たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

準公有化とは? <時代の風 深刻な所有者不明土地=元総務相・増田寛也>を読みながら  

2017-12-03 | 不動産と所有権 土地利用 建築

171203 準公有化とは? <時代の風深刻な所有者不明土地=元総務相・増田寛也>を読みながら

 

日曜日は割合同じような生活パターンがこの頃続いています。午前中に事務所に飾る花を何鉢か買ってきて、食後にはNHK囲碁を楽しみ、その後にブログを書くという感じでしょうか。

 

ところが今日は福岡マラソン大会があり、一力7段と本木8段のスリリングな展開を見つつ、ノルウェーの新鋭が快速を飛ばして2時間5分台の快挙を成し遂げ、それに迫るような勢いの大迫選手の伸びやかな走りっぷりに、二つの画面を行ったり来たりで、忙しくしました。惜しくも大迫選手は6分台を逃しましたが720秒台でしたか、素晴らしい走りでした。こういうレース運びを見るのは久しぶりですね。続いてラグビー早明戦も激しいぶつかり合いで甲乙つけがたい戦いぶりで、これを見ているとブログが書けそうもないので、書き終わったら見ようかと思っています。

 

さて毎日記事<時代の風 深刻な所有者不明土地>は元総務相・増田寛也氏が今年に入り何度も採り上げた問題ですね。今日は彼の履歴を披露され、長く土地問題に取り組んでき方なんだと、改めてその思い入れを感じさせてくれました。

 

おそらく国土庁時代は、土地騰貴の大きな流れを前に、その力のなさを十分に痛感したのだと思います。茨城県庁時代は、千葉県がゴルフ場銀座になり、その影響は周辺に飛び火した状況だったのでしょう。上空から見るとまるでゴルフ場で大きく削られた山肌、わずかばかりの緑地しか残っていないのがよくわかりましたね。これは自治体行政としてはたまらなかったでしょう。他方で、自治体にはゴルフ場開発をコントロールする規制権限がなく、いわゆるゴルフ場開発に関する要綱をつくって対応する程度で、焼け石に水といった状況だったと思います。リゾート開発の場合も同じですね。

 

おそらく増田氏は、都市計画など権限の中央集中体制の中で、自治体としてやれることの限界を感じていたのではないでしょうか。なお、法律の建前は、地方公共団体が都市計画決定をするとか、開発許可権限を持つということになっていますので、表面的に見ると、自治体にコントロールする権限があり、民主的な運営が行われているといった意見があるかもしれません。しかし、それはあまりに表面的な見方ではないでしょうか。その手続きの実質、許可基準の実質は、すべて中央官庁で決められ、しかもその詳細は通達で肉付けされていました。

 

そのため乱開発による自然破壊や住民の環境破壊を憂う人たちが都道府県や市町村にかけあっても(当時はとりわけ市町村長は権限が限られていました)、決まり切った都市計画の内容(ま、定番メニューで、地域にあった裁量は許容されていませんでした)で、しかも一見すると地域地区のゾーニングで、一定の開発・建築ができなさそうにみえても、数値基準の裏はいくらでも抜けられるものでした。ま、実質は建築自由の原則とか(五十嵐法大巨樹が命名したと思いますが、見事実体を言い当てています)、開発自由の原則がまかり通って、デベロッパーや建築事業者は、日本全国どこでも一つの基準で開発等ができましたので、一定のノウハウを確立すると、それが全国展開できるものでした。

 

それに加えて金融機関は、不動産価格の暴騰を真に受け、適切な審査もなく、どんどん貸し出していたのですから、アメリカ全土を買い尽くすくらいの勢いがあったかもしれませんね。でも、それはご存じの通り、砂上の楼閣でした。

 

それを増田氏は建設省で都市計画法を担当されていたのですから、まじめな方ですから、なんとかしないといけないと思った中堅官僚だったのでしょうね。その一つというか、都市マスタープランがたしか平成4年頃の法改正で、各自治体独自のコンロロール手段として生み出したり、地区計画制度などの拡充をはかったのでしょうか。これらもほとんど機能しなかったのは、根っこに中央集権が定着していて、ま、いえば、表面的な枝葉の手直しだったからではないかと思います。北米や欧州のように、自治体独自に規制権限を与える勇気は国会も中央官僚も、また受け皿の自治体の中にもなかったように思います。

 

当時、日弁連で全国調査を行い、たしか平成5年でしたか、京都で開催された人権大会でまちづくりのシンポを実施し、都市計画法の抜本的改正を提言したのですが、ほとんどかけ声倒れに終わったように思います。そんなことを増田氏の文書を読みながらつい思い起こしてしまいました。

 

増田氏が現在問題にしている<深刻な所有者不明土地>問題は、私自身、だいぶ以前から気になっていて、おそらくfbでも書いていたように記憶しています。このブログでも昨年少し取り上げたかと思うのですが、はっきりしません。ただ、私が関心をもっていたのは農地や森林が中心で、前者は耕作放棄地として、後者は荒廃する森林として、同種の利用上の問題として取り上げたのです。

 

増田氏の場合は、さすがに統計資料を踏まえて、あらゆる土地利用形態について対象にして、抜本的な対応の必要を訴えています。

 

すでにこの数値はTVなどでも何度も取り上げられているので人口に膾炙していますが、改めて引用します。

 

<実態把握などのために設けた研究会の調査では、昨年度の不明率が全国で約20%、面積が約410万ヘクタール(九州の面積を超える水準)、2040年には約720万ヘクタール(北海道の面積に迫る水準)まで増加することがわかった。>

 

ただ、その主要原因について、<所有者不明となるのは、相続が発生した場合に相続人が税負担などを嫌って登記をしないため、登記簿の名義人と異なるようになることが大きな原因だ。団塊世代から大量の相続が発生するようになると、一挙に増加すると想定される。>と増田氏の指摘・予想は、若干、違うようにも思えます。

 

たしかに相続が一つの契機になっていることは確かでしょう。ただ、増田氏が上記で指摘する<相続が発生した場合に相続人が税負担などを嫌って登記をしないため、登記簿の名義人と異なるようになることが大きな原因だ。>といってよいかは疑問です。登記をしない理由が税負担を嫌うからでしょうか。一体どの税金のことを言うのでしょうか。相続税は騰貴しなくても、課税対象遺産があれば課税されますね。固定資産税なども共同相続人に宛てて納税通知が送られ、場合によっては強制的に徴収することになりますね。

 

税負担を嫌うから、登記をしないという考え方はいかがかと思います。登記しない理由はいくつかあります。たとえば、遺産分割協議ができない、あるいはたいした財産ではないから登記するまでもない、あるいは相続登記義務がないから自由だとか(最近の農地法の改正で相続届を義務づけていますが)、処分するときに登記すればよいとか、いろいろな理由があります。これらをもう少し分析して、それに応じて対応策を検討しても良いかもしれません。

 

ただ、相続登記をしないことが、所有者不明の土地発生の主要な原因の一つであるとは言えるでしょう。

 

では、ほかに何があるか。私は一つは森林・農地(耕作放棄地など)では、隣地境界がはっきりしていないこと、さらに場所がどこにあるかもわからない(というのは昔は代々親が子に自分の山の境界を目印の木や石、林相の違いなどで教えていましたが、最近では親自身も山にいかない、ましてや子は都会に出て帰ってこないというのがかなり多いと思います)。

 

この点、地籍調査が全国的に遅々として進まない(とりわけ森林や古くからの土地利用されてきた地域)ことをどう対処するかも大きな壁でしょう。

 

隣地境界がはっきりしないと、自分の土地がどの範囲かわからないわけで、その土地の所有権と言っても、仮に登記していても絵に描いた餅のようなものになります。そんなことから、登記しない、相続登記が長年行われていない、相続人の行方がわからない、相続人自身が祖先の山があることを知らない?といったこともありうるかと思います。また、昭和50年代頃から全国で広がった原野商法も一躍買っているでしょう。二束三文の土地を一坪●円といった都会の宅地価格に類する売り方をした悪徳商法が林地所有者に林地の実体や管理に関わらない人が登記(分筆された区画)だけ渡されて、一旦、所有者になったものの、その相続では無視されてしまい、所有者が不明になったケースも少なくないと思います。

 

こういってあげれば際限がありませんので、この程度にします。

 

それはともかく増田氏の今回の目玉提案ともいうべきは、<準公有化>です。研究会の解決策はすでに報じられていますが、増田氏は<私見を述べておきたい。土地所有権の放棄制度を創設し、土地の準公有化に向けて一歩踏み出すべきだということだ。>と踏み出しました。

 

その内容はというと<土地は通常の財と同様に個人で所有・利用し、売買も可能である。同時に国民の諸活動にとって不可欠の基盤であり、公共的用途に利用されたり、利用を制限されたりすることもある。このように土地は私有財産であり、かつ国民の共有財産であるという考えを国民が改めて共有する必要がある。>と一般論を述べた上で次のように提案します。

 

<特に土地所有者には、公共の福祉に適合した利活用・管理を行う責務があることを認識してもらわねばならない。この土地所有者としての責務を土地基本法に明記してはどうか。>

 

当然、これで問題解決になるとは思っていないのです。<また所有者の責務を明確化しても、たとえば相続によって居住地から遠く離れた利用・管理が困難な土地を取得した者が、その責務を確実に果たすことは困難だろう。>

 

そこで思い切った提案にでました。<そうした場合は、所有権放棄を認めるべきである。放棄の制度化には、放棄された土地を受け取る新たな組織が必要となる。>個人の財産権保障は憲法上の権利だと、多くの人、いや人権派の弁護士からも、批判の声があがりそうです。

 

それでも増田氏はさらに具体的な提案を持ち出しています。<一案として、公的色彩を持つ新たな組織を設置し、放棄された土地の1次的な受け皿とすることが考えられる。国や自治体に意向を打診し、所有する意思がない場合には、土地に関する情報を公開して競売にかけるか、所有権を取得して自ら利活用したり、賃借人の募集を行ったりするなど、有効利用に努める。取得した土地を常時、最低限管理することが必要だろう。>

 

増田氏が提案する<準公有化>という用語は、法的には何の根拠もないと思います。私自身は聞いたことがありません。大抵の法学者も、弁護士も異論を唱えそうです。

 

だいたい、この内容を見ても、中身もその手続きもあいまいです。

 

増田氏自身も、<このような考えは土地を準公有化することに他ならず、異論も多いだろう。具体化するにしても、どのような土地を引き取るか、管理費をどう捻出するか、所有者負担をどうするかなど、難問が山積している。>とこの考え方や制度自体、まだ思いつきに近い印象を感じさせます。

 

しかし、増田氏はひるまず、未来の国の骨格や土地利用のあり方を考えたとき、大化の改新(これは歴史的事実ではないとの見解の方が有力でしたか?)的な提案が必要と言われます。

 

<他方で国交省の「国土のグランドデザイン2050」によれば、現在、人が住む地域は国土の半分ほどで、50年には居住地域の2割が無居住になる。このような未来が予想されるというのに、土地を国民一人一人の管理に任せておいて本当に大丈夫なのか。国土の適正な管理について熟慮すべき時期である。あえて準公有化を提案したい。>

 

ところで、私は、この曖昧模糊とした考え方に、シンパシーを感じます。

 

地球環境や地域環境を考える必要があるという共通の理解がひろがっています。そのとき物については一定の処分・利用の責任はさまざまな法制により次第に充実してきたと思います。では、土地は、絶対的な権利として個人の自由を抑制してはいけないものかというと、ある種、同様なフィロソフィーが働くと思います。

 

土地もまた利用・管理がそのために一定の基準を満たすものでなければならない時代でははないかと思います。そのとき所有権放棄という個人の意思をどのように擬制するかは、一つ問題ですが、長い歴史の中で、土地利用の継続と、その土地を離れることが所有・管理主体でなくなることは、かなり普及していたのではないでしょうか。

 

公地公民がどの程度普及したかはよくわかりませんが、不適当な土地を与えられたり、租庸調が酷だった場合、多くが逃散するなどして、土地から離れてその利用をしないことと、その帰属主体から抜けられることが同義的な慣行が育ってきたのではないかと思います。

 

近世農業においても、村落内で、借金して田畑が質流れしても、また地域外に譲渡しようとしても(江戸時代の土地売買禁止令は限定的な意味しかなかったと思われます)、村落の誰かが買い戻すなどして、地域共同体でその田畑を維持してきたのではないかと思います。

 

それは水利・刈敷などの里山入会という地域共同体である村にとって、土地は個人所有(保持)とは異なるあり方だったのだと思われますが、それは別にして、欧米の土地所有制度を導入して、所有権絶対といった杓子定規な議論は、わが国が長年培ってきた適正な土地利用のあり方を壊してしまったように思うのです。

 

脱線してしまいましたが、増田氏の議論、もう少し深めていく必要を感じています。そもそも山林では、境界不明・土地の所在不明が大きな問題です。その解決策を出さないと、これまた絵に描いた餅になりかねません。

 

今日は少し長くなりました。この辺でおしまい。また明日


花と禅その5 <花は・・・咲いていないときも花です>

2017-12-03 | 心のやすらぎ・豊かさ

171203 花と禅その5 <花は・・・咲いていないときも花です>

 

今朝は高野の峰峰が深みを帯びた紺色にたたずみ、背後には金色というと言い過ぎですが淡い朝日が広がっていました。こんなときは高野三山を上ってみようかとおもったのですが、途中でエンジン故障にでも遭ったら大変ですので、断念しました。

 

そういえば、カナダでバンフに向かう途中でエンストになり、白煙が吹き出したのには驚きました。早速、レッカー車がやってきて、その車に同乗して、カルガリーまで一時間あまりの旅をしたのを思い出しました。カナダやアメリカではしょっちゅう車のトラブルがあり、いろいろお世話になりました。困っていると助けてくれる人がいますね。むろん有料の場合もありますが、ボランティアで何度も助けてもらいました。トランプ大統領のようにアメリカファーストは、庶民の心持ちとは違うように思ってしまいます。為政者とは違うのは徒然ですが、なんともトランプ政権のやり方は人間性という意味で残念な状況です。

 

脱線しました。本論に戻ります。

 

今日は平井住職の言葉<花は、咲いているときも、咲いていないときも花です>を取り上げたいと思います。

 

これまた『花のように、生きる。』という書籍の題名に直結する、深い意味合いをもった言葉の一つではないかと思うのです。

 

まず、「龍津寺の住職をつとめられた中川宋淵(そうえん)老師の句

 

「花の世の 花のようなる 人ばかり」

 

を引用しつつ、「どんな時代であっても、どのような生き方をしていても、世の中は花であり、人もまたみな花である、ということです。いつの世の中も生きる価値のあるものだし、人はすべて尊い存在なのだ、といい換えてもいいと思います。」

 

人=花 すべて尊い、はわかりやすい言葉ですが、また世の中を直視すると?と感じることもあるでしょう。

 

いま置かれた自分の状況から不満、批判、怒りをぶちまける人は少なくないでしょう。すべての人や花を尊いと感謝する気持ちはなかなか抱けないかもしれません。

 

平井住職は、このような人について「自分が花であることを見ようとせず、他者に責任転嫁をしたり、投げやりになったりするのです。」と述べているのでしょうか。

 

そこで花の生き様を紹介するのです。

 

「花を見てください。どんな花も開花している時間はそう長いものではありません。蕾さえまだついていない時期もあるし、葉がすっかり落ちて、枝ばかりの寂しげな時期もあるのです。

そうした時期のほうが圧倒的に長い。しかし、どの時期も・・・蕾のついていない時期も、枝ばかりで葉もない時期も・・・「花」であることに変わりはないのです。それぞれ別の姿として「花」をしっかりやっている。」

 

というのです。

 

花は、花びらが咲き誇っているときが花ではなく、四季の移り変わりに多様な姿を見せますし、種から成長を繰り返し、大木になったり、あるいは小木のまま、枯れて倒れて土になることもあるでしょう。でもそれらすべて花としての生き様なのでしょうね。

 

そして平井住職は「人も、順風のときもあれば逆風にさらされることもあります。エネルギーにあふれてふるときもあるし、病に臥すことだってあるかもしれない。人生いいことばっかり、なんてことはないのです。

どんな状況であっても、そこにいるその姿で精いっぱい生きたらいいのです。それが、花のように生きることだ、と思います。」と話しています。

 

このことはわかっていてるはずなのに、事態が思わぬ方向に行ったり、嫌なことが重なると、すっかり忘れてしまうのも人でしょうか。でも平井住職の言葉のように、ちょっと見上げれば、あるいは軽く大気を吸い込み、はいたりして、そこに花の姿(落葉して裸木もあれば、蕾や新緑で生気を感じさせるもの、満開の花木、紅葉の花木、その時々に見えてきます。そのときちょっと花の生き様を考えてみると、平井住職の言葉が血肉に蘇るかもしれませんね。


(補足)

 

いまのような書き方をすると、まるで花が開いているときこそ、花の輝いているときで望ましいときのように読めるのかなと、書き終えてみてふと思ってしまいました。

 

色即是空 ではないですが、形も色も一時的なもの、それにこだわる自分(結構こだわっている自分を感じるときがあります)はやはり花とは遠い存在かなと思ってしまいます。枯れてしまった木、もう倒れそうになった木、すでに倒れて菌類の栄養になって土壌化した木、それぞれに存在価値があるのでしょう。だからこそ、空即是色 でもあるように思うのです。

 

そして自分を、と問いかけるとき、その自分へのこだわりは、ほんとうは空でしかないはずなのに、その自分をこんなブログという形でなにか存在するかのように振る舞う自分、これからも続きそうです。