たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

一生懸命何をするか? <地球温暖化対策の行方 日本は再生エネ促進を>を読みながら

2017-12-04 | 原子力・エネルギー・地球環境

171204 一生懸命何をするか? <地球温暖化対策の行方 日本は再生エネ促進を>を読みながら

 

再生可能エネルギーという言葉を繰り返し、耳にタコができるほど、聞いたのは96年新春でした。翌年12月に京都議定書が採択されるほぼ2年前でした。それはカナダ・エネルギー庁で開催されたパイプライン敷設をめぐるパブリックヒアリング(ある種の環境アセスメント手続き)における質疑の中でした。当初は、まだ聞き慣れない言葉でしたが、92年地球サミットで生まれた気象変動枠組み条約で提唱された大きなキーワードだった程度の意識でした。

 

それがこうも、具体のパイプライン事業を実施する中で、検討されなければならないとは想定外の事柄でした。しかも、質問者は環境団体や住民団体の代理人弁護士と専門家で、カナダ特有の事業者側が参加費用を負担する制度に基づき、その事業者を攻撃するのですから、なんともすごいことだという方が驚きでしたが。

 

それにしても、再生エネルギー利用は、その後も、あのアル・ゴア氏が発表した『不都合な真実』で多くの協賛を得たはずにもかかわらず、遅々として進まない状況ですね。いや、上記の鋭い・繰り返しの質問も、傍聴する多くもさほど関心がなく、答えもおざなりでしたし、私一人?がすごいと思っただけかもしれません。儀式的な要素すら、振り返ってみると感じられ、その後のカナダの再生エネ利用が著しく促進されたとか、それと競合する化石エネルギー事業が減退したとは聞いたことがありませんね。

 

さて、今朝の毎日記事<そこが聞きたい地球温暖化対策の行方 日本は再生エネ促進を 独ポツダム気候影響研究所長 ハンス・シェルンフーバー氏>は、パリ協定の基礎である2度未満の目標を提唱した方だそうで、興味深いです。その聞き手である渡辺諒記者の記事で少し勉強してみたいと思います。

 

まず、「2度未満」が適当との理由については

<より重要なのは、地球環境が回復不可能な状態まで破壊される臨界点「ティッピングポイント」の温度が2度付近だからです。臨界点を超えると▽サンゴ礁が死滅・白化して元には戻らない▽グリーンランドの氷床が解けて減少する▽海流が変わる--など、地球に大きな影響を与える変化の加速が予想されます。2度未満に抑えれば、完全に安定ではないですが、大きな問題にならないと考えます。>

 

このこと自体は、アル・ゴア氏も繰り返し述べていますね。新しい著書はまだ読んでいませんが、トランプ大統領のような人に科学的論拠?を与えているかもしれない状況では、改めて私たちもその科学的根拠について知っておく必要があるかもしれません。

 

京都議定書の問題は、これまで繰り返し論じられてきたので、それはオミットして、今後世界はどうすべきかについて、話を伺いましょう。

 

まず、削減量の上積み努力です。<パリ協定で各国が掲げている温室効果ガスの削減目標のままでは「2度未満」を達成するのは困難です。各国が削減量を「上積み」しなければなりません。>

 

続いて、化石燃料から再エネへのシフトです。<「2度未満」を実現するためには、2020年代に火力発電所を順次廃止し、各国が化石燃料関連事業への助成を中止すべきです。効率良くエネルギーを貯蔵する技術開発も必要でしょう。さらに30年代には建設資材を変える必要があります。製造の際にたくさんのCO2が出る鉄鋼やコンクリートの使用をやめ、木材とカーボンファイバー、粘土などを上手に使う技術を採用していく必要があります。排出が容認される温室効果ガスの総量「カーボンバジェット」=2=の点から、低炭素の素材を積極的に利用しなければなりません。>

 

従来から声高に強調されてきたわが国に温存されている膨大な森林資源の活用ですね。たしか森林税でしたか、こういった税負担という方策もいいですが、やはり森林の活用を本気で取り組む必要があるでしょうね。

 

とりわけ「コンクリートから人へ」と改革の道を示した民主党がほぼ解党したいま、なにやらコンクリート漬けと鉄鋼の推進すらあったように思われます。その鉄鋼について神鋼の不正がありましたね。杭基礎などでも偽装がありました。不正・偽装はなくさないといけないことはみなさん承知していますが、それ自体をなくす、あるいは使用を減少させると言うことにはなかなか理解が得られない状況でしょうか。

 

地球温暖化対策を、私たち、そして未来の世代のために考えたとき、もうそういう考えは通用しないのではと考えています。

 

木材も多様な加工方法で、コンクリート代替性が相当可能になってきているかと思います。さらに利用促進を図るには、それに応じた制度設計を見直す必要があるでしょう。根本的な見直しですね。たとえばバイオマス発電事業などでいえば、単に発電計画だけで承認するというのでは、まさに砂上の楼閣で終わってしまうでしょう。やはり木材の供給元から発電所、そしてこれを利用するエンドユーザーまでの具体の実現性をすべてクリアにするものでなければ、認めるべきではないと思うのです。そのようなシステムにするには、森林地域と利用地域の共同参加も必要でしょう。いまは発電計画だけに終わっているようにしか思えません。

 

日本政府や国民への期待も聞いています。

<大きな原子力発電所事故を経験した日本が考えるべきなのは、再生可能エネルギーの導入を促進することでしょう。原発をやめる代わりに火力発電を増やすのは危険です。それでは、温室効果ガスの排出量が増え、長期的に見て経済成長のマイナス要因にすらなるでしょう。ドイツは火力発電を段階的に止めて、最終的には、再生エネルギーに移行することを決めています。日本には、脱炭素化産業で世界の技術的指導者としての役割をもっと果たしてほしいと思います。

 次世代建材や蓄電技術の開発は次に来るべき「産業革命」です。過去の産業革命ではCO2が増加し、温暖化を招きましたが、次の産業革命では温暖化を緩和するものにしなければいけません。>

 

自民党政権は、実体のないアベノミクスでいつまでも動いています。こういった建設的議論もなかなか受け入れてもらえないでしょう。後は国民がどう考えるかでしょう。

 

最後に驚きました、67歳のフーバー氏には9歳の息子さんがいらっしゃるというのです。外見は実際のお年寄り高齢に見えますが、気持ちはとても若い、情熱的な方でしょうか。ま、9歳の孫ではなく、息子がいるのですから、元気溌剌になるはずです。

 

その最後の言葉は、いいですね。

<現代では、一生懸命仕事をしているだけでは良い環境を残せません。>これこそ至言の一つでしょう。

 

希望のある言葉で終わりにしたいと思います。

<CO2だけでなく、放射性廃棄物の処分の問題もあります。海には環境を汚すプラスチック製品が多数浮かんでいます。けれども、これらは解決することができる問題です。私たちの世代が仕事のことだけでなく、環境改善を考えて、取り組んでいかなければなりません。>

 

ちょうど一時間が過ぎました。今日はこれでおしまい。また明日。

 

 


花と禅その6 <無私無欲は生への絶望でなく生きる意欲>

2017-12-04 | 心のやすらぎ・豊かさ

171204 花と禅その6 <無私無欲は生への絶望でなく生きる意欲>

 

仕事が忙しくない状況なのに、毎日なにかと忙しくしていつの間にか一日が終わるというのは、いいことか悪いことか。なんにも考えていない結果なのでしょうかね。

 

計画や目標を立て、そのために日夜邁進し、一歩一歩前進する、そんな心持ちはなかなかなれないようです。強いて言えば、この千日ブログくらいが目標と言えばそうかもしれないですが、それにかける時間はわずか。それ以外は別の事柄で心が動かされ、自分で制御できていないのを振り返ると見えてきます。

 

そんな不甲斐なさを感じているとき、平井住職の言葉「『無私無欲= やる気のない心』ではありません」という見出しの中に書かれた内容になにか感じるものがあります。

 

平井住職は、禅宗の僧が求める「無私無欲」と「意欲」を対比させながら、両者の真意を説きます。

 

「意欲」は「人を行動に駆り立てるのは、あるいは、目標に向かって進むエネルギーになる」として、それは「心の欲」として、「生きていく上で非常に大切なものなのです。」と断言します。

 

一見矛盾対立しそうな「無私無欲」と「心の欲」をどのように取り扱うかについてこう述べています。

 

「人は“わたくし心” にとらわれがちだし、“わが欲” にまみれやすいものです。だかそ

らこそ、削ぎ落とす、捨てる、という作業をつねに怠ってはいけない。」

 

では具体的にどうしたらいいのでしょうというとき、ある人物を取り上げます。「西郷隆盛は、山岡鉄舟先生を「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」と評しました。」と。

 

その鉄舟先生について、平井住職は「その鉄舟先生には、揺るぎない信念、曇りのない心がありました。敵陣のまっただ中に堂々と入っていく行動力、胆力、それを支えるあふれんばかりの“意欲” があったのです。わたくし心、わが欲を削ぎ落とした姿、ことにあたって自分の損得を考えない、見返りを求めない姿を、そこに見ることができます。」

 

さて、これでわかる人もいれば、わからない人も大勢いるでしょう。平井住職はその答えを自らの著作「『最後のサムライ山岡鍛舟』(園山牧田・平井正修編/教育評論社刊)の中に導いているようです。

 

山岡鉄舟といえば、40年以上前に、幕末関係の著作を読んでいた頃、気になった存在ですが、新渡戸稲造著作「武士道」を体現するような人物だったかもしれませんね。

 

それはやはり一つの理想的な生き方と評されても良いと思います。ただ、武士のありようと、当時としては農民を含む百姓(百姓の実態は農民が大半だとしてもそれ以外の兼業も含めて多様な職業人を指すとの理解です)がほとんどだったわけで、その生き方にも理想的なものがあったように思うのです。私自身は後者に強い関心を抱いています。

 

強い意欲を抱きつつ、無私無欲な生き方をした百姓は少なくなかったと思うのです。私がいま心にかけている大畑才蔵もそれに匹敵する人物ではないかと思っています。さらに同時代の田中丘隅、その後の伊能忠敬など、教科書に取り上げられている人だけでも相当数いると思います。それは極一部で、歴史の中に埋もれている人は多数だと思うのです。

 

たとえば、帚木蓬生著『水神』に登場する庄屋もその一人でしょうか。全国各地に、歴史の表舞台に登場しなかった「花のように、生きた」百姓は数多くいたと思うのです。

 

で、私は無私無欲を追求することもできず、意欲もお粗末ですが、できたらそんな「花」のように生きることができればと思うのです。


ここまで来て見出しを書いたときの動機をうっかり忘れていたことに気づきました。そう、生きる意欲を失う、あるいは失いそうになる、そういったときどうしたらよいか、その答えを求めようとしたのでした。

 

平井住職は「意欲」という人には必ずあり、それを無私無欲の観点から削り落とす方向を示されているように思います。ではその意欲すらなくなりそうなとき、どうしたらよいか。

 

平井住職は、いろいろな言葉で多様な観点から述べているように思います。たとえば、「絶望におちいったときは、食べなさい。眠りなさい」とか。「一日一言を大切に生きなさい」そうすれば「苦しさのなかにもやすらぎが見つかる。」とか。

 

この命題はもう少し平井住職の言葉を整理して、述べてみたいと思います。