たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

大畑才蔵考23 <大畑才蔵翁頌功祭に参列して><才蔵空白の30年を少し考えてみる>+補筆

2019-04-22 | 大畑才蔵

190422 大畑才蔵考23 <大畑才蔵翁頌功祭に参列して><才蔵空白の30年を少し考えてみる>+補筆

 

先週、仕事でブログを書く余裕がないと思い、1日の休筆を告知しました。ところが、体調不良となり、途中午前中なんとかしのぐと午後にはダウンして夜は早々に寝床に就く状態となりました。昨日までとてもブログを書く気力もありませんでした。 

 

今日は夕方になっても体調が安定していて、書けそうなので、タイピングを始めました。

 

花の写真も撮りました。が、ちょっと作業するだけの気力が残っていないので、今日は止めときます。書いているとまた調子が悪くなりそうな雰囲気になっていますので、要領よくまとめたいと念じています。

 

先週土曜日朝、快晴の空が広がる中、紀ノ川中流域にある粉河寺で、大畑才蔵翁頌功(しょうこう)祭が行われました。10年に1度で、9回目と言うことですから90年続いているのですね。小田井と藤崎井の両土地改良区が主催して行われ、大勢の方が参列していました。

 

粉河寺中門の手前、左側に大畑才蔵翁の頌功碑が大正1412月に建立されたとのことです。先般の歴史ウォークでもこの碑を見ましたが、大きく立派なもので、それだけ地域の人たちが敬意を表したのでしょう。

 

法要と言うことで、管長さんほか2名の僧侶、3名で行われました。私は、大畑才蔵ネットワーク和歌山の会長が所用で参列できなかったので、代役で参列しました。最前列でしたので、管長さんの読経の声が小さなところから大きく響くところまで、よく聞こえてきました。粉河寺は天台宗ということで、密教的な点では真言宗と少し似ているかなと思いつつ、お経の中身とか抑揚とか少し違うなと思いながら聞いていました(信仰心があまりないのでそういうところに関心がふとわきます)。

 

管長さん、ちょうど日あたりのよい場所でしたので、汗だくだくで読経されていて、なんども頭の汗をぬぐっていました。私はというと、ちょうど木陰でしかもそよ風がいい具合にずっと吹き抜けてくれ、気持ちよく過ごすことができました。なにか申し訳ない気分になりましたが、おかげで私の体調はそのときとてもよかったです。葉桜の樹の下でしたが、才蔵翁を偲ぶには最適でした。

 

ところで、才蔵について、55歳から20年間、紀州藩における灌漑事業をはじめ農地調査、農業指導、年貢徴収法の立案など、農政全般の実務を担ってきたことはよく知られたことです。この頌功祭も、小田井、藤崎井という大灌漑事業を成し遂げた功績を顕彰しようということだと思います。

 

他方で、才蔵が高野山金剛峯寺の内偵役を紀州藩から任命され、30年近くその任にあったことは知られているものの、才蔵自身が後半の人生と異なり、わずかしか記録が残されていないこともあり、あまり研究されていない部分で、古代でいう空白の5世紀とかというのを、あえて空白の30年と評してみようかと思うのです。

 

才蔵が内偵役になったのは、橋本市編纂の『大畑才蔵』所収「高野山品々頭書」では、寛文9(1669)となっています(それ以前との記述をどこかで読みました、後記の南紀徳川史もそのような前提?)。その職を退いたのがいつかは定かではないように思えます。

 

他方で、「南紀徳川史巻第一」の中で「大畑才蔵は・・・寛文四年より正徳五年まで五十二年間、郡方に勤務。かの有名なる小田堰・藤崎堰を開鑿(かいさく)。」とあります。これは明治期に作られたものですから、どのような資料に基づいたか明らかでないものの、紀州徳川家当主・徳川茂承によって編纂されたものですから、紀州藩の資料によっている可能性も否定できません。才蔵の記録には時折、元号の誤記があったり(あるいは謄写時に誤り?)奉行名が存在しないと思われるものもあり、才蔵の勤務期間についても慎重に検討されてよいと思っています。

 

どうも前置きが長すぎて(その代わり書いているうちにフラフラしていた頭が少しだけすっきりすると言う功罪半ばする?)、なかなか本題にたどり着けません。

 

再び「高野山品々頭書」に戻りますが、ここで才蔵は、内偵役として選ばれた理由らしきこととして、自分がいる学文路(かむろ)が高野山の麓に位置し、当時は主たる高野道の出入り口に当たり、行き交う人を見聞して見張ることができるといった趣旨のことが書かれています。たしかに学文路は高野街道を経て紀ノ川を渡り高野山に登る入り口に位置しますから、出入りする人物、、物資を探ることはできますね。しかし、それだけで才蔵が選ばれたとは考えにくいと思うのです。

 

そもそも才蔵の系譜がなにかを感じさせます。甲斐武田が元祖でしたか、南北朝時代には日高郡に城郭を構え湯川氏として足利公方に仕え、天文二年(1533年)学文路に移った後大畑姓になり、関ヶ原合戦にも出陣したものの、徳川政権になってからは慶長十二年(1606年)には才蔵の祖父が庄屋になり、以後代々続いているようです。

 

学文路という場所はとても興味深い場所です。交通の要衝でもあり宿場などもあったと思われますが、紀ノ川の氾濫源で割合肥沃な農地が広がっていたのではないかと思います。江戸時代の石高が村ごとに残っていて、意外とあります。その中心は紀ノ川左岸で安田島(あんだじま)といわれる平坦なところです。明治35年の地形図でも川岸周辺は桑畑となっているものの、現在南海高野線の軌道があるところまで田んぼが広がっていました。

 

元禄五年(1692年)の元禄高野裁許は行人方の寺院千カ所の廃寺、行人600人ほどの追放などの大処分が行われたわけですが、それはいくら江戸から寺社奉行が500名を連れてやってきても、数日間の審理でその判断を行うことは不可能でしょう。内偵役の才蔵らが綿密な個々人の罪状を調査していないとできないことではないかと思うのです。

 

才蔵の家系を見れば、長年武士として武勇をあげ、由緒のある武家として家系を誇っていたと思われるのです。最近のドラマで武家の娘という台詞が評判でしたが、江戸初期農民身分に自ら転じた大畑家としても、藩士に劣らない家系という誇りを教育・躾などで維持していたのではないかと推測できます。

 

当然、才蔵も農民であっても紀州藩士に比肩する以上の能力をもっていたことをうかがえます。彼が指摘する年貢徴収法に関する記述などは藩士のあり方をも指導するような内容に思われるのです。そのような彼だからこそ、行人という当時は武勇に長けた人たちが跋扈していた中でも調査ができたのではないかと推測するのです。

 

で、高野山内の紛争自体、そもそも秀吉が、そして家康が、高野山に与えた21000石の領域がグレーであったからではないかと思うのです。紀ノ川以南が安堵されたとも言われますが、それなら学文路はなぜ紀州藩領なのか不思議です。なぜ徳川政権が学文路を高野山領にしなかったか(私の知る限り南岸では唯一の例外ではないでしょうか)。

 

他方で、北岸(右岸ですね)は紀州藩領ですが、高野山の支配が及んでいなかったとは言えないと思うのです。秀吉に高野山領を安堵させた応其上人は、南岸にある平谷池(へいだにいけ)、風呂谷池、宮谷池の修復等を行ったほか、北岸でも岩倉池、引の池(ひきのいけ)、畑谷池(はたたにいけ)など、多くの修復、築堤の土木工事を行っています。紀州藩領内でのため池事業を高野山のトップ(聖派ともいわれていますが、領地自体は行人派が半分以上を支配)である応其上人が行ったかとなると、やはり高野山支配が紀州藩領内に及んでいたとみるのが自然ではないでしょうか。

 

元々、官省符荘や静川荘など高野山領が北岸側にもありましたし、徳川政権、ましてや徳川頼宣が藩主になって以降も、行人派を中心に従来の荘園支配的な事実上の勢力を維持していた可能性があるかなと思っています。

 

他方で、水争いは江戸時代に入ってもたとえば桛田荘と静川荘との間で度々起こっています。その一例が慶安三年(1650年)賀勢田荘絵図です。その後も両者の間繰り返し訴訟沙汰になっています。

 

秀吉の刀狩りは、高野山では断行されていませんでした。そのため元禄高野裁許の時、初めて多くの刀槍などが押収されたのです。

 

小田井開削の条件は、やはり高野山の中世的荘園支配から抜け出したときにはじめて可能になったのではないかと愚考するのです(誰もそんなこと言っていないようです)。

 

もう一つ、小田井を選んだのは、地形的条件のみならず、庄屋であった才蔵だからできたのではないかと思うのです。小田井の左岸(南岸)は広大な氾濫源であり、学文路の田畑があるところです。堰が新たにでき、もし洪水が発生しやすくなると考えれば、農民は決して認めないでしょう。それを説得し理解させたのは、庄屋としての人徳、力量をもつ才蔵だったからではないかとも思うのです。

 

フラフラした頭の中でしたが、とりあえず最初ふと考えたものの一端に触れることができました。いずれ資料を踏めてもう少し整理して書いてみたいと思います。

 

今日はこれにておしまい。また明日(と思っています)。

 

補筆

 

普段は読み返さないのですが、少し内容に手入れしました。昨日はふらふらで書いてしまったことと、書きたいことが抜け落ちていたので、今朝少し補筆します。

 

一つは領地支配と水争いです。水争いは、まさに農民、つまりそこを支配するムラがその権限をもっていて、領主といえども上意的に一方的に決められませんでした。江戸時代においても、水争い、訴訟は、果てしなく続いており、そのような記録が全国で残されています。紀ノ川筋でも少なくない裁許記録があります。紀ノ川北岸に関して言えば、灌漑用水源は小田井、藤崎井ができるまでは、和泉山脈麓につくられた多くのため池、南行して紀ノ川に注ぐ多くの小河川しかなく、小氷期を迎えた江戸初期から中期は気候変動の影響をもろにうけて水の枯渇リスクに晒されていたと思われます。

 

17世紀は紀州徳川家も藩主になって容易にこの水争いに対応できず、その中で中世以来の高野山行人派が農民の背後で蠢いていた可能性があるのかなと思うのです。元禄高野裁許では、学寮派と行人派の宗教規則を巡る争いが江戸初期からなんども江戸の寺社奉行で訴訟沙汰になっていたことの最終的な解決として、位置づけられていますが、その一面だけではないと考えるのです。やはり紀州藩の領地支配の妨害への対応という側面を無視できないと思うのです。

 

そう思う一つは、赤穂浪士事件でも喧嘩両成敗が当時の通念であったことが事件の背景とされていますが、この元禄高野裁許も行人方だけの片面的処断で、しかも廃寺、流罪など極刑に匹敵する厳罰であり、本来なら忠臣蔵的な話が生まれてもおかしくないじょうきょうだったと思われるのです。そうでなかったのは、紀州藩はじめ周辺での世論操作がうまくいったのかもしれません。あるいは高野山のそれまでの横やりがひどかったのかもしれません。たとえば佐倉惣五郎のような義人として、戸谷新右衛門の高野山による不当な年貢徴収に対する戸谷新右衛門の強訴事件も一つの例でしょうか(これははたして史実かは記録が鮮明ではありませんが、伝承が残るくらいですから高野山支配に問題があった可能性を示唆します)。

 

もう一つ、学文路の位置について、うっかり九度山との関係を落としました。真田幸村・信繁が大阪城冬・夏の陣まで滞在していた九度山は、学文路の隣です。というか、幸村が居所にした九度山は高台にあり、農地はあまりなかったと思われます。崖下の低地であり氾濫原であった学文路の農家が農産物を提供したりして、幸村との交流があったかもしれないのです(これは推測というよりほんの可能性です)。九度山の百姓の中には幸村について大阪の陣に参じた人も少なくなかったともいわれています。大畑の先祖は関ヶ原の戦陣には参加していますが、大阪城の戦陣には参加していていないようです。ただ、大畑としては、幸村が抱えていた忍び?というか有能な家来の出入り行動をつぶさに知り得たのではと思うのです。同じ甲斐武田ですし、もしかしたら大畑家の先祖の方が位も上だったかもしれません。

 

書いてみましたが、やはりすっきりしません。しっかり記録に当たって整理してから、再構築の必要がありますね。

 

 

 

 

 

 


幕府の寺院支配と水利 <江戸初期の高野山による領地支配と幕府の元禄裁許による寺社支配の確立と新たな水利秩序>

2019-03-27 | 大畑才蔵

190327 幕府の寺院支配と水利 <江戸初期の高野山による領地支配と幕府の元禄裁許による寺社支配の確立と新たな水利秩序>

 

以前もこのような感じのテーマで書いたブログを書いた記憶があります。その後もその実態を探る手がかりがない中、悶々としている状況が続いています(まあ勝手な妄想ですが)。今日はとくに書くテーマもなく、多少おさらいと整理の意味で、一里塚みたいに書いてみようかと思います。

 

これまで高野元禄裁許については、何回かこのブログで触れてきました。橋本市発行の『大畑才蔵』中、「第四節 高野山品々頭書」や<村上弘子著『高野山信仰の成立と展開』を解説したブログ記事>などを参考にしてきました。

 

今回は、笠原正夫著『紀州藩の政治と社会』中の「第一節 江戸幕府による寺院支配の完成

~元禄期高野山行人派僉議一件~」を少し参考に加えてみました。

 

上記の「僉議」(せんぎ)は、いまでは使われないことばですね。まあ、現代風に言えば、審議や捜査という以上に、弾劾といった意味合いが強いものかもしれません。行ったのが寺社奉行ですので、審理といった意味合いもあるでしょう。その結果としての判断、裁許といったり、裁断といったり裁定といったりするようですが、現代の判決といった一方的な判断ともいいきれないように思います。その判断(上意)を受けた人が従って初めて有効になる感じでしょうか。

 

高野山の江戸初期から続いた学寮派と行人派との対立は、ことある毎に江戸の寺社奉行に訴えられ、その都度裁許を下しているのですが、一向に両者がそれに従わないのですね(まあこういいいい方は正確ではないですが、実質的にはそういってよいかと思います)。この経緯は、上記のブログが詳しいです。

 

高野山は、江戸時代では唯一の大名格だったのでしょうか。なにせ秀吉が行人派の応其上人に21000石(?)を認めたのですが、秀吉亡き後両者が対立し、家康が学寮派に9500石、行人派に11500石与えて和解させたというのですね。徳川政権は両派を大名格に取扱い、それぞれに江戸住まいを命じています。これって、当時の仏教宗派の中で別格扱いだったのではないでしょうか。

 

他方で、紀州藩といっても、秀吉が征服するまでは、紀ノ川沿いでは西から雑賀一族、根来衆ないし根来寺、粉河寺、そして高野山とそれぞれが大きな領地支配をしていたと思うのです。

 

とくに領地紛争、水利紛争は、中世の荘園史では、この地域が有名で、その中心が高野山であったと思います。その担い手は行人派というある種武力集団の性質をもつ勢力であったと思うのです。

 

たとえば、粉河寺が支配していた粉河荘と東隣の丹生谷村は、名手荘と境を流れる水無川とも言われた名手川の水利をめぐって大変な紛争を世紀をまたいで続けていました。名手荘の背後にはあるころから高野山がついていたと思います。その東側には静川荘がありますが、その静川(現在の穴吹川)の水利をめぐって桛田荘も紛争が絶え間なかったと思います。この桛田荘も高野山の後ろ盾があったと思います。

 

その東側には官省符荘(九度山と対岸)があり、ここは高野山の政所があり、その直轄領値ですが、その東側の相賀荘との紛争があったと記憶です。後者を支配しているのは根来寺です。

 

こういった感じで秀吉が、続いて家康が紀州の地を統一したわけですが、直ちに領地支配を実効的に行えたかといえると疑問です。当初、浅野幸長が藩主となりましたが、1619年広島藩に移ると、家康の子、頼宣が親藩として初めて統治したのですね。

 

この紀州藩、とりわけ紀ノ川沿いはやっかいなところだったのではないでしょうか。高野山が寺社勢力として隠然と、あるいは明瞭に、中世以来の領地支配を推し進め(相対してきた根来寺や粉河寺が没落しているわけですから)、百姓への檀家寺としても強い支配が浸透していたのではないかと思うのです。

 

ここで大畑才蔵が登場するのですが、彼が実施した小田井灌漑用水開発は戦国時代が終わって100年以上経過した後でした。100年余りの間、なぜ紀ノ川沿いの田畑はため池灌漑だけに頼らなければならなかったのでしょうか。紀ノ川沿いは右岸には、おびただし数の河川が紀ノ川に流入しています。また和泉山脈の麓や河岸段丘にももの凄い数のため池があります。それだけでは灌漑用水として足りないことは、百姓が切実に感じていたことでしょう。為政者により多くの水供給を求めたでしょう。でもできませんでした。

 

それはおびただしい数の河川を横断する技術がなかったからでしょうか。いや傾斜の緩い紀ノ川の勾配に対応する傾斜を作りながら流水できる用水路を作るだけの測量技術がなかったからでしょうか。あるいは紀ノ川のような大河川に対応できる井堰を設ける土木技術・材料がなかったからでしょうか。

 

私はいずれも決定的な要因ではなかったのではないかと思っています。戦国期に培われた土木技術は平和時、大河川灌漑を実施できるだけのものになっていたと思うのです。それは江戸初期から各地で実施された大規模な上水路や利根川東遷、大和川付け替えなどが証明しているのではないかと思います。

 

紀州藩にとって紀ノ川沿いの領地支配は、高野山の圧力によってままならなかったのではないかと思うのです。高野山の山内での対立について紀州藩は何もできませんでした。むろん江戸の寺社奉行の管轄だからという名目もあるでしょうが、徳川家霊台があり、行人派をはじめ大量の武器弾薬を保持し戦闘部隊も残存している(刀狩りは行われていない)ことや、百姓に対する中世以来の支配が及んでいたことに、対処に窮していたのではないかと思うのです。

 

前記の「第四節 高野山品々頭書」によれば、才蔵は寛文9年(1669年)、郡奉行(どうやら誤記かあえて虚偽の役職を残したか)の命を受けて、以後20年以上にわたって高野山紛争の内偵を行っています。

 

その調査内容とか報告については、才蔵は記録を残していません。多少記載があるので、これを読み解きたいと思いつつ、そのままになっています。

 

この内偵の結果が元禄5年(1692年)7月の寺社奉行裁許にどう影響したのかはわかりません。ただ、この結果、笠原氏が指摘するように、「幕府の寺院支配が完成」したといえるのではないかと思います。

 

江戸幕府は、寺社奉行以下500名以上の軍隊を高野山の麓、橋本に派遣し、紀州藩のみならず周辺各藩に戦闘態勢に付かせ、いつにても反抗を押さえれるよう、臨戦態勢をとったのですから、凄いことです。それは換言すれば、紀州藩一藩では、親藩といえども、高野山を統治することができなかったことを示しています。

 

その結果、高野山の支配が解け、紀ノ川沿いに事実上、荘園の名残り的な村々が対立し、水利をめぐってお互い対立している状況から、ようやく統合的な水利施策を講じることができるようになったと見ることができるのです。

 

なお、秀吉が認めたのは紀ノ川河南ということですが、実態は中世から戦国期を通じて高野山は河北に支配権を及ぼしていたので、その支配力が続いていたと思うのです。

 

と冗長な根拠のない話を続けましたが、本論に入る前に疲れてしまいました。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。

 

 


歩く道(その10) <大畑才蔵歴史ウォークで藤崎井・小田井用水を歩く>

2019-02-16 | 大畑才蔵

190216 歩く道(その10) <大畑才蔵歴史ウォークで藤崎井・小田井用水を歩く>

 

大畑才蔵ネットワーク和歌山>では、昨年初春と秋でしたか第2回歴史ウォークを企画しましたが、いずれも悪天候のため順延となりました。今回も昨日からの危うい天候でどうなるかと心配でしたが、無事開催できました。三度目の正直ですね。これどういう意味でしょうか。

 

ちょっと変ですが、日本書紀になんか似たような話があったと思いだし、仁徳天皇の巻を読んで見たら、少し違いますが、父・応神天皇死後、3年天皇不在でした。応神天皇が継承者である太子にしたのは弟王でした。でも弟王は兄王を尊敬し自分は天皇の器でないと地位を譲るのです。でも兄王は断ります。その後漁師が献上品を弟王に届けたところ、断られ、兄王も断ったので、魚が腐り、再び献上しても同じことになり、漁師が嘆くのです。それを受け弟王は兄王の意思を変えられないとついに自殺するのです。それを聞いた弟王は3日目に宮に駆けつけて、3度弟の名を呼んで嘆くと、弟王は「天命だ」といって天皇になることを依頼して再び黄泉の世界に戻るのです。そして兄王は3度目に?の正直でしょうか、天皇(仁徳天皇)になるのです。そんな3にまつわる話、3度目の正直というようなことが昔から伝承があったのかもしれません。

 

さて今日は曇り空ながら風もなく穏やかなほどよいある国最適な日和でした。最初は紀ノ川北岸を潤す藤崎井、南岸を灌漑する荒見井など複数の井堰を統合した、藤崎頭首工を訪れました。元の藤崎井は現在の頭首工より少し上流にあったそうで、先般私が歩いた名手川河口のちょっと下流付近でした。Yさんの説明では、藤崎井の取水口の高さに合わせて洪水吐けの高さを維持するため、頭首工の中央に木製の堰をおいているそうです。そういえば頭首工の真ん中へんがいびつになっていました。この木製堰は大雨で大流量になれば流されるように設計されているそうです。

 

藤崎頭首工については、Kさんから、上記のような解説でその歴史、現況の話がありました。最近大雨もないので、川の水はとてもきれいでした。

 

一人の参加者から水面の上になにか出っ張っている装置があり、これはセンサーですかといった質問があり、Yさんから説明がありました。水面の高さを測る監視センサーで、その計測データは大淀町のセンターに送られ、そこで紀ノ川全体の水量制御をしているとのことでした。

 

<十津川紀の川総合開発事業の一環として、国営十津川紀の川土地改良事業等で造成されたの農業水利施設(ダム、頭首工、農業用水路など)>で、数百年にわたる念願がかない、奈良と和歌山の河川事業が統合されたのは戦後まもなくですね。紀ノ川の水も、上流の吉野川で奈良県に通水していますので、水利調整が必要なのでしょう。ただ、最近は旱魃とかで水不足といった懸念よりも、洪水リスクの方が心配ですね。紀ノ川の堤防はしっかりしたものができあがっていますが、支流の河川となると、紀ノ川に流入(排水)する箇所が少ない、あるいは小さいため、出所がなく、堤防内で中小河川の氾濫が起きやすくなっている状態でしょうか。また、多くのダムができて、洪水対策はできたものの、愛媛県のダム放水洪水のように従来型のダム調整規則では、最近の異常豪雨に対応できなくなっていることも検討されないといけないでしょうね。

 

余分な話で脱線しました。軌道を元に戻します。

藤崎井用水は取水口からしばらく紀ノ川川岸付近を流れていて、途中から少し北に走りますが、それほど陸地の中に入っていきません。河岸段丘だから北に向かって傾斜になっていると思っていたら、Yさん曰く、昔は小田井用水付近の高台麓まで紀ノ川の河川敷だったというのです。まあ氾濫源ですから平坦だったわけですね。ですから江戸時代の藤崎井用水(延長24km)の位置でも十分灌漑できたのでしょうね。とはいえやはり北方に向かって高くなっているので、藤崎井だけでは多くの農地を灌漑することができず、小田井開設を企画したのですね。

 

藤崎井用水と小田井用水は名手川付近からほぼ並行に通水していますが、前者は紀ノ川沿いの少し低地(高度がおおよそ40mくらい)、後者が少し高い位置(高度がおおよそ50mくらい)を通しています。とくに小田井は崖地とか斜面地の麓付近を通している印象です。

 

そこに用地取得の戦略を感じます。先日、穴吹川沿いの農家と話をしたとき、大畑才蔵の業績を評価しつつ、用水路用地として提供した農家も当初は諸手を挙げて賛成したのではないと思われ、合意を得るのには地元の協力が不可欠で大変だったでしょうといった話がありました。

 

斜面地に沿って用水路が開削されているところが結構多かったように思います。まあいえば農地不適地ですね。むろん高度を一定に保つために選んだという見方もできるかもしれませんが、費用対効果の視点や用地提供を得やすい地点といった観点に立つと合理的な選択ではないかと思われるのです。

 

藤崎井用水は多少通水されていましたが、それほどの流量ではありませんでした。ところが小田井用水では相当量の流水でした。通年維持用水で、環境用水としての機能があるのでしょう。以前、近畿農政局の担当者と話をしたとき、奈良県側では灌漑用水利用としては十分で景観用水として利用する流水量が相当程度となっていて、名称をうっかり忘れましたが環境価値・機能を市民の投票などの手段を講じて評価する手法を使っていました。まあこれ自体はあのエクソン・バルディーズ号事件を契機に、1990年ころから北米で普及した制度で、ようやくわが国でも使われ出したかと思いつつも、さほど理解が進んでいないようにも思うのです。

 

今回の歴史ウォークを共催していただいた小田井土地改良区の事務所で、スライドを使って小田井の歴史が簡潔に整理されて解説されました。その後最近の小田井の様子がビデオ撮影を通して放映され、楽しいひとときを過ごすことができました。昼食の弁当は美味しく、とりわけ手料理で作っていただいた豚汁は格別でした。ただ高齢者としてはそれで十分で、おかわりを催促されましたが、残念ながら若い人のようにはいきません。

 

その後大畑才蔵翁彰功之碑(しょうこうのひ)がある粉河寺を訪れました。初めて行きましたが、立派な伽藍でいいお寺でした。小田井用水の受益面積としては粉河寺周辺がとりわけ大きかったのでしょうか。

 

 

彰功之碑の前で、若いスタッフの歌と演奏があり、なんとザ・ピーナッツの恋のバカンスでした。参加者の年齢にぴったりで、口ずさむ人が大勢でした。拍手喝采の余興でした。まあ私も好きな歌手の一人でした。最近は紅白も見ませんが、彼女の時代はよく見ていたように思います。

 

そんなこんなで無事終えました。今日はこれでおしまい。また明日。


190216 大畑才蔵 歴史ウォークご案内

2019-01-24 | 大畑才蔵

才蔵シリーズ、しばらく遠ざかっていました。才蔵の業績を現地で体験しながら散策するプロジェクト、歴史ウォークも雨天で延期を繰り返しましたが、今回はうまくいくようにと思っています。

今回は紀ノ川中流域にある藤崎井(才蔵が最初に紀ノ川で試みた井堰開削です)から粉河寺周辺を歩きます。

関心のある方は<大畑才蔵ネットワーク和歌山>をクリックしてください。これまでの歩みも紹介していますし、今回の歴史ウォークも掲載されていると思います。よかったら参加ください。私も最近始めた<歩く道>の中核として参加します。

なお、この画像利用がいまひとつわかっていませんので、いつも難渋しています。


偉人の活用法 <伊能忠敬に学ぶ 地元の偉人、伝える喜び>などを読みながら

2018-10-14 | 大畑才蔵

181014 偉人の活用法 <伊能忠敬に学ぶ 地元の偉人、伝える喜び>などを読みながら

 

今朝は事務所の枯れそうな花たちをわが家のささやかな庭に移してあげました。すぐ枯れることもあれば、去年枯れたのが再び開花するのもあり、それが結構楽しみです。生ゴミコンポストで蓄えた有機肥料が唯一の栄養分ですが、なんとか花たちも頑張ってくれています。いつかほんとの野山で咲き誇らせることができればと思いつつ、死ぬまでにできるかしらとも思うのです。

 

一汗かいた後は読書を楽しみますが、今読んでいる本のいくつかはいつか書いてみたいと思いますが、日曜日は毎日新聞の<今週の本棚>で書評が楽しみです。とりわけ加藤陽子氏のそれはいつも期待に反しません。といってもなかなか書評の本を読めないでいますが。

 

今日は<『誰のために法は生まれた』=木庭顕・著>で、<未来を切り拓く最強のヒント>と呼び込みがとくに強調されています。木庭氏は東大法学部教授を退官されたということで、お堅い書物ばかりと思いきや、題名のように<桐蔭学園の中高生にわかりやすく伝授した書である。>そう聞くと、昔、渡辺洋三氏が『法というものの考え方』を岩波新書で発表され、多くの法学生に読み継がれ、私も一読者となって読んだことを思い出します。

 

でもどうやらこの木庭氏の本はかなり違う印象です。

<人の生きる社会構造をしかと分析させるため、映画「近松物語」「自転車泥棒」を見せ、ソフォクレスのギリシャ悲劇をも読ませる。本物の古典というものは、時々の社会が抱えていた問題群を、遠心分離機にかけたごとくに凝縮し、増幅して見せてくれるものだからだ。>と、加藤書評がズバリと上等な比喩を交えて次のように本質を突くのです。

 

<木庭は言う。人の苦痛に共感する想像力があって初めて、何が問題かが掴(つか)める。よってまず直感せよと。実はここに、本書の企図の核心が潜む。著者は、ローマの人々が何を問題としていたのかに立ち返って考えるという大胆な企てを、中高生と共に始めてしまった。>法そのものを舞台に上げる前に、直感を問うのですね。それもギリシャ・ローマ人の感覚で。

 

それは<「どうしたら社会の中で力の要素がなくなるだろうか」と考える、その地点に生徒を連れて行く。ここに、最も弱い個人に肩入れするものとして「法」が生まれ、権力と利益を巡って蠢(うごめ)き、個人を犠牲にする徒党の解体を体系的に行う仕組みとしての「政治」が誕生する。>と。

 

なぜ本書が未来のためお最強のヒントかについて、加藤氏は<現代は危機的状況にある。国際金融システムは混迷し、内戦に伴うジェノサイドは、終熄(しゅうそく)する気配もない。そのような時代にあって困難な未来を切り拓(ひら)くための最強のヒントをこの本は与えてくれる。>と言及するのです。

 

そしてクライマックスは憲法9条解釈です。

<日本の未来を左右する憲法9条について、ローマ法の核にある占有の論理を引っ提げての著者の分析は、呆(あき)れてしまう程見事なのでご一読を。戦争の惨禍から生まれた日本国憲法が、実力行使を正当化する全経路を絶つべく、いかに厳密な論理で書かれているか、初めて得心できた。>そう言われると、これは読まざるを得ません。

 

と前置きがずいぶん長くなりました。木庭氏もすでに高齢者の仲間入りをされているようですが、今日のテーマはセカンドステージを有意義に生きぬき、郷土はもちろん日本の将来の礎を作った人たちについて、現代においてどう私たちが活かせるかを少し考えてみたいと思います。

 

私自身、セカンドステージの時代に入っていますが、まだ現役を続けています。セカンドステージがきちんと見えないこともあるのかもしれません。そのためこの10年ほどはセカンドステージを見事に生き抜いたと思える人たちを見つめながら過ごしてきました。

 

私が取り組んできた大畑才蔵もそうです。今日の毎日<セカンドステージ伊能忠敬に学ぶ 地元の偉人、伝える喜び>で取り上げられた伊能忠敬はとりわけ著名な偉人ですね。今日の記事を参考にしながら考えてみようかと思います。

 

<伊能忠敬(1745~1818年)の測量隊の一行は約17年かけて全国を歩き、その距離は地球一周を超える約4万3707キロにのぼった。>その忠敬は<50歳を過ぎて天文学を学んだり、全国を回って測量し>、当時としては最先端の測量技術により精密な日本全図「伊能図」を完成させたのですから、前人未踏の業績ですね。

 

私も何冊か忠敬の伝記物を読んだことがありますが、高齢の身で日本全国津々浦々を歩くのですから尋常ではないですね。若い頃から責任感だけでなく胆力があったように描かれていましたが、その通りかもしれません。

 

で、記事で紹介されているのは65歳で仕事を辞め、ちゅうけい先生を慕い、寂れた佐原のまちおこしのため、ボランティアガイドをはじめ、91歳の今も現役で、元気にガイドをつづけている<地元のNPO法人「小野川と佐原の町並みを考える会」副理事長の吉田昌司さん>です。吉田さんは<伊能忠敬が天体観測に使った象限儀のレプリカ>などを使って解説しています。

 

佐原のまちといえば、40年くらい前、一度、水郷のまちとして知っていたので、そのアヤメ祭りを見にいった記憶がありますが、当時は伊能忠敬に関心がなかったのか、そこの出身であることも知りませんでした。年を重ねて分かる魅力でしょうか。

 

忠敬のその業績は、<「佐原町並み交流館」を拠点に、忠敬の旧宅と伊能忠敬記念館>などの施設を中心に、その展示品などで理解が進み、その魅力の一端を体感できるかもしれません。

 

他方で、忠敬の場合、現代的なツールが活躍しているようです。<スマホ片手にたどる足跡 アプリ開発>です。

<忠敬の足跡めぐりのお供にお勧めなのがスマートフォンの無料アプリ「伊能でGo」だ。2017年11月にリリースされ、伊能測量隊が宿泊した全国約3100カ所が登録されている。ユーザーのいる地点から半径50キロ圏内にある宿泊地を画面に表示する。対象となる宿泊地から半径500メートル以内に入ると、画面をタップすれば伊能家の家紋と「到着」の文字が描かれた旗を立てられる。忠敬が滞在した時期や解説も表示される。>

 

たしかにこのアプリがあれば、旅行に歴史体験を重ねられ、しかも伊能測量隊と同じ現場あるいは宿泊地を追体験できるので、お手頃かもしれません。それは佐原のまちづくりとは関係がないかもしれませんが、追体験するような人は当然、拠点である佐原にやってこないはずはないでしょうね。

 

たしかにこういったアプリの活用は、現代では重要なツールとして考えておくべきことかもしれません。しかし、ポケモンGOのような感覚で体験する人が増えることだけではちょっと物足りない感じがします。

 

私にはアプリのプログラミング方法は分かりませんが、より多様な使い方がないのか考えてもらいたいように思ってしまうのは勝手な考えでしょうね。

忠敬のアプリがどうなっているのか分かりませんが、才蔵についてふと思ったのは次のようなことができないかといったことです。

 

たとえば、才蔵が行った小田井灌漑用水事業について、井堰、伏越、渡井などの土木技術について、当時のいくつかの技術を提示して三択にするとか、小田井開設によってビフォーアフターで田畑がどのように変わったかを推定するとか、領地支配・水利支配の歴史的推移を三択で選ぶとか、農作業の日程を空欄にして農作物ごとに穴埋めするとか、年貢料の定め方の種類と是非を問うとか、いろいろ思いつくのですが、アプリの方はちっとも思いつきません。

 

このような駄文は別にして、健康長寿は、歩きが一番かもしれません。才蔵も忠敬も歩き続けました。北斎も普段は家では絵を描く以外怠け者の生活をしていたといわれていますが、他方で、日本各地をいかに歩いているかはその絵の地理的分布からも分かりますね。最後に歩き続けることが目的達成のための、あるいは心豊かに生きるための、一番の秘訣かもしれません。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。