たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

インバウンド増加 <「共謀罪」採決強行 治安・人権、折り合わず>を読んで

2017-05-20 | 海外との交流と安全の道筋

170520 インバウンド増加 <「共謀罪」採決強行 治安・人権、折り合わず>を読んで

 

今朝も暗闇の中で脳細胞のどこかで何かが動きでしました。いま毎日朝刊で連載中の浅田次郎著『おもかげ』では、退職祝いで帰宅途中に電車の中で倒れて意識不明となった高齢者が主人公です。ICUのベッドの中で死の淵に佇んでいる状況で、その霊魂らしき主人公が初めて出会う人とさまざまな経験をしつつ、彼の昔からの同僚、竹馬の友、親族などなどのさまざまな思いや行動が静かに展開しています。私の暗闇の中での意識は、勝手に自由な動きをします。この心の動きというのでしょうか、これは誰にも留めることが出来ないですね。

 

浅田氏は、この『おもかげ』で高齢者となり、死の淵にある人の中にある、意識に現れてこなかったこれまでの体験を踏まえ通、隠された潜在的な何かを引き出してくれるのでしょうか。人はある種、合目的に行動するとも想定されますが、実際は、多様な意図が一人の人間の中にあり、あるいは、視野の中に入っても意識的に(あるいは無意識に)認識回路にも記憶回路にも入れてこない何かがあるのが普通ではないでしょうか。そのようなものにどのような意味があるか、分かりませんが、重大な意義をもつものもあるかもしれません。いずれにしてもまだ連載はスタートした序の舞でしょう。今後の展開を期待したいです。

 

さて毎日のように報道され、ついに<クローズアップ2017「共謀罪」採決強行 治安・人権、折り合わず>の見出しで、<「共謀罪」の成立要件を改めた「テロ等準備罪」を新設する組織犯罪処罰法改正案は19日、衆院法務委員会で可決され、成立に向けて大きく動いた。>と報じられました。

 

この法案の当否については、毎日を含めマスコミ、報道番組でも主要な争点について議論を繰り返していますが、どうも議論がかみ合わない印象もあります。毎日記事を見ていても、あまりしっくりきません。

 

私としては、日弁連の<日弁連は共謀罪に反対します>で整理された議論がわかりやすいのではと思っています。少し古いですが、<共謀罪の創設に反対する意見書>が整理されているように思います。また、一つの論点である「組織的な犯罪の共謀罪」の創設が条約上の義務であるかどうかについて、<法務省ホームページに掲載されている文書について>をとりあげ、それに対し、日弁連意見が的確に反論している部分は参考となると思うのです。

 

ここではこの法律論を取り上げるつもりはありません。日弁連の意見を全面的に賛成するというわけではありませんが、基本的には賛同します。

 

ただ、政府与党が3度目の正直を狙って、「テロ等準備罪」と看板を変え、適用対象を「テロリズム集団その他の組織的犯罪集団」ととして、まるでテロ組織対策法案であるかのように「レッテル貼り」をしているようにも見える点については、日弁連意見ではあえて言及するほどもないと思ったのか、あるいは私が見落としているのか、見当たりませんでした。

 

それでこのテロ組織の点に絞って、別の観点から少し触れてみたいと思います。

 

毎日の43日付け記事<法案、国会審議入り くすぶる乱用懸念 過去3度も廃案-改正案を検証>では、政府が<2020年の東京五輪・パラリンピックに向けたテロ対策の一つと主張する>とか、<安倍晋三首相は先月27日の参院予算委員会で、国際社会では政治的立場の違いによってテロリズムの定義は困難とし「条約には結果としてテロに直接言及する規定は設けられなかった」と説明。一方で、国際テロ組織「アルカイダ」や過激派組織「イスラム国」(IS)が近年、さまざまな犯罪行為の収益を資金源にし、テロ行為に及んでいる状況を挙げて、組織犯罪とテロの結びつきを強調した。>とか、指摘されています。

 

しかし、この安倍首相の説明は詭弁とはいいませんが、苦しい内容ではないでしょうか。だいたい、テロ組織がわが国において活動する可能性はどの程度あるのでしょう。彼らも組織目的に存在意義があるわけで、欧米はもちろん、中ソがテロ攻撃にさらされるのは宗教的理由や異民族(移民)に対し、軍事的制圧を行ったり、不当な弾圧を行ったり、それらの国々の不公正な強権的な対応が問題にされているのではないでしょうか。むろんそれだけで説明できるとは思いませんが、基本的な問題はそこにあると思うのです。

 

ではわが国はそういう国々と同様の立場をとってきたでしょうか。移民の受け入れに消極的ではあっても、特別に不公正な対応をしてきたとはいえないでしょう。むろん、これまでに70年代は三菱重工爆破事件や海外でも赤軍派のテロ事件が発生し、90年代にはオウム真理教によるサリン事件まで勃発しました。その背景事情は異なるものの、わが国でもまったくテロ事件が起こらないという安全宣言はできないでしょう。

 

しかし、少なくとも2000年代に各地で発生しているような悲惨なテロ事件がわが国で発生するような兆候は考えにくいのではと思うのは、甘い考えでしょうか。わが国の武力行使を伴わない平和外交の蓄積、外国人に対する公正な姿勢などが、宗教や民族の違いを超えて徹底してきたので、紛争地域を除けば、外国を訪問しても好意的な対応をされるのではないでしょうか。

 

2020年の東京オリンピック・パラリンピックで大勢の外国人が訪れることにより、危険な分子も入国してテロのおそれが高まる危険があるのでしょうか。わずかな期間にすぎず、それに応じて警戒態勢をすでに準備しているわけで、この法案が有効に機能するとは思えません。

 

で、偶然、毎日朝刊4面で「訪日外国人 1000万人超え」という囲み記事があり、ちょっとした思いつきですが、これに関連してこの問題に少し迫ってみたいと思います。ただし毎日ウェブ情報では見つからなかったので、時事通信社配信記事<訪日客、1000万人突破=過去最速、アジア中心に増加>を下に言及してみようかと思います。

 

同記事によると、<観光庁の田村明比古長官は19日の記者会見で、今年の訪日外国人数が今月13日に1000万人を超えたことを明らかにした。航空各社の国際線拡充や大型クルーズ船の寄港数増加もあり、アジアなどからの訪日客数が拡大。1000万人の大台乗せは、昨年(6月5日)より20日以上早い過去最速のペースとなった。

 政府は東京五輪・パラリンピックが開かれる2020年に、訪日客を4000万人まで増やす目標を掲げており、田村長官は「道半ばだが堅調に推移している」と述べた。>とのこと。

 

「捕らぬ狸の皮算用」なのかはなんともいえませんが、それくらいインバウンドの増大傾向が見込めるのでしょうね。その理由はいろいろ挙げられると思いますが、一つはテロのない安全な環境ではないでしょうか。むろん置き引きとか窃盗とかも少ない、基本的に安全な社会が外国人旅行者としては大きな魅力の一つではないでしょうか。

 

むろんその安全性は、維新時のわが国に来訪した異邦人が感じたよりは、残念ながら悪化していると思いますが、それでも一人旅でも、夜歩いていても心配ない環境は素晴らしいものでしょう。

 

いまヨーロッパではどこでテロが発生するか分からないほど不安な状況になっていますし、それを回避するために厳重な警戒網が敷かれていると思います。街に中に機関銃などを持って重装備の人たちが目についたらどうでしょう。楽しい旅行気分にはなれないですね。そのような武力による封じ込め策でしか安全性が保てないとすれば、いくら魅力のある施設や観光名所があっても楽しむ気分にはなれないのではないでしょうか。

 

アメリカでも同じでしょう。ここでは銃乱射事件は何度となく繰り返されています。公共の場ではいつでも銃を抜けるように警察官が見回っているのではないでしょうか。

 

それに比べてわが国は、警察官が銃をぬくのを見た人はほとんどいないでしょう。むろん重装備の警察官が見回る姿もほとんど見かけないでしょう。それでもとっても安全な環境が保たれているのではないかと思うのです。

 

そうなれば、これまでは近隣の中国、韓国、台湾や東南アジアの人々がインバウンドの中心でしたが、西欧や豪州の人々も、より足を向けるには最適の場所になるのではと思っています。

 

観光庁の<訪日外国人旅行者数の推移>を見ても分かりますが、中国の爆買い集団の漸減を補うように、西欧のインバウンド数が増えてきているようです。

 

その意味では観光庁長官の発言は確率が高いものかもしれません。換言すれば、テロの脅威は心配するような根拠に乏しいと思うのです。

 

そしてテロ対策法案を整備するより、真の「おもてなし」を具体化する施策にもっと注力を注ぐ必要があるのではないかと思うのです。

 

今日はこのへんでおしまいです。


わが国の立ち位置と公正さ <サウジアラビア国王・46年ぶり来日>を見て

2017-03-12 | 海外との交流と安全の道筋

170312 わが国の立ち位置と公正さ <サウジアラビア国王・46年ぶり来日>を見て

 

今朝はしっかり霜が降りていて、少し寒さを感じたものの、どんどん暖かくなり、もうすぐにでも桜が開花しそうなのどかな日和になりました。

今日も午前中、ぶり縄でヒノキの胸高径25cm、高さ10mの木に登り、枝打ちをしました。このくらいの木になると10m近くまで登っても、あまり揺れないので、気持ちよく作業が出来ます。その後、竹木が倒れかかっているのを整理整頓して、今日は終わり。

 

前回は一力七段が張九段にすごい力業で勝ったのをわずかしか見えず、残念な思いをしたので、今日の井山棋聖と伊田八段の対戦は見たかったので、早く作業を終えました。やはりすごい戦いで(といっても実際はよくわからないのが本当です)、最後まで分からない対局でした。でも井山さんは自信をもっているのでしょうね、コウ勝負も余裕を感じます。ただ、前回の解説者・小林覚さんはわかりやすく、若き好男子なんて思っていたのですが、いつの間にか彼も年齢を重ねた印象で、準決勝進出4人の若きエースに比べると一段と風格がでてきたかと思うのです。私も30年近く見ているのですから、いい加減なへぼ碁の領域を脱せないのは精進していないからだけではないのでしょう。



 

さて報道では、森友学園の騒々しい動きが一段落した後、また同じような大学誘致をめぐる疑惑が取りざたされているようで、後からいろいろ言われないように、手続きのオープンと基準の公正さの担保をもう少し見直してもらいたいものです。豊洲の百条委員会は、報道を見ていませんが、多くの資料を基にしっかりと質問して追求しているようですが、記憶なしとの決まり文句ではぐらされているようですね。これも時間が経過している時点での手続きの限界もあるでしょうが、手続きのあり方自体に新たな改善が必要ではないかと思うのです。この点は豊洲の百条委員会の議事録や報告書が入手できれば?(それなりにがんばっているように思っていますので)、検討して見たいと思っています。

 

ところで、本日のテーマは、本日来日したサルマン国王の報道を垣間見た限りでの感想です。TVはニュース価値をどこに置くかという視点と、国交に影響を及ぼさないという限度を考慮して、報道しているように思えるのです。ある意味では、トランプ氏が米国メディアを一方的に指弾したのにも、一理あるかもしれないと考える部分です(決してトランプ氏のやり方に賛同するものではありませんが)。

 

私が見た報道では、エンターテインメント性を話題にする放送局も、NHKなども、あまり大きな違いがない印象を感じました。

 

まず、国王がなにやら黄金色の航空機タラップの前に立つと、エスカレータとなっていて経ったままの姿で降りてくる様子が映っています。81歳でしたか高齢の国王専属のタラップだそうで、その輸送のために飛行機一機、事前に運んでおくとのこと。それで驚いてはいけません。

 

国王に随伴する家族、身の回りの世話をする人など全部で1000人とか1500人とかといいます。そのために、リムジン車を用意するけど足りないため、大阪からもチャータするとか。面白いのは国王が雨に濡れないように、10人近くの人が傘を何重にも掲げて、その雨の中の歩行を助けているのです。高齢者を大事にするということとは、次元の違う発想のようです。

 

むろんハラールフードはホテル側でも厳格な管理で仕入れているでしょうし、いお祈りのための準備(じゅうたん、コーラン、専用のコンパス)なども準備万端というのは、これは普通のおもてなしでしょう。

 

しかし、国王一人来日のためにこの仰々しい、いわば国王行列は、豊かな国だから贅をこらすのは当然といった風ないでたちで、それを報道側もまるで歓迎している姿勢に違和感を感じてしまいます。

 

むろん、世界有数の石油産油国であり、OPECの主導的立場にあるサウジアラビアで絶大の権力を握る国王だからこそ、その力を誇示する意味もあるのでしょう。そして脱石油化の道を探るために、東南アジア諸国を訪問し、わが国にも来訪するのでしょう。

 

たしかにわが国は中東の石油にエネルギーの多くを依存しており、その代表的立場の国王が来日するのですから、歓迎するのが当然かもしれません。しかし、原発依存がいま見直されています。それは福島第一原発事故の除染、廃炉、最終処分について確固とした見通しがほとんどついていないという現実をみれば、人間による統御が困難なエネルギーという視点で選択が困難な道ではないかと思うのです。原発がもつエネルギーの効率性とか、コストパフォーマンスとか、いずれも原発事故による影響が考慮されて折らず、疑問です。

 

では石油はどうでしょう。気候温暖化への影響は悪化の一途をたどっています。まして遠い中東から運ぶことによるいわゆる直接的な運送コストにとどまらず防衛・防護コストも実際は膨大な金額になると思います。当然のように中東からの石油に依存する現在のエネルギー政策は、抜本的な変更を検討する時期に来ているのではないかと愚考する次第です。

 

代替エネルギーとしての再生可能エネルギーは、まだまだベースロードとして安定的に供給することができる段階でないことは理解できますが、意識改革をすることにより大きく舵をきることで、一段とスピードが上がるのではないかと期待したいと思います。

 

このエネルギー議論は、最近ほとんど勉強していないので、新聞をちらっと見る程度の知識で述べているので、この話はその程度にして、本題の、わが国の立ち位置の公正さとは一体何かについて、少し考えてみたいと思います。

 

わが国は、隣国・韓国の朴大統領が憲法裁判所により弾劾罷免され、近く行われる大統領選挙で、従来の対日外交を180度変更するような反日を主張する候補者が当選する可能性が高まる中で、北朝鮮の脅威をさらに強く懸念しています。政権の対応は、地政学的というのか、現状からするとやむを得ないのかもしれません。

 

しかし、北朝鮮については、たしかに国民の多くが飢餓や貧困で困窮しているのに、金政権の周囲や一部の支持層のみ裕福な生活をしながら、核開発やミサイル実験を繰り返して、攻撃的な姿勢にあることが問題とされています。それ自体、もっともな批判であり、わが国の防衛力強化を進める姿勢に多くの支持をえているであろうことは理解できます。

 

他方で、ではサウジアラビアはどうでしょうか。北朝鮮と似ている部分がないでしょうか。豊かな資源で経済的にも豊かというのは国王側に立つ層であって、一方で国民の2割以上は飢餓に近い貧困状態にあり、それが放置されたままにあるのではないでしょうか。

 

私自身、今年に入って、ある報道でわずかだけですが、秘密裏にビデオ撮影した内容が訪英されているのを偶然見ました。豊かさとは無縁の路地裏が映り、ゴミを漁るような姿も映っていました。そして体制への苦情でも言うと、令状もなく拘束され、拷問されるといった話しもあった記憶です。

 

で、この情報に類似するものがウェブ上でないか確認したのですが、英語圏の情報ではほとんどありません。ガーディアンの情報がありましたが、私が見た報道に比べると、それほど酷いものではないと思います(だから削除されないで残っているのかもしれません)。アラビア語は読めないので、検索していませんが、いかに情報が遮断されているか、あの豪勢な国王たちの振る舞いの背景には、見放された多くの国民がいることを私たちは忘れてはいけないように思うのです。報道がその面では、それは欧米の名だたるマスコミも同じで、CNNBBCも変わりないでしょう。

 

取材自体が制限されているでしょうし、情報提供するとその国民自体の生命の危機もあるのではないかと思われます。これは北朝鮮と似ていませんか。

 

だからとって金正恩政権のいかなる施策も正当化できるものではないと思いますが、だからといって、サルマン国王が求める脱石油化の多様な事業について、協力するのであれば、国連のミレニアム開発目標(MDGsをしっかりと制度的に保障した上で、検討してもらいたいものです。単に石油供給先として、大事に対応しないといけないという姿勢では、わが国が国家の品格を貶めるものになりかねないと思うのです。


仮処分の日米比較 <NHK 入国禁止の大統領令への仮処分>を見て

2017-02-07 | 海外との交流と安全の道筋

170207 仮処分の日米比較 <NHK 入国禁止の大統領令への仮処分>を見て

 

今日は一日、ある事件の記録を整理していて、気がつくともう夕方で、仕事も終える時間に近づいていました。さて、なにを話題にしようかと考えてみたのですが、たまたま仮処分がらみのニュースがいくつかあり、改めて日米の制度的な違いに驚いたことについて、触れてみようかと思います。とはいえ、自分の狭い体験と、思いつくままの走り書きです。

 

NHKウェブサイトニュースでは、2619時の段階で、<入国禁止の大統領令への仮処分 裁判所が6日にも再び判断か>とありますが、それ以降新たなニュースはCNNでも掲載されていませんでしたので、まだ控訴裁判所の判断は下されていないようです。

 

大統領令の内容も驚きですが、連邦地裁の判断もその迅速さ・結果の重大さも含め、これまた二度のびっくりです。経過の概要を少し追ってみたいと思います。

 

127日 トランプ大統領は7カ国から米国への入国制限の大統領令に署名。

130日 ワシントン州は違憲として連邦地裁に提訴。

23日 シアトルの連邦地裁は大統領令の一時差止命令。全米の入国管理当局を拘束。

24日 連邦控訴裁判所は地裁決定の効力停止の申立を却下。双方に6日までに意見書提出を求める。

 

このスピーディな動き、これがアメリカの行政であり(但しトランプ氏の場合は異質でデュープロセスの観点からも疑問がありますが)、司法なのかと、驚くばかりです。この内容については、地裁決定がウェブ上にアップされているので、時間があれば触れてみたいと思います。

 

で、今回はわが国の司法制度との違いを時間的なもの、審理手続きてきなものについて、若干、思い出しながら触れてみようかと思います。

 

ところで、今朝の毎日は<本部の使用禁止求める 京都市>の見出しで、京都市に本部を置く会津小鉄会のトップ人事をめぐって激しく抗争が起こっていることから、京都市が自ら申立人となってその使用差止の仮処分申立を行ったことが報じられています。

 

通常は、近隣住民が行うような仮処分ですが、自治体自体が行うというのは珍しいというか、当事者適格性の点でも、思い切った対応だと思いますが、地域の平穏や安全・安心を担う行政府として今後はより積極的な司法手続きを活用することを期待したいです。

 

ただ、この使用差止仮処分ですが、わが国の仮処分の審理においては、こういった現状を大きく変更し、利益侵害の程度が大きいため、双方審尋という形で、両当事者の主張立証を尽くさせ、場合によって本案審理(通常の訴訟で行われる本格的な審理)と類似の形態をとることもあります。

 

申立人側は、申立に当たり、この抗争による周辺住民に危害を与えるおそれが大であることを、さまざまな証拠により立証する準備を十分にして行います。この紛争が生じたのがいつかは分かりませんが、京都市のスタッフ、弁護士が相当集中して作業したのだと思います。

 

で、申立が受理されれば、相手方に反論の機会を与えるため、通知します。それではトランプ氏流にいえば、その間に現実の被害が発生するおそれがあるではないかということになりますが、それは相手方の防御権の行使のため、やむを得ないとされています。

 

この期間は数日というのもあるかもしれませんが、一週間程度の場合もあるでしょう。緊急性とその蓋然性の程度によるでしょうね。

 

東京地裁はわが国では数少ないこの仮処分など一時的処分を審理する保全部があり、しかも担当する裁判官も多く、最も充実した審理を行うところといっていいと思います。他の地裁は普通部と掛け持ちで、独立した保全部を持っていないところが大半です。

 

そうすると、一般事件(これは審理の期間が1ヶ月ないし1.5月程度)を持ちながら、緊急を要する仮処分事件などを迅速にできる体制にあるかというと、なかなか難しいところです。

 

私は20年くらい前45年、東京地裁保全部ばかりで審理するような仮処分事件を主にてがけていました。通常、2週間以内の期日で、双方が主張立証し合い、せいぜい3ヶ月以内くらいで決着がつくというのが多かったように思います。時には和解で解決しますが、多くは決定で決まりますが、いずれが敗訴しても、続いて本案訴訟に移り、長丁場の闘いになります。

 

とはいえ、開発工事を争うような場合、危険性が争点だと、その危険性の有無について、地盤工学の専門家や地質学者、施工管理者など多数が証言に類する方法で、関係者も大勢が傍聴する形で、審理されるので、ほとんど本案審理に近い進行もあります。その場合1年ないし2年くらいはかかります。これが仮処分の審尋かと思いますが、このような審理ができるのは、工事が事実上ストップしている場合です。

 

ところで、連邦地裁の対象としたのは大統領令ですね。こういった行政命令については、私人同士の紛争と異なり、行政事件訴訟法という、行政機関の処分を対象とする法律がわが国ではあります。アメリカもそのはずですが、私は詳しくないので、決定文を丁寧に読まないと根拠法令がすぐには分かりません。

 

さて、原発に関しては民事・行政訴訟さまざまの手法で各地の原発訴訟が係属しています。運転差止といった民事訴訟や仮処分、計画認可申請差止とか、仮差止とか、定険終了書交付差止め、仮の差し止めといった行政訴訟、それぞれの原発の状況や進展段階に応じて工夫しているようです。この違いを整理するのはウェブ情報で確認するといいかもしれません。いずれにしても長時間の審理を要しています。

 

もう一つ重大なテーマである、国家の安全、地域の安全という相克する問題がクローズアップしている辺野古埋立承認取消訴訟も、1312月の公有水面埋立承認処分に対し、141月に執行停止申立がなされていました。国家の施策に対峙することの困難性を感じさせる状況です。国の安全保障という大きな枠組みの中で、沖縄の独立した地位確保や辺野古の海の環境保全というものが、適切に審理されてきたか、十分検討されるべきかと思いますが、第一次の訴訟は確定し、すでに埋め立て工事の準備作業が進行しています。

 

わが国では執行停止や仮差止といった、行政処分を一時的に停止する裁判所の命令を獲得するには、行政事件訴訟法上、厳しい制約があり、ほとんど認められない状況にあります。

 

私も鞆の浦埋立免許差止訴訟では、当初より参加しましたが、免許申請の仮差止という、当時としては例がない手法で問題提起し、長時間かけて相当な審理ができたおかげで、その申立自体は却下されたものの、決定文の中で一定の申立の利益を認めてもらい、とくに本案訴訟では、大量の主張立証の資料を割合短い時間で審理してもらい、勝訴判決を得ることができ、こういった仮差止の制度も一定の効果をもつことを理解した次第です。

 

と長々と、書いてきましたが、わが国の仮処分や仮差止といった制度は、とても慎重な審理で、時間がかかり、果たして本来の機能を果たしているか疑問を感じています。

 

他方で、アメリカの今回の連邦地裁の判断は、申立後4日目で決定しています。しかも全州に影響を及ぼす画期的な判断をです。そして連邦控訴審も、さほどの時間をかけずに、判断を下すのでしょう。いずれ、連邦最高裁での判断となるでしょうが、それにしても早いと思います。

 

当然、裁判官一人がなし得ることではないです。代理人である弁護士が、おそらく膨大な数で徹夜状態の中、主張立証しているのでしょう。むろん、決定文は7頁ですし、争点は大統領令が違憲かどうかといった、法律論ですので、詳細で具体的な事実関係の主張立証を要しないこともあるかもしれません。とはいえ、政権側としては、入国を制限しないと、テロの危険が現実化するという点について、相当明確な蓋然性を示さないと、人権侵害のおそれが大ということで(こちらの主張立証は容易ではないかと思うのです)、結論が出やすいかもしれません。とはいえ、国民の安全保障の問題は大統領の専権事項といった議論が成立するのかは、わが国で昔、当たり前のように議論された統治行為論的な問題と似通っている気はします。


Ed Straker氏による

'Muslim ban' injunction is a judicial coup against President Trumpは、彼が現在、連邦最高裁判事候補者に指名されているNeil Gorsuch氏と同窓だったそうで、有力な弁護士のようで、そのコメントも参考になるかと思います。上記文書中にある、とくに彼が自ら手に入れた決定文、the rulingはダウンロードできるので、関心のある方は是非一読されたい。


 

それで、決定文の内容に移りたいですが、ちょっと斜め読みした程度では、理解できるものではなかったので、また別の機会にしたいと思います。三権の分立と司法の独立、仮処分の意義みたいな視点から、憲法や法令の疑義について慎重な審理がなされるまでは、これらと抵触するおそれのある大統領令を一時停止するといったような判断に読めますが、これは自信がありません。

 

関心のある方は、丁寧に決定文を翻訳されるとよろしいかと思います。

(今朝、昨日リンクしていた情報を再度入手して、リンクしましたが、この作業に結構かかります。がいつか見るとき、資料を見つけ出すのが容易かもしれない、といって、そのまま反古になるのが過去のパターンですが)

 

 


タンチョウと手話 <混乱、難民ら280人入国拒否>を読んで

2017-01-30 | 海外との交流と安全の道筋

170130 タンチョウと手話 <混乱、難民ら280人入国拒否>を読んで

 

今朝はほんとに初春が突然訪れたような暖かさでした。

 

良寛さんの次の歌のように待ち焦がれた至福の思いを感じている様をふいと浮かべてしまいます。

 

鶯の声を聞きつるあしたより春の心になりにけるかも

むらぎもの心楽しも春の日に鳥のむらがり遊ぶを見れば

 

ところが、毎日朝刊の記事やマスコミニュースによると、トランプ氏の入国停止の大統領令で、たいへんな混乱状態がアメリカ国内はもちろん世界中で起こっているようです。人種や国・宗教を根拠として、ビザやグリーンカードを持つ人でさえ対象とされているようです。

 

トランプ氏はユダヤ人に対する強い親和性をもっているようで、イスラエルの違法な移住を容認するなど、イスラエル政権に対して強力に支援する姿勢が見られます。長い間アメリカは移民の国、多民族のるつぼと言われてきました。とはいうものの、法的にも、事実上も、先住民族のインディアンを含め、黒人やヒスパニック、アジア系に対して、差別的取扱を行ってきたこともアメリカです。しかし、トランプ氏の就任後に誇らしげに次々と署名する大統領令は、保護主義の名目で、協調的な方向に進む世界秩序を破壊し、ユダヤ教徒など特定の人たちを中心にしつつ、イスラム教徒や一定の国の排斥を明確にしているように思えるのです。その点、大統領令の実施に当たってはその方向で簡単に軌道修正しているように見えます。

 

このようなトランプ氏を支える大きな層はアメリカの労働者階級の中間白人層ともいわれます。実態はわかりませんが、そういう層が数的には多いかもしれません。ただ、軍事支出の削減や金融規制強化などを打ち出した民主党政権にノーを唱えた少数で巨額の富をもつウォール街や軍需産業の人たちもいたでしょう。こういう人たちが扇動に荷担した有力な一部かもしれません。

 

それはさておき、私たち人という存在は、意識的に、あるいは無意識的に、いかに人を差別し、またさまざまな生物を虐待するなどして、その健全な生育を阻害してきたか、ときに顧みることも大事ではないかと思うのです。

 

毎日朝刊では、タンチョウが優雅に舞い踊る姿を捉えています。その隣の記事に、<「手話は言語」 73自治体>というのと、聴覚障害者初の弁護士として松本品行氏が取り上げら得ていました。

 

タンチョウについては、思い出すことがあります。90年前後だと記憶していますが、一人で富良野の東大演習林を見学した後、釧路湿原を訪問しました。少し眺望がきく展望台に上って釧路湿原のとてつもない広がりを見せる姿になんともいえない原生自然的な美しさを堪能してしまいました。ところがそのとき集団で観光客が訪れ、ある人がこんな広いところ、農地にすればいいのにもったいないといった言葉が当然のように口に出て、何人かも同調する様子でした。

 

このような意識が当時多くの日本人にあったと思います。実際、釧路湿原の周囲は牧場などで農業排水が入り込んだり、他方で乾燥化も進んだうえ、牧場経営が困難になったところではゴルフ場銀座のように開発にさらされていました。

 

そのとき名前は今思い出せませんが、タンチョウがいるんだから、湿原は守れるといったアメリカの環境保護運動家が言ったことが新聞記事で紹介されていたように思います。当時の私は、たしかに生態系の中で頂点にたつ種が生育する環境があると、食物連鎖などで多くの種の保護が図られるといった理解は頭では分かっても、あの白頭ワシのように、大衆受けするだけの運動ではないかと少し距離を置いた見方をしていました。

 

とはいえ、そのとき湿原そばに立っていたペンションに泊まって、朝食の際、すぐそばで多くのタンチョウがのんびりと食事をしたり、戯れているのを見ると、なんともいえない癒しの気持ちを味わったのを覚えています。

 

ただ、当時は、美しいものだけを保護の対象にしたり、人気のある種だけを取り上げることに抵抗があったのでしょう。その意味では、とても見た目だけでは美しいとかいえない、隠れた存在、菌類をも大事に、その保護の必要から日本初といもいえる自然保護活動を行った南方熊楠の方に惹かれていたように思います。

 

その後アメリカの絶命危惧種法(Endangered Species Act, ESA)を勉強するようになり、90年代、ダム開発や森林開発、宅地開発などなどに対して環境保護団体が数々の訴訟や運動を通じて、その保護対象の種をあらゆる絶滅危惧種に拡大していく中で、生物種の差別というものが少しずつなくなっていく流れをフォローしたように思います。

 

またロデリック・F・ナッシュ「自然の権利」(松沢弘訳)は、環境倫理の文明史を描き、倫理の進化過程を図式化して、家族や部族、地域的な差別の段階から、民族・人種・性差別から解放される現段階に進化し、動物を含む生物の差別からの解放を目指す過程にあるとしています。そして今後はさらに植物、その他微生物も含む生命、さらには岩石、生態系、ついには宇宙まで進化が進むというのです。むろん、トランプ氏の施策でも明瞭ですが、人種・宗教・性差による差別は現代でも解決困難な問題の一つですから、この図式は少しずつよくなっている、解放が進んでいるといった程度で理解できます。

 

ま、ナッシュ的環境倫理やその進化的見方は、実際は中身の濃い内容で、このような図式化では説明できませんし、私も20年近く前に読んだきりですので、今回は名前だけの紹介にとどめます。

 

記憶では、ナッシュは障害者の問題はとりあげていなかったように思います。しかし、障害者差別の歴史は古く、ナチスの優性思想の一端には障害者に対する明確な差別もあったと思います。

 

わが国の障害者差別の歴史がどうだったかをきちんと勉強したことがないので、はっきりしたことはいえませんが、維新後に西欧思想の中で、差別的取扱が顕著になった可能性を考えています。維新時に訪問した異邦人の記録の中では、障害のある人も普通の生活場面で暮らしている姿を描写されているのもあり、また、視覚障害者については、維新前には特殊な階級構造が成立して、ある程度安定した職業に就いていたと思える節があります。

 

しかし、維新後は、たとえば聾唖者(差別用語として現代では使用されない)という立場で、旧民法で行為能力を制限していましたし(79年の民法改正まで維持)、大正期に聾唖学校(現代はろう学校と呼称するが)を西欧流の外形を装うようにごく一部で設けられましたが、手話は言語でないとして、手話教育が否定され、無理矢理発生を強いる教育が長く行われていました。むろん地方では聾唖学校もなく、他方で普通の小学校へ入学もできず、教育から隔離されていたのが実情で、当然、聴覚障害のある方はまったくといってよいほど教育を受ける機会がないわけですから、基礎的な算数も国語も、暮らしの知識も得ることができなかったわけです。家族のサポートなしには暮らしていくこともできない環境にあったといってよいかと思います。

 

戦後しばらくしてようやく手話教育が導入され、次第に聴覚障害者も高度の教育を受ける機会が増えてきたと思います。NHKなどもニュース報道を手話で行うようになったのはいつ頃からでしょう。また、会議などでも手話通訳の人が演題横に立って手話したり、最近では速記者がいてプロジェクターに素早くタイプした文字がアップして読むことができる会場も増えてきたように思います。

 

とはいえ、まだまだ聴覚障害者が自由に社会生活を送ることは簡単ではないです。バリアフリーとはいっても視覚障害者や身体障害者への対応が進んでいる一方で、聴覚障害者に対してはさほど目立った動きを感じないのは私の視野の狭さでしょうか。

 

そういう中で、毎日記事によると、「手話は言語」とする手話言語条例を制定する自治体が増えているようです。条例制定は、第一歩であり、具体的な施策が大事でしょう。とはいえ、周りの人たちの意識が変わる契機になることを期待したいです。

 

ともう一つ取り上げたいのは、聴覚障害者の弁護士がいる、しかも松本氏は現在77歳で、66年に弁護士登録したというのですから、戦後の手話教育の普及初期に身につけて、司法試験まで合格した分けですから、素晴らしいですね。視覚障害者に対する差別的取扱や手話に対する偏見が一般だった時代に、なみなみならない努力と能力で勝ち取ったのでしょう。誇り高い日本人の一人ではないかと思います。

 

そこで思い出すのは、視覚障害者の弁護士の竹下さんという方です。私は司法研修生時代、友人たちの何人かが先輩からの引継ぎで彼の勉強を支援しているのを聞いていましたが、目が見えなくて司法試験を受けるなんて驚きと不可能ではないかと思ってしまい、不覚にも支援活動には参加しませんでした。その竹下さん、弁護士になって生活保護の救済を含めさまざまな福祉的活動をされているようで、あるとき日弁連の理事者会で一緒になったことがありますが、なかなか堂々として発言をされていて、目が不自由な中、大変な努力で今なお素晴らしい活動をされていることに敬服した次第です。

 

それでついでに、いずれも障害者初の弁護士ということは、他にも障害を持つ弁護士が活動しているのかと思い、ウェブサイトで調べると、同期の吉峰さんがいました。そうだ彼は弁護士なりたてから、当時はまだ注目されなかった少年問題を懸命にやっていてリーダー的存在だったことを思い出しました。途中で重い障害を受けましたが、彼の強い熱情と努力でいまなおがんばっているのだと、遠くから応援したい思いで少し書いてみました。

 

タンチョウと手話、そして入国拒否、いずれもまったく関係ないようで、どうも人間が持つ本質的な差別意識と関係するように思い、私というものがどのように考えているか、自らを試す意味でも書いてみました。私は誰か、私は書くことで少し私が分かる、いやそれは仮想の世界かもと思いつつ、ここまで書いてみました。

 

 


韓国と日本 <「帝国の慰安婦」著者無罪>を読んで

2017-01-26 | 海外との交流と安全の道筋

170126 韓国と日本 <「帝国の慰安婦」著者無罪>を読んで

 

今朝は当地では今期一番の寒さかなと思うほど、体にしみ込むような厳しさでした。高野山はマイナス13度とか。それに比べれば暖かいのですが。

 

さて毎日朝刊では、相変わらずトランプ暴風をはじめ、いろいろ情報が提供されていましたが、見出しの記事に興味を惹かれました。

 

著者の韓国・世宗(セジョン)大の朴裕河(パクユハ)教授は、以前、BSフジ・プライムニュースにも登場して、自分の著作が問題になっていることを踏まえて、議論されていました。そのときの印象が温厚で複雑な議論を丁寧に解説されていたので、好感を抱き、その後だったと思いますが、「帝国の慰安婦」を通読しました。

 

同書の日本版が出るまでは、慰安婦問題で日韓で議論されても、強制があったかどうかとか、軍が関与したかどうか、といった議論が中心ではなかったかと思います。植民地支配という帝国主義の思想はあまり大きな論点ではなかったように思うのです。

 

朴氏の見解は、多くの慰安婦に聞き取りして、そのオーラルヒストリーを基礎にしつつ、さまざまな文献資料など、その背景を追求し、帝国の存在こそ問題であったと捉えていたと思います(斜め読みと記憶なので不正確です)。

 

私自身、韓国の歴史を勉強したこともなく、日本史から見た朝鮮の半分程度の理解も危ういわけです。最近、古代史に関心をもつようになり、自然、朝鮮史として紀元前から7世紀ころまでは書籍を目にするようになった程度です。そのような私が朴氏の問題を軽率に取り上げるのはできるだけ避けるべきと思いつつ、朴氏の類い希な勇気とその洞察力、それと暖かい思いやりを感じさせてくれる議論の姿勢を見て、やはり一言言っておきたい気持ちになりました。

 

上記記事にもあるように、<元慰安婦の李容洙(イヨンス)さんらは2014年6月、朴教授を刑事告訴し、検察は15年11月に在宅起訴。>その内容は<著書にある「元慰安婦は根本的に『売春』のくくりにいた女性たち」「朝鮮人慰安婦は日本軍と同志的関係にあった」などの記述は虚偽で、名誉毀損にあたると主張し、昨年12月、懲役3年を求刑した。>とあります。

 

なお、上記記事では「売春のくくり」として著作を引用していますが、たしかそのような記述自体はなかったのではないかと思います。この「くくり」という用語はわが国には該当するものがないのではないかと思います。検察官が引用を誤ったとは考えにくいので、翻訳が正確なのか、あるいは当時の朝鮮ではそのような施設の表現があったのかもしれませんが、ちょっと指摘しておきたいと思います。朴氏は、翻訳文では「売春施設」といった表記をしています。そして「売春婦」という表記をして、慰安婦か売春婦かの表現上の問題より、植民地支配にあったこと、帝国の支配にあったことが問題だとされていたかと思います。

 

たしかに「朝鮮人慰安婦は日本軍と同志的関係にあった」との記述があり、韓国人としてその評価は勇断のいる内容だと思います。ただ、朴氏自身がみずから聞き取りした多くの慰安婦の肉声から、また先人の残した記録から、そうとしか考えにくい事実を積み重ねたうえで、その評価に到っており、相当の説得力をもつと思いました。事実、特攻隊に志願した朝鮮人の方々や朝鮮内で日本人と生活を共にした人にはそのような意識がうかがえることも別の文献や報道で指摘されています。

 

日韓が売春婦か慰安婦かと、強制か否かを対立して議論している中で、わが国と朝鮮・韓国との関係がどうであったか、当時の状況を克明な調査を基に帝国がもつ脅威を、日本以外のそれをも示しながら論述する内容は、どのような立場に立つとしても、多くの日本人が一度は読んでみる価値があると思うのです。

 

とはいえ、元慰安婦の方が、このような記述を取り上げて、名誉毀損として告訴することも理解できる面があります。朝鮮人慰安婦としてすべての慰安婦が同志的関係にあったとすることは、個々の人の心情や、慰安婦になった経緯の違いを考えれば、当然な憤りだと思うのです。その意味では、この記述は、いくら多くの慰安婦からの聞き取りなどを根拠としているとはいえ、言い過ぎではないかと思ってしまいます。しかし、それは朴氏が丹念に個々の事実を積み重ね、問題の本質をつかみ取ろうと悪戦苦闘して得た根底的な評価を適切に理解したものとはいえないのではないかと考えます。

 

この「同志的関係」ということは、私自身まだ違和感を抱いていますが、研究者の真摯な研究成果として提示された判断として、やはりその内容はしかるべき評価に値すると思うのです。少なくとも、特定の個人の名誉を毀損する意図は、いささかもなかったと思うのです。

 

この点、検察官は、産経ソウル支局長の逮捕・起訴の場合も然り、今回の朴政権の汚職にかかわる起訴、特に大統領に関するものなど、とても司法の独立の一翼を担っているとは言いがたい印象を抱くのは日本人の場合少なくないように思います。

 

その意味で、ソウル東部地裁の判決は、司法権の独立が示されたのかなと少し安心感を抱いています。

 

これを書いている途中で、新しい記事がウェブ上に掲載されましたので、取り上げたいと思います。

 

もう一つ、韓国裁判所が出した判決は、残念な内容です。毎日記事速報だと、<2012年に長崎県対馬市の観音寺から盗まれ、韓国内に運び込まれた長崎県指定文化財「観世音菩薩坐像」の所有権を主張する韓国の浮石寺(プソクサ)が、仏像を保管している韓国政府に対して引き渡しを求めた訴訟で、大田地方裁判所は26日、原告側の主張を全面的に認め、韓国政府に対して仏像を浮石寺側に引き渡すよう命じる判決を言い渡した。>とのことです。

 

問題の「観世音菩薩坐像」は津島市の観音寺が管理していた(所有権も認められる可能性がある)のが盗まれて韓国に渡り、現在、韓国政府が保管しているということですから、いくら韓国の浮石寺(プソクサ)が所有権を証明しても、その引渡を命ずることは法的根拠がないのではないかと考えますが、大田地裁は原告寺の主張を認めています。

 

記事によると、浮石寺の所有権を認める根拠としては、<像内にあった記録物に高麗時代の1330年を示す年号や「高麗国瑞州浮石寺」などと記されて>いること以外にはなさそうです。それ自体、所有権の根拠として薄弱ではないでしょうか。

 

次に、対馬へ搬出等について、<像内で発見された記録物に売買や贈与などの過程が記されていないことや仏像に一部焼けた痕跡があること>から正当な取引を裏付けるものがなく、むしろ<「略奪された根拠と見ることができる」>と判示しているようです。

 

そのような所有権の帰属についての判断にはいささか慎重さを欠くような判断過程や理由付けと考えますが、それは韓国の日本への強い反感を背景にしているのかもしれません。略奪したのは当時暗躍していた倭寇とも言われていることもその影響を感じます。

 

それにしても、観音寺が長崎県指定文化財として保管していたのを盗んで韓国に持ち込んだわけですから、まずは観音寺に変換するのが各国共通の法理ではないかと思いますが、世論の影響を受けたかのようなこのような韓国裁判所の判断は、司法権の独立の観点からも疑問を感じます。

 

日本と韓国は、長い歴史の中で古い時代には多くの文化芸術などや優秀な人材が日本に受け入れられ、また、相互に協力し合った時代があったと思うのですが、秀吉の時代、維新政府の時代など日本が行った侵奪や植民地支配、戦後も長く在日韓国人への差別など問題を残してきたと思います。そういった簡単な表現では言い尽くせないものがあり、そういう中で、司法の役割はより公正で独立したものであって欲しいを思うのです。


追加です。

毎日2月6日付けの風知草 山田孝男氏のエッセイで、朴氏の意見が引用されていましたので、補充します。穏やかで孤高の精神を感じさせてくれる、発言です。韓国人の集団行動に違和感を感じることもありますが、このような勇気ある個人を内心では受け入れている人が少なくないのではと思っています。

<「私が絶望するのは、求刑そのものではない。私が提出し、説明したすべての反論資料を見ておきながら見ていないかのように『厳罰に処してほしい』と言ってしまえる検事の良心の欠如、あるいは硬直に対してである。その背後にあるものは元慰安婦の方々ではなく、周辺の人々である。この求刑は、歪曲(わいきょく)と無知の所産である論理を検事に提供して、おうむのように代弁させた一部“知識人”たちが作ったものである」>