たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

自分の言葉とは <なかにし礼さんに聞く 自分の言葉、取り戻そう 「二重思考」から抜け出せ・・・>を読んで

2017-03-31 | 人の生と死、生き方

170331 自分の言葉とは <なかにし礼さんに聞く 自分の言葉、取り戻そう 「二重思考」から抜け出せ・・・>を読んで

 

今朝は暖かく、気持ちがよく、体調もだいぶよくなりました。ところが仕事がはかどらず、会議も延々と続いたこともあり、いつの間にかもう仕事終了時間に近づいています。首都圏にいるときは夜遅くまで仕事をして、終電とか終電に遅れてタクシー帰宅といった不摂生な生活をしていことを考えると、いまはできるだけはたらくことは、ハタが楽になること、自分も安楽を感じることとなればと思いながら、作業をしています。

 

さて今日もまだタイピングの指にしびれ感があるため、600字を目標に(といいながらいつも優に超えていますが)書いていこうかと思います。もうすぐ6時で終わりというのにテーマを考えようと、毎日新聞ウェブサイトの記事を見ていたら、見出しの記事が目にとまりました。

 

私は出来るだけ自分の考えを書くことにより、自我が存在しないことを証明しようと思っているのですが、なかにし礼さんは「自分の言葉を取り戻そう」と深い思いを込めて話されています。聞き手はなかなかのインタビューアーである小国綾子記者。両者のいい感じがでています。

 

たしかにいま、世論調査とか、アンケートとかで、政権の評価を求めたりしますが、その質問形式に無意識的ないしは意識的に作為が施されていて、その選択肢に当てはまらない人の考えが場合によって「二重思考」という枠組みに入ることも少なくないかもしれません。

 

私は司法試験の択一試験が苦手で、正解が決まっていて、その中から選ばなければならないということなんですが、どうもいつもその結論でいいのかといった思い、悩むのです。そのため弁護士という職業を選んでも、長い間無理と思いつつ、果敢に従来の裁判例の解釈に挑んで訴訟を提起してきました。ある意味一般的な訴訟は苦手意識というか、避けてきました。

 

もっと高い意識レベルで、なかにし礼さんは、私も若い頃口すさんだ「恋のハレルヤ」について、その思いを話しています。

 

<67年に黛(まゆずみ)ジュンさんが歌ってヒットした「恋のハレルヤ」は、中国・葫蘆島(ころとう)の丘から海に浮かぶ引き揚げ船を見下ろし、「あれで日本に帰るんだ!」と歓喜した記憶が下敷きになっている。<愛されたくて 愛したんじゃない>の歌詞の愛の相手は、生まれ故郷満州であり、祖国日本である。政府に棄民にされた少年の故郷を思う恋慕が、恋の歌となったのだ。>

 

そうだったのかと思うと、言葉の奥に隠れた思いの深さ、体験の重さを感じてしまいます。

 

そしてなかにし礼さんは、死というものと身近に意識し、覚悟するようになって、戦争のもつ重い意味合いを体験の中で述べるようになったようです。

 

< なかにしさんらは、軍用列車で満州の牡丹江から脱出する途中、日本刀を振り上げた将校に命じられ、列車にしがみつき「乗せてくれ」と懇願する開拓団員たちの指を一本一本はがしていった。「中国人や韓国人に対する加害者だった、というだけじゃない。僕らは同胞をすら見殺しにしたんです」。小説には、<誰一人、正しさだけでここまで生き抜いた人間などいない>とつづった。>

 

被害者としての姿は、ある意味で訴えやすい場合が多いかもしれません。むろん被害を受けて傷ついた自分の精神を再び苛むことになり、それも簡単ではないでしょう。他方で、加害者の自分を冷静に語ることは、自分の何かと戦い、それを傷付け、存立するものも脅かすこともあるでしょう。自分を自分自身の言葉で語るとは、それこそ生きるという真の意味かもしれませんし、死と対面する自分を自覚することかもしれません。それができれば死も怖くないように思うのです。

 

不思議なことですが、私自身、死に直面したことがないためか、死を怖れたこともないように思います。といって、これまで遺言書を何回か書いてきましたので、その都度、そのときは死を覚悟していました。痛烈な痛みの苦しみが続いたとき、ガンを疑い、死をも覚悟しました。でも怖れ自体までには到りませんでした。

 

ほんとうの死に直面していないからかもしれません。がん患者の遺言書作成に立ち会ったことも2度ありますが、その方たちは死への恐怖を感じているようには思いませんでした。遺言書作成直後に亡くなられましたが、清い死に方であり、生き方であったように思います。

 

私自身は、空海流の死に方を希望していますが、その意味で、このブログは繰り返し述べているように、私流のエンディングノートです。最近はやりのそれとは違いますが、死はいつやってくるか誰も分かりません。いつ死んでもよい覚悟で、自分の言葉というか、いまの思いを語ることは生きる証でもあり、死に行く旅人の自分へのはなむけでもあると思っています。

 

なかにし礼さんの貴重な話しとはそぐわない内容になってしまいましたが、それでも私はなかにし礼さんを尊敬していますし、その気持ちを自分なりに表現しています。自分の言葉は、自分へのチャレンジであり、簡単に言葉化出来ないものだと思うのです。自分とは何か、私自身、こう書くことにより、もしかしたらこれが自分かもしれないと思いつつ、言葉を表しています。表すことにより、自分の心の中と異なる意味合いが分かることもあるでしょう。むろん、認識していた事実自体が誤解であることもあったり、評価を誤ったりすることもあり、表現として表すときに間違うこともあるでしょう。

 

でもなかにし礼さんが指摘する、自分の言葉を取り戻そうということの重さは、これまでも、これからも死の直前までしっかり受け止めて生きたいと思います。そして生き方そのものもその挑戦だと思っています。

 

今日も中途半端な終わり方になりましたが、そろそろ痺れがでてきて、肩甲骨の方まで響いてきましたので、終わりにします。


教育勅語と日本人 <最近話題の「教育勅語」肯定論は… >を読んで

2017-03-30 | 教育 学校 社会

170330 教育勅語と日本人 <最近話題の「教育勅語」肯定論は… >を読んで

 

今日は終日麗らかなそよ風とほのぼのとする暖かさに包まれて、のんびり過ごすにはいい日でした。でも私の方は腱鞘炎の再発に怯えつつ、少しずつ作業をして、どうも頭も働かず鈍い状態で作業も進まず、疲れる一日でした。なんとか腱鞘炎の再発はあと一歩のところで踏みとどまっている状態で、以前の痺れがでてきています。

 

作業が遅れてしまい、気づいたらもう業務終了時間。頭は重いのに、昨夜の夕刊に掲載された見出しの記事を思いだし、今日も600字程度を目標に簡潔に書いてみようかと思っています。

 

以前、森友学園の幼稚園で教育勅語を暗誦・唱和させていることについて、少し言及した記憶があります。その後読んでいないのでおおよその記憶しかありませんが、おおむね、教育勅語自体は明治天皇の思想性が表れていること、それを研究したり、場合によっては暗誦することも、意義のあることといった趣旨を述べたような思いがあります。

 

毎日の見出し記事では、教育勅語の内容の一部を取り上げ評価する政治家等がいることについてその本質を見誤っているといった趣旨で問題にしています。たとえば<教育勅語が出た翌年、1891年に出版された解説書「勅語衍義(えんぎ)」>について、<勅語の読み方を詳述したもの>で、<明治天皇も「天覧」し、教育勅語が国民に何を求めているかを説明した事実上の「公式教科書」として扱われた。>として、その内容を取り上げています。

 

要は、儒教的な思想を具体的な内容としつつも、究極は天皇主権を基軸にして、すべての臣民がことあれば天皇を中心とする国家に奉仕することを内容とするというものでしょうか。

 

おそらくそのような理解が戦前の歴史的事実と符合するのかもしれません。ただ、はたして明治天皇自身がビスマルクや、ヒットラーのような絶対主権者として自分を奉らせようとしてこの勅語を公にしたのかは検討を要するように思っています。

 

明治天皇の人物像については私自身、よく分かっていませんが、ウィキペディアでは、<明治新政府、近代国家日本の指導者、象徴として国民から畏敬された。日常生活は質素を旨とし、どんなに寒い日でも暖房は火鉢1つだけ、暑中も軍服(御服)を脱がずに執務するなど、自己を律すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めた。>とあります。このような姿勢は、問題はあると思いますが、天皇を崇拝した乃木希典の生き方にも通じるなにかがあるように思うのです。

 

私は非戦論者です。非暴力抵抗こそ私個人の生き方だと思っています。そのような立場からであっても、教育勅語を戦争との関係でどう読むのか、読めるのか、まだ分かりません。

 

この点、明治天皇が自ら権力行使を担おうと思った時期があったかもしれません。ウィキペディアでは<若い頃(とりわけ明治10年代)には、侍補で親政論者である漢学者・元田永孚や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しようと積極的であった時期がある。>としつつ、次のように結局、明治憲法上でも権力主体から退いているとも思えるのです。

 

<こうした事態を憂慮した伊藤は、初代内閣総理大臣就任とともに引き続き初代宮内大臣を兼ねて、天皇の意向を内閣に伝えることで天皇の内閣への不信感を和らげ、伊藤の目指す立憲国家建設への理解を求めた。その結果、明治19年(1886年)623日に宮中で皇后以下の婦人が洋装することを許可し、97日には天皇と内閣の間で「機務六条」という契約を交わして、天皇は内閣の要請がない限り閣議に出席しないことなどを約束(「明治天皇紀」)して天皇が親政の可能性を自ら放棄したのである。>

 

明治天皇について知らない人間がその教育勅語の内容を云々するのもなんですが、私自身が興味を抱くのは、現在の家族や政治への姿勢について多くの日本人がとってきた態度について、少なくない人たちが不満を抱き、戦前の何かを回顧する向きがあることです。

 

それは親孝行や家族愛、教育への信頼、さらに進めば愛国心といったことに繋がるのかもしれません。教育勅語の内容はそれらを重要なものとして唱えています。実は明治時代においても、危うい状況であったのではないかと思うのです。だからこそ明治天皇自ら、自分の地位をも含め、日本国民の意識改革を図ろうとしたのではないかと愚考しています。しかし、これらの価値は、倫理的な意味合いでも優先される価値なのかどうか、いま試されているように思うのです。

 

その意味で、教育勅語を若い頃から議論することは意味あることだと思っています。他方で、一方的に押しつけたり、価値の強要をするための道具とするのであれば、毎日記事の論者のように指弾されるべきだと思います。

 

他方で、まったく議論すらしないこと、忌み嫌って内容を議論の対象外にすることは、かえっていま抱えているさまざまな家族間の問題や政治的無関心も含め、問題の本質から遠ざかることになりかねない懸念を感じています。

 

そろそろ痺れ感が強くなってきました。何を言いたいのか分からない状態のままで申し訳ないですし、内容も中途半端ですが、終わりにします。


自然との向き合い方 <豊島産廃処理完了とカントリージェントルマンを読んで>

2017-03-29 | 廃棄物の考え方

170329 自然との向き合い方 <豊島産廃処理完了とカントリージェントルマンを読んで>

 

ここ数日、記録の入ったケースを移動する作業をしたところ、持病の腱鞘炎の痛みが再発しそうになってきました。多少はタイピングができますが、しばらく長文を打つのは無理かもしれません。これまでもその繰り返しでしたが、今回は順調に回復していたので、大丈夫かと少し油断したようです。

 

そんなわけでしばらく朝日・天声人語や毎日・余禄を見習って、文字数だけ600字程度にしようかと思っています。内容はないので文字数で少しはカバーしようとしていたのが、このままだといつか来た道で、ブログ中断になりかねないため、より簡潔にしたいと思います。

 

さて自然をどう考えるか、どう定義するかというと、十人十色でしょうが、私はニコルさんのような見方に割合、共感を抱いています。

 

そのニコルさんの話しに入る前に、豊島産廃の問題を少し取り上げたいと思います。毎日記事は<香川・豊島の産廃問題搬出完了 90万トン14年かけ>との見出しで、問題の一端を示しています。瀬戸内の島々はいずれも美しい自然を長く残してきたと思います。

 

しかし都市圏から排出される大量の産廃・一廃いずれも適正処理されないで、人里離れたところに不法投棄される例は、枚挙に暇がない状況は経済成長の反映の裏側に存在します。私は美しくきれいになったビルや街並みを見たり、あちこちで暴飲暴食が繰り返されているのを見たり、美しく化粧しきれいな衣服を着ている人を見たりすると、そのためにどのくらいのゴミが累積的に発生し、排出され、どこで処理されているのかを気にします。

 

豊島産廃の有害廃棄物の大量不法投棄は氷山の一角だと思います。こんなはっきりした違法投棄でも、公調委が当時初めてだと思いますが独自に調査して、ようやく不法投棄の現状と責任の所在が明らかになったと思います。その後私も別の公害紛争(表の豊島事件の次のケース)について公調委で調査依頼しましたが、予算がないということで独自調査をした豊島の例を挙げると、あれは(中坊弁護士が中心になって働きかけた)例外だとの答えで、専門家調査もすでに調査されたデータを整理解析する程度で、本来期待された独自調査は行われませんでした。

 

それにしても、公調委で決着がついた処理問題も、実際に処理が始まったら、さらに次々と有害廃棄物が発見され、その搬出だけで14年かかり、さらに汚染地下水の浄化処理に5年かかるといいます。事件の発端70年代からですから、なんとも自然破壊の深刻さと再生の困難さを示しているのではないでしょうか。

 

このような不法投棄事件では、職をなげうってまで活動する人が必ずいます。逆に、そういう人がいないとこのような継続的な戦いは、自然破壊から元に戻すといった(それ自体は不可能に近いかもしれませんが)ことは不可能でしょう。この記事に登場する安岐正三さんと大川真郎弁護士といった人こそ、そのような資格のある人たちに当たるのかもしれません。

 

そしてニコルさんのいう<Country・Gentleman大地に根を下ろす人への信頼>もまた、異なるアプローチで自然との付き合いを自らのアイデンティティとして生き抜く人のあり方ではないかと思うのです。

 

ニコルさんとは直接話したことはありませんが、日弁連の講演などいくつかの企画に協力いただくため事務の方とお話しした程度で、その中でもなにかほのぼのとしたものを感じた覚えがあります。むろん講演自体、楽しいですし、厳しさも伝わってきます。

 

その彼が毎日記事で、<彼らにとって、日本アルプスに住んでいるという事実はとりもなおさず、私が「究極の紳士」であることを意味する。いわゆるVIPや世界を股に掛ける都会人の類いではなく、しっかりと大地に根を下ろした信頼に足る人物、決して宿泊料金を踏み倒したり、不作法な振る舞いをしたりはしない本物の紳士、すなわち、「カントリージェントルマン」であると。>これは彼の自負心かもしれません。長年にわたって黒姫山で培った自然との生き様を彼なりに表現したのかもしれません。少しきざな印象を感じますが、その点は別にしても、いなか紳士こそ、真の信頼される人という意味合いでは、まさに自然と誠実に付き合ってきた人の言葉として大切にしたいと思います。

 

なんだかんだといって、600字の枠を無視してだらだらと書いてしまいました。それでも痛みはさほど強くなっていないので、まだなんとかなりそうです。明日もタイピングできることを心がけてみます。


古墳と現代をつなぐ <池澤夏樹さん よみがえる古代の友情・・>を読んで

2017-03-28 | 古代を考える

170328 古墳と現代をつなぐ <池澤夏樹さん よみがえる古代の友情・・>を読んで

 

今朝は久しぶりに凍てつく寒さが舞い戻ってきました。というと大げさでしょうか。

 

朝、子どもを連れて、わが家の山林・田畑の境界を見て回りました。彼にとっては地番図や公図を見るのが初めてですが、境界石も時々敷設されているので、きちんとその位置と公図の接点を教えると、それ以外の不明瞭な部分を割合飲み込みが早く理解できたようです。多くは小川や水路、あるいは小さな灌木が境界標の役割を果たしています。あるいは公図上に惹かれている一本の線とどのような交わり方をしているかを地形の形状と付き合わせながら教えると、割合、分かってくれたように思うのです。

 

その後は仕事で忙しくして、少し息抜きの時間となりました。短い時間でブログを書き上げようと思い、ちょうどよい見出しのテーマを見つけ、本日の話題としました。

 

池澤夏樹氏が以前、毎日で連載していた『アトミック・ボックス』はとても魅了された小説でした。瀬戸内の小さな漁村で暮らしていた父が亡くなった後、突然、一人の若い社会学者である女性が主人公となって、さまざまな問題に巻き込まれ、それこそスリリングな展開が続きます。その謎はベールに包まれた中、その女性が次々と難関を乗り越え、その中で得がたいほんとにいろいろな同志の支援を得て、最後には謎の核心の人物に対面して、普通の漁民として暮らしていた父親の隠された謎、わが国で秘密裏に原爆研究がおこなわれていて、その研究者の一人として生き、アメリカの要請で研究が中止になった後身の安全を担保するため、研究資料データを隠して生きていたことが判明し、その計画を主導した大物政治家と対面するのです。

 

もうだいぶ前の小説で内容はほぼ忘れてしまいましたが、彼女は父の秘密を知らず大事なデータが自分に託されたと思い、それをもって行き先のない逃亡を始めます。公安はじめ警察庁上げて彼女の追跡劇が始まるのです。その時々の彼女の奇抜で勇気ある行動は、はらはらしつつ、魅了されました。ついでに瀬戸内の島々で開催されている芸術祭もとりあげられるなど、作者の演出力はとても見事でした。

 

でその池澤さんが新たに『キトラ・ボックス』を刊行したというのです。記事によれば、「小説の真ん中に、キトラ古墳(奈良県明日香村)の被葬者は誰かという謎があり、そこにヒロインたちがネットワークを組んで迫っていきます」という、古代ミステリーの一つ、キトラ古墳に被葬者が誰かを取り上げ、その謎解きをめぐって、『アトミック・ボックス』で活躍した脇役的存在ながら魅力たっぷりのメンバーが活躍するようです。これは読まなくっちゃという感じになります。

 

古代の東西と現代に生きる人がどうやって繋がってくるか、これこそ小説家の醍醐味かもしれません。池澤さんは次のような仕掛けを施しています。

 

<主人公は若き考古学者の女性、可敦(カトゥン)。新疆ウイグル自治区出身で、大阪府の民博こと国立民族学博物館の研究員だ。

 ある日、高松市の讃岐大で考古学を専攻する藤波三次郎准教授からメールが届く。奈良県のある神社で見つかった銅鏡が、ウイグル出土の禽獣葡萄鏡(きんじゅうぶどうきょう)と同じ鋳型で作られた可能性があるから見てほしいというのだ。そして可敦は、鏡と共に見つかった銅剣に象眼された天文図がキトラ古墳のそれと同じだと気付く。>

 

キトラ古墳の天文図、その起源を遡ることは、東西文化の架け橋になる、あるいは東アジアにおける日本の位置づけといった狭い見方ではない、地球を俯瞰する視点を見いだすことが出来るかもしれません。

 

そして天文図という画像ともいうべき対象は、中国という大国を飛び越えて新疆ウイグルまで、意外と頻繁に活用された交易ルートがあったかもしれない思いを抱かせてくれます。

 

キトラ古墳は7世紀末から8世紀初めに作られたと言われているようです。古墳としては終末期の終末に近い時期でしょうか。

 

それより少し前の7世紀後半に作られた「牽牛子塚(けんごしづか)古墳」は斉明天皇(おそらく天皇の呼称はまだだったと思いますが、とりあえず)が被葬者として確定していると言われています。最近の発見では、八角墳土台が32mくらいとされていたのが、実は<古墳の周囲が約50メートルにわたって土で強固に固められていたことが村教委の発掘調査で分かった。同古墳は尾根上に石を敷き詰めるなどして造られている。墓を造る際、石の荷重に耐えて斜面の崩落も防ぐように大規模工事を施したとみられる。>ということで、かなり大規模な陵だったということです。

 

たしかに古代というより大規模石造り構造物を構築した点では、斉明天皇の前にも後にもなかったのではないかと思うのです。それだけすごい企画力、行動力、実践力のある天皇だったのでしょうか。斉明天皇が皇極天皇と呼ばれていたとき、その摂政的立場にあった入鹿を目の前で、息子の中大兄皇子らによって殺戮されたとき、恐れおののいたというのは、かりにこういった事変があったとしても、どうも怪しい話しではないかと思うのです。その天皇が、弟の孝徳天皇の亡き後、再び天皇になったとき豹変したかのように、大胆な事業の連発をするというのも合点がいきません(それは実権を握っていた中大兄皇子が行ったとまではいえないように思うのです)。

 

だいたい百済が唐・新羅連合軍に敗れた後、九州まで大編隊を引き連れて先頭に立って行く姿は、巨大な牽牛子塚古墳の被葬者らしいと映るのは、日本書紀を額面通りに読んでいるからでしょうか。

 

いずれにしても古墳の被葬者の比定は、専門家の判断によるものを尊重しつつも、いろいろな想像が働くもので、最近、話題になった小山田古墳も斉明天皇の夫、舒明天皇か、いや蘇我蝦夷か、いやいや別の有力者など諸説あるようで、今後も、わが国における考古学的な発見にとどまらず、朝鮮半島はもちろん東アジアは当然として、ヨーロッパ大陸までも視野に入れた考察もありうる時代になったように思うのは、少し穿った見方かもしれませんが、少なくとも中東当たりまでは視野に入ってもいいのではと思っているとき、池澤さんの小説がどのような切り口で大きな架け橋を渡してくれるのか、期待したいです。

 

一時間ばかりブログ書きをしてしまいました。今日はこれでおしまいです。


今を見る、異なる視点 <BS朝日 「自閉症を旅する」>を見て

2017-03-27 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

170327 今を見る、異なる視点 BS朝日 「自閉症を旅する」>を見て

 

今日も朝からなにかと忙しく過ごし、気がついたらもう夕方5時近く。たしか早朝は小ぶりだったようでしたが、晴れ間が見え隠れしたりしながら、終日曇り空だったようです。寒気が高いところにやってきているそうですが、人の住む世界では暖かな日和でした。とはいえヨーロッパでは突然の積雪だったようで、地球環境は北極・南極の氷がどんどん減っているわけですから、今後いつ、突然の変異が襲ってきてもおかしくない状況にあるのかもしれません。

 

さて、昨夜、BS朝日の「いま世界は」の番組で、シリア内戦の深刻な事態と日本の立ち位置があるシリア女性による「政権支援やめて!」という訴えを紹介しつつ、その現状の一端が取り上げられました。もう一つのテーマが本日の話題です。

 

これはBS朝日のウェブ情報から引用すると、

 

<特集・朝日新聞GLOBE連動企画「自閉症を旅する」

 こだわりが強く、対人関係が苦手で適切な支援がないとパニックを起こしたり生きづらさを抱えたりすることもあるという自閉症の人。しかし、その胸の内には、魅力的な言葉や考えが詰まっている…。どんな支援があれば彼らが生きやすくなるのか?海外の事例を交え、紹介する。>というものです。

 

この中で、私が注目した一つは、自閉症の人からの聞き取りなどで構成された動画です。それは、自閉症の人が町の中に出ていったときに、何がどう映るか、あるいはどのようなことが人間の五感にどう響くかを、動画として編集したものとして配信され、世界中で70万人以上がフォローしていると言うことだったかと思います。

 

その動画を見たとき、普通の人なら、なんでもなく通り過ぎてしまうさまざまな音、色彩、臭いなどが自閉症の人にとっては攻撃的に人間の五感を襲ってしまうということを疑似体験することができました。

 

たとえばショッピングセンターのようなところに入ると、突然、轟音ともいえる雑多な音が耳の中を占領するのです。そして化粧品のお店では香水などが試供品として振りかけられると、その化学物質の臭気がおそらく何倍も凝縮したかのように自閉症の人には感じられるのだと思うのです。ネオンサインの点滅等もまた視覚を混乱させ、平穏に対象をみることができなくなるのではないかと思われるのです。

 

私たちは、さまざまな科学技術の発達の成果で、日常の中に、おそらく戦後初期まで経験したことがないほどの、異質な文明社会にどっぷりつかっているのではないかと思うことがあります。街中に出ると、人の流れがまるで猛牛が走り抜けるような勢いです。さまざまな音は、騒音規制法や条例で規制していても、基準未満であったり、低騒音だったりして、規制の網から抜け落ちますし、多様な音は自己主張や事業利益の追求のため、わが国ではとりわけ放任される傾向にあるように思います。そして多くの人はいつの間にか、順応するように聴覚も脳神経も慣れるように変わっていったのかもしれません。

 

臭気もそうです。電車内やエレベーター内といった密室空間ではとりわけ気になるものです。ところが、臭気を感じる個人差があったり、臭いの嗜好性にも個人差があるなどから、多様な臭気が漂っていても、多くは我慢を強いられているように思うのです。ただ、化学物質については、私が化学物質過敏症の患者と長く相談に乗ってきた立場から言えば、一般の人にとっては平気な臭気基準未満であっても(あるいはほとんど臭気を感じないレベルであっても)、敏感に体が反応し、異常事態になることがあるのです。

 

そして視覚は最も敏感な感覚といってもよいかもしれませんが、普通の人は嫌なものは見ない、焦点をそらすなど、見事に生き抜く選択をして生活をしているように思うのです。ところが、自閉症の人ではそのような選択が容易でない人が多いのだと思うのです。そうだとすると、あらゆる対象物が視覚を占領して、選択して対象を見ることができず、混乱に陥ることが理解できます。

 

この番組で紹介されていたギターリストの女性は、子ども時代、学校に通うことが出来なかったといいます。それは学校に行くと(おそらく家を出た瞬間から)、膨大な情報の渦に巻き込まれ、自分というものが存立できないほど平衡を失うのかもしれません。そのため普通の授業が終わりみんなが帰った後、先生から個人指導を受けていたそうです。理解のある先生に恵まれたのでしょう。

 

またある自閉症の人は会話を発することが出来ないことから、母親がその子と会話したい思いで、「会話補助アプリ」を友人の支援を得て開発し、そのアプリを使ってようやく子との会話が出来るようになりました。そのアプリは、アニメ的な人物を一場面毎登場させ、たとえば「食事をしたい」という気持ちを表すとき、それを示す画面をクリックすると、音声でその内容が発せられるのです。このような基本的な画面を多数用意して、必要な場合にアプリを通じて話すことにより、母親と、また世界と繋がるきっかけになっているようです。

 

そしてこの番組で最も取り上げたかったのは、取材者である太田 康夫(朝日新聞 大阪地域報道部)氏、自身が自閉症の子をもっていることから、自閉症にはさまざまな症状があり、中には天才的な記憶力や計算力を発揮させる人もいるなど、多様な才能を持つ人もいることを理解してもらいたいということであったかと思います。

 

自閉症スペクトラム症という、その症状の多様性を理解するための診断名を理解してもらうこともこの番組の狙いであったのかもしれません。

 

私がこのテーマを取り上げた趣旨は、番組の意図とは別で、自閉症の人が見ているという動画の世界です。私たちは、一見、平穏で安定した日常を送っていますが、実際は微妙なバランスの中で、綱渡りをしているのではないかと思うことがあります。

 

人間の細胞が60兆あるということ、それぞれが自立しているかもしれないし、依存していたり、付随的な関係にあるかもしれません。しかし、やはり細胞そのものの視点に立てば、独立した存在である可能性は否定できないように思うのです。

 

たとえば凶悪な殺人事件が起こると、その犯人とされる人の日常の様子や小さいときの生い立ちを探ることが行われますが、それは人というのが一つの統一的存在であることを前提にしているのではないかと思います。たしかに統合失調症などの症状が確定されていない限り、多くの人は性質や特徴、考え方が一貫していると考えられる傾向があります。

 

しかし、ほんとうにそういっていいのか、最近少し悩んでいます。いや以前からかもしれません。人は煩悩を持つ存在であることは誰もが認めるでしょう。それをどうコントロールするか、その程度に応じて、人格の是非や評価が下されることがあります。

 

日常、やさしく接していた人、挨拶をしたり礼儀正しい人が、突如、凶暴になるといったことも世の中では時折現れます。

 

そろそろまとめに入らないといけないのですが、私自身、考えながら書いているので、どうまとめようか悩んでいます。

 

自閉症の人が接する状況は、カオス的状態ではないかと思うのです。そのとき人は自分の行動を自制したりコントロールすることは困難だと思うのです。それを普段の生活では、そうできるように、常に感覚機能の中で選択を繰り返し継続してようやく、自分というものを統一的な存在として成り立たせているのではないかと思うのです。

 

そのとき一番有効な機能の一つは、嫌なものからエスケープするということではないかと思うのです。他方で、好みのものに選択を集中するということではないかと思うのです。そのことにより、人はさまざまな自らの性行の可能性を選択することができているのではと思ったりしています。それは自分の選択する基準の中にいれば、また選択する基準を超える自体に巻き込まれなければ、人としてようやく自立というか、統一的な存在をなんとか維持できているのではないかと、おぼろげながら愚考しています。

 

今日の話は、どうも自分でもよく分からないものの、自我というものが成立するのかを訪ね歩くこのブログの目的の一つでもあるので、中途半端な考えを示しましたが、いつかもう少し練り直して見たいと思っています。これでほぼ1時間の思考過程です。