たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

うたかたの夢? <令和という新元号>と<契約終了の連絡メール>

2019-04-01 | 日記

190401 うたかたの夢? <令和という新元号>と<契約終了の連絡メール>

 

どうやらこのブログはまだ消されていないようです。昨日は契約終了通知を受けて、これで私のブログも消滅したかと思ったのですが、不思議ですね。昨年から別のサービス会社への移行を提案するメールがあり、迷いつつも、千日ブログも中断したし、ほぼ千日ちかく継続できたこともあり、一旦ブログをやめる頃合いと思っていました。

 

今日からはブログを書かずに別のことに時間を使おうと思っていました。それはうたかたの夢だったようです。このブログが残っているからといってブログを続ける必要はないですが、なんか決まりが悪いので、また書いています。どうせなら少し趣向を変えたいですが、まだ気持ちがのっていないので、しばらく試験飛行となりそうです。

 

ところで、エイプリルフールという話は最近あまり聞かなくなったように思うのですが、それは私が高齢になったから相手にならない?のかもしれません。再びブログの継続について、移行手続をしていないのであれば、この料金はどうなるのでしょう。でもまだネット上に掲載されていると言うことは、どこかと契約が成立しているのでしょうかね。たしかに数日前に、突然、ブログのネット表示が変わっていました。この継続している状態はエイプリルフール?なんてことはないでしょうね。

 

この記事がアップされれば、夢幻ではなくなることになります。

 

新元号は実態のある話です。仕事に出かけて帰る途中で、ラジオの音声から官房長官から「れいわ」という名前が聞こえてきました。その漢字についての説明が聞き取れない中、事務所の駐車場につき事務所に入って確認しました。そのわずかの間に、「れいわ」ってどんな感じだろうと、少しだけ想像してみました。わは「和」しか思いつきません。れいですが、「霊」かなと思いつつ、ちょっと現代には似つかわしくないなと、次に「零和」がなかなかしゃれている?と思いましたが、戦争世代でなくても零式戦闘機を彷彿させる、いやゼロってどうかとおもいますので、これもなし。麗和はどうかな、これって変わった組み合わせで思いつかないなと思いながら、TVをつけたら、「令和」でした。これは驚きですね。

 

れいわの響きは割合いいです。でも漢字の「令和」は万葉集を典拠にする点もいいです。「令」という文字には、よいとか、立派なという意味があるのですね。それ以上に元号ということでより深い意味合いがあるのでしょうね。安倍首相の談話はほどほどに聞いてしまったので、あまりぴんときませんでした。美しいとか、以前颯爽と登場したとき美しい国づくりなんてことを高らかに宣言していたときの思いを述べられたのでしょうか。

 

元号の変更は、過去の時代、飢饉や災害、あるいは戦乱などの救いがたい状態の場合と、吉祥という事態があったか有った風に装う場合に行われたことが少なくなかったようですね。現憲法下では、それほど元号に意味を持たせなくてもよいかと思うのですが、そう願いたいと思うのが人情かもしれないので、それはそれで結構なことと思うのです。

 

で、今日はただ、下手な写真をアップして終わりにするつもりが、また関係のない話となりました。写真は事務所で飾っている花の一つ、「タイツリソウ」という名前の花です。説明書きを読むと、釣った鯛が竿に並んでいるイメージに似ているということのようですが、私には鯛とは似ても似つかぬの形象ですね。鯛はおめでたいことですから、今日の新元号に似つかわしい花かもしれません。ただ、形状からはハートに見えます。かわいらしく愛らしい花です。

 

ということでこのままアップされれば明日も続きます。


閑話休題 <カテゴリーのカオス状態を少し手直し>

2018-07-26 | 日記

180726 閑話休題 <カテゴリーのカオス状態を少し手直し>

このブログを再開したのが、一昨年の10月ですから、今日で相当な日数を毎日継続してきました。当初やり方が分かっていないので、最初はカテゴリーも知らず、日記として、日々積み重ねていました。カテゴリー分けの項目を知った後も思いつきで、次々と付け足してきました。しかもカテゴリーの内容も適当に改訂して。そうなると、いつの間にかどんなカテゴリーがあるのか自分でも分からなくなりました。ごった煮状態です。少し整理してみようと、暫定的に、適当に似通った?ものを集めました。いつか合理的な目安で整理してみたいと思いますが、とりあえずの整理でやってみます。

思いつきで日々、書いているので、整理すること自体、あまり意味がないかもしれませんが、私の心の整理に役立つかもしれないと思っています。


決算発表のあり方 <東芝 決算、監査意見なし 上場廃止基準該当も>を読んで

2017-04-12 | 日記

170412 決算発表のあり方 <東芝決算、監査意見なし 上場廃止基準該当も>を読んで

 

今朝も少し冷え込んだのか、昨日の疲れが残ったのか、目覚めが悪く6時近くに起きました。でもスギ・ヒノキや華やいだ木々の間を野鳥が歌声を高らかに鳴り響かせて飛び回っているのを見ると、すぐに気分がよくなります。ちっちっと甲高くなく声を聞いて、またシジュウカラかしらと思いつつ、ちょっと違うなと思いながら、わが家の小さな木の方に目をやると、黒い帽子にえび茶の服を来たようなヤマガラでした。さっと勢いよく飛んで言ってしまいましたが、うれしいお客さんです。

 

ちょっとしてウォールデンの森の主にでもなった気分にさせてくれます。ヘンリー・ソローは仕事らしい仕事をせず、まるで方丈記の鴨長明のような生活ですが、私にはまだまだその域に達する見込みがありません。でも気持ち次第かもしれません。ソローがウォールデンの森に住んだのはたしか30代初めくらいではなかったかとの記憶です。

 

それはともかく、今日も、先ほど来客が帰り、ようやくブログに取りかかろうと思うともう7時近くになっています。これから1時間でなにを書くか、はじめは7歳児の交通事故リスクをNHKの朝番組で取り上げていたので、これにしようかと思いつつ、見出しの東芝決算発表は、これまで東芝問題をなんどか取り上げてきていることもあり、節目的な意味合いもあるので、こちらに変更します。

 

毎日記事では、東芝の決算発表が2回も延期になった後、上場廃止になる直前に、<監査法人から「決算内容は適正」との意見を得られないまま異例の発表に踏み切った。>ことを報じています。

 

そして興味深いのは、淡々とした報道の中に、<社長「調査継続 意味ない」 一問一答>を丁寧に記事にしています。この一問一答こそ、東芝の、社長のみならず経営体自体が、アカウンタビリティーを欠落していることを明白に示している、それを毎日記事は証明してくれています。

 

なぜ決算発表が遅れたのか、監査法人との意見の違いとそれに対する具体的な説明を一切していません。これが巨額赤字を長い間放置してきた大企業の責任者がとる姿勢として信頼を得るものといえるのでしょうか。従業員数が一年前の段階で連結で19万人弱という大勢を雇用してきた、いや関連会社や取引先を入れれば膨大な数になるでしょう。そのトップのとる態度でしょうか。

 

ウェスチングハウス(WH)の問題は何度も取り上げているので、ここではその企業の体質や能力について指摘しません。ただ、異なる観点で、アメリカ企業というか金融・経済・会計と大統領選といったものについて少し言及してみたいと思います。

 

昨年の大統領選では、多くの若者が民主党の中でクリントン氏に反旗を翻し、ラストベルト地帯などの白人労働者層がトランプ氏を熱烈に支持していました。その両者ともにウォール街への強い敵意があったように思えます。2000年代の住宅バブルでは、あのサブプライムローンなどを中心に信用のない債務が膨大に膨らみ、そしてバブルがはじけ、多くの失業者、破綻者がでる一方で、リーマンブラザーズのように企業倒産したのはウォール街では一部に過ぎず、ほとんどは救済され、再びトランプ人気にあやかって株式バブルが今のところ続いています。

 

なにが問題かです。アメリカの会計基準は厳格で監査法人の審査も厳しいと言われ、証券市場もSECが厳しい摘発を繰り返しいるとされています。しかしながら、サブプライムローンといった返すあてもない借り手にどんどん貸し出し、焦げ付くのが予想できるのに、そういったくず債権を膨大に保有する企業や投資銀行に、AAAといった評価をしてきたのは著名格付け会社です。ウォール街を構成するメンバーがバブルを生み出し、バブルがはじけてもそれを予想してデリバティブの保険をかけ、生き抜いている、それがウォール街の主要なメンバーではないでしょうか。そして共和党政権であろうが、民主党政権であろうが、常にゴールドマン・サックスなどのCEOが閣僚など政府の主要なメンバーになり、政財軍官のチームとして好き放題やってきた一面をぬぐい去ることが出来ないように思うのです。これは一面的な見方かもしれません。でも昨年の大統領選で示された民主的な意見の根底にあるのは、現行制度の偽善的な実態ではないかと思うのです。

 

私のこの意見の基礎は、チャールズ・ファーガソン著『強欲の帝国 ウォール街に乗っ取られたアメリカ』によるものです(といいたいところですが、なかなか読み切れずいつも途中で寝てしまっている状態です、中身はとてもおもしろいのですが、疲れに勝てない状況です)。 

 

換言すれば、いかに制度がしっかりできていても、それを使うのは人間です。人が勝手気ままにして、それが通ってしまう世界、それがアメリカの一面でしょう。トランプ氏のあの無軌道な発言もありなんでしょう。まだ表に出ているだけ、ましかもしれません。平気でルールを破る偽善者、それ以上に確信犯的な悪の履行者かもしれません。その点、松井知事が小学校設立認可にあたって申請者の申請内容を語るのに性善説で見るという、型にはまった行政マンのような言い訳ですむ世界とはまったく異次元の世界だと思います。

 

それがアメリカの実業界、政治の世界ではないでしょうか。そうだとすると、WHのいい加減な会計処理、とりわけ原発工事の遅れをめぐる損害を相争う相手企業を0円で買収するといった手法は、よほどの会計処理にたけている人(チームとしての会計法人)であっても、とりわけ過去30年以上も経験のない原発工事の会計処理ですから困難きわまりないはずですので、要は不審きわまりないわけで、それを解明しないまま、放置する東芝の対応はとても信頼に値しないです。

 

なお、<東芝の監査委員会委員長を務める佐藤良二取締役も「東芝とWHは海外原子力事業の買収に伴う損失の調査を真摯に実施した。60万通のメールの確認、役員や従業員へのヒアリングを実施した。調査の過程で一部経営者から不適切なプレッシャーとみなされた言動はあったが、財務諸表への影響はなかった。我々とWHの内部統制は有効に機能している」>とのことですが、この説明は外形的な内容につきており、内容はないといっていいものです。それが責任ある監査委員でしょうか。監査委員の責任も問われることになるように思われます。

 

いかに厳格なアメリカの会計基準であっても、それを無視する企業経営者がいて、その企業実体を高く評価する格付け会社があり、それを信頼して世界各地の金融機関や年金基金が買いまくったのはつい最近の事です。そして会計基準をまったく無視した事業が名門企業、大企業として存立できていたわけです。

 

そうだとすると、東芝の不正会計処理の事件の際に、第三者委員会が調査した内容もまた、ある意味で外形的なものにすぎず、むろん原発事業をあえて対象外にしつつ、それ以外の事業もきちんと精査したか、疑念が残ります。

 

このように東芝の再生を願う一人としては(そういえば最近、東芝の家電を買いました)、綱川社長の説明は、はなはだ将来への見通しを暗くするものです。大いに猛省していただきたい。

 

そろそろ一時間です。今日はこれでおしまいです。


女性と権威 <道鏡の由義寺跡 大阪・八尾で塔の基壇を発掘・・・>を読んで

2017-04-11 | 日記

170411 女性と権威 <道鏡の由義寺跡 大阪・八尾で塔の基壇を発掘・・・>を読んで

 

今朝は夜中に目覚めその後寝付けが悪く、次に目覚めたのが6時を大きく回っていました。すっかり明るくなっていました。早速、外にでて、庭の草を少しとっていると、パラパラと雨が落ちてきて、早々とあきらめました。するとシジュウカラの軽やかな鳴き声が聞こえてきました。ヤマガラと違い、シジュウカラは住宅地にもよく出没してきますね。まだウグイスの鳴き声が練習段階で、危なっかしい状態です。

 

そんな朝からいつの間にか、今日も業務時間が過ぎてようやくブログに取りかかっています。来客対応があったり、慣れない登記申請など関連作業が多く、時間の経つのがあったという間です。一日まとまった仕事をしている状況にないのですが、これも年のせいでしょうか、仕事がさほどはかどっていないのかもしれません。

 

そういえば、昨日、林家の人たちが集まり、ま、皆さん70前後ですが、ナタに似た枝打ち斧の話題になり、そういうのを扱える人が最近いなくなったといった、(その名前が思い出せませんので、ここでは枝打ち斧としておきます)枝打ち斧をきちんと扱える人だと、軽くスナップをきかして枝をすっぱと一発できってしまうそうです。その切れ具合を測るのに自分の肌毛を剃るそうです。それくらい鋭利で、しかも一定の重量があるそうです。

 

ところが、最近は切り口がきれいな枝打ち用のノコがあり、それ出来ると簡単に切れて、切り口もきれいだそうです。で、どのくらいの高さまで登るのか、どのようにして登るのかを聞いてみると、それに関連して、スギ・ヒノキの巨木だと20mくらいはあるので、その近くまで登るとのこと。その際、何本かはしごを用意し、その後はぶり縄で登るそうです。場合によってはぶり縄を5段くらいにすることもあるといいます。といっても皆さん、年なのでいまやっているわけではないようです。

 

で、私が今もぶり縄で10数mくらいまで登ってやっていると言うと、危ないから気をつけないと、と言われてしまいました。年寄りから年寄りの冷や水的なことを言われるとなんともいえないジョークに聞こえます。

 

と雑談はこの程度にして、今日の話題は、女性天皇制が近時ますます議論されるようになってきていますが、見出しの毎日記事を読みながら、時折、この男性優先社会構造の中で、クォーター制とか、男女均等法とか、さまざまな施策・制度が講じられていますが、まだまだ女性がトップに立つことは容易でない状況にあると思います。

 

韓国の朴大統領の場合も、彼女の不幸な生い立ちも影響しているのかもしれませんが、他方で儒教的な男性優先の社会風俗の中で、周囲がほとんど男性ばかりであり、ガラス張りの意思決定を避け、閉鎖的・秘密裏に行ってきたことが、今回の弾劾罷免にまで到ったのかなと思いながら、称徳天皇のことを思い出してしまいました。

 

両者に関連性も類似性もあるとは思いませんが、なにか女性が権力のトップに立つことの不幸を背負ってしまったようにも思えるのは少し狭量な見方でしょうか。

 

称徳天皇の父、聖武天皇は、曾祖母、祖母、叔母(一時父が10年間のみ在任)と長い間続いた女性天皇というリリーフ的な存在から、生まれながらにして確立した天皇の道を歩んできたと思うのです。でも聖武天皇自身、幼いときに父と死に別れ、母も病気で離れて暮らし、悲しい孤独の中で成長し、天皇になってからも、一方で盧舎那仏を建立するなど仏教国家の樹立を図る一方、九州で起こった反乱以降は転々とする奇行ともいうべき行動に出ています。妻の光明皇后ほど評価されないような印象があります。

 

聖武天皇の評価は単純ではないのかもしれません。娘に天皇の地位を譲るに当たって、記憶では天皇の地位に執着するなといったか、民間から天皇になってもよいといったか、天皇制といった万世一系の虚構性?(曾祖父・天武天皇が確立したか?)にこだわるなといったことを言い渡したとか、言われています。割合自由な考えの持ち主であったのかもしれません。

 

娘が孝謙天皇として、一旦政治の世界に入りますが、当時は政争の中にあり、藤原仲麻呂が結局実質的な政権を握り、孝謙天皇はその傀儡のような状態であったかもしれません。そのため間もなく淳仁天皇に譲位しますが、仲麻呂の独裁的な政治も、長続きせず、再び、孝謙天皇が称徳天皇として返り咲いたわけですね。

 

でも信頼できる人が身近にいなかったのでしょう。看病僧侶として付き添っていた道鏡に頼りきり、ついには道鏡が法王、そして天皇にまでなるところまで行ったのですから、和気清麻呂が出てくるまでもなくどこかで頓挫していたかもしれません。

 

ついでにいえば、道鏡を天皇にするようにという託宣は、あの宇佐八幡宮から出ていますが、この八幡宮はなかなかややこしいです。神功皇后伝説、その子、応神天皇と関係する神宮ですが、このあたりの話しは整理して別の機会にしたいと思います。

 

で、称徳天皇以降、女性天皇はでていません。当時といまでは天皇制も異なり、女性の地位も異なっています。象徴としての天皇という点でいえば、エリザベス女王と比較するのもなんですが、女性が天皇になることはすばらしいことではないかと思うのです。

 

日本書紀や続日本紀に書かれた女性天皇像がどれだけ正確なものか私は分かりません。また、男系の男子のみによる天皇制の継承がわが国の国体的なものというのも、私には合理的な根拠があるのか疑問です。

 

あまり天皇制云々について検討したことがないので、ここで仰々しく議論するつもりはありません。ただ、男系の男子天皇にこだわる理由は、多くの国民には理解しにくのではないかと思うのです。

 

それはともかく、兼行法師の、徒然草第38段で披露している、人生観は、維新前までは割合多くの日本人に受け入れられていたのではないかと思うのです。それを最後に援用します。

 

名利に使はれて、しづかなるいとまなく、一生を苦しむるこそ愚かなれ。財(たから)多ければ身を守るに貧(まど)し。害を買い、累(わずらい)を招くなかだちなり。身の後には金(こがね)をして北斗をささふとも、人のためにぞわづらるべき。愚かなる人の目をよろこばしむる楽しみ、またあぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉(きんぎょく)のかざりも、心あらん人はうたて愚かなりとぞ見るべき。金(こがね)は山に捨て、玉は淵に投ぐべし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。

 

埋もれぬ名を長き世に残さんこそ、あらはほしかるべけれ、位高く、やんごとなきをしも、すぐれたる人とやはいふべき。愚かにつたなき人も、家に生れ、時にあへば高き位にのぼり、おごりを極むるもあり。いみじかりし賢人・聖人、自ら賤しき位にをり、時にあはずしてやみぬる、又多し。ひとへに高き官(つかさ)・位をのぞむも、次に愚かなり。

 

智慧と心とこそ、世にすぐれたる誉も残さまほしきを、つらつら思へば、誉を愛するは人の聞(きき)をよろこぶなり。ほむる人、そしる人、ともに世にとどまらず、伝へ聞かん人、又々すみやかに去るべし。誰をか恥ぢ、誰にか知られん事を願はん。誉は又毀(そし)りの本(もと)なり。身の後の名、残りてさらに益なし。是を願ふも、次に愚かなり。

 

ただし、しひて智をもとめ、賢を願ふ人のために言はば、知恵出でては偽(いつわり)あり、才能は煩悩(ぼんのう)の増長(ぞうぢょう)せるなり。伝へて聞き、学びて知るは、真(まこと)の智にあらず。いかなるをか智といふべき。可・不可は一条なり。いかなるをか善といふ。まことの人は智もなく徳もなく、功もなく名もなし。誰か知り誰か伝へん。これ、徳を隠し愚を守るにはあらず。本より賢愚得失の境におらざればなり。

迷いの心をもちて名利の要(よう)を求むるに、かくのごとし。万事は皆非なり。言ふにたらず願ふにたらず。