たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

リーダーの倫理 <擁護論盛り上がる明石市長暴言問題を考える>を読みながら

2019-02-03 | 国・自治体のトップ 組織のあり方 民主主義とは

190203 リーダーの倫理 <擁護論盛り上がる明石市長暴言問題を考える>を読みながら

 

今日はこれで4つめのブログとなりました。さすがに疲れてきましたので、パスしようかと思いつつ、簡潔に取り上げておこうかと思います。

 

毎日朝刊記事<アクセス筋が通っているからこそパワハラ 擁護論盛り上がる明石市長暴言問題を考える >は、連日話題になっています。あえてとりあげることもないかと思いつつ、なにか釈然としないものがあり、一言触れておきたいと思うのです。

 

とはいえ、今朝の毎日記事は少し色合いが違います。

<明石市に寄せられた意見は?

 2日に兵庫県明石市長を辞職した泉房穂(ふさほ)氏が、道路用地買収で職員に「(立ち退きのため)火をつけて捕まってこい!」と怒鳴った一件。「地上げ屋」のような暴言で発覚時は批判が渦巻いたが、日を追うごとに擁護論が盛り上がった。この現象、どう考えるべきなのか。【宇多川はるか】>

 

ちゃんとグラフにして、批判論が漸増気味であるのに対し、擁護論が急速に延び、4日目にして逆転しているようです。

 

それがどうやら地元紙、神戸新聞の記事が影響しているとか。

<地元紙の神戸新聞が早い段階で当時のやり取りを詳報したこともあり、流れが変わる。同紙は「あっこの角で人が巻き込まれ死んだわけでしょ。だから拡幅するんでしょ」「難しければ私が行って土下座でもしますわ」など、罵倒に続いて交通事故防止を力説する泉氏の言葉を紹介。>

 

ちょうど偶然、伊兼源太郎氏の著作『事故調』を読んでいる最中で、これは明石市人工砂浜陥没死事件を題材に明石市長を含む市職員の陰湿な体質?と地元神戸新聞の立ち位置などを背景に、変わり種の主人公の内心を通してプロットが進んでいくのです(まだ読み始めたばかりでどう進展するかは?)。ひどい公務員内でのパワハラなどが当たり前のように表現されていて、今回の事件を見ながら、えっこれって明石市の体質?なんて驚きの感覚で、思ってしまいました。まあ、事件は2000年に発生し、小説は14年に刊行されたものですが。

 

ところで、記事では、弁護士の見解をわざわざ紹介しています。

<ハラスメント訴訟を多数手がける笹山尚人弁護士は「訴訟で加害者側は『業績が厳しい中で叱咤(しった)激励した』などと弁明するが、正しい目的でも相手の人格を否定し、傷つければハラスメントだ。どんな理由であれ行為自体が人格権侵害かが法的に判断される」と指摘する。>

 

また、<パワハラ対策のコンサルタント・・・>の意見として<「交通死亡事故の抑止」という正当な理由があっても、パワハラが免罪されるわけではない。さらに2人は「政策がいいので頑張れ」「一生懸命やっているからこその発言」など、業績や人物を評価して暴言に目をつぶる擁護論を問題視している。>としています。

 

私もこれらの見解に異を述べるつもりはありません。

 

ただ、交通事故抑止の正当理由と前置きすることには少し躊躇を覚えます。だいたい交通事故の原因が道路狭小であったとか、角で見通しが悪いとか、と断定できるのでしょうかね。むろん法的には道路の欠陥ということが事故の原因であれば、死亡者の遺族から国家賠償責任を負わないといけないのは市になりますね。まあそういうことではなく、そういう理由で事故が多発するおそれがある、その結果として死亡事故が発生した、だから拡幅工事は喫緊の課題だった、それを促進させたのだから正当理由ありといった論法でしょうか。

 

しかし、交通事故原因が道路の狭小、角など道路形状によるとしても、解決策は必ずしも道路拡幅しかないとはいえないように思います。まだ状況がわからないので、ここはあいまいにならざるを得ませんが、交通施策はハードでも多様な手法があります。拡幅だけが唯一の手段ではないでしょう。また、仮にそうだとしても、さまざまな交通誘導策で危険を回避する措置は可能です。少なくとも暴言を許容するような正当理由は、私には今のところ考えがたいのです。

 

だいたい運転者も狭隘道路であれば利用を回避したり、渋滞があれば我慢するのがマナーでしょう。より安全に配慮して慎重な運転が求められるのです。無理な運転をすることが問題ではないかと思います。ちょっと事情が分からないのに、ここまでいえるかは留保付きですが、私は暴言を容認できるほど、交通事故対策としても拡幅工事、その前提の用地取得の緊急性を認めることに疑問を感じています。公共サービスを担う公務員の首長として、本来模範的な言動が求められるはずです。脅し文句で人を動かすのでは、公共サービスは一向に公共性を身につけることができないように思うのです。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。


記者会見の有り様 <CNN記者、地裁、入庁証返還をトランプ氏側に命令>を読みながら

2018-11-17 | 国・自治体のトップ 組織のあり方 民主主義とは

181117 記者会見の有り様 <CNN記者、地裁、入庁証返還をトランプ氏側に命令>を読みながら

 

毎週相当数花を買っているので、さぞかしカラフルな花のガーデンになっているんでしょうと、店員から言われることがあります。まあ毎回510鉢前後ですから、結構賑やかとはいえます。でも事務所と自宅庭で分散していますし、枯れるものも結構あるので、とりわけ自宅の庭はなかなか花園とはいきません。昔北米カナダでガーデンシティツアーで喜ばしてくれたような広大な庭に多様な花が咲き乱れるといった雰囲気とはほど遠い状態です。

 

それに市販の花を買って植えるのではあまり私の趣味に合いません。とりあえずやっていますが、いずれ仕事を引退したら、本格的に?野花・野草、雑木林づくりに取り組むことができたらと思っています。夢のまた夢かもしれませんが。

 

そんなのんびりした気分になりたいものの、ちょっと新聞記事を見ると、げんなりする情報がわんさとあり、取り上げる気分にならないのが本音でしょうか。

 

今夕の毎日記事<米国CNN記者、ひとまず軍配 地裁、入庁証返還をトランプ氏側に命令>もその一つでしょう。いや、この仮処分決定自体は、当然の結論ですが、こういう騒動が起こること自体、恥ずかしいことではないでしょうか。

 

ニュースで何度か、このCNN記者とトランプ大統領との質疑場面を見ましたが、記者の質問は的を射ていますし、トランプ氏の対応はその大統領としての識見を疑いたくなるものです。トランプ氏の場合これが特別でもなければ、普通の出来事なのでしょう。

 

自分が選任した閣僚や高官でも、自分の意見と合わなければすぐに(多少は我慢するのでしょうか)首をすげ替えますね。嫌なことを耐えるとか、異なる意見を丁寧に聞くという、民主主義の基本的なスタンスを彼に問うこと自体筋違いかもしれません。

 

それにしても女性スタッフがCNN記者のマイクを無理矢理取り上げようとするのも、なにか芝居がかっているように思えます。この記者が厳しい質問をすることは予期していたと思われ、その場合にどう対応するか事前に準備していた可能性すら疑いたくなります。なぜわざわざ女性が出て行ってマイクを取り上げようとしたのか、それを拒否する記者の姿勢を報道させ、ハラスメントだとでも聴衆に思わせようとしたのでしょうかね。

 

これがいかつい男性だったら、そういう風にはとられないので、あえて女性スタッフに仕向けさせたのでしょうかと変な勘ぐりをしてしまいそうです。

 

この後、この記者の入館証が取り上げて、ホワイトハウスへの入庁許可の停止措置をとっていますが、よほどトランプ氏が苦手にしていたのでしょうか。彼は批判を正面で受け止めることができないようですね。民主主義を先導する国・アメリカの大統領として恥ずかしくないのでしょうか。

 

この記者もさすが訴訟王国アメリカですね、直ちに停止措置撤回の仮処分申請したようで、勝利を得ています。

 

<【ワシントン鈴木一生】ホワイトハウスへの入庁許可を記者が停止されたのは言論の自由の侵害にあたるとして、米CNNテレビがトランプ米大統領らに対し停止措置の撤回を求めた訴訟で、ワシントン連邦地裁は16日、暫定的に入庁を認めるようトランプ氏側に命じた。>

 

ワシントン連邦地裁の仮処分決定は当然の結論だと思います。決定文も簡単なものでしょう。内容も言論の自由をさほど掘り下げたものとは思えません。決定文を検索して見つけるより、次の本裁判を楽しみにしておこうかと思います。

 

地裁決定は、入庁許可を停止した措置について、言論の自由が侵害されたか否かについては判断していないようで、今後この争点が審理され、数週間後に決定が出る模様です。

 

なお、さすがCNNの記事<米裁判所、ホワイトハウスにCNN記者証の返還を命令>は少し詳細に言及していましたので、取り上げておきます。

 

<ティモシー・ケリー判事・・・は基本となる主張に関しては判断を示さなかったが、修正第5条に基づくCNNの一時差し止め請求を認めた。ホワイトハウスがアコスタ記者に対し、記者証の合法的な取り消しに必要とされる適正な手続きを取らなかったと判断した。>

 

このような記者会見をめぐる紛糾はトランプ氏だけ(過去の大統領・閣僚も)の問題ではないと思いますが、それにしても記者側の追求は多少視聴率アップを意識しているとはいえ、さすがと思わせます。それに比べ、わが国の状況は結構問題ではないでしょうか・・・

 

今日はある銀行取引履歴を整理していて、文字が小さいので、メガネを外したりかけたり、PC入力もスムースにいかず、高齢化の影響をずっしりと感じてしまいました。

 

そんなこんなで、昨日も中途半端(産廃と事業系ゴミ、生活ゴミの区分けを整理しないまま)で終わりましたが、今日も言論・報道の自由に少し首を突っ込もうと思いつつ、頓挫して、この辺でおしまいとします。また明日。


人と社会の相克 <人類誕生><ギリシア・ローマ><百姓たちの水資源戦争>などを見聞しながら

2018-09-17 | 国・自治体のトップ 組織のあり方 民主主義とは

180917 人と社会の相克 <人類誕生><ギリシア・ローマ><百姓たちの水資源戦争>などを見聞しながら

 

今朝、再放送されたNHKBS人類誕生・未来>を見ました。人類が700万年の誕生以来の歴史の中で弱者の地位から生存競争や気候変動に耐え抜いてきた経過をコンパクトにまとめていました。

 

とくに人類が地球上で反映することができた要素として、仲間作り、道具の発見と利用、心を通わすこと(feeling)、好奇心を上げていていたかと思います。

 

世界中に覇権を広げる中で、大海の果て?にあった日本列島にたどり着いたのは上記のよその集大成のような形で解説していたようにも思います。27000万年前に石垣島白保(もう30年くらい前に行ったきりですが、とても素晴らしいところです)に暮らしていた大勢の人の遺骨などが最近、発見されたのですね。約3万年前にまだ氷河期が続いたと思いますが(画面では南洋の風景ですが)、上記の要素を特別強力にはぐくんだと思われる若い男女5人が大陸から大海原を渡海したと想定した試みが繰り返し行われていました。

 

彼らは、新世界に夢を抱き、また、チャレンジ精神ととてつもない勇気と連帯意識、そして失敗を重ねながら新たな舟をはじめさまざまな道具を開発し、島伝いに日本列島にやってきたのでしょうか。

 

ところで、番組の最後には、核戦争を臭わすような、人類の破滅が画面やエピローグで示唆されていました。人類最強の兵器、核爆弾を開発したことは、新しい道具を追い求める人類の究極の姿かもしれません。

 

また、仲間作りと連帯によって、強い敵を打ち破り、他の生物との闘いに勝っただけでなく、人類内に別の敵を作り出し、仲間が部族、ポリスから国家、さらには他国の支配といった具合に、仲間が大きくなればなるほど、また道具の開発が進化するほど、戦争の規模も拡大してきました。

 

さて仲間が社会とか、国家に近いものを想定したとき、その仲間の連帯なり機能を有効かつ適正に行う組織のルールとかについて、少し考えたくなるものです。それで最近、桜井万里子・木村凌二共著『集中講義!ギリシア・ローマ』を読んでいたところでもあり、ポリスでの民主政とローマ帝政を垣間見て少し参考にできればと思ったりしています。

 

桜井氏がギリシアを、木村氏がローマを担当しますが、両氏とも比較史的検討に加えて現代政治との歴史的検討もしておられ、いろいろ参考になります。以下では同著作に基づき、若干、私の言葉も加えて適宜、紹介します。

 

現代ではギリシアもイタリアも、なんとなく自由奔放に市民も政府も生活や国家運営を行っているような印象を受けますが、実際のところはどうでしょう。ともかく古代の両国、その担い手については多くの先哲、いや現代人も参考にしていますね。

 

紀元前508年にギリシアのポリスの一つ、アテナイで民主政が現れたとき、ローマはその前年の前509年に共和国家をつくったとされています。

 

ポリス時代のギリシアは民主政のお手本のように見られていますが、その民主政というのがカギ括弧付きであるのは古代ですから、やむをえないものでしょうね。たしかに市民による統治が徹底していて、代議制ではなく市民全員参加の民会で意思決定するというのですね。日常的なことは評議会で検討して民会に提案する形をとっています。

 

興味深いのは裁判も当然、市民が担い手となり、それも私的紛争・公的紛争(公的秩序を乱す)のいずれについても、前者は200人、後者は500人という多数による評議という形で、多数決を量的にも堅固なものにしている印象です。

 

でも市民となり得るのは、市民資格法があり、都市アテナイでは、「両親ともにアテナイ人である成年男子が市民」と規定されていたのです。アテナイ人でない、他のポリスから移住してきた別のポリスの市民であっても、戦争で負けて奴隷となった人と同様、外人となり、市民とはなれないのですね。それに加えて女性は、戦争で戦えないということで、市民とはなれず、商取引もできず、自立の道がとざされていました。唯一女性ができるのは娼婦や売春宿経営者がほとんどというのですから、民主政の価値もいかがなものかと思います。

 

ギリシアは紀元前ではローマにとって先進国で、文化・芸術・哲学など多方面で優れていたとされていますが、その規模はポリスどまりで(ポリス内部の政争に明け暮れたとも言われていますが)、ローマのように一国を統一することもなかったのです。さらに地中海やヨーロッパに覇権を及ぼすようなこともなかったわけですね。ただ、ローマにまで貿易等でその影響は及んでいたそうですが。それはポリスを成り立たせていた特有の「民主政」というものの限界かもしれません。

 

ローマが覇権を広げることができたのは、戦争が強かったからでしょうか。ただ、ローマ帝国といわれるのは、オクタヴィアヌスがアウグスティヌスという称号を得た前27年からとされていますので、それまで「執政官2人の独裁政、元老院の貴族政、民会の民主政が均等に配置されて」、その体制の下、他国に侵略して領土を拡大していたのですね。カエサルもその中で力を伸ばしたわけですね。帝政ローマとなってからは戦争がない平和な社会となり、文明が開花したかもしれませんが、他方で奴隷制など差別がさらに強化されたのかもしれません。

 

ざっと目を通してみただけなので、まだ咀嚼するにはほど遠い段階ですが、民主政というものの合理的なというか、人類にとって有効で適正な手法かどうか、悩ましいものであることを感じた次第です。

 

ただ、看過してはいけないのは、ギリシア民主政で最高水準に至ったとも言える、弁論術や哲学は今なお多くの知識人が学ぶところではないかと思います。ソクラテスやプラトンなどのそれはギリシア民主政が生んだ賜物かもしれません。

 

他方で、ローマ時代の弁論家として卓越した能力を持っていたとされるキケロは、優柔不断な性格描写をされることもあるようで、自らカエサルには到底かなわないと評価していたとか言われていますね。やはり軍事力を背景にした言葉の力が優先していたのでしょうか。

 

と長々とよく分かっていないギリシア・ローマの政治論的な話題をもってきましたが、これまでが前置きです。

 

本論は、渡辺尚志著『百姓たちの水資源戦争』で取り扱っている江戸時代から明治初期までの百姓たちの水利用をめぐる、共同体内の争いと他の共同体との争い、さらには幕藩体制や明治新政権でのあり方を取り上げたいということです。

 

でもここまでに一時間を超えてしまいました。本論は次の機会にして、簡単に述べたいことの一つを指摘して今日は終わりとします。

 

同著では、江戸時代を通じて水利用をめぐる裁判例を中心に、水利組合の中で従来の水利用がどのようにして行われていたか、その秩序を変更することは構成する村全部の同意を求められていて、変更があったと認められると、裁判で元に戻される厳しい共同体ルールが規範となっていたことが示されています。

 

それは灌漑用水の取水口付近に、新たな堰を設けること、用水路に新たに樋門を設けること、用水路の一部を浚渫して掘り下げたり、あるいは木々を取り除いて幅を広げたりすることなど、さまざまです。

 

そのような厳しい水利秩序の中、たとえば18世紀初頭に実施された大和川付け替え工事(東大阪市の中甚兵衛が半世紀かけて幕府に嘆願して成就)や、紀ノ川沿いに大灌漑事業としてい実施された藤崎井や小田井(大畑才蔵が計画施行か)は、その土木事業の偉業が強調されていますが、私はこの従前の水利秩序を大きく変更したという、大変革にもう少し注意を払ってもいいのではないかと思っています。

 

大和川付け替え>は、計画提案から実施まで半世紀を要していますが、施工期間は8ヶ月で、<延長131町(約14キロメートル)・幅100間(約180メートル)の川筋を>もっぱら、<河底を掘り下げるのではなく、堤防を盛り土したり、高台を切り開いたりする方法>で施行されています。

 

計画採用に時間がかかったのはこの付け替えで、田畑がなくなる者、従来の水利秩序が大きく変更し用水利用ができなくなる者、さらに氾濫被害が及ぶ者など、少なくない反対者がいたからです。

 

他方で、藤崎井や小田井はどうだったのでしょう。その施工方法といった土木技術が取り上げられますが、従来の水利秩序で守られていた水利権を主張する村々にどのように説得したのか、そこに民主制が合理的に機能していたかをとく鍵があるように思うのです。

 

大畑才蔵が残した『積方見合帳』や『地方の聞書』などに隠れた示唆が含まれているように思えるのです。それをいつか明らかにできるといいのですが。

 

今日はこれにておしまい。また明日。

 

 

 

 


迷いと永遠の微調整 <特集ワイド 安倍首相は真の保守か>を読みながら

2018-08-10 | 国・自治体のトップ 組織のあり方 民主主義とは

180811 迷いと永遠の微調整 <特集ワイド 安倍首相は真の保守か>を読みながら

 

安倍首相の3選確定というニュースとともに、竹下派の動向や石破氏の立候補が話題になっています。そればかりか、毎日紙面では、批判的な視点での問題提起がなされています。

 

特集ワイド安倍首相は真の保守か 強引な姿勢に政治学者・中島岳志さんが異議>もその一つです。中島氏はTVなどでも登場して、しっかりした立論をされていて、注目している政治学者の一人です。

 

ここで中島氏は、真の保守とは何かを指摘し、安倍首相はそうではないというのです。私自身は、保守か革新かといった議論はあまり好みではありませんが、中島氏の立論のうち、なにか共鳴するものがありましたので、つい取り上げることにしました。

 

「迷い」が重要だというのです。少し中島氏の考えを引用しましょう。

<「本来の保守は、懐疑的な人間観をもっています。それは他者だけでなく、自分も間違えているかもしれないという人間観です。だから自分とは異なる意見を聞き、合意形成を試み、着地点を見いだしていくことが重要なのです」>

 

本来の保守とは何かは私にはよくわかりませんが、人間の生き方として、あらゆる場合に事実そのものを見極めることに疑問をもちつつ、また、選択に、その結果に悩みを抱くことは大切なことではないかと思うのです。それは個人の問題であるとともに、組織の問題でもあると思うのです。

 

多数決原理は民主主義の基本原則かもしれませんが、それは社会そのものが価値の多様性をもち、事実の見極めや、選択には必ず利害得失が伴う中、少数者の意見を十分にくみ取り、悩みながら、一歩前進二歩後退するような、漸進的なあり方が求められる時代が往々にして必要ではないかと思っています。

 

中島氏が取り上げた<7月下旬に閉会した通常国会では、働き方改革関連法や参院定数を「6増」する改正公職選挙法、カジノを含む統合型リゾート(IR)実施法など問題点を指摘された法案>の成立は、とてもその迷いや対立する意見への配慮が感じられませんでした。

 

このような安倍政権の強引さについて、中島氏は専制政治のごとき権力の使い方と批判しています。

<「このような政権運営は、合意よりも自分の主張を押し付ける権力の使い方です。北朝鮮や中国共産党の権力者と非常によく似ています。保守にとって最も避けなければいけない人間観が彼の中にある」と痛烈に批判する。また、数を力に少数者を排除する行き過ぎた民主主義は、フランス革命のような専制政治を生み出す恐れがあると危惧する。>

 

その歯止めになるのは立憲主義だと中島氏は力説します。そうありたいと思いつつ、戦後日本の中でその立憲主義がどれほど尊重されてきたのでしょうか。少なくない市民・研究者の意識の中に植え付けられてきて、時の政権運営になんらかの歯止めにはなったようにも思いますが、実効性ある形で具現化したかになると消極的にないますね。

 

その意味では安倍政権だけの問題でもないと思ってしまいます。この点、中島氏の指摘はシニカルですね。

<「多数決に代表される絶対民主制を強調し、合意形成や人間の英知を大切にする保守の思想や立憲的な歯止めを軽視してきた戦後日本の“あだ花”ではないでしょうか」>

 

ただ、これまでのような政権運営を批判しているだけでは、最近起こっているトランプ旋風を含む大きな地政学的変化に、日本が対応できない危機感を中島氏は指摘しています。

<東アジアから米軍が撤退すれば、その権力の空白を埋めようとするパワーバランスが生まれる。米国の後ろ盾を失った日本は、尖閣諸島や北方領土といった領土問題などで中国やロシアなどとシビアな交渉を迫られるかもしれない。中島さんは「国民の中で不安が高まり、ある種のパニック状態が起きれば、そのエネルギーが『中国に屈するな』などと右傾化に大きく流れる恐れがあります。また、靖国神社の公式参拝や南京事件などの歴史認識の問題についても、日本の保守政治家にブレーキを掛けてきた米国の重しがなくなると何が起きるのか。まさにディストピア(暗黒社会)を見るようです」と危惧するのだ。>と。

 

それは、自分は間違わないとして、100点満点を求めるのではないというのです。<大平正芳元首相の「政治は60点でなければいけない」という言葉に処方箋があると考える。>のです。

 

そして<さらに問題を拙速に解決しようとせず、寛容の精神で合意を目指す「本来の保守」という政治の選択肢を示すことを提案する。経済や安全保障などの問題について、東アジアで合意形成できる枠組みを作り、問題を一つ一つ解決していくことだ。「僕は『ぬるいリベラル』と呼んでいます。>

 

中島氏の処方箋は<いろんな余地を残しながら『保守的な60点の解決策』を目指す。保守のあり方とは『永遠の微調整』だからです」>

 

私は、常に迷いを抱き、永遠に微調整を続けるという、中島氏の考え方に共感したのです。少なくとも私個人の生き方にあっています。政治も、行政も、社会のあり方も、相であって欲しいと思いつつ、とりあえずは私個人の生き方と通底するところがあるかなと思ってしまいました。

 

おそらく私自身が、アセスメントという考え方に30年以上にわたって惹かれていています。未来の出来事は予知不能なことがすくなくないですね。迷うけど少しよくなるよう、さまざまな結果に対する利害得失を秤にかけ、未来を想定して対処しつつ、失敗があれば是正していくことが大切かなと思うのです。

 

中島氏の指摘とずれていますが、私自身は、その「迷い」と「永遠の微調整」にすんなり腑に落ちたのです。

 

今日は久しぶりにもう一つ話題をとりあげようかと思います。

 


リーダーとしての資質・識見・品格 <森友学園、加計学園問題 首相、説得力欠く>を読みながら

2018-05-29 | 国・自治体のトップ 組織のあり方 民主主義とは

180529 リーダーとしての資質・識見・品格 <森友学園、加計学園問題 首相、説得力欠く>を読みながら

 

毎日朝刊余録では<明治の末に「円形デッドボール」という球技が…>という書き出しで、当時すでに流行になったドッジボールの意味合いを踏まえながら、モリカケ問題での安倍首相の対応をダブらせています。

 

たしかにドッチボールは私が小学生の頃も人気がありましたし、いまでも人気があるようです。投げたボールに当てられないよう、身をかわしたり、それを予想して玉突きではないですが、反対方向の仲間に投げて相手の背後から狙うなど、いろいろ子供ながら戦術を考えるのも楽しいかったように思います。

 

ところが余録によると<「ドッジ=dodge」は「身をかわす」「避ける」という意味である。むろん球だけではなく、質問や責任追及を巧みにすり抜ける意味でも用いられる。>とのことで、それがモリカケ問題における安倍首相の答弁ということのようです。いや、その前々段階といって良い、<記録文書の改ざん・隠蔽(いんぺい)、説明の食い違い>といった官僚の対応も含まれるのでしょう。

 

しかし、それは<質問や責任追及を巧みにすり抜ける意味>といった「巧み」さが見られるのでしょうかね。

 

<愛媛県文書の首相と加計学園理事長の面会情報が自分らの捏造(ねつぞう)だという学園側発表>について<こんな重大な“背信”にも、首相は「コメントのしようがない」と怒る様子もない。>としつつ<かわし上手にもほどがある>と評しています。これはかわし上手といえるのでしょうか。横綱の品格が問われる白鵬ですが、それ以上に総理の品格を疑わざるをえず、日本国の総理として恥ずかしい限りです。

 

<首相を球から守るために犠牲になったのは役人の規律や矜(きょう)持(じ)、公文書への信用、行政への国民の信頼だった>し、<民主主義の統治の中枢を改ざん、隠蔽、見えすいたウソまみれにした政治指導者の責任である。>という点は正鵠を射ています。それはドッジボールでうまく身をかわしたり、質問から巧みにすり抜けることととは違うレベルではないかと思うのです。「ドッジ」ボールに失礼です。

 

愛媛文書について、「伝聞の伝聞」として信憑性も疑義を呈すること自体は、一般論として許容されるでしょう。しかし、ことは加計学園の担当者が獣医学部の新設をめぐって愛媛県・今治市の担当者に首相と加計氏が面談して話し合ったことなどを説明したことを認めつつ、それが虚偽だったというのですから、それだけで2重の意味で問題でしょう。

 

少なくとも盟友ともいうべき加計氏が経営する加計学園担当者が首相の名前を無断で使って学部新設を有利に進めることをやったということです。その意味では、その後の県市を同行して柳瀬首相秘書官などと会談や資料提供した一連の流れも、虚偽説明による誤導と言われてもやむを得ないのではないでしょうか。

 

しかも虚偽説明であるにもかかわらず、担当者の責任が問われたか明らかでありません。担当者が勝手に首相の名前を持ちだし、それを責任者の加計氏に報告もしないという組織であれば、加計学園自体、極めていい加減な組織と非難されても仕方がないのではないでしょうか。

 

実態は野党が追及するように、安倍首相と加計氏が、日大アメフト部前監督のように背後で指示したか、コーチのように直接指示したかで、実際に柳瀬首相秘書官や加計学園担当者が実働部隊で動いたのかもしれませんが、今のところ明白な証拠は出ていないようです。今後野党のこれまでのような追求(ほとんど見ていないので、ほんとはコメントできませんが)ではこれ以上、事実が明らかになるのかわかりませんね。

 

毎日記事<クローズアップ2018集中審議 森友学園、加計学園問題 首相、説得力欠く>では、国会議論を整理しながら、次のような指摘をしています。

 

<28日の衆参予算委員会で安倍晋三首相は、愛媛県文書に記載された学校法人「加計学園」の加計孝太郎理事長との面会を改めて否定し、「森友学園」への国有地売却問題でも自身や妻昭恵氏の関与はなかったと強調した。「新事実はない」と強調して幕引きを図りたい首相だが、矛盾点を指摘する野党の追及は続き、疑惑の払拭(ふっしょく)には至っていない。>

 

加計学園が虚偽説明を認めたことから、県文書の正確性が裏付けられたことになりますね。そのことから<県文書には、学園側の説明として「2月25日の面会を受け、柳瀬(唯夫)首相秘書官から資料提出の指示あり」との記載や、面会時に学園側が首相に提供した資料を基に文部科学省がアンケートを実施したと読める部分もある。学園側は面会を前提にしたうその情報を県や愛媛県今治市に提供し続けていたことになる。>加計学園と県・市の動きとして、柳瀬首相秘書官や文科省の動きには、県文書に残した正しい説明内容が虚偽だったとするとはたして整合性があるか疑念は残るでしょう。

 

<今治市は獣医学部の校舎建設費(約192億円)の半額までの補助を決め、県もうち31億円を負担する。>このことを福山氏は<政府をだまして事業をやろうとした犯罪的行為に等しい>と糾弾していますが、これは論理の飛躍があるのではと思います。ただ、市・県が巨額の補助を決めた経緯を詳細に検討して、上記の誤導がどう働いたかによっては、福山氏の指摘が妥当する余地もあるかと思います。

 

他方で、福山氏の糾弾に対して<首相は「透明なルールにのっとって特区の民間議員が判断した。特区の認可と私が加計氏と会ったことは関係ない」と切り返した。>のだとしたら、質問の内容をすり替えて答弁しており、首相の説明責任を果たしたとは到底いえないでしょう。ま、福山氏の質問があまりに大上段に構えすぎて、安倍首相に適当な逃げ道を作ってあげたのかもしれないというのは少しきついでしょうか。

 

このブログを書き終えようとまとめをかく段階で、相手方弁護士から電話があり、40分近くさまざまな協議をしたため、何を書こうとしていたのか、はっきりしなくなり、福山氏のような怒りから発する問題提起とは異なりますが、この内容の結末もあいまいになったまま、終わりとします。

 

また明日。