たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

自意識と混迷 <時代の風 自意識の進化=長谷川眞理子>と<東芝半導体売却 「日米韓連合」と契約 迷走の7カ月検証>を読みながら

2017-10-08 | 企業運営のあり方

171008 自意識と混迷 <時代の風自意識の進化=長谷川眞理子>と<東芝半導体売却

「日米韓連合」と契約 迷走の7カ月検証>を読みながら

 

長谷川眞理子氏は前者の記事で<私たちは、「自分」という存在を認識している。周囲の状況に応じて「自分」の行動を変えることは、どんな動物でも行うが、私たちは、そうしている「自分」を自分で認識している。それは、自意識、自己認知などと呼ばれる。>

 

この自分について、動物を対象に鑑のテストの話をされ、この鏡に映る自分を認識できることが自己認知の有無を判断する決め手の一つだが、それだけでは決まらないとニホンザルの例を引いています。

 

ではその鏡ですが、<私たちが現在使っているきれいなガラスの鏡が発明されたのは14世紀ごろだ。ベネチアングラスで有名なイタリア・ムラーノのガラス職人が発明したという話である。>ということはあのの画像と信じられてきた絵について、ご本人が見てもそうかなと思ったかもしれませんね。

 

わが国では古来の鏡、銅鏡は祀りのために使われたものでしょうか。銅鏡で自分の顔形を確認したり、美醜を話題にしたり繕ったりということはなかったのでしょうかね。

 

ところで長谷川氏はある著書を取り上げて自己を認識することから外界、自己の内面、sあらには人権意識にまで高まっていくというのを引用しています。

 

<スティーブン・ジョンソン著の「世界をつくった6つの革命の物語」(朝日新聞出版)では、ガラスの鏡の発明が、ルネサンス以降の絵画に「自画像」というジャンルを生み出し、やがて、自己の内面を語る小説という文学の誕生を促し、やがてはそれが個人の人権意識の確立にもつながっていく歴史が描かれている。個別の技術が、誰も思いもよらなかった社会の転換を生み出すというのは、こういうことだろう。技術は、ある一つの側面で生活を便利にするばかりでなく、人間が外界をどのように認識するかにも影響を与える。>

 

この新しい鏡という技術が自己認識を発展させたことから、次のような新たな技術により新たな問題が起こったかのような展開でしょうか。

 

<高度なレベルの自意識を持つ私たち人間は、現代のあらゆる科学技術を駆使して、「自分」だけに焦点を当てるようになってはいないだろうか? ペットボトルからスマートフォンまで、「個人」の自由と好みを満足させ、自分の興味にふけり、自分の感じたことをつぶやき、自撮りの画像を配信し、人々の注意を自分に向けさせようとする。「自己チュー」の横行である。>

 

この長谷川氏の立論には飛躍があるようで、どうもまだ理解できないでいます。鏡はたしかに自己認識になんらかの役割を果たしたかもしれません。しかしその機能はほんの一面ではないでしょうか。別に視覚障害の方を出すまでもなく、自分の顔形を鏡で見たからといって、自己認識が高まる人はあまりいないのではと思うのです(美意識の繊細な人は高まるかもしれませんし、芸術的なセンスのある方にも特段の影響があったかもしれませんが)。鏡は自己認識や外界との関係、とりわけ自己の内面への意識化にはあまり関係ないように思うのです。

 

さらに突然、<高度なレベルの自意識を持つ私たち人間は、現代のあらゆる科学技術を駆使して、「自分」だけに焦点を当てるようになってはいないだろうか? >と指摘する前提が、ペットボトルやスマホなどだと、ちょっとといいたくなります。むろんいずれも個人の要求に応えた部分と企業による顧客対応力や差別化の展開が生み出したものであることは否定しません。でもその商品や利用の仕方について、<「自己チュー」の横行である。>と切り捨てるのはいかがでしょう。

 

さらには<しかし、子どもが4、5歳になると他者の視点からものが見られるようになるのと同様、この自己チュー技術の社会も、そのうち他者や共同体全体への配慮を持つようになるのかもしれない。>これではまるで社会的な努力、それに向けた個々の鋭意で持続的な試みがまったく欠落しているようにさえ思えます。

 

私も四半世紀前には、ペットボトルの横行やポイ捨てなどについて、批判的な文書を書いたことがあります。しかし、大量生産・大量消費、大量破壊を踏まえて、当時からさまざまな社会的配慮が意識化し、たとえばリオサミットに結集された思い、サステナビリティという共通意識が全世界で芽生えていったように思うのです。そしてこれは個人の選択というより企業戦略、さらに資本主義の構造的欠陥という意味合いも議論されたように思うのです。

 

自己認識は、個人の問題として考えれば、生まれてから死ぬまで、適切な教育環境・規範環境を整備することにより、自己の欲望・欲求を一定程度抑制できるのではないかと思うのです。それは「見えざる手」によるのではなく、社会的なシステムが必要だと言うことです。

 

ところで話はがらと変わり、東芝問題です。東芝の東芝メモリ売却をめぐるこの7ヶ月の迷走は、とても自立した企業体とは思えない状況だったと思います。

 

この点、上記記事は、トップの綱川社長がすでに決断能力を欠いていたことを示しています。経産省の介入、銀行団からの足かせ、WDによる強固な反対活動、それに対し、鴻海や日米韓連合との駆け引き、それに加えて当事者である東芝メモリ社長の独自スタンスと、混沌した状況にあったと思います。

 

まさにそれは東芝本体が統一体としての企業統治、自己認識力を備えていなかったことの証左でしょう。しかもそれは東芝メモリ売却という現在の事柄にとどまらず、米原発企業WHの買収時、その後の経営管理自体ができていなかったことが、今日の問題の根源にあると言わざるを得ないのでしょう。

 

取締役会の合理的な意思決定(客観性やコンプライアンスを確保するため)を担保するため、社外取締役を早い時期から整えてきたわけですが、そういった形式だけでは、鏡の前のスーツ姿を飾るだけに過ぎないおそれがあります。そのことは2年前の不正会計問題が発覚したときの処理にも現れています。第三者委員会という名称の組織を作って調査させても、はじめから原発事業を全面的に対象にしていないなど、第三者性を欠落するようなやり方では、自己の問題を客観視することができないのは当然です。

 

その結果昨年暮れのWHの破産状態の発覚が遅れたともいえます。つまりは活用できる社会的な仕組み、人材がいてもトップにその意識がなければ、企業に根付いた膿をはき出すことは困難でしょう。それは鏡や先端技術ではないと思います。

 

最終的には意思決定を委ねられた、それぞれの段階の人の意識に委ねられているでしょう。いまの東芝は、残念ながら、人間の60兆の細胞を統合するだけの能力を欠いた状態で、多様に事業分化した総合企業を統御できないまま、呉越同舟でどこにいくかわからない状態ではないでしょうか。東芝の製品を使ってきた人、東芝の内外・末端で働く多くの労働者、その人たちのことが果たして考えられているのでしょうか。

 

鏡からすると、驚異的な先端的科学技術を備えた半導体を扱ってきた企業も、その統御能力がないと、危うい状態になる大いなる警鐘でしょうか。

 

今日はこの辺でおしまい。