171130 大畑才蔵考その13 <世界かんがい遺産登録を契機にいまなにを考えるか>
10月12日付け地元紙「紀伊民報」は<世界かんがい施設遺産に 紀ノ川沿いの小田井用水路>とタイトルで、<和歌山県を流れる紀ノ川に沿って江戸時代に整備された「小田井(おだい)用水路」が、かんがいや排水に関する国際組織「国際かんがい排水委員会(ICID)」により「世界かんがい施設遺産」に登録されることが決まった。県内では初めて。>と報じた後、和歌山県もこの決定を受けて、いろいろこの効果を活かす試みを検討していることでしょう。
ところで、一昨日農業土木技術研究会発行の「水と土」が届いたので、ぱらぱらとみていると、ちょうど参考になる論考がありましたので、それを紹介しながら、少しこの問題を考えてみたいと思います。
一つは、「土地改良施設の観光資源としての経済効果-熊本県山都町「通潤橋」の事例-」で、橋本晃氏と小山知昭氏の両研究員作成のものです。通潤橋は平成26年に登録された先輩格です。もう一つは、昨年一足前に登録を受けた「歴史的かんがい施設の継承~長野堰用水」で、その地元群馬県職員である中林静夫氏作成のものです。
以下では、前者を通潤橋(つうじゅんきょう)論文、後者を長野堰用水論文として、引用しながら、簡潔にまとめることを努力してみます。
まず、世界かんがい遺産登録後1年を経た長野堰用水についてどのような紹介がなされているかを取り上げます。
開設の歴史がすごいですね。あの在原業平の曾孫と伝えられる長野康業(やすなり、「業」という名前を授かったのでしょうか)との伝承だそうです。
業平は、阿保親王の五男で、本来なら桓武天皇の長男平城天皇の孫ですから、世が世なれば・・でしょうか。でも薬子の変で祖父や父やその兄弟も左遷等で、その後は転落の一方でしたか。とはいえ「名にしおはばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」も有名です。他方で、一時期、菅原道真とも学芸や出世を競ったともいわれるそうで、それも興味深いですね。
長野堰用水について長い歴史があり、その灌漑土木資産としてどのような変遷があるかについては、詳細な資料があまりないようですね。ただ、「世界かんがい施設遺産の登録にあたっては,サイホンや水路トンネルなど,近代に通じる農業土木技術や理論が, 200年以上も前から実践されていたことが評価された。」ということで、川を横断する「サイホン」や「水路トンネル」という土木技術が着目されたようです。
だれがどのような技術を考案したかや、施工方法、その他事業遂行の仕組みといったことまでは判明していないようです。
ただ、遺稿調査などにより、「物部私印」が出土したり、伝承に物部氏の流れをくむ石上(いそのかみ)姓を長野氏が名乗っていたといったことで、物部氏にまでつながる可能性を秘めていますね。蘇我物部戦争(丁未の乱)で物部氏が滅びたものの、東北蝦夷(えにし)から九州まで覇権を及ぼしていた物部氏の残党が各地でその後も活躍していたといった伝承を思い出してしまいます。
用水不足を解消するため開設された長野堰用水ですが、水争いの解決にはならず、その後も壮絶な紛争が続き、1962年に円筒分水堰が完成したことで、ようやく終止符が打たれたというのも興味深いことです。
さてこの登録を受けて群馬県としては、「長野堰土地改良区や高崎市などと連携を図りながら,長野堰用水を核としたまちづくりや教育への活用などを検討している。」といった程度で、今後の課題となっているようです。
この点は通潤橋論文が観光資源としての活用の観点からこれまでの取り組みを紹介していますので、参考になるでしょう。
通潤橋の開設経緯については、「通潤橋は,熊本県上益城郡山都町にある, 日本最大級の石造りのかんがい用アーチ水路橋である。嘉永7年(1854年),四方を河川と低地に囲まれ水の便が悪く水不足に悩んでいた白糸台地に住む農家を救うため,時の矢部手永の長でもあった惣庄屋「布田保之助」が中心となって計画を立て,矢部手永の資金や細川藩の資金を借り,熊本城の石垣を手掛けた肥後の石工たちの協力を得て建設した。築162年となる。」とあります。
この特徴がすばらしいですね。「曲線が美しいアーチの石垣が特徴的で,橋の上部に逆サイフォンの原理を応用した3本の石の通水管が敷設され,現在も白糸台地の水田を潤している。」このような技術は、先端的であるだけでなく、景観美に優れていますので、それだけで一般の方も魅了されますね。
そのため、「平成18年「疏水百選」に選定、平成19年 文化庁補助「文化的景観保護推進事業」実施、平成20年「通潤用水と白糸台地の棚田景観」国の重要文化的景観に選定」と、世界的評価を浴びる前に、わが国で高い評価を得ていたわけですね。
その経済的効果として、地元小学生を含む観光客の入り込み数が増大しているとのこと。ただ、交通不便もあるためか、外国人数は限られている模様。
放水は、,通水石管内の土砂抜きのために行われていたのを、観光目的用に、地元の費用負担で増やしているそうで、入り込み客数増の効果がでているようです。そうですね、橋からの放水はTVでも見て、爽快さを感じましたが、実際に橋の上に立てば心が洗われるでしょう。
通潤橋そのものに加えて、道の駅、レストラン、資料館がそれぞれ相乗効果をもち、そのほか近隣の円形分水工,白糸台地の棚田及び布田神社によって、観光効果を盛り上げているようです。
今後の方向性については大きく2つの道をあげています。
ひとつはさまざまな地域特性を活かした商品化と販売化活動です。
「地元では,道の駅などで、特産のゆずやブルーペリーの加工品を製造販売するとともに, 「重要文化的景観の棚田」としての利点を活かした,付加価値の高い米「通潤橋水ものがたり」の販売を開始したり,環境保全面から「廃油せっけん」を地元で作り使用するなどの動きが新たにでできている。」
もう一つは、イギリスの伝統的なフットパスを参考にしたのでしょうか、「3年前から秋にフットパスイベントを毎週土日に開催(昨年は約100名参加。今年は回数を増やし10回,各20人,計200名の参加を見込む)。」
これに付加する事業はわが国特有ですね。「周辺の良好な農村景観の中での6~9kmの散策を楽しんだ後,地元食材による弁当を食べてもらい,土産として地元産品も購入してもらうことを計画している。農家の収入増につなげるとともに,町の応援団を増やすことが目的である。」
最後に、「「通潤橋」を活用して「白糸台地の棚田」を耕すことが農村の景観を作り出し,大きな観光資源となっており,また,地域・集落のまとまりを高めることに大きく寄与していることが明らかになった。」と登録遺産を有効に活用して、農村・住民・観光客が一体となって新たな文化秩序、経済効果を生み出している様子を評価しています。
さて、少しは小田井について触れておく必要があるかと思います。通潤橋でこれまで行ってきたさまざまな事業、これから行おうとしている事業は、特段、特異なものではありません。強いて言えば、通潤橋とその地域特性に応じたものが特徴的というぐらいでしょうか。
ただ、実際はそこで活動している担い手の心や心意気がもし具体的にヒアリングできていれば、より特徴が生き生きと伝わってきたのではと少し残念ですが、雑誌の性格上、これはやむをえないかもしれません。
では小田井はというと、その開設者である大畑才蔵を取り上げている民間団体「大畑才蔵ネットワーク和歌山」では、すでにウォークイベントを実施したり、才蔵物語のマンガ発行事業を始めたり、シンポを実施したりで、徐々に足場を固めてきています。
これからはさらにより他との連携をしたり、洗練していく必要があるでしょう。たとえば、フットパスは、イギリスでは「歩く権利」と表され、全土を歩くロードが整備されていて、農地という私有地の中でも歩く権利が確立されています。長い裁判闘争の中で、歩く権利法も戦前に生まれています。北欧でも類似の制度があります。
で、この歩く権利を具体かする、フットパスは、わが国でも実効かできることを期待したいと思うのです。才蔵の立場に立つと、才蔵こそ、歩くスペシャリストの一人だったと思います。歩くことにより、江戸時代の人は食生活は貧しくても、健康を維持できた要素が会ったのではないかと思うのです。そういうと今はほとんど歩いていない私は不健康そのものですが。
そう小田井の世界かんがい遺産登録には、多様な道が開くことができると思うのです。ウォークイベントという才蔵の事業を見て歩くことも重要ですが、フットパスの道を紀ノ川沿いに整備して健康ロード(才蔵ロード)を作るのも一つでしょう。それは道路建設ではありません。ある種、熊野古道の整備に近いものでしょう。
また資料館も、現在橋本市郷土資料館や、各地の資料館などに散在している小田井などの用水事業の資料や才蔵資料を一挙に展示説明したり、あるいはさらにそれらを保管できる場所を建設して常時展示解説ができるようにするのも一つでしょうか。金のかかることは難しいというのであれば、外国人や日本各地から訪問しても、その意義・歴史を丁寧に解説できるインタープリター的なガイドを準備することも大いにもりあげることになるのではないかと思うのです。
この小田用水が中世の壮絶な水争いを止めた?あるいは削減できた歴史も知ってもらいたいですね。そして当時、紀ノ川は川上船で物資の運搬のため行き交って賑やかだったことも、小田井用水の周辺景観としては重要です。そして時には堰き止めて増水して、吉野杉を筏流しで紀ノ川河口まで運んでいた景観も想像すると楽しいですね。
で、忘れてはならないのは、才蔵がどのように、利害対立する各地の百姓の気持ち(ある意味では一票)をきちんとして費用対効果を算出したうえで説明したうえで、その百姓たちの納得を得て事業を遂行したか、という江戸時代の灌漑事業の本質を物語ることが大切ではないかと思うのです。
土地収用法もない、武士・殿様の権威だけで事業が遂行できなかったことを私たちは知っておく必要があります。百姓が唯々諾々と武士の不当な要求を聞いていた分けではありません(むろん現在でもいじめがあるようにそういう事実を全面的に否定するわけでありません)。百姓は不当な武士側の要求に対して裁判に訴え、それを変更させている事例は多数です(渡辺尚志著『武士に「もの言う」百姓たち 裁判で読む江戸時代』)。
小田井用水などを企画遂行した才蔵こそ、その物語の立役者の一人です。
今日はこれから会議があり、会議が終われば事務所に寄らず帰宅しますので、この辺でおしまい。また明日。