たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

心が伝わる経営 <日経B・ドラマ「陸王」で読み解く不正連鎖の真因>を読んで

2017-12-05 | 企業運営のあり方

171205 心が伝わる経営 <日経B・ドラマ「陸王」で読み解く不正連鎖の真因>を読んで

 

もう業務時間が過ぎているのに、今日のブログのテーマが浮かばないのです。こういうことも時々あります。いろいろ見ているうちに、日経ビジネス本日付けの記事<ドラマ「陸王」で読み解く不正連鎖の真因>が興味を引きました。中身を読む前に、対象とするテーマとその視点が気に入り、これでいこうと思い、ざっと流し読みしたら、やはり溜飲がさがる思いになりました。

 

その記者は池松 由香氏です。自ら町工場の娘さんで、これまで記者としてさまざまな現場を取材してきたこと、そしてドラマ「陸王」のファンだそうです。実は私は途中から見出して数回その一部を見たくらいですので、内容を詳しく知っているわけではありませんが、私もこのドラマの各配役に心を動かされるものを感じていました。

 

さて池松記者のご意見を拝聴したいと思います。テーマはここ数ヶ月で問題となった大手製造企業の不正の実態と原因です。私もこのブログでなんどか取り上げてきましたが、池松記者の現場を歩いてきた感覚は参考に値します。

 

その不正については表になっていますのでそのまま引用させてもらいます。

9月29日

日産自動車が国内6工場で社内の認定を受けていない社員らが完成検査を行っていたと発表(日経記事

10月8日

神戸製鋼所が顧客が求める品質基準を満たしていない部品を出荷していたと発表(日経記事

10月27日

SUBARU(スバル)が同社の群馬製作所(群馬県太田市)で完成検査員の資格を持たない従業員が検査工程に携わっていたと発表(日経記事

11月23日

三菱マテリアルの子会社3社で品質データを改ざんする不正が発覚(日経記事)。翌日に記者会見を実施(

11月28日

東レが子会社の「東レハイブリッドコード」で製品データの改ざんがあったと発表(日経記事

 

この記事を書く動機となった取材場面が興味深いです。ある大手自動車メーカーの技術系OBに取材したときに不正問題について、そのOBから記者に突きつけられた次の言葉への対応に逡巡したことが起点となっているそうです。

 

<「あなたたちメディアはすぐに『品質問題』『日本のモノ作りの失墜』って話にしたがりますがね、実際はそうじゃない。あれは品質の問題じゃなくて、管理とかマネジメントの問題ですよ。あの不正があったせいで、実際の品質問題が出ていますか? ないですよ。それも分かっていないのに品質軽視だ、日本の品質低下だとまくしたてるからおかしなことになる。そうじゃないですか?」>と。

 

当時のメディアは、同時期に異なるメーカーで続いて起こったことから、<メディアは、十把一絡げに「現場のモラルが低下している」「品質に対する甘えだ」と処理してしまいたくなる。>と池松記者も自戒の念で吐露しています。

 

速報性が求められることも要因でしょうね。調査報告書自体が公表されたとしても、やはり上から目線というか、現場の声が必ずしも地となり肉となっていないこともあり、メディアが批判するのにちょうどいいような結果、ま、原因と対策といったちょうどよい落としどころを用意して、提供してしまっているようにも思えるのです。

 

でも池松記者は、直に現場に足を運び(おそらく何度も)取材してきた自負から、<そんな仲間を近距離で見ていていつも思うのは、「真面目だな」ということ。過剰なまでに品質に対する意識が高い。モラルが下がっているようにも、品質を軽視しているようにも見えなかった。>とほぼ確信しているのでしょう。

 

ではなぜ不正が起こったのか、それを池松記者は、日本の商慣行と諸外国との違いに着目しています。

 

<日本の製造業の特徴である「あうんの呼吸」という言葉だ。>というのです。そして海外ではそれは通用しない。<文字や数字、絵などにして見える化しなければ、現地の人には何も伝わらない」ということだった。>というのです。

 

そしてその違いの決め手は次のように述べて、契約書の詳細化によって製造工程を可視化させ、拘束させることで成り立っているするのです。

<その最たる例が「契約書」だ。日本では古くから「信用」による商習慣が根付いていたため、部品や素材を調達するのに細かな仕様を契約書に書いて取り交わす必要などなかった。>

 

わが国における企業間の契約書は、最近少し変わってきたかもしれませんが、きわめて簡単なものですね。契約書の内容を弁護士を通じて詰めるといったことも一部を除いてないのではないではないでしょうか。契約書の添付する仕様書などもそれが当事者の行為をコントロールするものとの意識はなかなか育っていないように思うのです。

 

池松記者は、<ドラマ「陸王」にみる日本の商習慣>こそ、日本の中小企業の姿を現していると思うのでしょう。大企業もさほど大きな違いはないと思います。

 

ドラマ「陸王」ではスポーツシューズを開発製造する事業化の中で、そのアッパーソールの素材メーカーがベンチャー企業でその経営者と意気投合して、取引を開始するのですが、競合するスポーツシューズの大企業に途中から介入され大量発注の取引を餌にその素材メーカーとの取引が中止になり、企業存続の危機にさらされるのです。このような場合きちんと契約書を取り交わしていれば、このような事態にならなかったのにと池松記者は嘆くのです。<日本ではこういったことは起こり得る。信頼関係で結ぶ約束はあくまで約束。約束を破られても訴えることはできない。>と。

 

ただ、信頼関係が確立しているような継続的取引の場合、内容や条件によっては途中の中止が違法になる場合もあり、昔から裁判例が相当ありますので、場合によっては裁判で闘うことができたかもしれません。でもその結論が出るまで、陸王の「こはぜ屋」がもたないでしょうね。

 

日本の商慣行は裏切られやすいと池松記者は指摘したうえ、なぜ生まれたのかについて、<信頼関係で取引を交わす両社が共有するのは、「安くて良い製品を作るために協力する」という1点だけだ。手段は何でもいい。良い製品が生まれて顧客が喜べばそれでいい。>と、理想の目標を契約当事者が追求することこそ、わが国の商慣行、企業人、そして現場の労働者の意識だったと言うのでしょう。

 

たしか渋沢栄一は、常々、信頼こそ商売の基本といっていたように思うのです。それは近代的な資本主義制度、たとえば銀行制度、株式会社制度、証券市場などなどを導入したその人が最も大事にしていたことだったのではないでしょうか。契約の文言で人を縛るといったことは愚の骨頂とでも思っていたのではないかと、渋沢の講演録などを読んでいると感じてしまいます。

 

池松記者は、さらに<こういう関係にしておくと各社は自ら改善点を探し、いわば「勝手に」努力を重ね、結果的に良い製品が早く生まれることにつながる。契約内容をひたすら実行する関係ではこうはならない。>これこそ、アメリカの契約社会との大きな違いであり、日本が誇って良いことではないでしょうか。アメリカでは契約書の分量がとてつもない量になり(それだけ弁護士の数も必要)、しっかり両者の関係を規律しているようにも見えます。でも訴訟社会ですね。それは契約書にいくら詳細に書かれていても、その条項の意味内容を解釈で争う余地は残ります。裏切りを前提に契約書に記載しても、本質が裏切る?当事者ですので、いい契約相手ができれば、契約書の穴を見つけていい条件の相手に取って代わりますね。M&Aなどはその典型かもしれません。インサイダー取引がはびこるのもそんな性分が背景にあるのでしょうか。

 

渋沢なら決して選ばない選択でしょうね。

 

池松記者は、神鋼の例を紹介しながら、<記者が社内の人に取材したところによると、現場は品質に関わるデータ(の記入)の改ざんが「悪いことだと思っていなかった」という。取引先との付き合いが長く、先方が必要な品質を現場はよく理解していたからだ。>という実態を明らかにしています。

 

さらに<現場は、契約書に書かれている「建前の数値」と、製品化された時の品質を確保する「本音の数値」が異なることを知っていた。本音の数値を十分に保証しさえすれば、建前の数値を多少ごまかしても、実際のモノ作りにはなんの影響もないと考えていたわけだ。>

 

これが不正の実態に近いことではないかと私も思います。

 

加えて<現場の人にとっては、「契約書」という後からやってきた文化よりも、「安くて良い製品を作る」という顧客との約束を守ることの方が優先された。建前の数値にほんの少し満たないからといって破棄して作り直せば、コストや納期の面で顧客の生産に悪影響を与えてしまう。本音の数値に達していないなら論外だが、そうでなければむしろいいことだ、と。>

 

現場では、契約書の文字、条件はさほど重視されないのが多くの事業の実態ではないでしょうか。安全率も、法令等で求められているより、かなり上乗せした安全率で設計・施工が行われているのが、日本の企業社会の実態ではないでしょうか。

 

むろんコンプライアンスの遵守は企業人すべての重要な命題です。それに違反すること、また契約条件に違反することは、決して許されることではありません。

 

問題の解消には何が必要かについて、池松記者は、<不正が二度と起こらないようにするには何が必要か。最初にやるべきなのは、「建前の数値」と「本音の数値」をそろえることだろう。そこが合致していれば、現場はデータの改ざんなどする必要性を感じないはずだ。

 ただそのためには顧客との擦り合わせが必要になる。ここが最大の難関。なぜなら、顧客と擦り合わせて契約書の内容を書き換える権限を持つ人と、現場の実情、つまり本音の数値を知っている人が同じではないからだ。>

 

そう経営者の意識・行動の改革が必要というのです。そうだと思います。これまで不正が発覚したすべての企業経営者は誰一人としてその現場の状況を理解していなかったとしか言い様がないように思います。たしかに現場には一度か何度かはキャリアアップの中で担当させられたことがあるのでしょう。でも、企業経営のトップになって、本当に自社の扱う製品の具体の作業をしっかり理解している人がいるのでしょうか。否と思われるのです。

 

現在の大企業は昔で言えばコングロマリットの巨大化で、製造メーカーといえども多様な分野に進出し、とても一つ一つの製品事業を理解することができる状況にはないかもしれません。

 

しかし、その結果、現場の実態とかけ離れたコンプライアンスの基準を作って遵守を求めても、現場の人たちは困惑するばかりでしょう。

 

池松記者の指摘を再び援用します。<問題は、経営者が現場のことを知らなすぎることにあるのではないか。現場には建前の数値と本音の数値が存在しているのに、そうとは知らずにコンプライアンスの徹底ばかり強調する。それがどんなに現場を心理的に苦しめているかも気づかずに、だ。>同感です。

 

池松記者のいい言葉をもう少し援用します。

<問題が出てきた時、現場を知らずにただ当事者を批判することは簡単だ。だが、本当に必要なのは「犯人探し」ではなく「全員が幸せになれる方法を経営者が率先して考えること」だろう。>そのとおりですね。

 

最後に記者が援用する人物の言葉を私も活用させてもらいます。

<独自動車部品の巨人、コンチネンタルのエルマー・デゲンハートCEO(最高経営責任者)は、企業の不正についてこう話していた。

 「失敗は人間の性質の一つですから、当然、起こり得るものです。大切なのは失敗から学ぶ姿勢。失敗を透明性を持ってしっかり受け止め、そこからちゃんと学べる社風です。>

 

企業経営において失敗することが前提でしょう。失敗からどう学ぶか。それには失敗の透明化、可視化が必要ですし、その改善も全員で共有できるものでなければ、意味のないものになるでしょう。他企業のまねではなく、自社の全員の意識を活動を直視して、失敗・不正の原因を追及して見直すことこそ求められているのでしょう。

 

すでに一時間を優に超えてしまいました。今日はこれでおしまい。また明日。


花と禅その7 自分を振り返り<あるがままの姿をとらえ>と<たゆまずやることをやる>

2017-12-05 | 心のやすらぎ・豊かさ

171205 花と禅その7 自分を振り返り<あるがままの姿をとらえ>と<たゆまずやることをやる>

 

美しいストライドが張り詰めた空気をきって伸びやかに進む、まさに二人の女性アスリートの姿がなんどもTV画像に映し出されました。

 

毎日朝刊の記事を引用します。<スピードスケートのワールドカップ(W杯)第3戦最終日は3日、カルガリーで行われ、女子500メートルの小平奈緒(相沢病院)と同1500メートルの高木美帆(日体大助手)が日本新記録で優勝した。>

 

この試合の前でしたか、高木美帆選手の練習風景をNHKがアップでフォローしているのも垣間見たことがあります。たしか風の抵抗を抑えるため、低い姿勢のままストライドを伸ばす方法に変えたのですが、そのためかえって前方に押し出す力が弱まってスピードが伸びないことで悩んでいたようでした。

 

見た目ではさっぱりわかりません。でも本人だけがわかる微妙な体の姿勢と風の抵抗の中で、滑らかなスピードに乗るという感覚があるのでしょうか。それこそトップアスリートのみが感じる領域なのでしょう。日々切磋琢磨して自分の心と体、60兆の細胞の隅々までに神経伝達物質が行き渡っているときに到達する心境なのでしょうか。

 

そういえば私も高木選手が産まれた頃、このカルガリーのリンクのそばを時折通っていました。リンクには経ったことがありませんが、一度くらい滑ってみたいと思ったこともありますが、私のような素人ではとても滑れるようなリンクではなかった記憶です。

 

私はスポーツならなんでも好きですので、若い頃はスケート、スキーも好んでやっていました。弁護士の仕事で霞ヶ関に出かけるときは、日比谷公園の向かいにある名前を思い出せない、たしか特別街区で容積率譲渡が行われた区画だったと思いますが、そこに冬場小さなスケートリンクが設置されていました。そこで体力の低下を防ぐのと、ビルの谷間でスピード祈って走り回る爽快感を時折味わっていました。中年のおじさんが、若い人に交じって滑っているのですから、通行人から見たらあまり雰囲気のいいものではなかったかもしれませんね。

 

とはいえ、コーナーで太ももを打ちに入れる感覚は、体全体で緊張感を感じることができ、全身を使ってエネルギーがスケートを押し出し氷の表面に伝わっていく感覚は素人でも気持ちのいいものでした。しかし、高木選手や、小平選手の全身から太もも、ふくらはぎ、スケートにみえる、研ぎ澄まされた修練の結果はほれぼれします。

 

これこそ、平井住職の「あるがままの姿になりなさい」かなと思ってしまいます。高木選手の話を聞いていると、まさに自分への問いかけ、自分の心と体との対話の中で、より高き目標を突き進む姿がとても美しいですね。

 

この点、平井住職は、このように述べています。

「相手にこだわるのではなく、自分にこだわることに徹した、といってもいいでしょう。そうして、こだわりを持って自分を見続けることによって、あるがままにそうある姿、すなわち、自然の自分に近づいていったのではないか、という気がするのです。」

 

高木選手をはじめ多くのアスリートは目標に向かってこだわりをもっています。しかし、そのこだわりは、執着とはちがう別物ではないかと思うのです。

 

平井住職の言葉をまた引用します。

「力強い透徹したまなざしで、自分の生き方を、心の在り様を見続けていく。それがほんもののこだわりです。」そう、ほんもののこだわり、それが自然(じねん)なんでしょう。

 

ところで、平井住職は、「あるがままの姿」を別の表現で、「人は、何もしないで『咲く』ということはありません」とも述べています。

 

イチロー選手がバッターボックスに向かうときの一連の決まり決まった特異な動きを照会しながら、そのひたむきの努力を取り上げ、「たゆまず、やることをやってこそ、花は咲くのです。」と断言されます。

 

むろん平井住職も、イチロー選手の見えないところでのひたむきの努力は、このTV画面に映るわずかな動作の数十倍、数百倍の規律を持った練習なり日常的鍛錬を踏まえてのことをも承知の上で取り上げているのでしょう。

 

そして自分はできないとか、評価されないとか、入試は不合格、就職は不採用とか、会社が倒産、賃金が引き下げられたとか、いろいろな不満、苦情を他人に向けることがありますが、平井住職の言葉をも少し心の中で暖めてはどうかと思うのです。

 

「嘆く前に「何もやっていない」自分を認めましょう。」人は無から生まれ、何かをして少しずつ成長し続け、日野原重明氏ではないですが、死ぬまでなにかを求めし続けることこそ、自分の花が咲いてくれるのではないでしょうか。