たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

死を考える <滝野隆浩の掃苔記 孤独死と生きづらさ>などを読みながら

2019-04-26 | 人の生と死、生き方

190426 死を考える <滝野隆浩の掃苔記 孤独死と生きづらさ>などを読みながら

 

今日も何かと忙しくしていて、いつの間にか業務時間が過ぎ、はたと今日のテーマをと考えるのですが、浮かびません。最近話題のネット大手による不公正取引(たとえば価格拘束)なども興味深いものと思いつつ、情報不足で今ひとつ乗り気になれません。

 

そんなとき毎日デジタル情報で、偶然<滝野隆浩の掃苔記孤独死と生きづらさ>を読みました。だいたい「掃苔」って何とひっかかりました。そえが孤独死とどう関係するのと、ひきずりこまれました。

 

で、本論に入る前に、今日の花言葉を取り上げます。長ーくまっていたのがようやく花弁が開き始めていて、まちきれずシャッターを切りました。翁草オキナグサです。名前が気に入りました。このなかなか花が開かない状態でいる様子もよかったです。で、花言葉は<オキナグサ(翁草)の花言葉>によると、<「奉仕」 「何も求めない」 「清純な心」 「告げられぬ恋」 「裏切りの恋」 「背徳の恋」>と前3者はある種の共通イメージがわきますが、4番目以降はあれれ という感じです。今日は前3者のイメージでこの翁草をとりあげたいですね。この見出しのテーマとどう関係するのか、いまのところ暗中模索ですが、欠いているうちに脈略ができればとおもうのです・・・

 

さて上記の毎日記事を書いたのは、滝野隆浩記者ですね。その「掃苔(そうたい)」の意味はデジタル大辞泉だと<墓の苔(こけ)をきれいに取り去ること。転じて、墓参り。>とのこと。でも滝野記者の文面を見ている限り、そのような限定ではなさそうです。

 

滝野記者は「孤独死」問題をフォローしているようです。もしかして私が以前、このブログで取り上げたかもしれませんが、一度書くとすぐ忘れるので、そこははっきりしません。

 

「特殊清掃」ということばも出てきたので、毎日記事で検索したら昨年1228日付け記事<記者の目平成とは 激変する葬儀と墓 最後は「お互いさま」で=滝野隆浩(東京社会部)>が上がっていました。

 

そこでは<部屋で突然死し、もし発見が遅れればそこで腐敗していく恐れがあるのだ。そうした「事故物件」の部屋を片づける「特殊清掃」の専門業者>という風に、特殊清掃を取り上げています。

 

滝野記者のこの問題の一端に遭遇した契機についても触れていて、<私が葬送というテーマに出合ったのは、平成が始まった1989年ごろ。東京と新潟に血縁に頼らない合葬式共同墓が誕生し、市民グループが初めて散骨を実施した。>というのです。

 

そう散骨は私が同士と一緒に始めたわけですから、その後のさまざまな問題が展開する契機になったかもしれません。90年代初頭は、都内で霊魂の行方や葬式のあり方、自己決定権とか、次々と多様なテーマでシンポを開催していました。それがバブル後の世相を反映していたのかもしれません。だいたいいつも大勢の人が来て立ち見状態でしたか。真剣な議論だったように思います。それは奉仕とは違いますが、純粋に何かを求めていたかのように思います。忙しくても結構楽しいひとときでした。当代の専門研究者、学者、宗教家にきていただいていました。そこに素人、一般が参加して議論していたのですから、面白いです。

 

でも滝野記者が指摘するように、<「墓じまい」(改葬)が進み、多額の「離檀(りだん)料」請求が問題になることも。「自然へ返れる」と散骨は人気だが、心ない業者がいて地元とトラブルになっている。激変ぶりは葬儀のほうも同じ。あっという間に、安く小規模で短時間にという「安・縮・短」傾向が主流になった。葬儀なしで火葬・納骨される「直葬」は地方でも急増している。>という、私たちの意図とは異なる方向に流れが加速化されたような印象もあります。

 

そのような恐れ、懸念に比べ、家制度や墓制度で自由を奪われてきた個人の尊厳、自由への熱い思いの方に、私の関心の重点があったように思います。今回滝野記者が取り上げるような問題は10数年前くらい前からようやく明確に意識するようになったわけですから、ずいぶんのんきな話です。

 

滝野記者が取り上げた横須賀の孤独死の事例、とくに<虎の子の預金15万円で「無縁仏」にしてほしいと依頼していた>ということを知り、同記者は<<私を引き取る人がいない> これほど深い絶望の言葉を、私は知らない。>と嘆きに近いことばは吐露しています。

 

私自身、横須賀で社協のお手伝いを長くやっていましたので、彼らが懸命に孤立している高齢者のために日夜苦労しているのを見てきました。実によくやっていたと思います。でも市も社協もスタッフが孤立する高齢者の数に比べればとてもわずかで、到底行き届いたサービスを全員に提供することはできません。

 

ただ、無縁仏にして欲しいと依頼した方が、絶望の淵にあったかはわかりません。むろん記者自身は自分のことと思いそう感じたのでしょう。私は諦念という思いと安らかな思いがそのメモにあらわれていないかとふと思うのです。そう思ってあげたいと考えているのかもしれません。

 

自分の遺体の引き取り手がいないことを認め、でもだれか、行政の人にでも、火葬・無縁仏として託すことで安心を得たのではないかと思うのです。託すことで安心したのではないかと思うのです。そう思ってあげたいと思うのです。それに絶望感を抱くのも人情かもしれません。でも私は安念のひとときを感じたいと思うのです。

 

記事では<「引き取り手のない遺骨」の急増を深刻に受け止めた同市は、今年5月から「終活登録」事業を開始した。緊急連絡先や遺言を記した書類の置き場所、さらに墓の所在地などの情報を市役所が預かり、事前の希望に沿って死後に開示する画期的な仕組みだ。>とのこと。横須賀市頑張っているなと、思うのです。私が関与していた当時も、身寄りのない人で判断能力が劣った人に対し、法人後見を開始したり、後見人として市民後見制度を立ち上げたり、それ以外で私の知らない分野でもいろいろ行政ニーズに対応していたように思います。

 

ところで最初の記事に戻ります。<菅野久美子さん(36)の新著「超孤独死社会 特殊清掃の現場をたどる」>が取り上げられています。それは高齢者でない、もっと若い世代にも孤独死がいて、そこに「超」がついているのでしょうね。

 

その現場を菅野さんがどのように掬い上げたかですね。<布団や食べ残したカップ麺、尿の入ったペットボトルに交じって、故人の文庫本やCD、家族から贈られた鉢植えが出てくる。モノは人の内面を映し出す。だから、見えてきた。「ゴミの部屋にいた人はずっと、『生きづらさ』を感じてきたんだと思います」>と生きづらさを指摘しています。

 

菅野さんはいじめを受けた経験から<孤独死しないためのさまざまな具体策が挙げられている。IT機器を使った安否確認のサービスや、自治体による各種取り組みも取材した。>というのです。このようにゴミの部屋になった状態であれば、やはり救済の措置を検討されてよいと思うのです。しかし、そうでない孤独死もあると私は信じています。

 

以前少し書いた記憶がありますが、死後事務委任のことです。終活とか死の作法とか、いろいろな表現で、喧伝されていますが、私は人は一人ひとりが自分で死にまじめに直面して、考え、多様な選択の道を自らの考えて選んでいくものだと思っています。むろん死後の世界にあれこれいうのはどうかと思う面もあります。他方で死後の処理をきちんと収まりつけるのも自由を享受する人であれば、けじめかなと思うのです。

 

立つ鳥跡を濁さず、ということがほんとかどうか知りませんが、人生を閉じるときそうありたいと思うのです。それはいつやってくるかもわかりません。まだ当分やってこないかもしれませんが、いつやってきても安心して迎えを受ける覚悟というか、気持ちが大事だと思うのです。その場合死後事務委任というものがうまく働くといいなと思いながら、実際にはなかなか機能しにくいかもしれないとこのことを考えるようになって思っています。

 

有形物についてはたいていはなんとか自分の責任で処理し、死後においても対応できる措置は可能だと思います。ただ厄介なのは自分の遺体ですね。まだこれはイタイというか、いい考えが浮かびません。

 

と脈略のない話となりました。おつきあいありがとうございます。どこまで花言葉の前3者と符合するかは?ですが、今日はこれにておしまい。また明日。

 

 

 

 

 

 


お金と資産の使い方 <多様性富むアイデア支援 米国の社会起業家育成>を読みながら

2019-04-24 | 人の生と死、生き方

190424 お金と資産の使い方 <多様性富むアイデア支援 米国の社会起業家育成>を読みながら

 

今日は久しぶりに和歌山まで往復しました。最近は、『きのくに荘園の世界』のおかげで、行き帰りの道中、ここはどの荘園かなとか、川やため池の名前を思い浮かべながら、走っています。車を運転するのがあまり好きになれないので、こういうこと体の不調も乗り越えようと思っています。

 

ほんとは2030km/hくらいののんびりしたスピードで走るのが一番ですが、それはできませんね。将来、自動運転車が実用化されたら、そういった低速走行もOKとなるとうれしいのですが。

 

さて今日の花は、ネメシアメロウです。さらにピンクスワンという品種?のようですが、花言葉はネメシアしかなく、<ネメシア (宿根ネメシア) 花言葉・誕生花>を引用させてもらいます。どうもここで取り上げられているネメシアとは少し異なるようですが、大目に見てください。花言葉は<正直・偽りのない心・包容力・過去の思い出>ですね。花言葉はたいてい気持ちのよいことばが選ばれているようですが、この花からの受けるイメージでは想像を超えますが、これもよしとしましょう

 

正直と偽りのない心とでは少しニュアンスが違う感じです。後者は神聖な正直さを感じて、素晴らしいという面とちょっと大変かなという面とダブります。正直で包容力があれば言うことなしですか。そんな花と思うと、大事にしようかとふと思ってしまいます。

 

ところで、特殊詐欺の被害に遭う人がなかなか減らないですね。当初は家族をかたるといったパターンが多かったようですが、最近は行政、銀行、警察、なかに弁護士など、多種多様ですが、それなりに信用される職種が選ばれているような感じでしょうか。

 

以前は現金そのもの、あるいは銀行や郵便局を介した送金方法といったことが多かったようですが、近頃はカードを含め多種多様ですね。資産の保全の仕方が問われているのかもしれません。他方で、お金とか資産の使い方について、学ぶ機会があまりなかったかもしれないと思ったりします。倹約が美徳ということで、使わない、貯めるということでしつけられた世代として私以上の高齢者層は思い当たる節があるかもしれません。

 

実際、私の仕事上、あるいは周辺でも、使わないで貯めることはできるのですが、その貯まったお金をどう使うか、あまり考えられない人が結構いるように思うのです。まあ、それでお金に苦労せず一生を送れれば、それもいいかもしれません。

 

そんなときふと渋沢栄一翁のことを思い出します。一万円札の顔になるということで、評判になっていますね。韓国では批判的に報道されているようです。まあ、私は昔、彼について書かれた本を読んだ程度あまり知りませんが、お金の使い方をしっかりわきまえた方であったように思うのです。日本の経済的基礎、骨組みを作ったことで知られていますが、将来に向かってどのようにお金を使うか、百年先を考えていたのかなと思うのです。

 

現代では、100年先はおろか、10年先、いや1年先も考えてお金を使え得る人がどの程度いるのでしょう。家族や親族のことを考えて使うことはできても、社会のため、人のために使うことを考える人はどの程度いるでしょうか。それが少し心配です。

 

少し前の411日付け毎日記事<幻の科学技術立国第4部 世界の潮流/2 多様性富むアイデア支援 米国の社会起業家育成 個人の力、最大限発揮を>は気になって手元に置いていました。

 

写真に写っている豪華な建物は<約230年前に建てられたハルシオンハウス。今、社会起業家のためのインキュベーターになっている=米ワシントンのジョージタウンで2019年2月11日、須田桃子撮影>とのこと。

 

私もカナダで、こういった古い建物が共同利用されているのをよく見かけました。都市計画のゾーニングでも、歴史的建築物を保存しながら利用するという方式で、そういう特別のゾーニング地区を設けたりしていました。私が知り合った人がそういう建物で共同生活をしていたので、一度訪問したことがありますが、利用しながら建物保全を図る有効な手法の一つかなと当時、感心しました。

 

さて、この記事では単に建物を共同利用するために提供するのではなく、若く意欲のある社会起業家のために、施設・資金を提供する一環として使われています。

 

この<ハルシオンの特徴は、最初の5カ月間はフェローが隣接する寮で寝食を共にし、この間の生活費などとして計1万ドル(約110万円)が給付されることだ。寮生活の最後には投資家らを前に起業の意図や計画を発表して投資や協力者を募る機会があり、その後も13カ月間は無料で施設を利用できる。>というのです。

 

その創設者が日本人女性というのですから、素晴らしいですね。< 「非日常的な空間を似た境遇の仲間と共有し、一人で考える部屋もあれば新たな出会いもある。そんな環境が人を成長させる。私自身の経験から、個人の力を最大限発揮する環境を考えて作った」。創設者の久能祐子(くのうさちこ)さん(65)は語る。>

 

また、<社会起業家・・には三つの行動指標があると久能さんは指摘する。利益に加え、社会と地球環境に対するインパクトだ。「お金が全てではないという意識が強く、商品やサービスを売れば売るほど世の中がよくなるビジネスモデルを模索している。投資もそういう起業家に集まり始めている」>

 

そう、現代における、お金が生きる使い方を久能さんが示してくれているように思います。

 

高齢者はお金を貯め込み?、若者は仕事も金もなく生活に窮している、それを家族間で融通しやすくする税制などの仕組みが考案されているようですが、多様で社会的な価値を生むアイデアはそういう狭い関係で資金移動があってもはたして有効な働きをするのかなと思うのです。

 

他方で、若い人たちも、もう少し共同生活という空間・時間に親しむことも大切ではないかと思うのです。そういう仕掛けがこれから検討されてよいのかなと思って、この記事を取り上げてみました。取って付けていえば、久能さんに、正直さと包容力を感じました。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


希望という生きる道標 <レンギョウの花言葉><イチロー最後の戦い><法廷通訳>

2019-04-07 | 人の生と死、生き方

190407 希望という生きる道標 <レンギョウの花言葉><イチロー最後の戦い><法廷通訳>

 

春爛漫です。わが家の前の桜並木も満開で、野鳥の声も軽やかです。こんな春の様子を花に託して多くの和歌が詠われていますね。レンギョウはどうかと思ったのですが、見当たりませんでした。というか和歌で詠われる花はあまり特定されていませんね。花と言えば桜と言うことでよかったのでしょうか。

 

春はいろんな花が咲いて賑やかです。桜は植樹されたこともあって山だけでなくどこでも見られます。そういえば関東にいたころ桜ヶ丘というところに住んでいて、谷間を挟んだ小高い稜線一杯に咲く桜木がとても目の保養になりました。ところで、レンギョウもわが国の街角で割合目に付きます。庭であったり山麓であったり、その鮮やかな黄色と枝が伸びやかな風情が元気さを与えてくれているみたいです。

 

レンギョウの花言葉>を見たら<『希望』『叶えられた希望』『豊かな希望』『期待』『集中力』『言いなりになる』>と、ありますね。まあ、希望と集中力はいいとして、最後の「言いなりになる」はどういった由来なんでしょうね。中国が原産ということで、たしかにそういわれてみると、そうかと納得しちゃいそうです。

 

レンギョウを見て希望を抱くというのは、その色でしょうか、枝のぐんぐん伸びる様子でしょうか。希望を感じさせるというのは違和感ないですね。でも花を見て希望を抱いたり、維持すると言うことは簡単ではないでしょうね。

 

希望を抱き続けるというのは、だれもが生やさしいことではないことと思っているでしょう。そんな中、懸命に励んでいる、人並み外れた業績を残したりすると、その人の姿に希望を感じるのかもしれません。日々の辛さ、苦労、悩みを抱えて生きている中、希望の星に覚えて、その英姿を追いかける、あやかるのかもしれません。

 

その象徴的な存在としてイチローが長く日本人、いやさまざまな国の人たちにも、注目され、敬愛されてきたのだと思います。

 

そんなイチローについて、NHKでは今日、再放送で、<イチロー 最後の闘い>を放映していました。イチローは、「野球人生としての死」という表現で、引退について語っていました。笑って死にたいと思っていたが、それは無理とも諦念していたようです。でも日本で迎えた最後のバッターボックスまで、多くのファンが期待を込め、またヒットが出ないで終わった後も鳴り止まない拍手・歓声を送ることで、イチローは笑って(喜んで)死を迎えることができたようです。

 

それはイチローがたゆまない日々の努力を重ね、MLBでも例ない技術の高みに達しても、さらなる頂を目指して日々鍛錬を重ねる姿勢に、生きる希望を多くの人に与えたからかもしれません。そして彼も、そういう人たちの思いを受けて「死」後の希望を見いだそうとまた新たな一歩を踏み出しているようです。止まらないその生き方に、希望の光を感じる人は少なくないのだと思います。

 

どのようなボールでもヒットする技量の持ち主が、バットが空を切ることばかりを繰り返しながらも、ひたすら鍛錬を欠かさない、前向きな姿勢に、そしてそれでも大勢の前でバッターボックスに立つ孤高の姿は、やはり感動させられます。

 

希望というのは、そういうイチローのような生き方に、なにか希望の抱き方、希望というものとの接し方、その対処の仕方のヒントがあるのものかもしれません。

 

高齢になった、重篤な病気になった、いじめにあった、障がいでうまくいかない、差別されている、大きな失敗をした、私たちが悩むことは事欠きません。でも希望をもつ、その希望に向かって一歩進もうとしたとき、人の心は変わりうるのではないかと思います。気持ちの持ちようかと思うのです。

 

ところで、もう一つのタイトル、今朝の毎日記事<検証減る法廷通訳 進む外国人材受け入れ、一方で… 過重な負担、報酬見合わず>は、以前このブログかfbで取り上げた記憶があります。まあ、希望とはなんの関係もなさそうです。でも一つの見方があるかなとも思うのです。

 

私も法廷通訳については、英語以外の通訳の事件をなんども取り扱ったことがあり、きつい仕事だということは理解できます。ただ、タイ語などの東南アジア系言語や中国語、あるいはスペイン語、ポルトガル語などのうち、とりわけ前者は当該国の人で日本に滞在している主婦といった人が多かったように思います。当然、日本語もそれほど流ちょうとはいえないですし、ましてや刑事訴訟の用語は現地語でも難解な上日本語で理解できているかというと少し気になるところです。

 

それだけでなく、あるスペイン語の教師の方が通訳した事件では、通常の通訳はスムーズにできるのですが、共犯事件で事実が争われているとき、細かい具体的な所作に質問が及ぶと、そのような質問・回答は日本語でもたいていの通訳は不慣れです。ましてや通訳するのですから容易ではありません。しかも被告人の会話は方言的な部分もあるでしょうし、さらに具体的な動きだと余計そういう要素が含まれるのだと思われます。その事件では、通訳と被告人が長時間、二人だけで話し合ってしまい、裁判官、検察官、弁護人がそれを黙って聞くだけといったことがありました。

 

刑事事件で事実に争いがあまりないときは、現在の法廷通訳でも割合うまく通じているのだと思います。しかし、事実を争う様な場合法廷通訳のあり方について見直す時期に来ているのかもしれません。なお、実際は事実の細かいな点で疑義のあることも少なくないのですが、争うことで審理が延びることを嫌がる被告人もいておおざっぱなところで認めることも結構あるように思います。。

 

それほど大変な法廷通訳なのに、記事で書かれているように、非常に安い通訳費用になっています。民間で依頼される通訳の報酬だと、その何倍、あるいはそれ以上だということも普通ではないかと思います。そうなると、刑事裁判での法廷通訳のなり手が減少するというのは経済事情、刑事事件という特異な場(裁判員制度への参加以上に厳しいかもしれません)ということから、今後もその傾向が続くのはやむを得ないことかと思います。

 

私が以前、外国人の依頼者の民事事件を担当したとき、証拠となる英文については、友人の弁護士と共同して翻訳して裁判所に提出したのですが、証人調べだと通訳が必要ですので、専門の通訳に依頼したら、かなりの高額となりました。結局、その訴訟は勝利したので、その費用をまかなうことができたのですが、敗訴のリスクがあるときは躊躇しますね。

 

長々と冗長な話をしましたが、裁判所の費用負担は、それほど予算がない中、法廷通訳費をさほどあげる方向にはいかないと思うのです。そうだとすると、AI音声翻訳を、裁判所用にプログラミングすることをそろそろ始めるいい機会ではないかと思います。その場合裁判所だけで行うのではなく、刑事で言えば、検察庁、日弁連と共同してチームを構成して対応してもらいたいと思うのです。他方で、民事訴訟や、人事訴訟については、それぞれ建築紛争、医療紛争、家事紛争など、類型毎に専門家グループと合同して行うことが望ましいのではないかと思うのです。

 

問題があれば、そこに希望の種がある、そう思えるのが、「希望」という意味合いかなと軽い感じで思っています。でも「希望」ということばは、生への一縷の望みにつながる、かけがえのない貴重な蜘蛛の糸であるだけでなく、日々の雑多な悩み・苦悩・煩悩の中にも一縷の光明になるのではと思うのです。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


永遠の愛の意思? <映画『ある天文学者の恋文』を見ながら>

2019-02-11 | 人の生と死、生き方

190211 永遠の愛の意思? <映画『ある天文学者の恋文』を見ながら>

 

映画『ある天文学者の恋文』を見ました。というか、見始めてまもなく本を読みながらときおり画像を見る感じになりました。ストーリーに興味が薄れたというか、手紙やメール、あるいはスカイプでのやりとり、その内容に興をそがれたのかもしれません。それなのにあえてこのブログで取り上げることにしたのは、いま関心のある死の作法や死後の事務委任と関係するからです。極めて個人的な趣味の世界ですね。

 

名優ジェレミー・アイアンズが天才天文学者役で、オルガ・キュリレンコがその教え子役で、秘密の恋人関係として話が展開するのです。アイアンズの台詞回しとか演技はさすがと思う一方、キュリレンコの方はまったく知らない女優だったこともあり、その演技に魅力を感じず、なぜこの天才がここまで惚れ込むのかよく分からない表情や仕草に見えたのです。

 

でも、この女優も相当評価されているようで、教授の死亡後判明した後は惹きつけるような演技だったかなと思います(まあ勝手な一面的な見方ですが)。

 

天才学者が死の宣告を前に、若い教え子を愛する余り、その女性が生涯持ち続けるおそれのある苦悩から解放させようと、また、自分の愛情を死後も示そうと、死後もいろいろな意思伝達手段を講じて、女性にその意思を伝えるのですね。これは映画『鑑定士と顔のない依頼人』で見せたような監督ジュゼッペ・トルナトーレの技らしいというか、筋書きですね。

 

天才学者に愛情を注ぎながらも、死をいとわないスタントパースンの役を買って出る教え子には過去に自分が犯した深い心の傷があり、当然ながら天才学者は気づいていたのでしょう。その当たりの苦悩の姿と学者の助言への愛と苦しみの相克と言った当たりになると、キュリレンコが共演者として選ばれた理由が分かってきたような気がしました。

 

さて映画の筋書きは、いろいろ語るのはどうかと思いますし、私にとっては重要ではないので、この辺でおしまいにします。

 

本日のテーマ、「永遠の愛の意思?」って、自分で書きながら、やはり?マークをつけてしまったのは永遠というのはおこがましいと思ってしまったのかもしれません。気持ちは分かりますので、永遠の愛なんてことはそれぞれの気持ちとしてもっておきたいというのはわかります。それが一方的に表現するのであれば、それも結構かと思うのです。

 

とはいえ、その表現の仕方によっては、不都合な真実となりはしないかと思うのです。いや死の作法としてもいかがかなと思いながらエンドマークを見終えたのです。

 

天才学者は死の床につきながら、自分の愛する教え子のために、終末期のたしか3ヶ月を、生前に連絡するだけでなく死後の意思表示の伝達を多くの人に託しています。

 

いくら自分の意思や姿を死後に伝えようとしても、黄泉の世界に入っているわけですから、死後は何もできませんね。生きている人が代わってその意思伝達をすることになります。

 

映画では郵便配達員や宅配便、ホテルのメードやレストランのマスター、さらにはタクシー運転手などなど大勢が担っています。それも時間と場所が特定された4次元?の世界で。しかも受け取る教え子の反応に対応してですね。これはまさに監督の腕の見せ所でしょうか。

 

しかも監督はちゃんと現実的な法的位置づけを用意しています。天才学者の幼友達?である弁護士に死後の事務委任をしていたのです。弁護士が天才学者から受けた委任に基づき、教え子の反応に適時適切に対応するように、多様な意思伝達機関を配置して動かすのです。

 

それはある種、見事な死後の意思実現であり、永遠の愛の意思表示とも言えるかもしれません。

 

たしかに意思伝達機関?となった多くは二人の理解者であり、両者の愛に寄り添う心優しい人たちだったのかもしれません。とりわけ天才学者の娘と幼い息子は、とりわけ娘は同い年の教え子を嫌っていたのに、最後は暖かく迎えるように父の愛を受け入れるのですから、天才学者の愛は見事なハッピーエンドとなったわけです。

 

むろんこういった死後の愛の意思伝達といったことは、お金の話を持ち込めば、現実味が薄れますね。いやそれだけではなく、こういった死後事務委任を引き受ける弁護士がはたしているかなどと考えるとそこでも立ち止まざるを得ません。

 

たしかに昔ながらの手紙に加えて、現代流のメールとかSNSとか、スカイプとか、死後の意思伝達手段は多様となりました。しかし、そのようなことをしてまで死後の意思を伝えることがほんとの愛なのでしょうかね。

 

天才教授が最後の画像で、自分の姿を隠して後ろ姿で語りかける場面がありますが、それこそ苦しいとき、死を目の前にしたとき、愛する相手に気持ちを考えれば、どのような姿であっても一緒に過ごすことが一番ではないでしょうか。ここはおそらく考えが別れるでしょうね。

 

また秘密の恋人関係ですから、死を前に苦しむ家族の前に、突然恋人を呼ぶなんてことはできなかったかもしれません。しかし、そうはいいながらも、この天才教授、死後の意思伝達のためにもがきつつも作品作りをしていたわけですから、身近な家族との触れ合いをも避けていた可能性の方が高いように思うのです。そこまでするのなら、死後の事務委任をするより、生前にしっかりと意思を伝え、恋人と死を迎える方が美しくないでしょうかね。

 

同じように終末期を扱った、映画『最高の人生の見つけ方』(The Bucket List)では、見知らずの終末期患者二人が最後の数ヶ月を一緒に過ごし、死ぬ前にやっておきたいリストを二人でやりとげるのですが、とりわけ一方の最後の希望でもう一方がけんか別れした娘と和解する筋書きです。最後に遺灰入り缶を雪深い山頂(エベレストなら違法でしょうね)に置くことまで付け加えてあってお見事と思いました。監督はロブ・ライナーで、結構好きな作品がありますね。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


命の後を考えてみる <「別れ」支える修復技術 遺体と向き合うエンバーマー>などを読みながら

2019-01-30 | 人の生と死、生き方

190130 命の後を考えてみる <「別れ」支える修復技術 遺体と向き合うエンバーマー>などを読みながら

 

今朝の毎日記事はいろいろ興味がそそる記事がありましたが、結局選んだのが<いのちのほとりで/10 「別れ」支える修復技術 遺体と向き合うエンバーマー>というところが私らしい選択かなと思うのです。

 

本題に入る前に一言触れますと、やはりサッカーアジア杯のイラン戦です。残念ながら試合日時間を失念して寝てしまい、その後ニュースで勝ったことは分かっていますが、ビデオなどゴールシーンを含め相当なつばぜり合い、すべて見るチャンスを失しました。たしかに結果は30ですから一見圧倒しているように見えますが、イラン監督が指摘するちょっとしたミスが招いた結果で、それまでの接戦状況を見たかったと思うのですが、後の祭りですね。大迫選手が入ることにより、どのような変化があったか、それまでの試合がとても緩慢なプレーのように見える状態がどう変わったのか興味深いのですが、とこの試合に関する記事を見るたび思うのです。

 

さて本論に入ります。上記記事は、エンバーマーと呼ばれる「遺体衛生保全師」の処置内容を割合リアルに取り上げていて、とても興味深いものでした。以前少し紹介した曹洞宗僧侶でもある枡野俊明著『あなたのお墓は誰が守るのか』では、墓は誰が守るのかとか、死に支度を調えるとか、「心のエンディングノート」を書き残すとかに言及する大事な内容の他、「生と死を見つめる禅のことば」の紹介もあり、参考になります。

 

僧侶らしい死に向かう当人におくる言葉かなと思いつつ、では命が尽きた後は戒名とか、墓とか、供養とか、いわゆる従来の仏教の世界で終わっているのが少し残念に思っています。

 

すでに納棺夫という仕事というかその遺体処理は、映画「おくりびと」で相当に人口に膾炙しているかと思います。私自身、「おくりびと」を通じて遺体処理の神聖さを感じ取り、遺族なり関係者への配慮として一つの選択かなとも思ったりしたところですが、では仏教徒なり、宗教者の立場ではどう考えているのか知りたいところでしたが、取り上げていません。

 

仏教会は、そういえば明治維新で廃仏毀釈を(いやいやながらも)受忍しながら、火葬禁止令については強い反対をして、2年後に廃止に追いやっています。火葬にはこだわっていたのですね。元々700年に行基の先輩?道昭が最初に行ったのが日本初ともいわれていますね。仏教の世界では火葬は当然ですが、わが国ではその後広まっていませんでした。

 

毎日記事でも<ほぼ100%火葬される日本では、葬儀が行われるまでの、数日のための処置であることが多い。>というのですが、?と思うのです。本題と関係しませんが、いま話題の統計では、たとえば<衛生行政報告例>の平成91月から3月の埋火葬率では全国的にはそれなりの埋葬率を維持しています。

 

私も四半世紀以上前調べたことがあり記憶があいまいですが、戦後初期くらいまで埋葬は地方ではかなりの割合であったと思います。大正末期の<火葬と土葬の比率(1925年・大正14年)>が簡単に見つかったので取り上げますが、だい都市圏と真宗信仰の強い石川、富山、新潟3県を除き、50%未満どころかなかに数%の火葬率というくらいで、地方では火葬は長い間不人気だったのです。

 

だいたい墓地埋葬法は5条で「埋葬、火葬又は改葬を行おうとする者は、厚生労働省令で定めるところにより、市町村長(特別区の区長を含む。以下同じ。)の許可を受けなければならない。」と規定していて、両者に優劣をつけていません。むろん埋葬禁止なんていっていません。ただ、条例等で禁止地域を定めていることが多いかと思います。法律は埋葬も火葬も平等に扱ってきたのですね。

 

また余分の話に飛んでしまいました。変なところにこだわっているようです。

 

遺体修復という面では、私が体験したのは中国上海市が案内してくれた火葬場での中国人の見事なほどの遺体の美しい措置というのか、これはびっくりでした。中国というか上海では、自然体というのは気に入られないのでしょうか、まあ私の印象ではどぎつく化粧したというか、きらびやかな印象でした(まあ昔の記憶ですので半分差し引いて読んでください)。

 

参列する人、身内の人、どんちゃん騒ぎのように賑やかでした。まあ祭りのようなというといいすぎでしょうけど、明るく騒いで黄泉の世界(といっているかは知りませんが)におくることがよいとされているのでしょうか。

 

こういったことは日本ではありえないなと当時は思っていました。でも<日本遺体衛生保全協会(IFSA)によると、日本では1988年以降、一般でも実施され始めた。>そうバブル時期に始まっていたのですね。でもその心はバブル的ではなく、とても精神性の強いもののように以下の内容から感じます。

 

その遺体の修復技術を記事から見てみましょう。まずおまじないからスタートです。

<処置台に載せられた遺体を前に、エンバーマーの馬塲泰見さん(51)は必ず手を合わせる。そして、「自分のやることで誰も傷つきませんように」と心の中でつぶやく。>こういった心がけで医師・看護師も患者に対していると思うのですが、忙しすぎて心が落ち着かないのではと心配します。

 

まず<エンバーミングの目的は「防腐」「殺菌」「修復」の三つ。>であることを知っておく必要がありますね。

 

そのため防腐・殺菌措置を早急にする必要があるのでしょう。

最初に血液を採るのですね。<ステンレスの処置台の枕元に箱形の機器があり、ホースが延びている。このマシンでホルマリン系の薬液を動脈から注入し、血液を排出する。><それから胸部や腹部の残留物を吸引していく。>

 

<遺体は時間の経過とともに腐敗が進み、感染症などのリスクも高まる。その処置をしながら、傷んだ部位を整えていく。>

 

傷んだ部位だけでなく汚れたりしたところをきれいな形に調えるというのもあるのでしょうね。

<処置台の近くの小さな台には「七つ道具」が整然と並べてあった。大きさも形状も違うハサミやピンセット。「トローカー」は先がとがった長い筒状の吸引器具。S字にカーブした大小の縫合用針で、開いたままの口を縫いつける。そのほか、歯ブラシ、ひげそり、爪やすりも。口の中は細菌だらけだから、必ず歯を磨く。男性の遺体は病院でひげをそっても、保湿しないと翌日には青く腫れる。お尻の床ずれ(褥瘡(じょくそう))を放置すれば、すぐにそこから体液が漏れ出す。見えない部分の処置でも手は抜けない。>

 

血液を取った後、今度は防腐剤と色素を注入して生きているに近い外観を形成するのでしょうか、荒事が待っているようです。

<遺体の中の血液を防腐剤の薬液に入れ替えるための、全身を使った「荒事」。その作業の一方で、注入する薬液に色素を混ぜて肌の色味を変える「内側からの化粧」を施したり、歯磨きや口の縫合などの細やかな作業を同時にこなしたりする。>

 

これだけでも大変な作業ですね。機械的にやっては心が欠けますね。

その点さすがです。

<馬塲さんは処置の最中、遺体に声をかける。「お待たせしました」とか、「ここを縫っておきましょうね」とか。「対話」が必要だと思う。>むろん遺族とも。これを読んでいると、まるでユマニチュードの死後版のような印象を持ったのは飛躍すぎでしょうか。

 

おまじないの意義を記者は改めて確認するのです。

<馬塲さんが処置前に言うオマジナイの意味がわかった。「誰も傷つきませんように」は、故人と遺族、ともに不用意な処置で傷つけてはならない、その戒めの言葉だった。>

 

こういったエンバーミングについて異論があることは確かでしょう。

ただ、<「死」の意識は変容する。葬送の現場は多様性を認めて大きく変わりつつある。いまは、最後の別れの場面で「生きているような姿」を見せてほしいと考える人がいてもいい。それにかかる十数万円の費用が高いかどうかは、遺族の判断だろう。>と【滝野隆浩】記者は指摘しています。

 

他方で、遺体に向き合う関係者は<プロとして、ご遺族に何ができるのかを真剣に考えているのです」>というのも事実でしょう。

 

で命の後は、誰がどう判断するか、死者は何か言えるか、遺族の領域かをいま考えています。生前、エンディングノートでその意思を残すも一つでしょう。でもそれをどう考えるか遺族が自分で対応することかもしれません。命尽きた後何かを期待するのもどうかと思うのです。

 

他方で、命の収まり方はその人が最期にできることでしょうね。

 

今日はこんなところでおしまい。また明日。