え、歩留まりが悪いです。また、現状の製材工場では太い木を加工できる設備が少ないというハード面の制約もあります。ですので、適当な太さで主伐した方がよいです。>というのも、旧態依然の生産流通体制を改善できていない結果と批判されても仕方がないかもしれません。

 

所有者の問題もあるでしょう。長官曰く<将来の財産になると思って何十年も前に植林した所有者にも、「売れない、切れない」と困っている方がいます。先祖から受け継いだはずだが、所有林の場所がわからない方も少なくありません。住んでいる市町村から森が離れており、管理できないという所有者もいます。>といった事情も増大しているでしょうね。

 

むろん林野庁もこれまで等閑視してきたわけでなく、さまざまな制度新設で対応する努力をしてきたといえるでしょう。長官が指摘する<管理が難しくなっている人工林を市町村が預かり、林業経営者に貸し出すのが森林バンクという考え方です。意欲と能力のある林業経営者と、森林を“つなぐ”システムです。

 所有者や境界線の情報を載せた「林地台帳」の整備も進めます。台帳も見ながら所有者に預ける意思があるかヒアリングできます。>

 

森林バンクとか、林地台帳とかは、それ自体、活用されれば、相当な機能をもつことが期待されるのですが、実際、遅々として進んでいない印象をもっています。

 

林地台帳が整備されている森林は、全国でどのくらいの割合でしょうか。むろん林地台帳自体はどこにもあるでしょうけど、その台帳記載の林地が所有者を特定し、林地の位置・範囲・林種・林齢などが明確になっている割合となるとかなり低いのではないかと思います。東北大震災のとき、仮設住宅建設や、高台移転の場所として、林地を想定したのはいいですが、この問題がかなりネックの一つになり、なかなか計画の進行が進まなかったというのは理解できます。

 

上記の小規模林地の集約とか、バンキングとか、林地台帳の整備推進とかは、どうなっているのでしょう。話題は森林環境税に移っています。

 

長官は、森林環境税の使途について、<長年、森林を育てる段階として、間伐などの森林整備のために補助金行政を続けてきました。補助金と間伐材を売った利益で収支トントンとなります。しかし補助金があっても、採算ベースに乗らない森林もあります。そうした森林も健康な状態に再生し、林業が成り立たない場合、森林は、将来できれば天然林に戻せないかと考えています。適正な管理がないと地球温暖化対策もできません。>と述べて<

新税は採算ベースにのらない森林の手入れから使います。新税の創設で、補助金とは違う方法で森林整備ができる道が開けました。>と二本立て行政を行うと述べています。

 

そもそも補助金行政で行われてきた間伐事業自体、採算性が実質的には厳しい状況のため、事業遂行自体が容易でないのが実態ではないでしょうか。採算ベースに乗らないような森林の場合、余計困難にならないか心配です。

 

国民一人あたり1000円の課税負担を仰ぐことから、都市住民など森林と関係ない?と思っている人たちの不満などについては、<森林整備は国土保全となり、災害から下流域の都市部を守る効果も期待できます。

 水災害や土砂災害対策、さらに二酸化炭素(CO2)吸収対策は山村域だけでなく、日本全国の利益となります。この点でもご理解いただいたのではないでしょうか。>

 

もし長官の説明通りであれば、より明確に災害防止対策(現在も治山事業として林野庁の補助事業にありますね)やCO2吸収源としての評価に適する事業内容や要件を明確にすべきではないかと思います。

 

林業の構造改革的な側面では、長官は<主伐に視点を置くため、高額なA材を切り出せる森林が増えます。A材(注)を安定供給できると、非住宅にも木材の用途が広がります。JAS材として構造計算ができる材になれば付加価値がつき、公共施設、倉庫など非住宅用途にも広がります。川上から川下までつながり、林業の成長産業化ができます。>と述べていますが、それは森林環境税だけで対応できる話ではないですね。

 

だいたいこれまでもA材以外のB,C材も付加価値をつけたり、あるいはバイオなど用途拡大を図ってきたと思うのですが、常に大きなネックを抱えてきたのではないでしょうか。

 

林業の生産・流通・加工・消費の透明化、人材・資材評価の合理化、などなど多くの問題も解決されないまま、AIITなどの最先端技術の導入も、一部のみで、全体に染みわたる状態になるには、なにかが欠けているように思うのは私だけではないでしょう。といって森林環境税そのものに直ちに反対するわけではありませんが、受け入れる体制をしっかり整備しないと、長野県の大北森林組合のような不正処理状態は一部の問題に終わらないように思うのです。かえって国民の信頼を裏切ることになりかねいないとさえ懸念するのです。

 

この点、森林ジャーナリストの田中淳夫氏は、<森林環境税の虚実~環境より林業振興?>というタイトルで、疑問を投げかけています。

 

田中氏はすでに<自治体が独自に創設した税金の形で存在するのだが、37の府県が導入している。>ことから、今回の森林環境税により二重課税になる旨糾弾しています。

 

さて、そう簡単にいえるか、それぞれの課税種類、目的税かどうか、使途内容などを検討する必要があると思います。私はまだ検討できていませんが、既存の自治体税とは調整可能ではないかと思います。むろんそれぞれの税金の正当性が問われる必要はありますが。

 

田中氏が指摘する使われ方でやり玉に挙がっている長野県のケースは私も同感です。

<たとえば長野県は「長野森づくり税」を2008年度から設けているが、5年ごとに見直しを行っている。今年度で2期目の施行期間が終わるため税制研究会に諮られたが、そこで指摘されたのが実質8億円の残高を抱えていることだった。年間約7億円の収入があるが、使い切れずに基金に積み立てていたのだ。>基金積み立てに合理的な理由があれば別ですが、単に利用されないで残るのでは困ったものです。

 

ましてや不正受給に使われるようなことであれば、その管理がいい加減との誹りもやむを得ないですね。

<昨年は大北森林組合が不正受給した2億円の補助金に、この森づくり税も含まれていたことも発覚して返還を求めている。>

 

田中氏の文章は、有料会員でないと全文読めないので、具体的な批判の内容はわかったわけではありませんが、こういった批判は十分に対応できるだけの管理運営をしてもらいたいですね。

 

なお、総務省自治税務局が昨年10月作成した<森林環境税(仮称)の検討状況について>は、その概要を理解する一つになるかと思いますので、参考に引用しておきます。

 

今日も取って付けた話題となりました。本日はこれにておしまい。また明日。 


人というものの複層構造 <NHK 草彅剛の“ニュースな街に住んでみた!>を見ながら

2018-03-30 | 戦争・安全保障・人と国家

180330 人というものの複層構造 <NHK 草彅剛の“ニュースな街に住んでみた!>を見ながら

 

数日前でしたか、中国の山間地にある村人の集団移住を描いたNHK番組を見ました。途中から見たので、なぜ、どのようにして集団移住が決まったのかはわからないまま、決まった後の場面を見ました。ある集落では一人だけ残され全員が移住することになり、みんなでバスに乗って、真新しい分譲地に向かいました。外観は立派ですが、内装・設備はかなり時代遅れで、これが中国の一面かなと思いました。それは氷山の一角でした。集団移住した彼らには仕事がないに等しいのです。なんと学校にも行っていないため、自分の名前も書けない、数字もわからない状態でした。これでは都市住民が成長を謳歌して内外で派手な生活をしているのとの大きな落差を感じてしまいました。

 

30年近く前だったでしょうか、東北部に取り残されていて帰国した日本人家族の事件を担当しましたが、そのときその村での生活実情を聞いたとき、戦前か維新前のような暮らしぶりと、生活意識に驚きましたが、TVに映っている移住民たちもさほど変わっていない様子でした。中国の成長は、都市部だけであって、地方ではまったく異なる文化・文明状況に閉じ込められているのではと思ってしまいました。

 

このときは眠気を催しながら、ついつい見てしまったのですが、内容が曖昧ですので、再放送があれば見てからこんど取り上げたいと思います。

 

このような中国の中にある格差、それは都市圏内にもあるでしょうし、その格差構造は複雑に入り組んでいると思われます。多民族国家である中国について、TVニュースで一面だけ見ても到底理解できるものではないでしょう。それでも一つの事実を知ることは、違った見方ができる一つの要素として重要だと思うのです。

 

そんなことを昨夜見たNHKの<草彅剛の“ニュースな街に住んでみた!>でより強く感じさせられました。

 

草薙氏と柳澤NHK解説者?とのソウル市内でのアパート同居生活は、短期間ながら、韓国人の一面を見るのに、いい内容を提供してくれたと思います。

 

ソウル市というか、韓国には一度も訪れたことのない私としては、とても興味深い内容でした。これまで隣国である韓国へは、なんどか誘いを受けながらも、あまり興味を抱くことがなかったため、足を踏み入れないままでした。当地にやってきて、古代の朝鮮に興味を抱くようになってからは、行ってみたい国の一つになったのですが、飛行機に乗ること自体億劫になってしまい、いまではTVで他人の視点で見るだけでも満足しています。

 

ソウル市の中心街などは時折、TVで放映されているのを垣間見ますが、都市化しているためか、あまり大きな違いというか、特徴を感じることができないことが多いです。

 

ところが二人が選んだ場所は、その市街地の外れあたりにある、高台でした。かなり古そうな住宅街の中に、二人が選んだアパート?はきれいにリフォームされたのでしょうか、都会的な内装で、しかもリビングの窓からはソウル市街が一望できる一等地のような眺望を堪能できるところでした。

 

しかし、それはその部屋だけが都会的センスをもっているように思えました。周囲はソウルの異なる雰囲気を残していました。多くの住民は、朝鮮戦争で故郷に帰ることができなくなった元北朝鮮の人、北朝鮮から逃れてきた人などで構成されているようです。

 

草薙氏は10年以上前に韓国に滞在し、韓国語もある程度話せ、彼のことを知っている人に呼びかけられるほどでした。それでも北朝鮮と関わりのある人と接触するのは初めてだったのでしょう。柳澤氏は通訳付きで取材に取り組んでいました。北朝鮮から逃れてきた人などが通う教会に入り、その中で、80代の女性二人が戦時中の写真が自宅にあるので、それを見せながら話す約束を取り付けたようです。ところが、その後断りの電話が入りました。それは日本のテレビ局の取材に応じて戦時中の話をしてそれが放映されたとき、どのような批判の声が上がるかわからないといった忠告があったようです。

 

TVの前に現れる韓国人の多くは、占領時代の日本人の悪行を取り上げて批判するのが当然のようになっていますね。それが韓国人すべての考え方というより、ごくわずかの人が仕向けているのかもしれません。その実態はわかりませんが、次のエピソードなどはそう感じさせるものでした。

 

二人がその町中を歩いていて、ドアが開いているビルの一角に入っていくと、年老いた女性たちが集まってなにかをやっていました。二人が挨拶をすると、険しい声で日本人批判を何人もがしていて、とてもその場にいられないような状態でした。ところが柳澤氏が一人に話しかけると、普通に話しをして、批判の声もおとなしくなりました。そして別れ際、おそらく批判していた人でしょう、日本人が嫌いではないとも言っていました。

 

TVなどの前では、占領時代の日本人への批判をしないと、かえって仲間から、あるいは韓国人の多くから非難されることをおそれているように思えるのです。

 

むろん戦時中の非道な行為の責任について、国家間での協定で解決済みというのは、国民一人ひとりとしては納得できないことも少なくないでしょう。傷つけられた心の痛手は生涯にわたって残るでしょう。

 

そういうことについては、私たち日本人も、自分が行ったことではないわけですが、国民として意識をもつ必要を感じています。とはいえ『帝国の慰安婦』で書かれたような、一定の客観的な事実に基づく主張であればきちんと受け止める必要がありますが、根拠の乏しい主張の場合は、敢然として議論する必要があると思うのです。

 

とはいえ、ソウルの中の北朝鮮の人の立場も複雑でしょう。朝鮮の統一といいますが、朝鮮自体が元々、3つ、あるいは多数の国に分かれていた時代の方が長かったのではないかと思うのです。北朝鮮が領土とする地域は別の民族が長く支配してきたのですね。また、魏志倭人伝にも登場する楽浪郡は平壌を中心として、長い間中国の有力な地域として独立的存在を保っていたわけですね。

 

わが国の統一国家以前、その後の戦国時代といっても、朝鮮ほど異なる国の様相は経験がないのではと思うのです。その意味で、朝鮮というか、北朝鮮や韓国という国、人を理解するのは容易ではないとも思うのです。

 

といいながら、私は日本人の血には、朝鮮を中心に他民族の血が相当入っていると思うのです。律令国家を形成する以前にどのくらいの人が朝鮮半島から渡ってきたでしょう。その人たちの血は日本人と一体になっていると思います。というか、そういった血統といったものが歴史の変遷の中でどれだけの意味を持つのかも疑念を持ちたくなります。

 

でも私たちは、そういった歴史に刻印された記録(多くは国家が規定したものでしょう)によって人を見てしまう傾向を否定できないように思うのです。今回の二人の小さな旅は、ほんのわずかでも国家が作ってしまった刻印を薄めてくれて、人というものと対峙するチャンスを与えてくれたかもしれません。

 

イムジン川を歌った北朝鮮に故郷のある歌手、とても心に響く歌声でした。やはり歌って素晴らしいですね。

 

今日も脈略なく、書いてしまいました。おしまい。また明日。


墓石・墓地を考える <身じまい練習帳 新しい葬送のかたちを考えたい>などを見聞きして

2018-03-29 | 人の生と死、生き方

180329 墓石・墓地を考える <身じまい練習帳 新しい葬送のかたちを考えたい>などを見聞きして

 

先日、わが家の目の前に林立するヒノキの梢に停まった野鳥の同定ができなかったことを書きました。杉木立とつい滑ってしまいましたが、語感がいいので、そうなったのですが、あくまでヒノキです。目の前にあるスギとヒノキの混交林は、スギがまだ若木ですが、ヒノキは古木の外観です。といっても手入れをしていないためで、貧弱な様相です。

 

ともかくその野鳥の名前、今朝はっきりわかりました。お腹がしっかり赤茶に見えていまして、アカハラかなとか思ってしまいましたが、濃紺の背広を着ていますので、つまりイソヒヨドリでした。隣の家の電線に止まっていたのではっきりわかりました。それで今度は、わが家の前のヒノキの梢に飛んできたので、こんどはばっちりと確認できたのです。

 

仕事が一段落して、ぽかぽかしたいい日和でしたので、近所の墓地を少し散策しました。実は、事件の関係者の墓石があり、どんな状態かを確認する意味もあって出かけたのです。ところが、依頼人から聞いた場所がよくわからず、墓地内をうろうろしてしまいました。

 

ちょうどそのとき石屋さんがきていて、ある墓地区画に小さな穴を開ける作業をしていました。以前あった墓石を除去して(改葬か、墓じまい、なのか?)、新たに墓石を準備しようとしているのでしょうか。以前、墓地のそばに経っていた巨木を伐採した際、誤って墓石の方に倒れたため、墓石の一部が損傷した事件を引き受けたことがあり、いろいろ墓地について調べたことがありますが、建立場面を見るのはあまり経験がありませんので、本来の墓石探しをしながら、その作業を見ていました。

 

ともかく本来の墓石を発見しました。さすがに彼岸の季節ですので、たいていの墓石は生花などが活けられていて、華やかでした。が、当の墓石は、壊れた容器が墓石の上に置かれてあったり、相当以前に活けたと思われる枯れ果てた跡が残っていて、長く供養に来ていないことが一目瞭然でした。

 

そして竿石には、故人の戒名・俗名が彫られているわけですが、建立者である両親の名前があるのみで、その子息2人も亡くなって10数年経過しているというのに、名前が彫られていません。竿石に彫る場所がない場合、霊標を新たに建立してそこに彫ることも一般に行われていますが、それもありません。

 

通常、墓に納骨すると、その戒名が竿石あるいは墓標に彫られるわけですが、これらがないということは一体、どういうことでしょうと思ってしまいました。子息は、一人は障害のある長男で、もう一人は跡を継いだ三男で、妻がずっとすぐ近くの自宅に住んでいたというのに、どういうことかと思ってしまいました。

 

両親は、障害のある長男が一人では生活できないことを心配して、全財産を三男に残し、長男の世話を任し、残りのきょうだいしまいはそれを承諾したのですが、三男は金遣いが粗く、ほとんどの財産をなくしてしまい、一時は自宅にも住めない状況で、妻とも離婚して子供も一緒に出て行ったのです。

 

それでも他のきょうだいしまいの支援で借金を返し、なんとか自宅に住み、後妻と暮らし、長男の世話もするようになりました。しかし、亡くなったときはほとんど財産が残っていませんでした。

 

その結果でしょうか、墓地も見捨てられたような状態です。かなりの土地を保有していた両親としては、墓地を建立し、永く世代継承されることを祈ったのでしょうが、なかなか思い通りにならないものですね。

 

と前置きが長くなりましたが、毎日記事<身じまい練習帳新しい葬送のかたちを考えたい>は、長らく錬成していた最後のものです。

 

<栃木県鹿沼市・・・珍しい土葬具>や<熊本県人吉市・・・無縁墓><石川県輪島市・・・火葬場で出る残骨灰の供養会><中国の新しい霊園>などを多くを見てきた<社会部編集委員・滝野隆浩>は最後に次の言葉を残しています。

 

<「墓も葬儀も要らない」でいいのかどうか。みんなが得心する社会の規範のようなもの、新しい時代の、新しい葬送のかたちについて、私はもっと考え、議論していきたいと思っている。>

 

私も四半世紀前から、いろいろな葬送を見聞きしてきました。中国も含め外国も。なにが誰のために必要かは、それぞれが考えていくべきことでしょう。と同時に、自分の葬儀・墓については、自分なりの意見を持っておくべきと思っています。私は、四半世紀前以上まえからほとんど気持ちが変わっていません。何を見てもその考えに今のところ影響がないようです。

 

自分一人を考えてみれば、亡くなった後に行われる葬儀を含む葬送は、この世に生を受け、一生を送らせてもらった自然に最も敬意をもちたいと思っていますので、その天地自然にできるだけやさしくありたいと思うのです。それは生きているときもそうですが、死んだ後はとりわけそうあるべきとおもっています。といって亡くなった段階では自分は何もできません。

 

仮に行方不明になったとしても、遺体を探したりする必要性はまったくないですし、そのような費用があればより救われるべき人・ものに使われるべきと思っています。

 

私には墓地も墓石もいらないのです。葬儀も不要です。むろん延命措置なんてことはわたしにとって無用の長物です。長生きを希望するか、そんな気持ちもさらさらありません。ただ、天から授かった命、できるだけ大事にしたいとは思います。自然の寿命を感じて、空海のごとくにはいかなくても、自ら死を受け入れることこそ本望ではないかと思うのです。

 

死をタブー視したり、そのことを考えるのを避けたいなんてことは私には理解できません。とはいえ、理解しようと努力はしますが。遺言は相談があれば一応、おすすめしますが、私からするとたいした意味がないと思っています。仕事上、なんども関係してきましたが、それ以上に大切なことは生死の決定や死ぬ前にすることではないでしょうか。むろん死後に問題が生じる可能性があれば、その配慮が必要でしょうから、遺言書も意味がないとはいえません。それより子育て力を注ぐのが本論でしょう。といってもお金や地位があり継承問題があれば、どんないいきょうだいしまいでも、争うことを見てきた身としては、これが世の中かもしれないと思ってしまいますが・・・

 

どんどん脈略がなくなってきました。今日はとくに書く話題がなく、安直にほんとは重要な問題であるのに、取り上げてしまいました。もう時間となりました。

 

本日もまた中途半端ですが、おしまい。また明日。

 

 


トラック運転手の今 <はたらく トラック運転手 超激務>や各種法制度などを読みながら

2018-03-28 | 働くことを見直す

180328 トラック運転手の今 <はたらく トラック運転手 超激務>や各種法制度などを読みながら

 

わが家の庭先に見える桜並木はあっという間に満開に近い状態になっています。分譲地の斜面上にあり、花見の席としてもよいのんびりとしていいと思うのですが、酔狂と思われるのか誰もいません。

 

どうも日本人の多くは人が行くところを好むようです。人をかき分けて進むとか、花見の席を競い合うとか、行列が長いほどよいと考える人が多いようですね。私は天邪鬼なのでしょうか、ターナーの絵画を見たいとは思っても、大勢の中ではさすがに興ざめします。このブログもずっと少人数が訪問されているようで、マイナーな状態がちょうどよいようです。ま、こんな勝手なことを書いて文章だけだと、読むだけで気力がいるでしょうね。

 

それはともかく、昔、『浮浪雲』(はぐれぐも)という漫画を長く読んでいたことがありました。主人公は、女性のような仕草、着物を着て、日々気ままに暮らして過ごしているのです。まさにはぐれ雲です。ところがその彼が一言声をかければ、東海道中の雲助がはせ参じるというのです。その彼は女性のようになよなよしつつ、必要なときは見事な太刀さばきでどんな使い手にも負けない腕を持っているという人物設定です。

 

で、これがトラック運転手とどう関係するのか、それは私の勝手な当時の思い込みみたいなものです。たしか同じ頃、菅原文太主演のトラック野郎といった映画がはやっていたと思います。菅原文太自体は割合好きな俳優ですが、この映画は見たことがありません。ただ、トラック運転手というものになにか魅力を感じていたのでしょうか。

 

他方で、一匹狼みたいな、あるいは勝手気ままに仕事や遊びをしているような一方的な印象もありました。それがもし力を集結すると多大な力になるのではないかと勝手な推測をしたのです。たとえばはぐれ雲の主人公が一声かければ(おそらくはある種の正義のために)、雲助が集団行動を行うように。

 

アメリカの場合、全米カヌー連盟が河川環境保護のために多大な力をもっていますね。それと同じような力をもちうるのでは、なんて夢想したのでしょうか。あるいは全米ライフル連盟でしたか、この絶大な力みたいなものを(この方は時代錯誤の銃規制反対を一貫しているので、こうなってほしくない他山の石ですが)発揮すると面白いなと思ったりするのです。

 

なぜトラック運転手にそのような期待をしてしまうのでしょうかね。トラックが後方につけたとき、自分が下手な運転をしても、彼らの運転なら追突の危険はないといった安心感を抱いたこともあります。高速道路を走っていたりすると、たいていのトラック運転手はトラック自体の危険性を熟知しているせいか、また、運転経験を重ねているせいか、あるいは、個人で事業を責任を持ってやっているせいか、周囲の自動車への配慮をするようにみえることが多いように見えるのです。

 

たしかアメリカでトラック運転手が車両を重ねて集団デモをしたことがあったように記憶していますが、もしトラック運転手が集結して、一定の主張を唱えれば、それが正当なものであれば結構意義のあることではないかと思ったりするのです。

 

さて前置きがどこまで続くかわからなくなりましたが、要はどうもトラック運転手によっては、とても危険な状態にあり、周囲で走行していても安心できないおそれがあるのかなと毎日記事を見て、改めて思ったのです。そして、その実態と背景を少し考えてみようかと思ったのです。

 

毎日記事<はたらくトラック運転手 超激務>では、<長時間労働が常態化しているトラック運転手。2016年度に労災認定された脳・心臓疾患の件数は、運送業が全産業で最も多い。>という過酷な状況にあることが指摘されています。

 

その実態のいくつかがドライバーの言葉で語られています。

<「睡眠時間は1日4~5時間。体がきついと感じるのはしょっちゅう」と話すのは40代の男性運転手。運転歴は約20年、10トンの大型車を運転する。「高速道路料金は会社であらかじめ決められ、それを超えた分は自腹になる。だから下道(したみち)を通る。休憩時間や睡眠時間を削り、無理をしてしまう」と打ち明ける。>

 

長時間、眠る時間もなく走り続ける実態が見えてきました。

<「夜中、パーキングエリアはいっぱい。到着時間に間に合わせるためにも、眠くても走るしかない」と話すのは40代の男性。休日は週に1日しかない。前日に岡山から積んだ荷物を関東で降ろし、新しい荷物を翌日の夜までに大阪へ届ける途中だ。「給料も日給部分があり、休めない」と言う。>

 

低賃金、長時間労働の過酷条件も数字で示されています。

<トラック運転手らでつくる産業別労働組合「運輸労連」(組合員10万4029人)によると男性トラック運転手の平均年収は423万6200円と、全産業平均より2割以上も少ない。一方で年間労働時間は、17%長い2544時間だった。>

 

規制緩和の結果競争が激化していることと、業界の超下請け構造も主要な原因といえるでしょう。

<こうした長時間、低賃金の背景を「営業区域の廃止、運賃などの規制緩和だ」と運輸労連の世永正伸中央副執行委員長は分析する。参入する業者が増え、過当競争が起き、また「荷主」の力関係が強いため運転手に負担がかかる。さらに業界の複雑な下請け構造が、労務管理を難しくさせている。>

 

標準運賃制や労働時間規制といった、最低限の規制の必要もいわれていますが、なかなかハードルが高そうです。

<トラック運転手の労働時間規制は現在、厚生労働省が定めた「改善基準告示」のみだ=表<上>。政府が今国会に提出を目指す、時間外労働の上限規制(罰則付き)を盛り込んだ改正労働基準法では、施行から5年間は人手不足に配慮し、適用除外となっている。>

 

記事では規制緩和として

<トラック運送事業法令の規制緩和結果

 事業の参入 免許    →許可

 運賃・料金 許可    →事後届け出

 事業の範囲 営業区域  →廃止(全国)

 事業の規模 最低車両台数→全国一律5両>

 

改善基準告示として

<「改善基準告示」の主な内容(トラック運転手)

 <拘束時間>1日13時間が基本、最大16時間

       1年間の合計が3516時間以内

 <休息時間>継続8時間以上または分割なら

       合計10時間以上

 <運転時間>2日を平均して1日9時間以内

 <休日労働>2週間に1回が限度

 

それぞれ規制緩和と、そのことによる悪影響の緩和策が講じられていますが、有効に働いていないのが実態でしょう。

 

上記の内容について、より詳細に厚労省では<トラック運転者の労働時間等の改善基準のポイント>で、わかりやすく解説しています。

 

しかし、このようなトラック運転手の追い詰められた労働状態は、単に労働時間の改善策では対応できないでしょう。取引条件の改善を持効性を持って図る必要があるでしょう。

 

この点国交省も一定の配慮をしてきたようです。

トラック運送事業者のための価格交渉ノウハウ・ハンドブック>を読むと、いかに下請法・独禁法に違反する取引条件が荷主側から強要されているか、わかります。

たとえば上記ガイドラインで問題として取り上げている次のような問いに当てはまる例は結構あると思われます。

1. 著しく低い運賃・料金を一方的に設定されていませんか?

2. 附帯業務の料金を運送委託者に負担してもらえていますか?

3. 有料道路の利用料金を負担させられていませんか?

4. 契約の内容を書面化できていますか?

5 運送委託者の都合で生じた追加運賃・料金を運送委託者に負担してもらえていますか?

6 燃料費・人件費の上昇分を適切に運賃・料金に転嫁できていますか?

7 労働時聞を守れない運送を強要されていませんか?

8 荷待ち時間への対策を講じてもらえていますか?

 

あの乱暴に見えるトラック運転手たちの多くは、厳しい低価格や過酷な取引条件のため、必死で一分一秒を争って先に進もうとしているのかもしれません。

 

より明確な方針としては<トラック運送業における下請・荷主適正取引推進ガイドライン>が参考になります。

 

少し疲れてきましたので、今日はこの辺でおしまい。また明日。


犯罪被害者の救済 <記者の目 道半ばの犯罪被害者救済>と<日弁連決議>を読みながら

2018-03-27 | 司法と弁護士・裁判官・検察官

180327 犯罪被害者の救済 <記者の目 道半ばの犯罪被害者救済>と<日弁連決議>を読みながら

 

今朝再びわが家から見える桜木を見ると、一本だけ三分咲きで、後は七分咲きと、淡い桃色がかった花びらが咲き誇っていました。そして和歌山まで往復しているとき、和泉山脈の麓がよく見えるのですが、桜木があちこちに点在していて、ほぼ満開の様子でした。

 

担当している刑事事件について昨日公訴提起があり、すぐに保釈請求したところ、今日保釈許可決定がされ、日本保釈支援協会の支援を受けて、裁判所まで保釈保証金を納付してきたのです。刑事事件が極端に少なくなり、久しぶりに担当し、それも数少ない保釈請求事案でしたので、事前準備よろしく対応しました。

 

最近はネットなどで、刑事事件専門とかをうたっている法律事務所に依頼するのでしょうか、あるいは当地は平和になって刑事事件がすくなくなったのでしょうか、後者のような気がしますので、いいことかと思っています。

 

ところで、弁護士というと、刑事事件の被疑者や被告人の弁護をする姿ばかりが目立ち、TV番組でも弁護士とはそのような仕事とみられている可能性があるかもしれません。

 

私の記憶するところでは、和歌山で起こったカレー殺人事件頃から、犯罪被害者のために弁護士が立ち上がり、その支援活動を次第に強化してきたように思います。最近は法制度も少しずつ整備されてきて、以前に比べると多くの弁護士が犯罪被害者のために活動する領域が広がってきたように思いますが、ま、なかなか認知されて亡く、緒についたばかりといった見方もあるでしょう。

 

さて今朝の毎日の記者の目では<道半ばの犯罪被害者救済 賠償の新たな枠組みを=袴田貴行(北海道報道部)>と、この問題のとくに経済的損害の回復という面に着目した記事となっています。

 

まず、制度はできたけど、成果が現れていないという問題点です。

<回収できないケースが大半>という見出しは、新しい救済制度の問題をデータを踏まえて指摘しています。

 

新制度は<凶悪事件の被害者や遺族が民事訴訟を起こす負担を軽減しようと、有罪判決を言い渡す刑事裁判の裁判官が被告に対する損害賠償請求も審理する損害賠償命令制度が2008年に導入された。>この制度自体は、わが国の法体系上、刑事裁判と民事裁判は別個の制度という仕組みの中で、画期的なものといえるでしょう。

 

ただ、私は35年以上前に起こったヨーロッパでの交通事故の事例で、イタリアでは刑事裁判と民事裁判が同じ法廷で審理されることを知り、当時から別々に審理するわが国の法制に改善の余地があるように思っていました。

 

被害者にとって、刑事裁判と民事裁判を別々に対応しなければならないのは、精神的にも肉体的にもきついことは明々白々です。交通事故でも死亡者の遺族は二度も審理を通じて苦しみを味わわなければならないのですから、つらいことです。

 

その意味で、08年の損害賠償命令制度の導入は望ましい前進であったと評することができるでしょう。なお、この制度については和歌山弁護士会の委員が<損害賠償命令制度の新設について>と題して解説していますので、興味のある方はクリックしていただければと思います。

 

記者がその制度の実態について全国調査した結果、<命令・和解額通りに支払われたのは9件のみで、賠償の回収率は22%。4割以上の24件は1円も回収できていなかった。加害者が収監されるなど支払い能力がなかったり、支払う意思がなく回収できなかったりするケースが大半だった。>

 

この制度の仕組み自体、本格的に争わない場合を想定していると思われます。この手続きに不満があれば、加害者側が異議を述べれば通常の民事訴訟となるわけで、ちょっと仕組みとしては脆弱ですね。

 

記事に掲載されている事案でも、行方不明とかで欠席判決であったり、上記のように元々お金がない、支払う意思がないので、争わず、命令なり和解なりが簡単に成立したのでしょう。

 

よくいう張り子の虎みたいなものでしょうか。こういったことは十分予想されるので、そういった手当を欠いている不完全な制度設計のように思えるのです。とはいえ、一部はこの制度で支払われたのですから、それなりに成果があったと見えるのでしょうかね。

 

しかし、犯罪被害者の気持ちを考えれば、費用をかけてこの制度を使っても、加害者のひどい仕打ちに二度被害を受けたような感じなってしまうのではないかと危惧します。

 

記事では、犯罪被害者救済のために、より実効的な制度を訴える主張を紹介しています。

<ドイツやイギリスで導入されている制度を参考に、生活が困窮する被害者や遺族への年金支給や医療支援などの制度を導入>あるいは

<国が被害者や遺族への損害賠償をいったん立て替えた上で加害者に請求する「代執行制度」の導入>

 

ところで、日弁連も、刑事弁護だけでなく、長く犯罪被害者救済にも取り組んできましたが、昨年10月に日弁連人権擁護大会で決議されたと思い、日弁連のホームページを検索したら次の決議(案)が見つかりました。

 

犯罪被害者の誰もが等しく充実した支援を受けられる社会の実現を目指す決議>です。

 

日弁連は一貫して刑事弁護を主たる中核にして活動してきたと思います。むろん最近は国内外の多様な問題に取り組んでいますが、その本筋は変わっていないと思います。とはいえ、2003年以来、犯罪被害者の権利に着目して、その確立を求めて、繰り返し決議など提言を行ってきたことも確かです。今回の決議は、その中でもかなり注目されてもよい内容ではないかと思います(私は恥ずかしながら今日初めて知ったのですが)。

 

決議は<犯罪被害者は「個人の尊厳が重んぜられ,その尊厳にふさわしい処遇を保障される権利」の主体>であるとして、犯罪被害者支援のために5つの項目を挙げています。

1 損害回復の実効性の確保

2 経済的支援の充実と手続き的負担の軽減

3 公費による被害者支援弁護士制度の創設

4 性犯罪・性暴力被害者のための病院拠点型ワンストップ支援センターの設置と支援

5 犯罪被害者支援条例の制定

 

今回の記事との関係では1と2を取り上げてみたいと思います。詳細は上記の決議をクリックすれば12ページ程度の内容ですので、概要がわかります。実際は数100ページの報告書で詳細に言及していますので、より詳しく知りたい方は報告書にあたっていただければと思います(日弁連事務局に連絡すれば在庫があれば入手可能です)。

 

1については、日弁連も記事が指摘する実態を承知していて、<消滅時効期間の伸長>と<強制執行段階の制度として,被害者の申立てに基づき,国が加害者の財産情報について調査する仕組み>の創設を提言しています。ま、後者は、わが国の強制執行制度自体が抱えている一般的な根本問題ですので、養育費請求の実効性などとも関係します。

 

2については

<犯罪被害者が国家から補償を受ける権利があることを明記した犯罪被害者等補償法を制定し,経済的支援施策の抜本的な拡充を図るとともに,簡易迅速な請求手続を実現させ,補償項目や補償額を充実させることを求める。>と述べています。なぜ国の補償かについて、どのような法原理を考えているのか、これは報告書を読まないとわからないですね(読んでも簡単にわかるかどうか?)。

次の点は結構重要でしょうね。

<犯罪被害者が安心して医療的・心理的支援を受けられるよう,医療や心理療法等の無償提供(現物支給)の早期実現を目指すべきである。>現実にはある程度、PTSD対策を含めなされているのでしょうが、制度的裏付けがないと思われるので、制度化して充実したものにするのでしょうね。

次はやはり日弁連としては必須かもしれません。

<弁護士による法律的な支援を無償で受けられる制度の実現についても検討されるべきである。>

欲張った次の提案は興味深いですが、なかなか現実味がしないですね。ただ、刑事罰と同等、いやそれ以上に求められるかもしれません。ただ、すべて金銭的な解決というのもどうかと思ったりします。これから議論に花開かせれば、新たないい案が生まれるかもしれません。

<国の機関が犯罪被害者による強制執行を代行する制度,あるいは国の機関が加害者に代わって被害者へ賠償金を支払い,追って加害者へ求償する制度の創設についても,議論を深めるべきである。>

 

といった不十分な紹介で、本日は打ち止めとします。また明日。