たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

原発の危険性 <伊方原発運転差し止め、高裁レベル初判断 広島高裁>を読んで

2017-12-13 | 原子力・エネルギー・地球環境

171213 原発の危険性 <伊方原発運転差し止め、高裁レベル初判断 広島高裁>を読んで

 

今日は午後一杯、打合せが詰まっていて、今年2件目の国選事件が入りブログを書き終えたら帰途に面会に立ち寄る予定ですので、今日も簡潔にまとめようと思っています。テーマを美術館の会話OKの日という、結構マイナーな紛議が起こっているようで、これにしようと思っていましたら、ウェブニュースに上記が飛び込んできました。これはこのニュースを取り上げないといけないなと、はたして短い時間で整理できるかわかりませんが、記事内容に依存して書いてみようかと思います。

 

伊方原発訴訟は長い歴史があり、過去に重要な判断もされています。とはいえ同原発としては初めての差止判断、しかも原発のある松山地裁でも高松高裁でもなく、瀬戸内海の反対側、広島高裁でということで、驚いています。

 

<四国電力伊方原発3号機(愛媛県伊方町)の運転差し止めを広島、愛媛両県の住民が求めた仮処分申請の即時抗告審で、広島高裁(野々上友之裁判長)は13日、申し立てを却下した今年3月の広島地裁の判断を取り消し、四電に運転差し止めを命じる決定を出した。>

 

しかも差止理由がこれまで問題となった地震・津波ではなく火山噴火というのも驚きますが、火山国日本であり、活火山ランクAの阿蘇山を考えれば、その危険性はきわめて高度といえるでしょう。

 

<野々上裁判長は「阿蘇山(熊本県)の噴火で火砕流が原発敷地に到達する可能性が十分小さいと評価できない」などとし、火山災害による重大事故のリスクを指摘した。高裁レベルの差し止め判断は初めて。>

 

これまでの原子力規制委員会の審査や住民の動きについては、<伊方3号機は2015年7月、原子力規制委員会が東日本大震災後に策定した新規制基準による安全審査に合格し、昨年8月に再稼働した。住民側は、四電の安全対策は不十分で、事故で住民の生命や生活に深刻な被害が起きるなどとして広島地裁に仮処分を申請。地裁は今年3月に申し立てを却下し、住民側が即時抗告していた。>

 

広島高裁が何を持って危険性を認定したかですが、規制委自身の内規「火山ガイド」によりつつ、過去最大の9万年前の噴火による火砕流の到達可能性を基準にしたようです。なぜ9万年前の噴火を基礎にしたか。そこはさらに確認したいですね。

 

<野々上裁判長は決定で、規制委が作成した安全審査の内規「火山ガイド」が、火山の噴火規模が推定できない場合、過去最大の噴火を想定して評価すると定めていることを指摘。その上で、伊方原発から約130キロ離れた阿蘇山について「四電の地質調査やシミュレーションでは、過去最大の約9万年前の噴火で火砕流が原発敷地の場所に到達した可能性が十分小さいとは評価できない」などと述べ、原発の立地として不適と断じた。>

 

ただ、仮処分とは別に本案訴訟が広島地裁で係属中していて、その判断が異なる可能性にまで言及しているのは余分な気がしますが、一般向けに丁寧にしたのでしょうか。そして仮処分による影響を考慮したのか、差止の期限を切っていますね。

 

<運転差し止めの期限を巡って野々上裁判長は、広島地裁で別途審理している差し止め訴訟の判決で「仮処分決定と異なる判断をする可能性もある」などと述べ、来年9月30日までとした。>

 

四国電力としては、差止仮処分自体、許容できないでしょうから、期限をまつまでもなく、<近く決定の取り消しを求める保全異議と、仮処分の執行停止の申し立てを広島高裁に行う方針だ。>とのこと。

 

東電福島第一原発事故以来、裁判所の判断も慎重になり、科学的な可能性を幅広くとるようになった、ある意味で予測可能な範囲をできるだけ広くしようとしているようにも思えます。

 

ただ、この記事に書かれた内容だけだと、差止仮処分といえども、原発推進派はもちろん、原子力規制委員会においても、なかなか納得できないでしょうね。

 

明日の朝刊ではより詳細な仮処分決定文が、あるいはその骨子が報じられるのでしょう。それを参考にしたいと思います。

 

今日はそろそろ警察署に出かけないといけないので、この辺で終わりにします。30分もかけていないので、記事をなぞっただけに終わりました。また明日。


「山のきもち」考その4 <林業現場の新参入者の思いと山という「風土生命体」を考えてみる>

2017-12-13 | 農林業のあり方

171213 「山のきもち」考その4 <林業現場の新参入者の思いと山という「風土生命体」を考えてみる>

 

元朝日新聞記者・編集者でジャーナリストの辰濃和男氏が今月6日に永眠されたことをウィキペディアで知りました。天声人語でさまざまな言葉を残され、多くの著作を出され、『四国遍路』などでは日本人の魂に迫るものがあり、自然への思いも深い方でした。哀悼の意を表したいと思います。

 

私が彼と出会ったのは、高尾山を守る運動、そして天狗裁判という圏央道差止等の各種訴訟の中です。私自身は高尾山の特異性といったものをこの運動・訴訟を通じて学ぶことになりました。その中で、辰野さんからも大きな影響を受けたように思います。彼が高尾山、山というものに対して「風土生命体」という概念で全体像、本質をとらえ、裁判の中で意見表明しました。

 

穏やかな方でしたが、高尾山がもつその多様な価値は、山というものがもつ人と各種生命体(それは非生命体とされる鉱物などを含め)本質的な価値を追求し、その価値を無視して破壊しようとする施策に対しては敢然と立ち向かい、その瞳は輝いてました。

 

その「風土生命体」について、彼の陳述書から故人のお断りを得ていませんが、訴訟の中で活用させていただいた一人して、お許し願いたいと存じます。

 

辰野さんは「風土生命体に融和して」との項目で、格調高く次のように述べています。

 

「高尾山や八王子城跡(注 後者も訴訟対象でした)の主人公は、ムササピであり、オオタカです。プナやカシも主人公だし、イタチやミミズも主人公です。新参者の人聞はその末端にいます。生きものだけではない。生きものを育む水も、土も、光も、風土生命体の主人公です。

要するに、生きものも土も水も光も、そのすべてが主人公なのです。高尾山のすべてを包み込む混沌たる実体を表現するのに、私は〈高尾の風土生命体〉という言葉を使っています。人聞は、この生命体の中にいちばん遅れてやってきて、生命体の隅っこに溶け込ませてもらっている生きものにすぎないのです。このことを謙虚に受け止めましょう。」

 

さらに次の言葉も私は惹かれます。

「風土生命体は命に満ちた存在です。自然科学の思考では生物と無生物を区別します。しかし「すべてが混じりあう海然一体の風土生命体Jという考え方にたつと、生物・無生物の区別をいいたてるよりも、その一体性、融合性、有機性、循環性に目を向けたほうが実体をつかみやすい。岩は砕けて土砂になり、落ち葉は土になる。雨は土にしみこみ、土は木や草を育てる。生物とか無生物とか人聞が勝手につくった分類などおかまいなしに風土生命体のすべてが一体となり、わかちがたくつながり、命のうたを歌っています。」

 

その生命体としての命がいかに敏感で脆弱なものか、赤子を、あるいは病床にある人を思えばすぐにわかりますね。辰野さんは、国が進める工事について次のように至言を投じます。

 

「風土生命体は、掘れば、削れば血が噴き出るものです。傷の影響は全体におよぶ恐れがあります。風土生命体をトンネルで貫くということは、きわめて残酷な行為です。生きている烏が矢で貫かれた姿を想像してみてください。トンネル工事は生きている高尾山をくし刺しにするのです。」と。

 

長い引用になりましたが、それでも辰野さんの高尾山保全のために情熱をかけた文章のほんの一部です。

 

さて話変わって、もう一つの話題「山のきもち」に移りましょう。辰野さんの言葉との関係債はうまく整理できませんが、山の現状とそこに働く人たちの思いの一端を感じるのも大事かなと思うのです。

 

山本悟氏は、「林業の現場も活発化」という章で、新たな林業作業の動きを追っています。

一つは林業でも稼げるという、57人の集落で年数1000万円超を稼ぐようになった最近専業林家になった例を取り上げています。

 

所有する山林30haがあり、建設・土木会社を経験してきた親子の経験もあり、安い機械などで低予算により一定の収入が上げられたのでしょうか。経費を控除するとさほど大きな所得ではないかもしれませんが、自由と豊かな自然環境は代えがたい仕事場でしょうね。

 

こういった「自伐林家」(林地所有者)の新たな動きも受容ですが、中でも補助金に依存しないでできるという、愛媛県の菊地林業はミカン農業との兼業でやっている菊地俊一郎さんのような中堅層がでてきたのはうれしいですね。

 

で、重要なのは著名な個人林家の大橋慶三郎氏も強調されていますが、林業で稼ぐのではなく、安定的な別の収入源をもって林業を行うことで、持続的な適正な林業を行うことができると言ったような話だったと思います。この菊地さんもそういうマインドをお持ちの方でですね。実際、日本の個人林家はほとんどがそうであったと思うのです。その心が失われつつあるのが心配ですが。

 

山本悟氏が指摘している重要なことで、「もうかる林業」より「食える林業」というフレーズですね。若い世代はすでにバブル崩壊を経験し、金の亡者の盛衰を実体験しなくても、肌で感じてきているのではないでしょうか。食べるだけの収入があれば、自分の心身が充足できる生き方ができる場所で仕事をすることの方がいいと考える人も増えてきているように思います。そんな若い世代に適切に林業という職場を改善して提供する必要があるように思うのです。

 

山本氏が紹介している「成長著しい若者による林業会社」の一つ、「東京チェーンソーズ」は東京唯一の村、檜原村を拠点としています。この村には何度も行ったことがあり、戦後初期頃までまだ焼き畑が行われていた箇所もあります。戦後裸山状態だったとき、多くの人が大変な苦労して植林した話しを写真などで教えてもらったことがあります。とてもいいところです。そんなところの若者が一つの組織で各地に林業技術を披露しているのはいいですね。

 

チェーンソーはそれ自体、慣れれば伐る作業は案外簡単だと思います。しかし、急傾斜地、枝が張った林、崖地付近、などなど伐倒現場によってはとても危険で、事故も一番多いくらいです。いまもなおとても危険な作業です。安全対策も含め彼らが基本技術を普及しつつ、その多様な用途を広めることも重要でしょうね。

 

若者の中に、女性も増えてきているそうです。高性能林業機械できちんとしたキャビン(冷暖房完備にネット通信で遠隔操作が可能と行った欧米型はまだ無理かも?)がついていれば、安全で力もいらず大量生産を女性が担う先導になりえるでしょうね。いやいや、チェーンソー自体、安全配慮さえしっかりしていれば(この点は女性の方が向いているかも)、そういった高性能林業機械に頼らず、女性の進出がもっと可能ではないかと思うのです。

 

建設現場など、昔は男性の職場と言われたところに、女性の進出が著しいですね。山は男性ばかりで、寺社仏閣で女人禁制(維新まで)の感覚が、林業の世界でも山の祟りなどといって、女性を近づけなかった慣行が最近まであったようにも聞きます。それは時代にマッチしませんね。

 

むろんトイレなど整備されていないので、山の現場では少し大変かもしれませんが、もともと農家では女性が野で用を足すことは当たり前の時代がずっと続いていたのですし、山登り、キャンプでも、山小屋がないところでは、やはり現代女性も同じ事ですね。

 

たいして重要な障害ではないように思うのは、甘いでしょうかね。

 

さきほど述べた林地所有者の自伐林家と異なり、他人所有の林地を自伐するのを「自伐型林家」と呼んでいるそうですが、その先駆け的な存在、山本氏も紹介していますが「NPO法人土佐の森・救援隊理事長、中嶋健造」さんは、私も以前、和歌山県の招待で来られたとき、その講演やその後の談話で、話しましたが、すごいエネルギッシュで、見事に小規模林家というかそれにも満たない林地所有者の心をつかむ、合理的・経済的・アットホーム的なシステムをこしらえたなと思うのです。

 

そのシステムは<土佐の森・救援隊>のウェブ情報<土佐方式>が参考になります。もう5年以上前のことで、そのときの資料は内容があって、アップできれば、こんどやってみようかと思います。

 

山は、いろんな人の取り組みを待っているのではと思うのです。それは林業もその一つでしょう。それ以外にも、私も参加してきた学習型のプロジェクトや、C.W.ニコル・アファンの森、柳生博の八ヶ岳倶楽部など、いろいろな方法での山への関わりを、山のきもちは待ってくれているのではと思っています。

 

そのとき常に忘れてはならないのは、辰野さんが残された「風土生命体」というコンセプトでしょうか。