たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

大晦日少し思う <今年も一年が過ぎ去り、明日からまた新たな年が始まり、少し先まで考えてみようかとふと思う>

2017-12-31 | 人間力

171231 大晦日少し思う <今年も一年が過ぎ去り、明日からまた新たな年が始まり、少し先まで考えてみようかとふと思う>

 

漱石が来て虚子が来て大三十日 子規

 

これは今朝の毎日で坪内稔典氏が取り上げていました。大晦日を見事に活写した俳句の一つでしょうか。1895年の作ということですから、漱石も子規も28歳ですから、若い世代が集まるのは自然ですし、まして日本を代表する文化人たちですから除夜の鐘をも聞こえないくらいに会談に熱中していても不思議はないですね。

 

ただ、私はふと思ってしまいました。わが国では大晦日、そして新年を家族以外と一緒に過ごしたことは、青年同士や恋人同士は別としてあまりないではと。

 

カナダで暮らしていたとき、中年(40代から60代初めくらい)が仲間の家に集まって、宵越しに飲み談笑し、カウントダウンして新年を迎えるというのは割合多いように感じたのです。私もその一人でしたが。正月休みというものもなく、ただ新年を祝うことは花火を打ち上げたりして派手ですが、仲間同士が集まることが結構あるような気がしました。他方で、クリスマスは家族が必ず集まるように思います。

 

などと考えながら、ちょっと思い出したことから書いてみようかと思います。

 

今年の正月、四国の中央ともいってもよい四国中央市新宮にある霧の森・霧の高原を訪れました。そして今日、再び訪れました。清流が眼下に流れるレストランで昼食をとり、深い山々と清流の瀬音が聞こえてきそうな雰囲気が安らぎをあたえてくれます。

 

このブログを続けるのをやめようかと思ったとき、このときの体験が結局、「千日連続ブログ」を決意することに繋がったように思います。そして今日も呼吸をするようにブログを書き始めました。この一年を振り返りながら、明日から始まる年を、そしてその先を考えながら。

                                                                                                         

それは松岡正剛氏の存在が大きいように思います。彼の<千夜千冊>は以前から時折立ち寄ってはその深い洞察や幅広い視野に魅了されていました。その彼がこの霧の森で、観音像を中心に観音浄土の世界として新たなコンセプトによる村づくりを構想し、それがもう少しで実現するところでした。日本各地に観音信仰があり、浄土を求めてきた時代があったと思います。松岡氏がそれをなぜこの地で、またどのような構想を具体的に考えたかを現地で確認してみたかったから、今年の正月に訪ねたのです。

 

そのときの感想は、このブログを正月休みで休止し、再開を決断した1月5日に書いています。

 

松岡正剛氏と比較すること自体不遜なことなのでしませんが、ただ、千日続けることで、私というものが少し見えてくるように思いつつ、実際はまさに空虚な存在であることがわかるだろうということでした。いま日々のブログはその一端を証明し続けているように思っています。

 

ともかく始めた千日ブログで、この一年は日々、適当にお題を選び、そのとき思ったことを書いてきました。基本はさまざまな報道媒体の資料を取り上げて、その内容をただ書き連ねることで、自分がどう反応するかを書きながら実感してきました。

 

そして書いているうちに、この世界はいろいろな大きな変化を感じさせてくれました。その変化の一つは、あえてほとんど取り上げませんでしたが、北朝鮮の挑発的で連続的な脅威とアメリカの対立軸の激化でした。それにわが国が割合敏感に反応を示してきたと思うのですが、世界的に見たときこの極東での変化はさほど大きな影響を与えていないようにも見えます。

 

北朝鮮の暴挙とも思える核実験やミサイル発射などに対してアメリカをはじめ世界中が抗議をして、北朝鮮の孤立と異常さを感じさせます。ただ、アフリカの中では北朝鮮は相当支持されているようですね。

 

他方で、イスラエルの首都をエルサレムとして大使館を移すというトランプ大統領をはじめとする政権の動きは、世界中の国々が反対の意思を表明しています。このようなアメリカの二重基準というか公正さとはとても見えないスタンスは、今後も続くと思われる中、極東の危機は鎮まる可能性は当分ないのでしょうね。

 

はっきりしていることは軍事予算が今後も一層増大し、危険が軽減する状況にないことでしょうか。それを支持する人は少ないはずなのに、実際は危うい状況に突っ走ているようにもみえ、それが軍産複合体という強力な組織が、自己増殖のために持続的な圧力をかけているように見えるのは邪推でしょうかね。

 

そんな先行きの不安なことを憂うよりも、日々の生活や自分のことで一杯の私を含め多くの人にとっては、時間に追われるように車を勢いよく走らせたり、それを遮る相手にはあおり運転などという行為も目立ちました。

 

差別的な見方や言動・暴力も少なくなったように思います。相模原障害者施設での利用者の大量殺傷事件も信じられない暴挙でした。その原因はいまなお明らかでなく、ただ犯行者の異常さだけが目立つのみで、障害者の状況改善の方向性は見えません。

 

電通という日本を代表する広告会社、その内容は日々どこかで見ているかもしれないにもかかわらず、その企業が優秀な新入社員を自殺に追い込むほど過重労働を強いている体制を構築してきたことも驚くべきことです。それがいまなお多くの日本企業で悪習を差別的な取り扱いという形で残していることを私たちは意識しておく必要があるように思うのです。

 

ちょっと内容が違いますが、各種の大手製造メーカーにさまざまなデータなどの不正がはびこっていたことも、日本人が大事にしてきたといわれる信頼性を脅かしています。

 

こういうことを書いているときりがありませんので、この程度でおさめておきます。

 

私自身は変化に富んだ一年だったと思います。そして今は再び安定した状態にあるのかなと思うのです。このブログを書き続けていることが心の安定につながっているようです。

 

そして来年はどのような変化があるか予想できませんが、私個人はどのような変化も、所詮は色即是空を自分に問い直すチャンスと思い、その変化を注視していきたいと思います。

 

経済は活況を呈しているとか、株価がバブル崩壊以降で最大の日経平均となっているようですが、それは私から見れば、実体のない危ういもののようにしか思えないのです。

 

世界的金融緩和の中で、だぶついた貨幣が一時的に株投資に回っただけではないかといった渋い見方の方が私には信じられるのです。

 

その意味では、来年度に経済がさらによくなるとか、株価の上昇が続くとか、そういったアナリストの評価が裏切られて、大不況が訪れたとしても、また戦争が突発したとしても、これまでの歴史の中で誤った経験を踏まえて、個々人がしっかりと自分の信念と事実を理解して、一歩一歩を踏み出せば、それほど脅威とはならないように思うのです。

 

結局は、情報媒体や政府の広報に対して、個々人が自分たち一人一人が自分の考えをもって正しいと思う道を歩むことが大事なのでしょうね。当たり前のことを当たり前のように言うことで、筋書のない未来に対処することが、来年に向かう大晦日の夜に考えた私の思い付きでしょうか。

 

今年一年私のつまらない内容にお付き合いしていただいた方には感謝して、もし機会があれば来年もよろしくお願いして、今日はおしまいです。また明日。