たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

NHK受信料考 <NHK受信料 最高裁大法廷判決の要旨>などを読んで

2017-12-07 | 知る権利・プライバシー保護と情報収集・管理の適正化

171207 NHK受信料考 <NHK受信料最高裁大法廷判決の要旨>などを読んで

 

昨日書こうかと思っていたNHK受信料訴訟、今朝の毎日に上記記事が掲載され、さらに関連記事がかなりの量で取り上げていましたので、他の話題はやめて、この話題を取り上げたいと思います。

 

さてNHK受信料訴訟といっても、私も報道で知る程度で詳細はわかりません。ただ、基本はNHKが放送法に基づき、受信設備を設置した世帯ごと、受信料を請求できるか、それはどのような場合に(契約成立を認め)請求できるか、いつから請求できるかという問題かと思います。

 

さて、上記記事ではその争点に対する判断を簡潔に整理しています。

 

<【制度の合憲性】

 財政基盤を受信料で確保する仕組みは、国民の知る権利を充足する目的にかない、合理的。憲法上許容される立法裁量の範囲内であることは明らか。>

 

きわめて紋切り型ですね。これが憲法論なのかと思うほど、中身の薄いものではないでしょうか。いや、要旨だからで、しっかりと合憲の根拠を示していますよということであれば、やはり判決書を入手しないといけませんが、たぶんわが国の最高裁判事の現状はこれでよいと思っているかもしれません。

 

上告人側の弁論の中身は相当詳細で力説している部分の一つだと思うのですが、それに少しくらい答えても良いのではと考えるのは甘いでしょうかね。比較法的な考察や他の情報媒体との間のバランスとか、さまざまな議論を深めて欲しいと思うのですが、期待するのが野暮かも。

 

といって私自身は結論自体にさほど違和感はありません。国民の知る権利という大命題について判断する以上、丁寧な議論をしてもらいたいと思うのです。

 

この点放送法および同法641項の意義について大法廷は少し詳細に言及しているようですので、それで合憲論を補っているつもりでしょうか。

 

<【放送法64条1項の意義】

 放送は、憲法の表現の自由の保障の下、知る権利を実質的に充足し、健全な民主主義の発達に寄与する。この意義を反映し、放送法は公共放送と民間放送の2本立て体制を採用し、公共放送事業者としてNHKを設立。特定の個人や団体、国家機関から財政面で支配や影響が及ばないよう、受信設備を設置して放送を受信できる者に、広く公平に負担を求めることで支えられる事業体とした。受信設備設置者とNHKとの受信契約を定めた放送法64条1項は、NHKの財政基盤を確保するため法的に実効性のある手段として設けられた。>

 

しかしながら、これは結論であって、立法裁量というのであれば、裁量事項をきちんととりあげて、その裁量の合理性を根拠づけてもらいたいものです。

 

こういう場でこそ全国民に訴えかけるような議論をして、憲法裁判所がないわが国では、大法廷の重大な役割ではないかと思うのです。アメリカの最高裁判決は結構、引用されることが多いのですが、それは格調があるだけでなく、心に響くものがあるからではないかと思うのは皮相的な見方でしょうかね。残念な思いです。

 

法律構成として少し問題になるのが受信契約をどのような事実から認定できるかですが、これも放送法から安易に結論づけているように見えるのです。

 

<【受信契約】

 放送法をみると、NHKから受信設備設置者への一方的な申し込みによって受信料の支払い義務は発生せず、受信契約の締結(双方の合意)によって発生する。NHKが設置者の理解を得られるように努め、契約が締結されることが望ましい。契約成立には双方の意思表示の合致が必要だ。設置者が受信契約の申し込みを承諾しない場合は、NHKが承諾の意思表示を命ずる判決を求め、判決の確定によって受信契約が成立する。>

 

契約は双方当事者の意思の合致が近代法の確立した原理ですね。ですからNHKの主張のように、受信設備を設置した段階で契約成立を擬制するような見方は、さすがに大法廷は取りませんでした。当然でしょうね。

 

とはいえ、設置者がNHKの申込を承諾しない場合に、その意思表示を命ずる判決を求めて判決確定により契約成立とする構成は、放送法641項の文言から飛躍して司法判断で救済する内容となっているように思うのです。条文の文言からは承諾義務を裁判で強制できると解するのは無理があると思うのです。

 

加えて、放送法の趣旨、当該条項の趣旨について、国民の理解が十分に得られていない状況があることを否定できません。国会で決めたから、当然OKといっては大法廷としてはちょっと人情に欠けませんかね。「大岡裁き」という架空の期待はどんな世の中にもありますが、大法廷も、こういった国民の生活の機微にかかわる事件では、もう少し丁寧に解釈論を展開する余地があったように思うのです。

 

<鬼丸かおる裁判官の補足意見>は、もっと多くの裁判官も賛同しても良かったのではないでしょうか。

 <締結強制は契約締結の自由という私法の大原則の例外。受信契約の内容も法定されるのが望ましい。>とりわけ次のように支払義務が認められると、当然に設置時点から受信料支払い義務が発生するというのは酷な場合があるように思うのです。

 

<【支払い義務】

 受信契約を締結した者は受信設備を設置した月から受信料を支払わなければならないとする規約は、設置者間の公平を図る上で必要かつ合理的だ。承諾を命じる判決の確定により受信契約が成立すると、受信設備設置の月以降の分の受信料債権が発生する。裁判官14人の多数意見。>

 

規約の周知性が十分であったかの実態認識や議論が裁判官内で十分尽くされたのでしょうか、疑問です。

 

一人、弁護士出身の<木内道祥裁判官の反対意見>は次の通りです。私もいなか弁護士ではありますが、弁護士らしい市民感覚を反映した違憲ではないかと思うのです。

 

 <放送法64条1項が定める契約締結義務は、意思表示を命じる判決を求めることができる性質のものではない。判決によって締結させようとしても、契約成立時を受信設備設置時に遡及(そきゅう)させることや、契約内容の特定を行うことはできず、設備を廃止した人への適切な対応も不可能だ。>

 

大法廷判決要旨についてはこの程度にして、毎日記事<NHK受信料徴収の「お墨付き」 同時に重い責任も>にはより詳細で多様な議論が展開されていて、興味深いです。

 

そろそろ一時間になりますので、きりのいいところで今日はおしまいとします。また明日。


花と禅その9 <花は散って「実」に><何でもないことを丁寧に><はかないから美しい><死を前提に今を全力で>

2017-12-07 | 心のやすらぎ・豊かさ

171207 花と禅その9 <花は散って「実」に><何でもないことを丁寧に><はかないから美しい><死を前提に今を全力で>

 

今朝の気温は2度。外は零下でしょうか。柿畑を見下ろすと、柿の葉はすでに落ち、霜が裸木の枝一杯に広がり、朝の光を浴びて金色の輝きを見せています。冬景色を淋しいという人もいますが、私にはこれも侘ともいえる情景に映り、ある種の華やかさを感じさせてくれます。

 

この「花と禅」シリーズ?も明日で10回目、平井住職の言葉は85話に分けられていますが、10回くらいで一区切りをつけようかと思います。関心のある方はぜひ『花のように、生きる。』を。今日で終わりにしようかと思いつつ、書き終えれば明日、名残酒ではないですが、なにか書きたくなると、余韻みたいなものを書こうかと、残しておきます。

 

ところで、「花のように生きる」といえば、私にはすぐに西行法師を思い浮かべます。西行研究は古くから膨大なものがあるのでしょう。私のような素人にはそのひとかけらもわかっていませんが、それでも当地にやってきて紀ノ川南岸の橋本市清水や、かつらぎ町天野の里にある、西行庵に触れると、とても身近に感じてしまいました。

 

高野山に関心を抱くようになったのは自然な成り行きですが、江戸時代の農法・農業土木技術者である大畑才蔵と同じように、西行が30年間高野山に関わったのに、両者ともほとんどその間の記録がない不思議と、そのことに関心を抱いています。

 

さて西行の和歌は、花、それも桜が中核なんでしょうね。

 

願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ

いかで我この世のほかの思ひいでに風をいとはで花をながめむ

もろともに我をも具して散りね花うき世をいとふ心ある身ぞ

 

出家して俗世と縁を切ったはずの西行、なぜ高野山に上り、そこを拠点にして活動したのでしょう。このことはいつか勝手な解釈を書いてみたいと思います。ただ、西行は桜の散る様、芽吹き、花開く様、それぞれに深く心に刻み、自らの生き方の真髄にしたのではとふと思うのです。たとえば大会堂(元蓮華乗院)の造営勧進を奉行したのは、そこが鳥羽法王の菩提を弔うためで、その北面の武士であったことからといった俗世的な見方ではとどまらない西行の考えがあるように思うのは誤解でしょうか。また重源(どういう仲だったか不思議な関係です)から頼まれて消失した東大寺大仏再建の勧進のため、奥州藤原氏を老骨のみで訪ねる気概は、まさに美しく散ることを本願としたともとれるのです。

 

西行は、いずれの場合も自分は黒子であり続けたように思うのです。形あるものにこだわったわけではない、けれど形あるものを求める人の心に寄り添い真摯に生死をかけていたのではないかと思うのです。

 

平井住職は、「花は散って『実』になります。栄光や称賛は捨てなさい。」と語っています。しかも「散らなければ実は結ばない」ことを断言します。さらに「花を咲かせ、散るべきときに散って、実を結んでいく。それを繰り返しながら、人として大きくなっていく、成長していくのが人生でしょう。」散って咲いてまた散ってを繰り返すことは、一人の人生でもあり、また生命体の循環でもあるのでしょう。輪廻転生というべきかはともかく、散ることを、潔く受け止めることこそ、生き方かなと西行のそれをみながら感じるのです。

 

また、平井住職は、「美しいものは儚く、儚いから美しいのです」とも述べています。同感ですが、最近の世情をみていると、儚さを感じさせない美を求めているように思われるのです。私のように少しは自然生態系というものを感じていますと、美に儚さが不可欠と思ってしまうのです。さまざまに化粧された美を見て、それによって生み出される廃棄物処理の困難さを感じるのは、私に何かが書けているからでしょうかね。散っても花が咲くその循環にはいずれのプロセスにも、自然生態系への配慮というか、自然(じねん)の思いやりを感じるのです。それがない目標や美は、私にとってはつまらないものというか、さほど評価に値しないと感じてしまいます。

 

西行には、散ることの美を、そして死を自然に受け止める生き方を感じさせてもらっています。平井住職は、「『死ぬこと』を前提に、いまを全力で生きるこ大切です」と強調しています。平井氏は、いまを全力で生きるという心構えを説いているのでしょう。そのことは次の彼の言葉からもいえるように思えます。

「いつもでなくていい、折にふれて心の片隅に置いた『死ぬこと』を意識してみると、一所懸命、いまを生きようとする気持ちが湧いてきます。」と。

 

多くの人は、死を直視しない、いや遠くに追いやってしまって、考えないようにしているようにも見えます。その意味では、このような考え方はとても参考になると思うのです。私自身は死を意識して30年、いや半世紀以上経ちますが、それでも全力投球の心構えができていないのは、死の意識がいい加減なのかもしれません。

 

とはいえ、最近話題になったSNSを通して「死にたい」という若い女性の大量殺人猟奇事件(座間市)の後に報道された内容では、同じような若い人たちは数限りなく存在することです。

 

そのような人たちに、どのように対応すればいいのでしょう。法然さんなら、優しく受け止め、その呟きを静かに聞いてくれるのかもしれません。でもそんな法然さんのような人は一体、どのくらい世の中にいるのでしょう。そこにたどり着く前に、若い人たち、いや死にたいと思っている人たちの行き先はあるのでしょうか。そこが心配です。

 

答えはないかもしれません。ただ、平井住職の次の言葉も大切だなと思うのです。

 

「何でもないことを丁寧にするかどうかが、目標達成を支えている」そして「生活全般を整え、気づきの感性を鍛える。」生活を見直し、その中で気づきの感性を自ら鍛え続けることができれば、なにか光が見えてくるのではないかと思うのです。それは目標達成とかでなく。むしろ目標を見いだすことになるかもしれません。人はなんらかの小さな目標でも、生きる支えになると思うのです。それは障がいのある方なら、買い物ができるようになればとか、指が少し曲がるようになったとか、笑顔がわずかに戻ってきたとか。

 

平井住職の言葉では、「生活のひとこまひとこまを確実にこなしていく、しっかり生きる。その延長線上に目標達成はあるのです。」そう一瞬一瞬に生があるように思うのです。その生を輝かせるのは、一瞬の気づきであり、意識的な選択ではないでしょうか。それには、できればわかる人のサポートが大切でしょう。一人でできる人は、大丈夫。でもそのようにできない人が少なくないのが現実です。ちょっとした支援があれば、丁寧に何かをしたり、確実にこなしたり、できることで、生きる光も心の中に蘇ってくるのではないかと思うのです。