たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

名伯楽と選手の人格形成 <よろけるほど激しくビンタ…速見コーチ>と<大坂なおみの複雑な涙>などを読みながら

2018-09-09 | スポーツ

180909 名伯楽と選手の人格形成 <よろけるほど激しくビンタ…速見コーチ>と<大坂なおみの複雑な涙>などを読みながら

 

USオープンテニス2018年に大坂なおみ選手が優勝、すごいですね。といいながら、一度も試合を見ていません。ニュースでその豪快なショットをよく見ていた程度で、まさかと思っていました。

 

どうも昨年までの大坂選手の不安定なプレースタイルが刷り込まれていたようです。強いときは見事に勝つのですが、ちょっとしたことで(本人にとってはそうでないのかもしれませんが)、かっとなって投げやりな態度になり、すっと負けてしまうのを何度か見たことがあります。

 

その点、錦織圭選手は安定していましたね。マイケルチャンがコーチになってからは、チャンさんが選手時代に見せた技と忍耐強さを身につけてきて、ずいぶんと安定したという印象です。それで錦織選手の試合は割合見ていたように思います。ただ、チャンコーチをしても、ジョコビッチ相手となるとヘビににらまれたカエルのようで、もう一つ上に上がれない限界みたいなものも感じますね。

 

たしか準決勝のころでしたか、大坂選手の錦織選手についてのコメントが面白かったですね。年齢は大坂選手が20歳で、錦織選手が28歳ですから、ずっと年上ですが、たしか子どものまま大人になったような人といった趣旨の表現で、前置きで問題発言と断りながらも、指摘していました。

 

大坂選手は、10代の時からなかなかおもしろい人だなと思っていたのですが、プレイヤーとしては、心も体も今ひとつかなとも思っていました。それがこういったコメントができるというのはなかなかだなと思っていたら、コーチが今シーズンから変わったのですね。

 

大坂なおみ、恩師バインコーチも歴史的快挙に賛辞「これ以上なく誇りに思うよ!」>では、<ドイツ出身のバインコーチは今季から指導。精神的なムラのあった大坂のポテンシャルを開花させ、今年3月のBNPパリバ・オープンで日本女子初の「プレミアマンダトリー」を制覇。試合中に助言ができるツアー大会では大坂に寄り添い、励ます姿が頻繁に見られていた。>

 

たしかにUSオープンの勝ち方は半端ないですね。そして決勝では女王セリーナ選手と渡り合い、アウェー状態で1セットも奪われず圧勝ですね。勝った相手もすごいですが、勝ち方も日本の女子テニス界に、失礼、世界のですね、抜群のシンデレラ女王が誕生したように思えます。

 

ところで決勝戦はセリーナ選手と主審との紛議、観客のブーイングという、異常な状態で試合中も、授与式も行われたようです。

 

大坂なおみの複雑な涙:USオープンテニス2018年女子決勝戦で起こったこと>で、上山仁美氏がその詳細を報告しています。たしかに主審にかみつくような抗議は、ジョン・マッケンロー氏が俺こそ天下人だといった感じでよくやっていましたね。そういえば私がテニスをよくやっていたのはその頃でした(むろん素人の下手の横好きですが)。

 

でも大坂選手の態度は冷静にプレーに集中し、授与式ではブーイングに涙を流すほど繊細でした。決勝前には、相手となるセレーナ選手について聞かれ、アイラブハーと答えて、記者から笑いを誘ったくらい、真摯でおちゃめなかわいい人ですね。

 

と長々と大坂選手の大偉業を書きましたが、彼女の成功は、まさにバインコーチによる指導の影響が大きいのではないかと思います。あれだけ試合ごとにぶれていた大坂選手がこれだけ精神的にも体力的にも安定し、抜群の力を集中できるのは、その指導のたまものではないでしょうか。人間的にも成長したように見えるのは、一面的かもしれませんが、一線毎に勝った後のインタビューでのユーモアを交えた情緒にあふれる内容は、その成長を感じますし、錦織選手以上の魅力を感じます。

 

錦織選手や大坂選手のコーチとの関係と異なり、今回の宮川選手と早見コーチの関係は残念というか、大きな問題を露呈しているように思えます。

 

先にこのブログでも一度取り上げましたが、暴力も問題ですが、パワハラの問題をおろそかにすべきではないとの観点から述べました。

 

しかし、zakzakの記事<よろけるほど激しくビンタ…速見コーチ「指導者OUT」映像の波紋 第三者委「大岡裁き」できるか>によると、その暴力は、異常なものですね。まだ映像を見ていませんが、その他の記事を見てもこの映像を見て述べられている暴力の程度はその頻度といい程度といい、指導云々をするレベルではないと思います。

 

その当事者である速見コーチが協会の処分に異議をとなえ、一旦、執行停止の仮処分申立をしていますが、このこと自体、彼にその暴力行為の問題性について自覚がない証拠でしょう。担当弁護士は宮川選手や家族も同調していることから、速見コーチの言い分を裏付けもなく一旦は取り上げたのでしょう。

 

いま、速見コーチが行った暴力行為について、そのコーチとしての適格性を問い直す議論が起こっているようですが、それ自体はあえて問題にするつもりはありません。ただ、異常な暴力を目撃し、いや、映像にまでして残した関係者は、一体、なぜそのとき問題にせず、放任したのでしょうか。

 

そのような指導者として適格性に疑いのある行為をした場合、誰でも協会に告知し是正するようなシステムや状況が、いくら暴力追放宣言?をしても、実際には機能していなかったのではないでしょうか。それは暴力に限らず、暴言・侮蔑的言動などのパワハラがまかり通っている体制に問題があるように思うのです。

 

それは上はメダル獲得数を争い、下は小中学校からずっとそのような環境を是認する雰囲気がスポーツ界に根付いているからではないでしょうか。それはコーチだけの問題ではないと思います。協会という組織もそうですが、各学校やスポーツ運営団体も同様でしょう。

 

そして選手の家族の問題も少なくないと思うのです。未成年者であれば、両親には親権者として子が健やかに心豊かに生育させる権利とともに義務があるのです。コーチがいかに子どもの成績向上に役立つといっても、人権無視の暴力やパワハラを行っていれば、それは断固止めるべきではないでしょうか。

 

むろん成績至上主義がはびこっている現在のスポーツ界(すべてというわけではなく、多くは改善に向かっていると期待したいです)について、真の意味でのパラダイムシフトが必要でしょう。

大事なことを補足しておきます。

DVの問題では、子どもの前でDVを行うことが子どもに対するDVでもあることは現代では当然視されています。そこで他の選手がいる前でコーチが暴力、暴言をすることは、他の選手との関係でも許容されないと見るべきではないかと思います。


 

なお、<宮川紗江側、体操協会パワハラ第三者委に待った…委員長と塚原夫妻に“つながり”>といった宮川選手の側の考え方は、速見コーチに対する姿勢とともに、冷静さを欠いているように思われます。

 

その異議の理由は<第三者委員会の委員長に就任した岩井重一弁護士は、朝日生命が株主になっている会社の顧問弁護士も務めている。>ということであれば、利害関係を云々する事柄ではなく、宮川選手の代理人弁護士も100%信用したいとコメントしているようですが、それこそ当然の対応でしょう。

 

岩井さんは、私が東弁時代、委員会で一緒に仕事をした記憶がありますが(30年くらい前)、温厚でバランス感覚が良く、人気もあったと思います。むろんそのような人柄のことは関係ありませんし、利害対立の可能性があるか否かは自ら慎重に調査して、引き受けていると思います。少なくとも上記の関係が利害関係を論ずるには当たらないことは誰も異議はないと思います。

 

それにしても、わが国のスポーツ界に適切な指導体制を早くつくってもらいたいものです。単にメダル獲得数が多いとか、勝利主義にはまるタイプでない、コーチの要請が課題でしょう。

 

今日はこれにておしまい。また明日


「能力社会」の誤謬 <暴力、パワハラ続出のスポーツ界 「服従の構図」どう変える?>と<劇団四季 男性俳優が飛び降り重傷>を読んで

2018-09-06 | スポーツ

180906 「能力社会」の誤謬 <暴力、パワハラ続出のスポーツ界 「服従の構図」どう変える?>と<劇団四季 男性俳優が飛び降り重傷>を読んで

 

今日は朝から和歌山に出かけ夕方事務所に帰ってきました。台風の影響か少々混み合っていて渋滞が続き、少々疲れました。裁判自体よりドライブが結構こたえるものです。

 

それでも昨日でなくてよかったと思います。暴風で車が飛ばされるか、あるいは横揺れなどで他の車や物とぶつかるおそれもありましたね。ニュースでは横転している車がいかに多かったか、ほんとにすごい台風でした。

 

昨日関空の被災について書きましたが、今朝の毎日は何面も使ってかなりの情報を提供してくれましたので、補足してもよかったのですが、ま、これから本格的な調査があり、より科学的検証的なものが行われるでしょうから、それを待ちたいと思います。

 

他方で、弱り目に祟り目ではないですが、北海道で震度7の地震、これもまた自然の脅威を見せつけられた思いです。<毎日写真記事>には土砂崩れというか、山体崩壊のような状態の写真がたくさん掲載されています。

 

ところで今日は、昨日の夕刊記事<特集ワイド暴力、パワハラ続出のスポーツ界 「服従の構図」どう変える? どんな人間を育てたいのか?教育の視点が欠落>を踏まえて、少しスポーツ界の「服従の構図」というものを考えてみたいと思います。

 

まず記者の鈴木梢氏は<体操、アメリカンフットボール、レスリング、ボクシング……。暴力やパワハラなどの不祥事が絶えないスポーツ界で浮かび上がっているのは、権力を盾に選手を黙らせる「服従の構図」だ。>として、<このような体質を変革するには、どうしたらよいのか。>と問いかけます。その解について、女三四郎と言われた山口香氏と、組織から一歩離れたアウトサイダーのような立場から為末大氏の意見を採り上げています。

 

山口氏は、まず暴力を強く否定しています。<「いくらコーチに熱意があっても、暴力は許されるものではありません。今のスポーツ界のスタンダードでは、だれが通報しようと、利害関係者がどう感じていようと、殴るという行為はアウトです」>

 

それ自体は正論でしょう。ただ、暴力といってもいろいろありますし、暴力以上に被害者側に甚大な心的被害を与える行為もあります。それはたとえば高齢者や障害者に対する虐待行為の多様な例があるとおり、スポーツ界でも暴力の問題性を強調することで、他の問題行為を見過ごしにするのであればかえって問題の本質を見失うことになりかねないと思います。

 

むろん山口氏が取り上げた宮川選手の記者会見の内容については、同選手の意見の詳細は知りませんが、多少問題があったと思います。ただ、山口氏は、同選手がコーチの暴力を認めつつ、パワハラとの認識を否定し、他方で、協会幹部のパワハラを主張したことを問題にしているようです。同氏は、<スポーツ界における暴力をいかなる理由があっても認めない。>立場で、<児童虐待と根が同じと考えているからだ。>というようですが、疑問です。同氏は、親が子に暴力を振るい、しつけと主張した例を取り上げています。しかし、問題の類似性は認めますが、競技スポーツという組織構造とは別次元の話ではないでしょうか。

 

そもそも児童虐待にいう「虐待」は、多様な形態があり、むろん暴力も含まれますが、より深刻なのは食事を与えないとか、監禁するとか、差別的・侮蔑的な言動などいくつもあります。暴力は見えやすいですが(第三者に知られないところでの暴力もありますね)、残らない・見えにくい言動こそ注意する必要があるように思うのです。しつけと言ってどんな言動をとってもいいとしたら、それこそ問題ではないでしょうか。暴力を否定することは正しいと思います。しかし、それだけに着目し、パワハラとか虐待を軽視すると、「服従の構図」というものがより根付いていくおそれがあると思うのです。

 

為末氏は、その点、冷静に観察しているようにも見えます。パワハラの問題として取り上げています。選考基準が明快な競技とそうでない競技でパワハラの可能性が異なり、後者に怒りやすいというのです。

 

<明確なタイムや順位を競う陸上や水泳は実力の差が明白なので、代表選考に私情を挟みにくい。体操やフィギュアスケートなどの得点競技や、監督の裁量権が大きい集団競技は、選考基準が曖昧なので権力が集約されやすい。アメフットは競技特性上、選手は個人を犠牲にしてチームに貢献しなければならないので、軍隊と構造が似ていて、意識しないとパワハラが生まれてしまう。>なかなか説得力ある指摘です。

 

その根源について、山口氏は成功体験としての64年東京オリンピックを上げています。

<源流は1964年、金メダル16個を獲得した東京五輪にあるという。「環境整備が不十分な中で世界に勝てたのは努力と根性のたまもので、理不尽なしごきや体罰もメダルが取れれば美談になる。高度経済成長で右肩上がりの日本には社会全体に根性論があり、成功体験につながったわけです。それが時代の生き方にも通じるから、容易には否定できない。今も一定の世代に古き良き記憶として染みついていると思います」>

 

そうかもしれませんが、もっと遡れば、戦前からの体質がそのまま継承され、競技社会の中で、指導のあり方や指導者像について、オープンな議論もなく、獲得したメダルの獲得数だけを追い求める結果主義に、競技会、政府、マスコミ、国民もすべて傾倒しすぎたのではないでしょうか。成果主義で、その手続、指導のあり方、人としての成長のあり方を問うてこなかったことに問題の根源があるのではと思うのです。

 

選手ファーストということが取りざたされ、まるでトランプ大統領のアメリカファーストもどきですね。たしかに指導者や協会組織がパワハラを行ったり、それを見過ごしたりしてきたに対して、選手の立場に立って指導や選考方法を改めること自体は結構なことだと思います。

 

しかし、為末氏が指摘するように、<スポーツとは勝つことがすべてだったのだろうか? スポーツを通じどのような人間を育てたいのか?」。一連の問題は教育の視点が欠落していることから生じている、との結論に行き着いた。>という人間教育の視点は重要だと思います。それは教育する側、教育を受ける側、そして競技をみる観客の側など、大局的な視点が必要ではないでしょうか。そういう視点からの見直しを検討してもらいたいと思うのです。

 

山口氏のまとめも的を射たものだと思います。

<「私たちの目標は自立して生きられる成熟した人間を育てること。年功序列だった時代とは違い、従順で文句を言わずに働く人が求められるわけではない。選手として暴力は嫌だと意思表示できることが重要なように、社会に出たら自分の身を守るために適切な判断をできる人になってほしい。メダルを取るためだけに強化費を使うのではなく、ロールモデルとなる人材を送り出し、社会に還元することも考えなくてはなりません」>

 

それにはどうする必要があるのか、オープンな場で議論をする組織になってもらいたいと思うのです。

 

ちょっと前段が長引きました。もう一つの毎日朝刊記事<劇団四季男性俳優が飛び降り重傷 パワハラか>は、スポーツ界同様に、芸能やエンタテインメントなどの世界でも、同様ないしはより深刻な問題が長い間等閑視されてきたように思うのです。

 

<故浅利慶太さんらが創設した「劇団四季」(横浜市青葉区)の男性俳優(27)が今年7月、同市内のマンションから飛び降り、重傷を負っていたことが明らかになった。劇団の看板俳優(56)からのパワハラが原因とみられ>るとのことです。

 

この飛び降り事件を見て、10年以上前に横須賀の港近くのマンションで起こった飛び降り事件を思い出しました。窪塚洋介という若い俳優が9階のマンションから転落して、頭蓋骨骨折とか重傷を負ったものの、命の別状はなかったということで、当時結構、その原因について騒がれていました。私も横須賀に住み、割合、ドライブに行く場所に近かったので通りかかったことがありますが、あの高さから落ちて無事だったのが信じられませんでした。

 

今回の俳優の飛び降りと似たような問題があったのかどうか、気になるところですが、これは不明のままで終わるのでしょう。

 

しかし、四季の俳優の場合、<同劇団などによると、自殺未遂を図った男性は人気演目「キャッツ」の主役級キャストを務めていた。稽古(けいこ)を指導していた劇団スーパーバイザーの俳優から他の出演者の前で叱責され、役を降ろされて悩んでいたという。>

 

こういった劇団などでは、指導者や先輩が当たり前のように大勢の前で、辛辣に叱責することを問題視する声は滅多に上がらないのだと思います。そのような叱責がその人を鍛えることになるとして、許容されてきたのだと思います。叱責が適切な場合もあるかもしれません。しかし、人によっては自死しかないと追い込まれるかもしれません。暴力以上に残酷な行為の場合もあるでしょう。

 

それはTV等の番組に登場するような人たちにもあるのだと思われます。

 

私たちの世界は、長くパワハラ・セクハラ、さらには差別的な言動を、長い間等閑視してきたように思います。最近の状況は少しずつ改善に向かっていることを期待したいと思うのです。

 

今日も少し長くなりました。このへんでおしまい。また明日。


不祥事とブラックボックス化 <スポーツ界不祥事 競技団体へ募る不信感>と<公文書クライシス 折衝記録「発言要らぬ」>などを読みながら

2018-08-30 | スポーツ

180830 不祥事とブラックボックス化 <スポーツ界不祥事 競技団体へ募る不信感>と<公文書クライシス 折衝記録「発言要らぬ」>などを読みながら

 

スポーツ界は次から次と不祥事が噴出している印象です。長年、当たり前のように行われてきたものかもしれません。本来おかしいことが閉鎖社会であったことや内部人間はもちろん、世間の意識も感性に問題があったのかもしれません。

 

世界的な適正なルール、個人の尊重という当たり前のことがわが国でも一般化され、個々の選手や関係者の意識も自然に問題意識が醸成されてきたのでしょうか。まだまだ氷山の威嚇のようにも思えます。オリンピック代表や日本を代表する競技団体だからでしょうか、大きく話題になり、また、個々のアスリートの意識も高い倫理性が求められ、それを自ら形成してきたのかもしれません。

 

それにしても今朝の毎日記事<スポーツ界不祥事競技団体へ募る不信感 解決、国頼み>には今年だけで合計10の競技団体・選手で不祥事が発生しています。選手個人の問題といえるケースもありますが、団体自体の問題と同様、少なくとも当該競技団体自体に適切なコンプライアンスやガバナンスが確立していないことを十分に感じさせてくれます。それはおそらく不祥事が露見した団体だけの問題ではないでしょう。

 

ところで今回は体操競技で発生した、以前にも見たような不祥事が少し色合いを変えて起こったように思えます。

 

事件は816日付け毎日記事<体操選手指導で暴力 協会、コーチを登録抹消>で、<日本体操協会は15日、選手指導で暴力行為があったとして、速見佑斗コーチ(34)を同日付で無期限の登録抹消処分にしたと発表した。同協会関係者によると、2016年リオデジャネイロ五輪代表の宮川紗江選手(18)に対する暴力という。

 関係者によると、東京都北区の味の素ナショナルトレーニングセンター(NTC)での練習中、頭をたたいたり、髪の毛を引っ張ったりしたという。今年7月、暴力行為を目撃した関係者から報告があり、協会が調査していた。

 速見氏は協会の聞き取り調査で暴力行為を認めており、協会は懲戒委員会を開いて処分を決めた。>とコーチによる暴力行為の認定とその無期限登録抹消処分というスピード決定の印象があり、同協会の迅速の対応として評価されるような動きでした。

 

ただ、この記事を私は見過ごしていましたが、この記事からは暴力の内容は<頭をたたいたり、髪の毛を引っ張ったり>というもので、いつどのような経緯で行われたのか、宮川選手や他の選手への影響がどうだったのかよくわからないもので、それにも関わらず処分が重いことから行為と処分との均衡が図られているといえるか、誰もが不審を感じるのではないでしょうか。

 

案の定、それが今回問題になっています。まず、825日毎日記事<体操宮川選手コーチ、地位保全を申請 パワハラ処分で>と、コーチが処分を争って仮処分を申し立てています。

 

そして今日の毎日記事<体操指導中暴力 コーチ処分 宮川選手、撤回訴える 体操協会は反論>では、<宮川選手は、速見氏から顔をたたかれたり、髪の毛を引っ張られたりするなどの暴力行為を受けたことは認めた。時期は1年以上前までで、大けがにつながるようなミスなどをした際に限られ、「指導をパワーハラスメントと感じたことはない。処分は重すぎる」とした。「毎日不安で練習に集中できない。責任を持って戦えない」とし、世界選手権(10~11月、ドーハ)代表候補を辞退することも明らかにした。>

 

私は、宮川選手の記者会見の一部をテレビで見ましたが、しっかりした口調で、おそらく内容も基本は自分で書いたものではないかと思うほど、しっかり理解した上での発言でした。

 

この発言を聞いた印象ですが、宮川選手はしっかり自分の意見をコーチに言えるような環境で、指導を受けてきたのではないかと思われるのです。おそらく18歳の年齢で、大勢の記者を前にあれだけの内容を、文書を見ながらでも発言することができるということは、普段からコーチと自由な意見交換を行ってきたからではないかと推測するのです。

 

このようなコーチと選手の関係は本来的ではないでしょうか。むろんちょっと見ただけの判断ですので、即断するのは早すぎますが、それにしても立派な態度であったと思います。

 

その宮川選手が、他方で、<7月に日本協会の塚原千恵子女子強化本部長らと面談した際、速見氏との関係を断つよう何度も迫られたと主張。「高圧的に言われ、コーチと引き離されてしまう恐怖と苦痛でおかしくなりそうだった」と話した。

 日本協会が東京五輪に向けて有力な若手を集めるプロジェクトに加わるよう何度も迫られ、16年12月には塚原強化本部長から電話で「五輪にも出られなくなるわよ」と言われたと訴えた。>とあります。別のスポーツ紙では、このときの塚原氏との会談では、「恐怖で真っ白になった」といった記事がありましたが、この内容であれば、当然そうなるでしょう。

 

塚原夫婦は、長い間にわたって日本体操界をリードしてきた有能な方だと思いますし、多くの子供がその指導を受けたくて大変な競争に勝ち抜かなくてはならなかったことでしょう。しかも協会の重鎮となっているわけですから、その発言は普通の大人とは違うでしょう。

 

むろん宮川選手の発言は、コーチの指導を受けたいために偏っている可能性も否定できません。しかし、少なくとも敬愛するコーチが登録抹消となったときに、18歳の選手を呼び出して夫婦でなんらか説得をしたとすると、その発言はそれだけで脅威になることを彼らはどの程度意識していたか、疑問に思います。

 

今回の事件においても、選手、コーチの自主性をどの程度協会は尊重していたのか、疑問を感じます。むろん暴力は許されないことです。しかし、体操競技という一歩間違うと大怪我どころか一生台無しになるほど危険性の含まれる競技ですから、一定の強い指導はやむを得ない場合もあるでしょう。その処分は十分な事実認定を経てその影響も考慮してなされるべきではないかと思うのですが、単に暴力をふるったとして永久登録抹消とはいかがなものでしょう。協会自体の適正手続が図られていたのか検証されるべきでしょう。

 

ところで、今朝の毎日一面記事は<経産省折衝記録「発言要らぬ」 内部文書、指針骨抜き>でした。

 

もりかけ問題を踏まえて、<安倍首相は3月の参院予算委で、「ガイドラインを改正し公文書管理の質を高める取り組みを行った」と強調した。>はずですが、現実は、<実態はかけ離れており、行政のブラックボックス化が進んでいるのではないか。【杉本修作】>

 

<政治家ら省内外の人物と折衝した際に作成する公文書について「議事録のように個別の発言まで記録する必要はない」などと記載した経済産業省の内部文書を毎日新聞が入手した。文書は複数の会議で使用され、出席した職員は「誰が何と言ったか分からないよう、議事録を残してはいけないと指示を受けた」と証言した。>

 

さらに驚きは毎日記事<カンボジアPKO25年前の文民警察官銃撃死、報告書は既になく 警察庁、隊員アンケートも「保存せず」>です。隊員が犠牲になったことも含め几帳面に作成され報告された記録は、国民にとって公共財産です。それを保存していないのですから、あきれるばかりです。臭いものに蓋とは違うはずです。

 

政府・官僚がこのような事実を覆い隠すようにブラックボックス化の方向を一段と強め、安倍首相の国会での発言が空疎なものであるなら、スポーツ界の悪しき慣習を非難できなくなるでしょうね。ま、協会等では会談の議事録はとっていないようですが、少なくとも明らかになった不祥事の改善策を明確に示してくれるものと期待したいです。

 

少々時間をオーバーしたようです。今日はこのへんでおしまい。また明日。

 

 


強い組織と人 <「“全員リーダー”の組織論~帝京大ラグビー9連覇」を見て

2018-02-28 | スポーツ

180228 強い組織と人 <「“全員リーダー”の組織論~帝京大ラグビー9連覇」を見て

 

先ほどまで会議に出ていて、いま事務所に帰ってきました。これから本日の話題を考えてと思って、ニュースを見ましたがどうも冴えません。何かないかと思案して、昨夜見た<BS1スペシャル「“全員リーダー”の組織論~帝京大ラグビー9連覇」>について、少し書いてみようかと思います。

 

私自身、学生時代、たぶん一度もラグビーの試合を見に行ったことがなかったと思います。最初に見たのがもしかして、同志社大の平尾選手が国立競技場で活躍した試合だったのではないかなと思うのです。京都で知り合った同志社大の女学生が平尾選手のファンで、平尾選手を追っかけて上京するというので一緒に見たような記憶です。京都時代、写真にこっていて、仲間内でモデルになってもらって協力してもらった女学生だったので、あまり関心がなかったのですが、観戦しました。

 

ところが、そのとき初めて見た平尾選手は華奢で、こんなん体格で大丈夫かと思ったら、とんでもない華麗なフットワークというかステップで相手の防御陣をすり抜けてトライするのには、痺れました。その頃平尾選手の同志社大は強かったですね。それまでは早大、明大が図抜けていたように思いますが、このころの同大は見事でした。でも3連覇でしたか。

 

その後はいろいろな強豪チームが現れましたが、でもたいてい一年か二年の天下に終わっていました。やはり中軸となる4年生が卒業し、新しく1年生が入るといった大学チームの場合、優勝を連続することは極めて困難だと言うことはよくわかります。

 

それに比べて実業団の場合は中軸のベテランがずっといて(プロ野球みたいに移籍することはあまりないですから)、強い組織ができると連続優勝は可能性が高まるのかもしれません。松尾選手がいた新日鉄釜石がそうでした。松尾選手の頭脳プレーはいつまでも目に焼き付いていますし、スクラム陣の強固さも凄かったですね。

 

新陳代謝とも言うべき入れ替わりが組織の宿命とも言うべき大学チームであるにもかかわらず、帝京大学はなんと9連勝を果たしたのですから、これは脅威です。たしか最初の1勝も初めての優勝だったのではないでしょうか。関東大学ラグビーチームの中で、毎年割合強い実績を残していたと記憶しているのですが、頂点とか、それに近い位置まではなかなかいけなかった記憶です。もう40年以上前の話ですが。

 

最近の帝京大の試合を見ていると、負ける気がしないくらい、まるで大鵬みたいと思ってしまいます。でも今年の明大戦は勝負では負けていた印象を感じています。明大選手のキッカーがゴールキックをずいぶん失敗した運があったように思います。なぜ明大がここまで強くなったのかはわかりませんが。

 

元に戻ると、この明大戦を除き、大学チームとの闘いで負けるおそれのあるような展開は、おそらく9連勝の中で一度もなかったのではないでしょうか。それくらい強い帝京大、何が変わったのか、なぜそうなったのか、NHKはどのようにその要因にメスを入れるのか楽しみでした(偶然、チャンネルを回したら画面に出たのでしたが)。

 

でも、あまりよくわかりませんでした。技術的な部分、体力増強的な部分など、中核的な内容はもしかしてノウハウとか機密事項ということで、明らかにしなかったのでしょうかね。

 

ただ興味深い点は、岩出監督が選手全員に求めるのが、ラグビーをうまくなって優勝することではなく、彼ら一人一人が自立して自分で考えて社会に出て幸せになる人間に育っていくことといったことであったと思います。やはり優れた監督は、一人一人を大事にして、個々の人格的成長を見守り、幸せになる力を育てるという、人格形成を中軸に据えているのですね。

 

いや、そんなきれい事ではなく、絶対勝つことだ、連覇だといったことがないはずはないというかもしれません。しかし、大事な子どもたちを預かり、練習に参加する選手は150人もいるのに、選手登録されるのはわずか24人でしたか、チーム内での競争もとてつもなく厳しいわけですね。ほとんどが公式試合に出場できない補欠となるわけですから、そういう選手たちに気持ちを込めて対処しないと、有能な選手も生まれないでしょう。

 

高校時代は日本代表になったような優秀な選手が、当然、連覇を続けている強いチームに憧れて入ってくるわけですが、必ずしも選抜されるわけではないわけですね。そのときの挫折感は相当なものでしょう。でもしっかりと選抜選手をサポートする、そういう組織力、団結力がないと、連覇を9回も継続できるはずがないでしょう。

 

監督の明確な方針、一人一人の幸せになる力の強化は具体的にはさほどめいかくとはいえませんが、わかりやすい一つの例が紹介されていました。

 

たしか全員寮生活で、1年生から4年生まで一緒です。ここで思い出すのは、いまでいうパワハラ、先輩のしごきです。いやそうでなくても体育会特有の先輩至上主義的な風潮は、最近、相撲界でも問題になっていますが、大学ではよく事件となったように思います。明大、関東学院大などなど。とても強い時代に、大きな落とし穴となり、いずれも長い間弱体化していたと思います。

 

ところが帝京大では、4年生が、新入生に対して、荷物運びをやったり、グランド整備をしたり、たいていの体育会系の上下関係が逆転しているのです。脱体育会系というようです。スポーツにおいて、年齢や先に入会したかどうかではなく、技能が優れているか、チームプレイが優れているかどうかといった、能力こそ適正に評価され、それ以外は平等に取り扱われるべきでしょう。おそらく欧米のスポーツ界ではそれが当たり前ではないでしょうか。

 

それを岩出監督がラグビー界ではじめて?やったのではないでしょうか。そうなるとどこに大学に入ろうかと悩んでいる高校生は、先輩のしごきもなく雑用をさせられることのない、人間らしい大学生活を送れる帝京大を選ぶのは当然でしょう。

 

というか、学生として、あるべき生き方を学ぶことができる場を提供してくれているように思えるのです。ある意味で、大学生は自由すぎるくらい自由ですが、社会人としてのルールを、チームワークという形で自然と学ぶこともできるのかもしれません。

 

先輩がグランド整備をしたりしていれば、なにがチームに求められるかを自分の頭で考えることができるようになるチャンスでもあるでしょう。逆に、先輩からあれやれ、これやれと言われるままにしていれば、自主的な発想は生まれませんね。

 

帝京大の強さの秘密は、この放送だけではあまりわかりませんでしたが、学生相互や監督、さらに支援するスタッフたちとの間の意思疎通といったコミュニケーションはうまく図られている印象を持ちました。

 

ぼっと見ていたのでしょうか、あまりその秘密を理解できないまま、適当に書いてしまいました。青学の原監督のようにずばずばとはっきり話す方だと、わかりやすいような気がしますが、岩出監督は奥が深いのかもしれません。

 

今日はこのへんでおしまい。また明日。


オリンピック考 <五輪壮行会、非公開・・・機運損ねる過剰な抑制>などを読みながら

2018-02-27 | スポーツ

180227 オリンピック考 <五輪壮行会、非公開・・・機運損ねる過剰な抑制>などを読みながら

 

平昌五輪は、日本としては冬季としては過去最大のメダルラッシュもあり、かなりの盛り上がりがあったようですね。開幕前は北朝鮮との緊張状態や、韓国内での人気が今ひとつで切符の売り行きも悪く、施設整備もどうなるかと不安が随所に聞かれていましたが、TV放映はとくに日本選手の活躍もあってわが国ではかなり熱狂したようです。

 

私自身は、TVはほとんどNHKを見るのですが、それがオリンピックムード一色みたいで、録画番組をほとんど見ていて、たまにニュースで選手の活躍を見る程度でした。とはいえスピードスケートなど一部の選手の放送は結構しっかり見ていましたが。とはいえ開幕式も閉会式もスルーしました。全体としてまるでTV放映のためにオリンピックがあるかのような演出が随所にあり、興ざめを感じてしまうからかもしれません。

 

それにしても放映権を中心に知的財産権をめぐるオリンピック運営のあり方には、疑問を投げかける人が少なくないですが、私も同感で、仕事が一段落した5時になったので、少し書いてみようかと思います。

 

アスリート・ファーストという言葉がなんどか聞こえてきました。私がたまたま見たスキー・ジャンプ競技の女子選手のとき、私も高梨沙羅選手を見ようと、かなり早い段階から見ていましたら、途中でなんどか競技がストップするのですね。風が強いとか、弱いとか、向かい風があると有利とか(私は前のブログで逆を書いてしまいました、よくわかっていないのです)。競技開始時間が結構遅いのですね。平昌はかなり寒さが厳しいところであるのに、深夜に実施するというのはなぜかと思うのと、放映権者の都合なのですね。深夜帯が欧米のちょうどよい視聴時間帯になるようで、それに合わして競技時間も設定しているそうです。これは東京オリンピック・パラリンピックも同じですね。今度は真夏の酷暑の中に競技させられるのです。

 

まるで、古代ローマの競技場で闘わされる戦士のように思ってしまいます。だいたい見たければ録画すればいいのですし、なぜ生放送を視聴することにこだわるのでしょう、なんてことを言うと、放映権者だけでなく視聴者の多くから袋だたきにあいそうでしょうか。

 

むろんアスリートは、どのような厳しい条件でも、選手同士は平等の条件で闘うからそれ順応するように訓練してきたのでしょうけど、ちょっとやり過ぎではないでしょうか。

 

でも、メダルをとった選手たちの、個々の口から出る言葉は、力強く、逞しく、そして多くの人への感謝を告げる、優しさ、気遣いの心など、多くの人に感動を与える物であったかなと思うのです。厳しい条件だからこそ、それに耐え抜き生まれる精神力、力強い個々の発言力でもあるのかもしれません。

 

だいたい、羽生結弦選手も、渡部暁斗選手も、ひどい骨折をかかえて、痛みに耐え抜いて競技に参加しメダルを獲得するのですから、こういった精神力・肉体力は、やはり多くの人に見てもらい感動を与えるだけの高い価値があることを否定する人はいない、あるいはほとんどいないと思います。

 

ただ、他国のアスリートたちの活躍や発言までフォローすると、時間がいくらあっても足りないでしょうね。

 

前口上が脱線して戻ってこれそうもなくなりそうになったので、この程度にします。

 

本題は上記の放映権の巨大化、オリンピック運営に対する支配力と関係することです。

 

毎日記事は、この点本日のクローズアップ2018で大きく取りあげています。<五輪壮行会、非公開 「応援」「宣伝」違い不明確 機運損ねる過剰な抑制>と。

 

それは壮行会から始まっていました。<五輪壮行会報道公開中止相次ぐ JOC指針が背景に>では先月18日の記事で、<各地で開かれている平昌五輪代表選手の壮行会で、報道陣への公開が直前に急きょ中止されるなど混乱が相次いでいる。壮行会の開催告知すら満足にできず、人が集まらないケースもあり、関係者に困惑が広がっている。なぜ、こんな事態になっているのか。【平本泰章、福田智沙/東京運動部】>と問題提起しています。

 

<フィギュアスケート女子代表の坂本花織選手(シスメックス)が通う神戸野田高校は、9日に壮行会を開いた。報道各社には事前に案内を出していたが、直前に非公開とした。法政大も15日にアイスホッケー女子代表の3選手の壮行会を開いたが、当日朝に公開中止を決め、報道各社に連絡した。選手の記者会見だけ公開し、続いて行う壮行会は非公開にした例もある。>

 

ここでJOCの指針が取りあげられています。

<背景には、国際オリンピック委員会(IOC)の規則に従ってJOCが定めた五輪の知的財産保護の指針がある。五輪のマークや名称などを宣伝目的で利用できるのは、日本国内ではIOCのスポンサー13社と、2020年東京五輪のスポンサー47社に限られる。>

 

つまり、ポイントは、五輪のマーク・名称利用の制限をJOCが独自の方針を示している点で、それは次のような内容のようです。(ここで電話連絡があって、30分あまり中断し、ちょっと脈略があいまいになっています)

 

<それ以外の企業や学校が壮行会を開く場合、内部の関係者のみの参加で非公開とする条件で許されている。一般や報道陣に公開したり、写真や動画をホームページやソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)に掲載したりするのは、五輪の商業利用でスポンサーの権利を侵害するとみなされ、認められていない。競技団体や選手の出身地の自治体が主催する場合には公開できるが、「企業色、商業色がない」という条件付きで、所属企業や学校のロゴなどは見せてはいけない。指針に違反すると「選手の大会資格剥奪につながる恐れがある」と記されている。>

 

この指針は以前からあって、いままでは壮行会は把握できていなかったか、黙認されてきたようです。

<問題の指針は以前からあり、JOCから各競技団体を通じて選手の所属先に伝えられている。JOC広報・企画部の担当者は「浸透度に差があると感じている」と漏らす。JOCも一つ一つの壮行会の実情を把握しきれず、これまでは黙認したケースが多かった。しかし、20年東京五輪を見据えて指針の徹底を図っている。また、ある選手の所属先が昨年末に開いた壮行会が大きく報じられたことなどを機に、指針の再確認を呼びかける競技団体もあり、公開を控えるところが増えたようだ。>

 

この方針では壮行会だけでなく広範囲に利用制限が及ぶことが明らかです。

<五輪期間中に選手の所属企業や学校が開く応援行事や、五輪後の報告会も同様の扱いとなる。選手の五輪での結果や様子をホームページなどで発信することにも制約がある。>

 

で、再び本日のクローズアップ2018を取りあげますと、このJOCの指針について、<東京五輪・パラリンピックに向け、全国約800校の短大・大学は大会組織委員会と連携協定を結び、盛り上げに一役買っている。東京五輪・パラリンピックに向け、政府に非公開の改善を要望する日本私立大学協会の小出秀文事務局長は「公立、私立問わず、大学は連携して東京五輪に向け機運をもっと高めていきたいとしている。JOCの規制には義憤を感じる」と語る。>と不満があがっています。当然ですね。

 

で、JOCの方針はどのような位置付けなのでしょうか。

<JOCの指針はIOCが五輪憲章で定めた「五輪競技大会はIOCの独占的な資産」に基づいている。1984年ロサンゼルス五輪で商業化路線にかじを切ったIOCが規制を強化した。しかし、IOCのマーケティング責任者のティモ・ルメ氏は毎日新聞の取材に「ルールの目的はスポンサーの権利保護であり、非商業的、教育的な利用は合法だ。こういう事柄は各国に任せている。東京五輪に向けては、JOCの責任で判断して、何がベストか考えるべきだ」と柔軟な姿勢だった。>

 

では、JOCのガイドラインはどうなっているのでしょうか。JOCのホームページを探したのですが、<オリンピック等の知的財産の保護について>のみで、これではガイドラインになりませんね。結局、見つからなかったので、毎日記事がコンパクトに整理した表を引用します(表はコピペできませんでしたので省略、毎日記事を参照ください)。

 

上記の3段目に、<選手の所属企業による壮行会、報告会などの外部への公開の禁止>が上げられていますので、これに該当するということでしょうね。

 

しかし、その上の<マークの使用など五輪をイメージさせる広告やPR>とは明らかに異なる形態ですね。むろん知的財産権の専門家からのアドバイスを受けて、異なる類型を取りあげたのでしょうから、当然ですが、このマーク使用などは知的財産権の核心ですから当然ですし、それを含む五輪をイメージさせる広告やPRは、まさに知的財産権の保護に抵触するものとして、だれもが異論ないと思うのです。

 

ところが、壮行会とか報告会などが外部に公開されることをもって知的財産権の不正な利用と言えるのでしょうか。便乗商法とレッテル貼りできますかね。疑問です。

 

<日本オリンピック委員会(JOC)が所属先の学校、企業の壮行会やパブリックビューイング(PV)などが宣伝目的にあたると指導していた。>

これも方針に則った指導でしょうけど、おかしくないでしょうか。「宣伝」の定義を拡大しすぎていませんか。たしかに選手事態がオリンピックをイメージしますし、ユニホーム姿であれば、まさにオリンピックのマークなども表示されているでしょう。それを所属先の学校、企業の宣伝と断じるのはいかがなものでしょう。裁判で争ったとき勝てますかね。

 

オリンピックが商業化し、巨額の費用でしか実施できなくなってきた状況の中で、その支援団体のよりどころとなる知的財産権を保護する姿勢は、半分わからなくもないですが、極端すぎませんかね。

 

<五輪マークや名称を使用できるのは、IOCスポンサー13社と東京五輪・パラリンピックのスポンサー47社となる。スポンサー料は選手強化や大会運営費に充てられており、アンブッシュマーケティング(便乗商法)の規制は過去の五輪でも課題だった。>

 

この問題提起自体どうでしょう。マーク・名称の使用という概念の一人歩きではないでしょうか。「使用」という場合、やはり中核はマーク・名称であって、選手個人は知的財産権の対象ではないはずです。むろん壮行会や報告会で、たしかに五輪マークを掲げて、それを明示的に示すといったことになれば別ですが、あくまで選手個人が主体の壮行会であり、報告会ですから、それをルール違反というのはいかがなものでしょう。

 

<組織委も昨夏、超党派のスポーツ議員連盟にアンブッシュマーケティングの制限について法制化を要望している。規制と機運醸成の両立のため、鈴木俊一・五輪担当相は「みんなが納得できる基準を示さなければいけない」と指摘している。>

 

結局、現在のガイドライン中、少なくとも壮行会や報告会については、原則自由として、仮にどうしても制限するというのであれば、マークや名称を利用することを禁止すれば足りると思うのです。垂れ幕ではマークなどは使わないでやればいいのです。五輪の宣伝にはなりませんが。そんなけちくさいことをやめて、壮行会や報告会、パブリックビューイングくらい、自由にやらせてあげる度量が欲しいですね。

 

私個人は、アスリートの素晴らしさを感じますが、そういったものに参加するつもりはありません。でもそういう感動を一緒にしたい人のために、知的財産権の不当な行使は、そのあり方として疑問です。

 

とくにマイナー競技といわれるパラリンピックの選手の場合、こういった制限は中小規模の支援が多いと思われる中で、厳しい事になることは予想されますので、そういったアスリート・ファースト、障害者ファーストのパラリンピック支援のためにも、新たな前向きのガイドラインをつくってもらいたいと思うのです。

 

本日はこれにておしまい。また明日。